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幸せって、なんですか?

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「もったいないなあ」
 昼下がりの公園で、史也は溜息を吐いた。視線の先では三歳になる長男が芝生の上を駆け回っている。
「もったいないって、なに。僕は優君がすきなんだもん」
「三十路で地銀の支店長だろ?将来有望じゃん、メシくらい行ったらよかったのに」
「そんなの浮気だよ。絶対にしたくない」
「メシ食うだけだろ?浮気になんねーよ」
 涼しい目をしてそんなことを言う史也の気持ちが分からず、理央もまた元気にはしゃぎ回る男の子を見つめた。
「ふみ君は最近どう?ほとんどワンオペでしょ?大変じゃない?」
「そりゃーもうね。戦争だよ。でも三人とか産んでる人もいるわけじゃん。簡単には弱音吐けないよね」
 二人産むのと三人産むのとで何が違うのだろうか。三歳の男の子と六か月の男の子をワンオペで育てているのに、どう見ても大変そうなのに、どうして他人の大変さを引き合いに出すのだろうか。そう思うが簡単には口に出せなかった。
「理央には幸せになって欲しいなー……」
 突然にそんなことを呟く史也。表情を確かめると、瞳が潤んでいた。
「どうしたの、ふみ君、なにかあったの」
 史也はその問いに答える代わりに、嗚咽も漏らさずにしとしと涙をこぼした。理央はハッとして彼の肩を抱き寄せた。
 自分から見れば、子どもがいて、素敵なご主人がいて、煌びやかなマイホームまである彼は幸せそのものだ。けれど、きっと、それだけじゃない。幸せの裏には必ず、たゆまぬ努力がある。黙って涙を流している史也の日々を想い、理央は何も言わずに史也の背を摩り続けた。
「幸せって、なんだろうな。お前に偉そうなこと言っておいて、俺にも分かんねーんだわ」
 幸せになりたい。ガラスの靴を履いて、深夜まで王子様と舞踏会で踊って、鐘が鳴って魔法が解けても「この人が私のお姫様だ」と気付いてほしい。シンデレラは王子様と目も覚めるような幸せに一生浸っていられたのだろうか。庶民の出から王族の生活に慣れるのはさぞ大変だったことだろう。お世継ぎ問題、嫁姑問題、側室問題……。自身を取り巻く問題に彼女は打ち勝てたのだろうか。
「いらっしゃいませ」
 バーカウンターの向こうの彼は理央を見るなり相好を崩した。「理央さん。来てくれたの。ここどうぞ」彼の前の席を差され、理央はいそいそと優の目の前に腰を下ろした。
「ごめん、迷惑だよね。でも、顔見たくなっちゃった」
「迷惑じゃない。嬉しいよ。俺も会いたかった。明日は休み?」
「今日も休みだった。明日も休みで二連休。だから、ちょっと飲みたい気分」
「オッケー。どうしよっか。……熱燗いっとく?」
「やだもう。お洒落なカクテルくださいっ。洋風のやつっ」
「あはは、カクテルはそもそも洋風でしょ。熱燗は今度うちで作ってあげるね」
 二人でひそひそとじゃれ合うと、肩の荷が下りた心地になった。昼間に史也の涙を見てから、ずっと心が落ち着かなかった。愛しい人の顔を見ると、声を聞くと、心が休まる。
「どうぞ。サイドカーです」
 オレンジの添えられた夕日色のカクテルを受け取る。唇をつけると柑橘の爽やかな香りの奥からじわじわとアルコールがやって来た。
「おいしい。僕好み」
「でしょ。飲みやすいけど強いから少しづつ飲んでね。塩気のあるものか季節の果物か、どっちがいい?」
 奥からマスターが出て来たので二人で慌てて距離感を正し「おつまみはどうされますか」「おまかせします」と、かしこまる。優はくすりと笑みをこぼして生ハムとイチゴを出してくれた。
「優いますかーっ?」
 静かなバーに弾んだ高い声が響く。リンゴンとドアベルが派手に鳴り、その内にカウンターが若者たちで埋め尽くされてしまった。
「ここ、どきますね」
「あ、すみません、ありがとーございますっ」
 理央はグラスとおつまみを持って窓辺の一人席へ退散した。どうやら五人は優の友人のようだ。優はカウンターに勢ぞろいした面々を見るなり思い切り顔を顰めた。
「お前ら、来てんじゃねーよ。ここはお前らみたいなのが来るとこじゃないから」
「なんで?いーじゃんっ。優う、なんか可愛くて美味しいの出してっ」
 ストレートヘアを靡かせた子、ワンレンボブを掻き上げている子、首の細さが際立つショートヘアの子、佐々木に負けず劣らずの綺麗なミックス巻きの子……。五名のうち四名が女の子だ。夜遊びルックの若者たちを視界の端に引っ掛けつつ、理央は生ハムを摘まんだ。
「お前もなんでこいつら連れてくんだよ。居酒屋で解散しとけよ」
「ごめんごめん、来たいって言うから、仕方なく」
「優、こんなとこで働いてるんだ?なんか古いけどー……、優が立つとドラマに出て来るバーみたい。そういう格好とかオールバックが似合うって、優ほんとビジュ強すぎ」
 可愛い女の子にここまで褒められても「そりゃどーも」の一言で終わらせてしまう優。女の子四名の視線は優の上半身を舐め回すようにそろそろと動いている。理央はなんとなく直視出来なくなって視線を伏せた。
「てかさ、優、葵に最後まで付き合ってあげたんだって?」
 優はピンと来ていないようだ。理央は「すぐる♡がんばれ♡ あおい」と書かれたお守りの包みのことを思い出し、窓の向こうにやった視線を強張らせた。ピカピカに磨かれた窓には女の子と優が映っていて、目を逸らそうとしたが、もう遅かった。五名の真ん中、優の目の前に座っているのが葵だと気が付いてしまう。
