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再会のサイドカー

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「テンチョ、お腹ヤバいっすね、腰キツそー」
 佐々木が「テンチョ」の大きなお腹にそっと触れ八重歯を見せて笑う。「腰、痛くってたまんない。早く休暇に入りたい」テンチョは苦く笑いながら拳で軽く腰を叩いた。
「あ、来た。テンチョ、エリアマネージャー来ましたよ」
 テンチョはさっと手を上げてエリアマネージャーを歓迎した。手を振られた彼は砕けたように笑い、テンチョに小走りで駆け寄った。
「村田エリアマネージャー、お疲れ様です」
 テンチョこと野上店長は、スーツにビジネスバックの理央を冷やかしつつ店内に招いた。理央は照れ笑いを浮かべながら先月“昇進おめでとう会”をしたばかりの面々の前へ歩み出た。
 優と約束を交わしてから三年の月日が経った。
 佐々木は二歳の男の子と五か月の女の子を育てる二児の母に、史也は佐々木が第一子のつわりで長期休暇を取った次の月に電撃の職場復帰を果たした。史也は二年前からこの店舗の店長職を任されている。来月には三度目の産前産後休業・育児休業取得を控えた彼は、仕事と育児を両立するロールプレイとして会社説明会にたびたび駆り出されている。
 理央はと言えば、二年前に実家を出て一人暮らしを始め、この店舗の副店長代理と路面店の店長職を二年兼任し、今月からは本部に戻りエリアマネージャーとして中心部の六店舗を任されることになった。が、華々しい三十路のスタートを切った一方で、プライベートはからっきしだ。
「スーツ似合ってんじゃん。うちの旦那が仕立ててるとこにお願いして正解だったな」
「十万円もするなんて目玉が飛び出ちゃった。……でも、気に入ってるよ。着るだけで気合入りますっ。さ、野上店長、今月の売り上げどうなってる?昨対は?」
 友人からエリアマネージャーの顔に切り替わってしまった理央に苦笑いをこぼしつつ、史也は「ねえ、理央」と友人の名前を呼んだ。
「昇進してさあ。かっこいいスーツ着てさあ。今どう?幸せ?」
 出し抜けに問われ、理央は曖昧な笑みを浮かべた。
「ん~。どうだろ。プライベートは全然だし……」
 幸せかどうかなんて、分からない。けれど、幸せになれるんだろうか?と自分に問うことはなくなった。
 親元を離れて一人暮らしをして、自分の生活の面倒を自分で見て、自分の機嫌も自分で取っている。自分の足で地面を踏みしめられるようになると視野もその分広がった。
 満たされているとは言えない。幸せとは言い切れない。けれど、十分だと思う。百パーセント満たされていない自分でも、生きていける。一人で立てる。
「ん、まあ、十分かな」
「……十分ってなに。どういうこと?」
「だから。十分だってこと。御伽噺みたいなめでたしめでたしがないことを受け入れて、一歩大人に近づきましたよってこと!」
「もう三十じゃん。今年で三十一じゃん。れっきとした大人だよお前は」
「もう!年齢の話しないで!……ほら、数字見せて、野上店長!」
 二人でやいのやいの言いながら数字と睨めっこして、最後は笑顔で店舗を去る。通い慣れた百貨店を出ると、初夏の涼しげな風が隙のないスーツを冷ましてくれた。今の自分も、きっとそう悪くない。
 理央は営業車に乗り込み恐る恐るエンジンをかけた。実を言えば理央はペーパードライバー歴八年のゴールド免許。教習所以外で車を運転するのは今日が初めてだ。人を轢いていないだけマシ、というぎこちない運転をしつつ次の店舗へと向かう。人生はいつもトライアンドエラー。めでたいことが起きても、その先には大小様々な試練が待ち受けている。理央は肩を力ませてハンドルを握り、法定速度を遵守した。



「マスター、リラックスできて酔えるやつ一杯ください」
 優がアルバイトをしていたバーのカウンターに座り、小太りのマスターに注文する。「あいよ」マスターはまるでラーメン屋のような返事をしてグラスを手に取った。
 理央は優の卒業を待ってからこのバーに足を運ぶようになった。けれど、優と出会ったことはあれから一度だってない。
「サイドカーです」
 オレンジの添えられた夕日色の一杯を見つめ、理央は眉根を寄せて微笑んだ。よりによってこの一杯か。つまみに出してもらったオリーブを口に含み、カクテルを傾ける。酒が楽しめる体質でよかった。大人には思い切り酔いたい夜がある。
 このままじゃ、あっという間におじいちゃんになっちゃうよ。
 たった一つのパズルのピースを求めて、理央は瞼を下ろした。流れる古めかしいジャズと甘い酒の匂い。瞼の裏には金髪を撫でつけた彼が居る。
 すぐるくん。
 呼びかけても瞼の裏の彼はそっと微笑むだけ。瞼を下ろしたままサイドカーを味わい、理央もまた瞼の裏の彼に微笑みを返した。
「誰か待ってるの?」
 ふと声が降って来て、理央は瞼を上げた。
 隣の椅子に手を掛けながら少し困ったように微笑む彼に、理央は一瞬言葉を失って、それから夕日色のカクテルの中を覗き込んだ。そこには今にも涙を流しそうな男が一人いるだけ。……理央は彼をもう一度確かめたくなって、表情を整えてから面を上げた。
「隣、座ってもいい?……それとも、誰か来る?」
「どうぞ座って。隣に座る人はいないから」
 固くなっていた彼の表情がいくらか和らぎ、けれど彼はマスターに「ジンライムください」と言ったきり視線を下げ押し黙ってしまった。
 ばか。
 理央は心の中で彼を罵った。大人の男になったんじゃなかったの。迎えに来てくれたんじゃなかったの。それとも今ここで出会えたのは偶然?
