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四十、
しおりを挟む「斎藤」
これは、いつかの時と逆だなと、
沖田は苦笑した。
「斎藤」
一向に、声を掛けども起きる様子のない斎藤を、沖田は愉しくなって見下ろしながら。
朝餉の支度ができたと触れてまわる下男の声が遠くで聞こえるなか。
「斎藤」
もう一度、声を掛ける。
今度も反応は無かった。
沸々と芽生えてくる悪戯心を持て余す。
「いいのか?早く起きないと・・」
聞いてるはずもないと知りつつ囁きながら、すうすうと気持ちよさそうに寝息を奏でている端整な白皙の顔を見下ろし、沖田はにんまりと哂った。
斎藤は目を覚ました時、障子から溢れてくる光のあまりの量に、すぐにまた目を閉じていた。
眩しさに慣れるために、布団の端を顔まで持ち上げて、斎藤は布団で作った影の中でそっと瞼をもたげて。
布団の中ですら、明るい。
昨夜は結局、九九算を頭の中で延々と繰り返しているうちに、いつのまにか眠りにつけていたらしい。しかし遅くまで起きていただけに、いったい今、いつ時なのかと恐ろしくなった。斎藤は布団を持ち上げて、沖田のほうを見やる。
居なかった。
(厠か?)
それにしては、違和感がある。沖田の布団すらないのだ。畳まれて押し入れへ戻されているのだろう。
己がその間、全く気付かず寝ていたということだ。
斎藤は今度こそ布団を剥いで、光に慣れた目を障子へと向けた。
もしや己は、かなり遅くまで寝過ごしたのではないか。
江戸の旅から戻った翌日の今日は一日非番であり、仕事の心配こそ無いが、それにしたって沖田も起こしてくれてもいいものを。
斎藤はおもわず嘆息した。
ひとまず厠へ行きながら様子を見ようと、斎藤はゆっくり立ち上がり、障子まで歩む。
踏みしめる畳は、ほんのり温かく、
陽光が燦燦とふりそそぐこの部屋へ移ってきたことに、改めて満足しながら。
さらりと開けた障子の先、西本願寺の高床寺院が向こうに聳える手前で、柵に囲われた手入れの行き届いた小庭が、煌びやかな日を浴びて斎藤を出迎える。
誰もいないこの離れの一角で。涼やかに穏やかに隔離された静寂が、斎藤を強く惹きつけた。
暫しの堪能の後、斎藤は庭へと降りた。
庭づたいに建物をぐるりと回った先に続く石畳みを抜けて、元居た幹部連の建物へと向かう。そこに用意されている厠を斎藤達も使っていた。
人影もなく、斎藤はますます不安をおぼえた。
皆とっくに起き出して活動しているということだろう。
厠を出てすぐ斎藤は井戸場へ向かい、釣瓶を拾って手と口元を濯ぎ、顔を洗い。
頭の後ろの頂へ一括りにしてある大分伸びた髪が、下を向いた際に肩越しにさらりと束のままに流れ揺れて頬を撫で、斎藤は避けるように顔を傾けた。
懐に入れておいた手拭いで丁寧に水気を取り、再び仕舞う。
元来た道を戻る頃には、誰にも会わないことを最早むしろ楽しんでいた。
斎藤は元々、人といるより独りを好む。
喧噪の活気を好み、自らが常にその中心に在るような沖田とは全く対照的な己が、沖田に惹かれた不思議に、そして今更ながら想いを馳せた。
いつものように髪結いに髪を束ね直してもらうにも、肝心の髪結いが今は勿論どこにも見当たらず、斎藤は髪を整えることは諦め、袴を着けて両刀を差し直すのみで支度を切り上げると、足早に広間へと向かった。
朝食をまだ残してもらえているのかが、少々心配だ。
広間に近づくにつれ、人とすれ違うようになった。
広間からはまだ賑やかに幾人かの声が響いてくる。
まだせいぜい朝食の時間が終わったばかりなのかもしれないと、斎藤はほっとした。
「おはよう」
広間の障子を開けると、歓談の輪の中から、沖田がすぐに気がついて真っ先に声を掛けてきた。
その幹部連中の輪の内の一人、永倉が、それを受けて顔を上げる。
「おはよう斎藤」
「珍しいよな、斎藤が寝坊だなんて」
そう言い原田が白い歯を見せ。
「初めてじゃないかい」
井上が次いで微笑む。
「おまえのぶんの飯、取ってあるからおいで」
沖田が言いながら自分の横をぽんぽんと叩いて、ここに座れと促し。その位置には、片付けられることなく一つだけ残っている膳があった。
斎藤は促されるままに、その膳の前へと足早に向かい、大刀を腰から抜き、袴をはたいて座った。
同時に、おおっ、と何故か歓声が上がった。
「本当だ、これはいける」
「ひょー可愛いじゃん!」
「可愛いじゃないか」
(は?)
