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街角のワルツ

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「『げんえい』、読んだよ。驚いた。世良、ペンネーム変えてなかったんだな」
 世良は欅の言葉に軽く微笑み、コーヒーを含んだ。
「しとうつぐみ」というペンネームは、かつて「しとう」というペンネームだった世良に、「読者の印象に残るように何か付け加えた方がいい」という助言をした、欅の考えたものだった。
 欅は溌溂とした笑みを浮かべ、「世良だってすぐに分かったよ。てっきり、新しいペンネームを使っていると思っていたから、自分の目を何度も疑ったよ」と早口に言った。
「世良、さすがだな。あんな長いブランクの後に、いきなり『げんえい文学賞』の三次選考まで残れちゃうんだもんな」
「賞は獲れなかったけど。ありがたかったよ。誰かが僕の作品を読んでくれて嬉しかった」
 文芸誌『げんえい』の小説大賞に応募した作品のことを知った欅に呼び出され、世良は駅前の喫茶店にいた。欅は先日のことなどなかったかのように声を弾ませている。
「今はどんなの書いてるの?」
 当たり前のように切り出され、世良は繕うこともせずに、「今は、書いてない」と答えた。欅の表情が、サッと、雲でも被ったように暗くなった。
「なんで。今は書いてなきゃ。書けば書くほど上手くなるんだよ、そんなことは世良も知ってるでしょ?より多くの読者にしとう鶫を見つけてもらえるチャンスなのに、どうして書かないの。小説投稿サイトとか、noteとか、やってないの?自分の作品を、もっとたくさんの人に読んでもらいたくないの?」
 たくさんの人に……。
 小説を書いていて、そう思ったことなんて、一度もない。
 僕は小説を、この世界の片隅にいる、もしかしたら膝を抱えて泣くのを堪えている、たった一人に向けて書きたい。
 そこに届けば、後はなんだっていい。ハードカバーになるよりも、紙ヒコーキになって、真っ直ぐに飛んで行ってほしい。
「僕、しとう鶫ってペンネーム、気に入ってるんだ」
 思ったような応えでなかったからか、欅は興を削がれたように眉を歪めた。世良はそれに構わず話を続けた。
「鶫は冬鳥で、こっちにいる間は一度だって囀らない。冬の間中、彼らは囀ることを忘れ地面を跳ね回って、冬を生き抜くために必死に餌を探す。……すごく、いいって思う。自分の生に集中している感じが、なんていうか、しっくりくる」
 君と出会った日、僕はもう一人の僕を見つけた気がした。きっと、君もそう思ってくれたんじゃないだろうか。だから僕たちは、ああなるまで互いのことを他人だと思えずに、思いやれずにいたんじゃないだろうか。
「アドバイスありがとう。ペンネームも一生たいせつにする。……すぅちゃんも、欅君がくれた名前のように育ってくれて、僕は彼女の成長を誰より近くで見られるのが、何より嬉しい」
 世良は財布から千円札を取り出し、カップの横に添えた。
「でも、僕たち、こうやって二人で会うのは、もう止めた方がいい。君にも僕にも、別の生活があって、それぞれにたいせつな人がいる」
 立ち上がった世良を追うように、欅は立ち上がった。
 神から与えられたものを持つ者は、例外なく孤独。才は孤独で研ぎ澄まされ、光を放つ。
 欅君、君も、寂しかったんだね。孤独だったんだね。
 でも、誰の傍にいても、その寂しさは消えない。
「すぅちゃんには会ってあげて。あの子があなたをパパと呼んでるんだから」
 欅は何かに気付いたように眼差しを上げ、椅子に腰掛けた。俯いて額を摩る欅は、前よりも痩せたように見えた。
「まだ、書く気はある?」
 その問いに、世良は頷いて見せた。それだけで欅はホッとしたように緊張を解き、「おれ、世良の小説が好きなんだ」と返してくれた。
 分かってるよ。
 君は、僕の小説を誰より愛してくれた。
 君はもしかすると、「今里世良」よりも「しとう鶫」を愛していた。