 静かな液体が照明の下で琥珀色に輝く。氷の下に沈んだライムの香りが理央の鼻先にまで漂ってきた次の瞬間、彼はそれを一口あおった。
「理央さん、俺、」
 彼がぱっとこちらに向き直った気配。けれど理央は振り向かなかった。
「言葉なんか、いらない」
 うち震えた理央の声が二人の間に響く。彼の眼差しが自身の横顔を隈なく見つめているのを感じて、理央は面だけを彼に向け睨むように見つめた。
「言葉なんかいらない。今すぐに抱きしめてよ」
 彼の手がグラスを掠ったのだろう。
 透明なグラスが小さな音を立てて倒れ、ジンライムがカウンターにぱっとこぼれた。ライムの香りが辺りに広がって、けれど理央はそのグラスを戻すようなことはしなかった。自分を掻き抱いてくれた彼の背に、理央もまた腕を伸ばした。
「優君」
「……理央さん」
「もう、おじいちゃんになっちゃうところだった、遅いよ。本当に、待ちくたびれた……」
「ごめん。待たせて、ごめんね」
「君をずっと待ってたんだよ」
「理央さん」
「君を、君だけを、ずっと、ずっと、待ってたんだよ」
 ぎゅう、と抱きすくめられて、けれど次の瞬間に、優は理央の肩に手をついて身体を離した。
 何度も夢に見た鳶色の瞳の中には自分しか映っていない。理央の胸が奥から引き絞れるように疼いた。
「すぐるくん」
 呼べば、彼は両手で理央の頬を包み、瞳の奥の感情を確かめるように見つめ、性急に口付けた。ライムとオレンジが混じり合って、彼自身から漂う甘みに重なる。理央は優の胸元を自身へときつく引き寄せた。何度も何度も角度を変えて口づけを交わし、額と額を擦り合わせる。
「もう待たなくてもいいんだって、思ってもいい?」
 理央の問いに、優は微笑んだ。
「それはこっちの台詞。俺、大人の男に……、理央さんの番になれるような男になった?もう、待たなくてもいい?」
 陽の元に居ると眩しいくらいだった金髪は黒髪になり、真っ直ぐだった髪は緩く波打っている。けれど襟足は肩で跳ねていて、昔の名残が愛おしい。こちらに向けられた眼差しは臆することなく真っ直ぐで、彼の想いの確かさを表していた。
「優君、全然、変わってない」
 微笑んで呟くと、優は一拍フリーズしてから眉間に皺を寄せた。「……え?うそ、俺、だって……、え?変わってない?」その狼狽っぷりに、理央は声を立てて笑ってしまった。
「違う。変わったけど、変わってないの。僕、それが嬉しい」
「嘘だ、結構大人っぽくなったと思わない?あれから美容師免許も取って、ここら辺で一番大きなサロンに就職して、俺、今月からスタイリストになったんだよ。一人前とは言えないけど、やっと一人の美容師としてスタートラインに立てたんだ。給料だってちょっと上がった。二人で住むような部屋だって、今の俺なら借りられる。……この三年間、一日でも早く理央さんの隣に立てるような大人の男にって、俺……」
「ふふ。そうだね。かっこいいね。でも、昔からかっこよかったじゃない、優君は」
「え?ちょ、ちょっと待って。何が足りないの?俺、足りないところがあるなら、もっともっと頑張るよ。だから、」
 一生懸命に前のめっている彼の顎に触れ、理央は小さな口づけを一つ頬へ落とした。
「優君に足りないところなんてない。君は大人の男だよ。大人じゃなかったのは僕の方。どうかな。君の隣に立てる、大人の男になれたかな?」
 スーツの胸元からネクタイ、喉元から面までをゆっくりと上がって行く優の視線。最後に眼差しがかち合って、理央はそっと微笑んだ。
「理央さん、ずるい。理央さんは俺にとって、最初から大人の男だったよ。もうこれ以上、魅力的にならないで」
 優は項垂れ、理央の両手を取って自身へと引き付けた。
「なあ、はぐらかさないで。俺を番にしてくれるの?それとも、してくれないの?大人の駆け引きとか、俺には分かんねーよ。どっちなの?もう答えないのはナシだよ。そんなのできっこないとか、意味わかんない返事もナシ。イエスかノーで答えて」
「イエス」
 間髪入れずに答えたのに、優は瞳を丸くして理央を見つめた。
「はじめにも言ったじゃない。ずっと君を待ってたって。分からないならもっとはっきり言うね。今でも僕は、君がすき。僕を君の、番にしてください」
 丸くなっていた瞳がみるみる細められ、光を取り込んで潤む。優はスラックスのポケットに手を入れ、そこから濃紺のベルベットに包まれた小さなケースを取り出した。ゆっくりと理央の足元に跪き、ケースから眩いほどに光る銀色の輪を取り出す。
「理央さん。俺と結婚してください」
 固まっている理央をよそに、普段は寡黙なマスターがヒュウと口笛を吹いた。優は笑みを深くして理央の返事を待った。震える左手を伸ばすと、彼は薬指に銀の指輪をはめてくれた。埋め込まれたダイヤモンドが流れ星のように何度もきらめきを弾けさせた。
「うん。する。僕、君と結婚する」
 掻き抱いた身体からは三年前と全く変わらない甘い香りがした。理央は愛しい彼の肩口に鼻先を埋め、洟を啜りながら笑った。
 二人はいつまでも、互いの気が済むまで抱きしめ合った。手と手を取ってバーを飛び出し想いを交わしたあの日のように。いつまでもいつまでも、夜の闇が白むまで、寄り添い合った。
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