それらの言葉がどうやら斎藤に向けられているようだと、訝しんで目を上げた時、
沖田が横から突如、斎藤の頭へと手を伸ばして、
斎藤はびくりと身構えた。
「何を」
そのまま避けようと身を引いた斎藤より、一瞬早く、沖田の指は斎藤の流れる黒髪を絡めとり梳いていった。
その沖田の行動に吃驚した斎藤が、ぽかんと動きを止めるのへ。
「何でもないよ」
と言いたいとこだけど。
沖田が笑い。
「このままにしてこれ以上、屯所内を歩かせたら、気づかれたあと暫く口きいてもらえなくなりそうだからな」
「・・沖田、何を言っている」
「蝶結び!」
沖田の横で原田が愉快そうな様子で叫んで、相好を崩した。
「似合ってるよ」
沖田がにんまりと添える。
(・・・蝶結び?)
「声掛けてもおまえ全然起きねえし、せっかくだからちょいと悪戯したの」
言いながらだんだん堪えきれなくなったように最後に噴き出した沖田の、
意味する悪戯というのが、周囲の視線の位置から、斎藤の頭の上に何やらあるらしいと。気づいて手をやった先で。
さらっと布が、自身の髪と共に触れたのだった。
その布をそのまま引っ張った斎藤の手に、それはするすると解けて来た。
手の内の布を見て、斎藤は更に唖然とした。これは下帯ではないか。
・・・斎藤の髪の束の根本に、今の今まで、この下帯が大きく蝶結びされていたということになる。
どうりですれ違う隊士たちが、皆一様に一瞬驚いた顔をしたのか。
てっきり己が寝坊をしたことを気づかれているからなのだとばかり思っていた。
「心配すんな、それ洗い立てだから」
仕方なしに手にした下帯を畳んで膝上に置きつつ、洗い立てかどうかが問題じゃないだろうと胸内で舌打ちしながら、
最早、怒る気すら出ず、呆れ果てて沖田を無言で見やった斎藤に、
沖田がにんまりと、これまた全く悪びれもせぬ笑みを返してくる。
「・・あんたのタチの悪さは治らんのか」
「おまえ相手だと治らねえかも」
聞き捨てならない台詞を即答してきた沖田の、その満面に邪気溢れる笑みを目に、斎藤は諦めて膳へと向き直り、椀を手に取った。
「可愛かったよ斎藤」
さらに戯れ言を投げてくる沖田に、
「・・うるさい」
斎藤はもう向きもせず椀をすすってから返す。
見なくても沖田が愉しそうにその浅黒い面をにんまりさせたままであろう様が想像できた。
斎藤からすれば、相も変わらずこうして己を揶揄って何が面白いのか、皆目見当がつかない。
「しかしよ、お堅い斎藤にこんなこと出来るのも沖田くらいだよな」
永倉のそんな言葉が、そして耳に届いた。
その、どこかで聞いた台詞に。斎藤は箸を止めた。
「そもそも総司でなければ、こんな悪戯、思いつかないがな」
井上が同情したような、これまた面白がっているような、なんとも複雑な声音で続けて紡ぐのを耳に。
斎藤は、隣の沖田へおもわず視線を走らせていた。
ん?
沖田がやはり愉しそうに見返してくるのを確認し、斎藤はすぐに目を逸らす。
腹立たしく溜息をついた。
(確かに、あんたくらいだ)
己をこんなに揺さぶれるのは。
胸内で吐き捨てて斎藤は椀を飲み干した。
おもえば何故か大して冷えていないその汁は、恐らくは時期を見計らって沖田が下男に指示しておいてくれたのだろうと、やがて想像がついて。
喉を抜けてゆく味噌汁が胃に落ちゆくに合わせるように、斎藤の溜飲を下げていった。
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