 僕はそれが誇らしかった。だって僕も、「篠田七緒」を深く愛していたから。
「ごめん、世良。ぜんぶ、ごめん」
「……うん」
「世良の書いたものが、あの時、何も書けなくなったおれを奮い立たせたんだ。おれは、世良が邪魔でああしたんじゃない。世良の物語に救われて、もう、世良にこんなことさせちゃいけないって、そう思って……」
 篠田七緒の世界から、世良が消えた日。もっと、互いの気持ちを言葉にしておけばよかった。でも、そうできなかった。世良にもプライドがあった。物語を紡ぐ者としての、欅のパートナーとしての、プライドが。
 誰かからすれば、そのプライドは石ころなのかもしれない。でも、あの頃の世良にとってはそれが、手のひらの中に握りしめた、たった一つのダイヤモンドだった。
「おれは、世良もしとう鶫も失いたくなくて、でも、全部裏目に出て、全部おれのせいで、だから、」
「ちがう」
 世良は欅を見下ろし、過去を過去にした。
「あの本は、君と僕の罪の子。だから僕も、あの物語を一生背負い続けるよ。……すぅちゃんを僕の元に連れて来てくれて、ありがとう。すぅちゃんを連れて生きていくことを許してくれて、ありがとう。君には心から感謝してる」
 揺れるドアベルの音が遠ざかっていく。
 全てじゃない、けれどいくつかの歯車がかみ合い、あの頃に開いてしまった扉が閉まる。いつかまた開くかもしれない。けどそれは、今日明日の話じゃない。
 アンダンテ。歩くような速さで。日々は繰り返し、先へ進む。
「譲司さん。いつまでそこにいるんです。……こっちに来て」
 喫茶店を出てすぐの角を曲がり、路地裏で煙草を吸っている長身の男を呼び止める。黒のトレンチコートを着た譲司は、きまり悪そうに世良を振り返った。
「もう。こんなに煙草吸って。身体に障りますよ」
 譲司の手元に膨れた携帯灰皿を見つけて叱れば、彼はそれをポケットに突っ込み、「それで、話は終わった?」と話を逸らした。
「終わったから出て来たんです。譲司さん、明日の便でこっちに帰るって言ってたじゃないですか。お店の外を何度も行ったり来たりしてる人がいるなと思ったらあなたで、僕、すごく驚いたんですよ」
「君が昨日の夜になって、あの男と会う、なんて言うからだろう」
「それは、後から知るより、先に伝えておいた方がいいかなって……」
「それはそうだ。後から知ったら、私はきっと冷静ではいられなかった」
 雪のちらつく灰色の空の下、サングラスにトレンチコートで恋人のいる店の周りをうろつくのも、冷静とは言えないと思うが……。世良はそんな心の声をしまい、譲司の腕を両手で引き寄せた。
「何もありませんでしたよ。少し話しただけ。カップ一杯のコーヒーを飲んだだけ」
「うん、分かってる」
 譲司は短くなった煙草の火を消し、世良の肩に自身の肩を寄せた。
「直は?保育園?」
「そう。少し早いけど、あなたが帰って来てくれたし、おむかえに行こうかな」
「私も一緒に行くよ」
 その言葉に、胸がじんわりと温かくなっていく。世良は譲司に向き直り、深く見つめた。
「おかえりなさい、譲司さん」
「……ただいま」
 そう応えてくれるあなたが、目の前にいるということ。この腕を引き寄せることを、許してくれるということ。その一つ一つが、僕の人生は決して悪いものではないということを教えてくれる。
「譲司さん、少しだけ、このまま……」
 冷たくなった譲司の手を取り、ぎゅっと握る。瞳を閉じて、どこからか聴こえて来るメロディーに合わせて身体を揺らす。譲司は世良を両腕で包み込み、ワルツを踊るように揺れてくれた。
「歌って、世良君」
 揺れながら、耳元で彼が囁く。世良は彼の腕の中で『きよしこの夜』を歌った。
 ああもしかしたら、僕の歌は、僕の言葉よりもずっと雄弁なのかもしれない。
 僕たち、互いに、愛のうたを囀っていたんだね。
 世良は譲司の黒髪に落ちた雪を払い、煙草の残り香を乗せた唇を、そっと啄んだ。


【終】
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