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三十二、
しおりを挟む京へ上ると決めた月、ふたり遠出した。
未だ、
沖田が肺奥に巣食う病の存在を知るはずもなかった頃。
土方も沖田も腕ひとつで京へ上り働く、その期待と未来に胸躍らせていた、
そんな頃だった。
旅に誘ったのは土方だが、ふたり宵に旅籠を出て喧騒を避けるように散策していた時ふと、潮の匂いがすると言って林の奥へ誘ったのは沖田のほうだった。
半信半疑な土方が、
草を分け入ってゆく沖田の背を追った先で、突然開けた視界に声をあげた。
松の縁どる宵の闇へと徐々におちてゆく眼下の海の姿は、波のうねるさまを感じさせず。どこかぞっとする想いを湧かせる一方、
その限りなく広大な深い闇は荘厳で、神聖さをも醸し。
畏敬の念すら懐きながら土方は、
沖田と松の間に立つようにして下を覗き込んだ。
思った以上に崖下は遠く。
土方はくらりと足元の覚束なさをおぼえ、咄嗟に、隣の沖田に掴まっていた。
「・・悪い」
地にしっかりと根づく松がすぐ隣にありながら、
土方にとっての心身の支えであるほうの存在―――沖田へと、咄嗟にしがみついてしまったことを恥じ、土方は刹那に手を離そうとした。
だがその手が押し止められ、
土方は顔をあげた。
「掴まってればいいよ」
気にしたふうもなく、微笑った沖田へと、
「総司、」
好きだと
ついに口走っていたのは。――――長く堪えてきた土方にとって、
この二人だけで来た旅先の二人きりの場所でそんなふうに・・・己のほうが七つも年上でありながら
そしてそれだけ年下でありながら、たのもしい存在に、
そんなふうに頼ることを与えられた土方にとっては。
もはや、自然な告白だった。
沖田が、驚いた様子もみせず、頷いたことに。むしろ土方の心は乱された。
「・・・気づいてたのか」
声が震えた土方を見おろし沖田が、再び頷き。
「如何して」
土方は、吐くように問うた。
「貴方はまっすぐだから」
土方の手を覆い包んだまま沖田が、土方を覗き込んだ。
「だが俺は、貴方の俺へ向ける気持ちと同じようには想い返せないかもしれない」
その台詞に土方が身をこわばらせるのへ、
「だが、もっと」
沖田が気遣うように掴んだままの土方の手を深く包み。
「俺にとって恋情よりも何よりも、貴方は大事な人なんだ」
はっとして己を見つめてきた土方を沖田は見据えた。
「京に上るこの先、一生を賭して貴方を援けていきたい」
微かな風が鳴り。潮の匂いがした気が、した。
「・・・京では何が起きてもおかしくない、危険な地に俺たちは向かう、それでもおまえはそれを誓ってくれるのか」
「だからこそ、援けたい。貴方を、先生を。・・京でこそ、これからこそが先生へ御恩を返せる機会だと思っている」
そうして武人としての沖田の命が、近藤の命の盾であるなかで、それまでの一生ならば近藤と土方の両者の為に在ろうと。
己の剣をして師を、大事な存在を護れる事。それが生き甲斐であり生きる目的であり、また誇りとして、沖田に息づいていた。
土方が眩しげに沖田を見上げ。
「そうか」
やがて穏やかに。頷いた。
「総司。今おまえが俺に想い返してなくてもいい、それでも」
おまえの傍に居させてほしい
包まれていた手を引かれ土方は、沖田の腕の中へ引き寄せられた。それが答えとして。
二人の一方向どうしの関係が、始まった。
「帰京の道で、あの海を見てきた」
土方はぽつりと言った。
そうじ、
土方の唇が震え、目の前でいまも己の背を支える存在の名を零し。
あの時と同じように。
否、あの場を離れたのちも尚、あの海の光景を想い起こすたび
ふたりの関係の始まりの日と、沖田が労咳の名を口にした日の光景とが交互に脳裏を埋め尽くし。
斎藤が居るのに涙を堪え切れなかった、あの時のように
込み上げる苦しみに、押し潰されるというのに。まして、これからはどうなってゆくのだろう。
「・・・そんなに心配しないで」
低い穏やかな、土方の好きなそんな沖田の声が今ばかりはどうしようもなく哀しかった。
「三年もあれば情勢は変わる。先生が休めるほど、また平和な世が戻れば、その時は俺も一も二もなく隠居させてもらいますから」
「・・・隠居・・かよ」
沖田の冗談に土方は無理に笑ってみせた。
この乱れきった世は、あるいは三年などでは治まらぬかもしれず。日々戦地に在る沖田こそ、本当はそれを肌で呼吸でもって分かっているだろう。
それでも、
「剣術バカで暇さえあらば稽古してるおまえが大人しく隠居するようじゃ、逆だ、世も末だな」
土方は沖田の軽口に合わせ。
それに対してやはり沖田のほうも笑ってみせながら、まもなく斎藤に用があると言い、出て行った後、
そして土方は痛みを圧し出すように、涙を流した。
「もう寝てなくていいの」
斎藤と話をして戻ってきた沖田が隣へ座った。
あたりまえのように、傍らへ。
「・・・ああ」
いつか、
あたりまえでは無くなるのか。傍らのぬくもりを得られなくなるのか。
土方は胸内をなお締め付け続ける、去ることの無き痛みに、耐えながら沖田を見据えた。
「伊東の事だが」
――――旅から帰ったら、
沖田の手で斬らせようと思っていた山南の仇。
だが。
「もう暫く、生かしておく。まだ後、もう暫くだ」
沖田の病の真実を知った以上、
この先は沖田を少しでも休ませたい。
近藤土方の身辺警護も一番隊勤務も沖田の望むように続けてもらっても、
それ以外の仕事は、―――裏の剣は、今後なるべく納めさせた侭で済むよう。
そのためには、
伊東の存在はまだ使える。
(伊東、―――貴様を使いきってやる)
使って使いきって、それから斬り捨てる。
積もらせた憎悪の分、最早ただでは死なせぬと。
土方はそう思うことで己に言い聞かせ。
「待ちますよ、いつまでも」
土方の告げた言葉に、沖田のほうも解りきった様子で返してきた。
頷き、土方は。
その瞬間、隙をつくように心を襲ってきた、先程の衝撃から納まらぬままの痛覚に
息苦しさをおぼえながら筆を手に取り、
―――筆を、手に取った刹那に。だが不意にべつの方向から襲ってきた痛みに、土方は顔を強張らせた。
「・・・総司、」
その声の調子に、沖田が訝って土方を見返すのへ。
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土方は己でも驚くほど暗い声音を伴わせ。筆を握り締めていた。
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