「ほら、葵、お礼言うんでしょっ」
 ショートヘアの女の子は足元のヒールをもじもじさせて「優、ありがとう。実技の練習に最後まで付き合ってくれて、弱音も全部聞いてくれて……」とのたまった。
 あ――――……。
 理央は天を仰いだ。合わせた両手をほどいてイチゴを摘まみ、唇に押しつける。けれどイチゴが口の中に入ることはなかった。
 聞きたくなかったなあ。来るんじゃなかったなあ。
 理央はちみちみとカクテルを傾けながら雨に濡れていく窓辺を見つめた。
「ああ、あの日のことか。別にいいよ、あれくらい」
「ホント、優が話聞いてくれなかったら、実技に集中出来なかった。ありがとう」
 後の四名は二人の会話を見守っている。優と葵をくっつけようとしている雰囲気が、波のように理央の足元まで押し寄せた。
 綺麗な恋だなあ。
 理央はどこか他人ごとになって二人を見つめた。ガラスに映る二人は向かい合っているだけでお似合いのカップルに見えた。
「年上の恋人とは上手くいってんの?」
 男の子が何気なくジョブを打つ。
「うん、上手くいってる。少なくとも俺はそう思ってる」
 優はすかさず応え、理央の胸がほろりとほどけた。僕だってそう思ってるよ。カウンターに割り込んでそう言いたい気持ちを押し殺し、カクテルを飲み干す。先端に唇につけただけのイチゴを残して腰を上げようとしたその時、男の子が怪訝そうな声を上げた。
「その人、結構年上だろ?二十七だっけ。オバサンじゃん。俺なら無理」
「……他人の恋愛に口出すほどの恋愛してんのかよ、お前は」
「優、お前、ヤる時は気い付けろよ。ゴムに穴が開いてないかちゃんと確認してから着けな?」
「はあ?酔ってんならもう帰れよ」
「デキ婚目当てかもしんねーじゃん。その年齢の女ってみんな焦ってんだろ?」
 カウンターの他四名も優と同様に顔を顰めた。「あれ?俺、なんか言っちゃいけないこと、言った?」空気は一気に白け、理央は荷物を取って席を立った。
 本当、来なきゃよかった。
 代金を支払い、螺旋階段を駆け下りる。
 僕は女性じゃない。でも、焦ってる。子どもが欲しくて、幸せになりたくて、焦ってる。
 理央は葵のような綺麗な気持ちで優を想えない自分を汚らわしく思った。
 震え始めた口元をマフラーに埋め街灯の下へ出る。小雨が霧のように降りしきり、理央の熱くなった頬を冷ました。
「理央さん!」
 背中に投げられた声に立ち止まり、けれど理央は振り向けなかった。深呼吸して、表情を整える。でも駄目だ、赤くなった鼻の先はきっと誤魔化せない。
「どうしたの、お友達のところに戻ってあげて」
 目の前に回り込んだ優に笑顔で大人ぶる。「雨に濡れて風邪引いちゃうよ。お店に戻って。……じゃあね」去り際に振った手を、優はぱっと捕らえた。
「理央さん、ちょっと待って」
 いま、真っ直ぐに見つめられるとつらい。理央は視線を逸らしたが、優はそれを追って視線を重ねようとした。
「あいつ、ちょっと酔ってて、それであんなこと言ってるだけだから。俺もそう思ってないし、あいつだってあんなこと心から思ってるわけじゃないから」
「……うん、分かってるよ、大丈夫、でも」
 理央は優の視線を受けた。「でも」なんて、言葉を続けるつもりは、なかったのに。
「でもね、彼の言う通りなの」
 優の唇が無防備に開きかける。理央は寂しくて切なくてやりきれなくなった。
「僕、赤ちゃんが欲しいんだ。……正直、焦ってる。だから、あの女の子と出来るような、キラキラして、お互いしか見えないような恋愛は、僕とじゃ出来ないかもしれない」
 赤ちゃんが欲しい。この願いが受け入れられなかったことは、優の表情で分かった。
「ごめんね、こんな僕で」
 理央はその場を去りたくて優の手を払おうとした。けれど優は理央の手首を握ったまま離そうとしない。
「分かった。じゃあ、番になろう」
 その声は掠れていたけれど、はっきりと理央の胸に響いた。なのに、優の眼差しは揺れていた。ただひと時の愛の為にそんなことを言う彼を、理央は愛おしく思った。
「俺が試験に受かったら番になろう。子育てしやすい場所に部屋を借りて二人で住もう。赤ちゃん、それからでも遅くないでしょ。番になって一緒に住むとなったら、ご両親にもちゃんと説明しなきゃ。婚姻届だって出さなきゃ。一生一緒にいよう、理央さん」
「……」
「俺は本気だよ。本気で理央さんを愛してる。本気で一生一緒にいたいと思ってる」
「……」
「なあ、理央さん、応えてよ。黙ってないで、なんか言って」
 すきだよ。
 理央は心の中で呟いた。
 君がすきだよ。僕だって、君をあいしてる。
 夢に向かって真っすぐに進むところ。地に足をついて空を見上げるところ。自分の大切なものをきちんと守り続けられるところ。ずっと尊敬していた。年下だけれど、君のそんなところに僕はたくさん刺激を受けた。
「そんなこと、できっこない」
 固い声が街灯の下に落ちた。自分の声がいやに悲しく響いて、それが何より寂しかった。
 理央は愛しい手を振り払い、駆け出した。もうこれ以上、彼を自分の手の中に留めてはならない。
 指先に止まってくれた蝶が、ひらりと羽ばたいて手元を去る。理央はその姿を、一度も振り返らなかった。
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