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八、
しおりを挟む雨が止まない。
そんななかを濡れそぼった草履の音が二つ、闇に静かにこだまする。
さして強くはない。恒例の春の小雨。
普段に無いものは、歩む二人そのもの。
「話は沖田から大体聞いているとは思うが」
ひとつの影が傘の下、囁いた。
「はい」
「こんな空の下をわざわざ散歩に付き合わせたのは、言うまでもない」
もうひとつの影が、その言葉に重く頷き。
重ねるように雨が、二人の傘を滑り落ちてゆく。
「今回の道中におまえが来るからには、伝えておかねばならない」
連なる水音は、溶け合い、ひとつの静寂を保っていた。
「沖田はおまえに今回の東下を任せた、即ち」
影は、立ち止まり。
「おまえを信頼したということになる。だから話す、いいか、沖田を、俺を裏切るようなことをしてみろ・・」
「それは、あり得ません」
はっきりと返されたその言葉に、影は。
踏まれた溜り水が、足元を沈めてゆくのを無理に、引き上げ。ぱちゃん、と音を立てて、再び歩みだした。
「・・伊東を、殺る。いつになるかは分からねえ。だがいつか、必ず」
背後に続く影が、手前の溜り水を避けて追う。
「道中、気を抜くことは許されない。奴が、何を考えているか。今回の旅、互いの腹の探り合いになる」
「貴方の背後にいつも居るようにと、沖田に再三言われました。貴方はただ、前の敵を見ていてください」
土方は、振り返った。
「沖田が?」
掠れた声が、二人の隙間をぬって揺らめき。
「・・あいつ・・」
呟いた土方の表情に、嬉しさとも苛立ちともとれるような色が走って、消えた。
「おまえを本当に信頼しているんだな」
放たれた言葉は、そこに何の感情も残しておらず。
「・・・」
斎藤は己に向けられた一瞬の眼を、見なかったふりで小さく頷き返していた。
ふたりの。
土方と沖田の、ふたりの想いの強さを。
感じれば感じるほど、己の心にさざ波が広がるのをもはや斎藤は気づかないわけにはいかなかった。
「久々に、やらないか」
雨は今も止まない。
揺らいだ明かりの傍で、沖田が呟いて、のっそりと起き上がった。
音は軒先を一定に打ち。
「ああ」
沖田に押し付けられて読んでいた黄表紙から、斎藤は顔を上げるとそれを小棚の上へ置いた。
辿りついた先、道場はこの時刻、無論誰もいるはずはなく。
沖田は竹刀を手に取り、斎藤へ投げてよこした。
「・・来い」
附された言葉に、斎藤は音も無く構え。
穏やかに奏でられる雨音だけが、闇の中を流れる。
つと。
動に転じた斎藤の鋭い一撃を沖田の竹刀がすり上げた。
突如、切っ先は直線を走り、斎藤の喉下を襲い。
切り返して払いのけようとした斎藤の竹刀は、宙へ弧を描いた。
「っ・・」
激しい音を立てて、主を失った竹刀が地に叩きつけられる。
僅か一寸の空間を置き、沖田の切っ先は斎藤の喉元を捉えていた。
「・・参った」
「まだ早い」
「え?」
闇に目を凝らし、斎藤は下ろされた竹刀の向こう、さらなる闇の存在を見つめた。
答えが、形を成して。
斎藤はやおら、転がる竹刀を取りに向かった。
闇に向かい、構えなおす。斎藤の胸奥、打たれてもいないその場所が騒ぐ。
再び叩き込んだ竹刀が、衝撃もろとも崩され。
(俺は、)
頭上に振る一閃が。
一寸手前で、闇に溶ける。
(いったい・・・)
「もう一度」
斎藤は頷き、落とした竹刀を拾い上げた。
再び構えた先には、掴み所の無い揺らぎ。
この波間の鳥のような切っ先が、一瞬にして消えてしまうのを。
その瞬間には己をついばみ、裂いているのを。
斎藤は幻に包まれ、ぼんやり眺める。
気づけば切っ先は再び己に向けられ。擬似の死を、繰り返す。
沖田は。
「まだだ」
届くすべさえ無い闇に。
(あんたは稽古をつけるのは嫌いだと言っていたな)
あの闇を掴める土方が、
(それなのに彼の為なら、こうして繰り返すのか)
羨ましい。
「来い」
(・・・そんなにあのひとが心配なら、あんたが東下すればいい話じゃないか)
苛立ちは、燻り体の芯を焦がしてゆく。
(まただ、・・今も)
走りぬける胸の奥底には、棘。
(いったい・・)
この疼きは、
何だ?
「っ・・・」
「構えろ斎藤。まだ終わってない」
一箇所とて打たれてはいないはずの体の。
奥底から、疼く、この痛みは。
何だ。
「頼む―――――」
斎藤は顔をもたげた。
その闇を凝視し。確かに、
今聞こえた言葉に、訳を見出せずに。
(何だって・・・?)
――――託せるのはおまえしか、
いないんだ。
どういう、意味・・・
「やめだ」
不意に沖田の竹刀が斎藤の目の前から消えた。
「今日は終わりにする」
放たれた意識の糸が。
幻の死から柔らかく、解かれ。
「部屋に戻ろう」
「・・ああ」
雨は今も、止まず。
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