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遭遇した嵐は、地銀の支店長の形をしている。

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 ふみゃあふみゃあと泣き始めるベビーカートの赤ちゃん。お食い初めでの一着を探していたお客様は苦笑いで赤ちゃんを抱き上げた。
「この子、抱っこしてないと泣くのに抱っこ紐は嫌がって。うるさくしてごめんなさい」
「いいえ。よろしければ私が抱っこしていましょうか」
「すみません、じゃあ少しだけ……」
 まだ人見知りの始まっていない赤ちゃんはきょとんとした瞳で理央を見つめた。腕の中にしっとりとした温みが収まり、理央は思わず頬を緩めた。
「テンチョ、いつも思いますけど抱っこ上手っすね。なんならあのお母さんよりお母さんぽかったっす」
「まあ、職業柄ね。人見知りの始まってない子でよかった」
 お客様を見送りながら小声を交わす。一人目を産んで、二人目を産んで、どんどん母親らしくなっていくお客様を何人も見てきた。ぎこちない抱き方なのは最初だけ。その内にあのお客様も片手で赤ちゃんをあやしながらセール品を物色するようになる。そんなことも知っているのに、自分はまだ一人も子どもを産んでいない。
 来月の勤務表を作りながら接客と在庫整理をして、つつがなく一日を終える。実技試験を終えた優は三月の筆記試験に向けて机に噛り付いている。バーテンダーの仕事をしながら美容師になるために頑張っている彼はいま正念場を迎えていた。
 理央は自分と彼の未来を対比させ溜息を吐いた。
 僕がいま二十七歳。彼は二十歳。美容師免許を取ってサロンに就職してもすぐにはヘアスタイリストとして働けない。朝早くから夜遅くまで店の細々としたことをして、美容師の勉強もして、若い彼は理想と現実の折り合いをつけられずいっぱいいっぱいになるだろう。会う時間は減って、すれ違いやケンカも増える……。
 彼が一人前の美容師になって安定した生活を送れるようになる頃には、僕はいくつになっているのだろう。会えないと、どうしても思考が湿っぽくなってしまう。
「あの、すみません」
 ぼうとしていたところに声を掛けられ理央は顔を上げた。スーツ姿の男が居心地悪そうに頭を掻いている。
「同じ部署の後輩に赤ちゃんが生まれて。何かお祝いをしたいんですけど、よく分からなくて」
「はい、ご案内いたします。赤ちゃんのお誕生月をお伺いしてもよろしいですか?」
 男性の理央は、こういったお客様に声を掛けられることが多い。理央は先週生まれたばかりだという男の子の為に白のポンチョを見繕った。
「いいものが見つかってよかった。男の人が居て助かりました。女の人に接客されるの、ちょっと苦手で」
「それはよかったです。お相手のご住所がお分かりになるようでしたらこちらで配送することも出来ますが……」
「え?そんなことまで?ああ、分かる、分かります、ちょっと待って」
 伝票に住所を書き込んでもらっている間にラッピングを済ませる。のしを用意し、後は外箱の包み紙を選ぶだけというところまで整えておく。ペンを置いた彼は面を上げて理央の仕事に瞳を輝かせた。
「店員さん、シゴデキですね」
「しごでき?」
「仕事の出来る人、ってことです。その後輩に教えてもらいました」
 女性が訪れることの多いこの場所で同性に褒められると妙なアドレナリンが出る。理央は頬を熱くして「そんなことないですよ」と用意していた包み紙のサンプルを差し出した。
「外箱はどの包装紙でお包みしましょうか」
「ああ、じゃあ、この柔らかい水色」
 柔らかい水色。その表現に、理央の胸が不覚にもときめいた。
「店員さん、店長さんだったんですね」
「ふふ。威厳がないってよく言われます」
「そういう意味じゃないですよ。すごいテキパキしてて、見てて気持ちのいい仕事する人だなって」
 お釣りを受け取った彼は懐から出した名刺入れを開きペンを走らせると、トレイに一枚の名刺を乗せてはにかんだ。
「気が向いたら連絡ください。今日のお礼したいから」
 彼が颯爽と去った後には、シトラスとムスクの残り香が漂った。
「お。三十路で三ツ島銀行の支店長だって。すげー安パイじゃないっすか。テンチョ、やるう」
 トレイを覗き込んでいる佐々木から名刺を隠し、額まで熱くする理央。名刺には私用だというスマートフォンの電話番号が書き込まれていた。
 なんで、どうして、こんなこと今まで一度もなかったのに。
 帰りの電車に乗っても、理央はずっとどぎまぎしていた。あの名刺は理央の名刺入れの中に納まって息を潜めている。それでも改札を抜ける頃には優の笑顔と手のひらの温度が胸に蘇り、理央は衝動のままにその名刺を駅のゴミ箱に捨てた。
 自動販売機で甘い炭酸飲料を買って一気に喉へ流し込む。理央はどんどん熱っぽくなる身体を持て余しながら帰路についた。
 翌日、理央は身体の火照りで目を覚ました。
 熱を測ると三十八度を超えていた。共働きの両親は二人とも出張で家に居ない。外で一人前に仕事をしている理央も、家に居ればただの箱入り息子。薬はどこだ氷枕はどこだとおろおろし、結局それらを探すだけで疲れ切ってしまった。
「う、ど、どうしよう」
 一人呟きながらも一瞬だけ仕事モードになり副店長に事情を報告、店長に昇格して初めて体調不良での休暇をもらうことになった。
 頭が重い、身体が熱い。どっくんどっくんと脈打つ心臓が理央の身体を汗ばませた。風邪には違いないのだろうが喉が痛かったり鼻水が出たりといった症状はない。理央はただ熱いばかりの身体を横たえさせて時が過ぎるのを待った。
 ふるるっ。枕もとでスマートフォンが震えた。仕事の連絡かと飛びつくと、「吉本優」からの着信。理央は呼吸を整えて通話のボタンを押した。
『理央さん?』
 愛しい彼に久々に名前を呼ばれ、理央はだらしなく微笑んだ。
「うん、理央だよ。優君ですか?」
 自分のことを「理央」と呼んでしまい赤面しつつ、「こんな時間に電話くれるの珍しいね。どうしたの?」と大人ぶる。
『今日、少しでも会いたいなって思ってたんだけど……。理央さん、調子悪い?なんか声がだるそう』
「うん、なんか、熱が出ちゃって。仕事もお休みしちゃった」
『やっぱり。大丈夫?親御さんは家に居る?』
 耳障りのいい声。理央はうっとりして、スーツの男に一瞬でもときめいたことを悔いた。
「それが……二人とも出張中で」
『えっ?大丈夫?俺に出来ること、ない?』
 やけに甘えたような声になってしまい、それを帳消しにしたくて理央は言葉を重ねた。
「試験の前でしょう。君に風邪をうつすわけにはいかない。僕も大人だし大丈夫だよ。心配しないで」
 この言葉は本心だ。なのに、声音に副音声が滲み出る。君に会いたい、今すぐに。
『家、どの辺?なんか食べられそうなもの持ってくよ』
 優はすぐに理央の欲しい言葉をくれた。会いたい気持ちに負けて、理央は家の住所を口頭で伝えた。……迷ったらいけないと思って、電話を切った後にメッセージでも住所を送った。
 自分と優は目に見えない絆で結ばれていると思う。目に見えないものは、目に見えるどんなものよりも綺麗で、それから、手に入りにくい。そんなものを手にしている自分が信じられなかった。身体を覆う熱とは別に、胸の奥がぽかぽかと温まっていく。
 あんな名刺、スーツの背中が見えなくなってすぐに店のゴミ箱に捨ててしまえばよかった。優君、ごめんね、こんな僕で。理央は瞳を熱くして優を待ち焦がれた。
 ドアが揺れる気配がして、玄関前で毛布に丸まっていた理央は「待って!」と声を上げた。急いでマスクをして玄関を開け放つ。
「理央さん」
 大きな買い物袋を持った優が瞳を丸くして理央を見下ろした。「起こしたらいけないから買ったものだけ置いて帰ろうって思ってたんだけど……、もしかして玄関の傍で待ってたの?」理央はコクンと頷いた。腕に触れて引き寄せると、優は頬を赤くして眉根を寄せた。
「だめだって、入れないって。親御さんに悪い。そーゆーの、よくないって」
 恋人の両親に気が咎めて靴先さえ中に入れない彼が愛しい。理央はマスクの下で微笑み、もっと傍にと彼を引き付けた。身体を覆っていた毛布が玄関に落ちると、優は慌ててそれを拾い理央の肩に掛け直した。……次の瞬間に、優の瞳が見開かれた。
「理央さん、誰か他の人に会った?」
 優の瞳が鋭く芯を持っていたので「優でないα」のことを問われているのだと理央はすぐに気が付いた。
「会ってない。今は職場にもβの女の子しかいないし……」
「でも匂いがついてる」
 あんなに敷居を跨ぐことを拒んでいた足が見る間に距離を詰めて来て、理央はびくりと肩を揺らした。優の手は今までとは違う誰かの手になって理央の身体に両手で触れた。その手は理央を構築する部品を一つ一つ確かめるかのように身体の輪郭を撫でていく。
「職場にしか行ってない、本当に、他には、どこにも」
「お客さんは?それっぽい人いなかった?……雄だ。多分、そうだ。雄のα」
 雄のα。そう言われると思い浮かぶ人間は一人しかいなかった。あのスーツの男。僕がΩだと気が付いてあんな名刺を……。みるみる青くなっていく理央の面をつくづくと見つめ、優は恋人の頬に触れた。
「この熱、きっと俺のせいだ。ごめん。他のαのフェロモンを浴びたから身体が戸惑ってる。会ってなかったから、俺の匂いが消えてフリーだって勘違いされちゃったんだね」
 ただのスキンシップだと思っていた仕種が、まさか所有を主張するためのものだったなんて。理央は耳の先まで熱くして肩を震わせた。目に見えて動揺する理央をそっと抱き寄せる優。彼の温もりは優しい、だのに背に回っている腕は二人以外のものを拒絶するかのように頑なだ。
 子どもが欲しいと思うならば、願う未来はこういう行為の先にある。理央はその「行為」の一端を見た気がして怖気づいた。頭を振り立て恐れを追い払う。目の前の温もりに集中する為に優の背を掻き抱くと、彼はやっといつものように微笑んでくれた。
「俺の匂いつけといたからもう大丈夫だよ。戸締りきちんとね。試験には理央さんのお守り持ってくから」
 踵を返した優に手も振れないまま扉が閉まる。理央は玄関にへたり込んでしまった。
 いつの間にか身体の熱は引いていた。玄関には優の残り香が漂う。あのスーツの男と似ている、けれど、それよりもずっと甘く深い香りだった。
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