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叩かれた頬と過去
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「もしかして、直ちゃん?ミドリ音楽教室に体験レッスンに来てくれなかった?」
マンションのドアから出て来た女性には、世良も直も見覚えがあった。
「ミサト先生?ここでなにしてるの?」
直の問いに美里はころころと笑い、世良に会釈した。
ひと時の師であった譲司がいなくなり、世良は直のピアノの先生を探した。スーパーの掲示板に張り出された「いるか音楽教室」のチラシに描かれたイルカに直が反応し、お試しレッスンを申し込んだのだが……。まさか、「美里先生」の教室だったとは。
「あの、美里先生。あの時は本当に、」
「ああ、いいんですよ。私、あそこ辞めようと思ってたんです」
美里はカラリと笑い、「どうぞ」と言って、世良と直を迎え入れた。美里先生、ミドリ音楽教室を辞めたんだ。胃がしくしくと痛むような心地がし、けれどグランドピアノのある部屋へ入ると、譲司の姿を見た気がして時が止まったようになった。……僕はこれから、グランドピアノを見るたびに、あの人を思い出すのだろうか。
直は美里のグランドピアノをひたと見つめた。美里は直に視線を合わせ、手を差し出した。
「改めて。私は入鹿美里。直ちゃん、今日はいっぱいピアノ弾こうね」
直は美里と握手し、はにかんだ。美里はすっくと立ち、「椅子の高さを調整するから、一度座ってみて」と直を促した。
「今里さん。前のお教室で使っていた教本とか、持ってたりしますか?」
「あ、はい。実は今日、持って来ていて」
「見せてもらってもいいですか?」
四冊の教本と、譲司の作ってくれた基礎練習の楽譜を差し出すと、美里はテープで繋げられた手書きの楽譜を見つめ、「これは、あの……、その、藤巻譲二さんが?」と遠慮がちに尋ねた。
「ご縁があって、直にピアノを教えてくれて。美里先生、分かっていたけど、黙っていてくれたんですね」
「ごめんなさい。楽譜を見て、思わず……」
美里はいたたまれなさそうに視線を伏せ、「中学生の時に初めて聴いて、今も大好きな曲があって……」と語り始めた。
「藤巻譲二さんの、初めて出したソロアルバムの、最後の……、本当の最後の曲で。たぶん、藤巻さんが作曲したものなんですけど、曲名も詳細もなくて、もちろん、楽譜なんてものもなくて。だから私、楽譜に書き起こしたんです。聴いては修正して、それっぽいのはできたんですけど、正解かどうかはご本人にしか分かりませんよね……」
美里はハッと面を上げ、「すみません、個人的な話を」と言って、椅子を調整しはじめた。
あなたの作ったものが、こうやって誰かの心に残ってる。
美里先生だけじゃない。きっと多くの人が、今もあなたの音楽を聴いてる。
僕の書いたものも、誰かの心に残っているだろうか。
いつか、そういうものが僕にも書けるだろうか。
「藤巻さんが聞いたら、きっと喜ぶと思います」
美里の背中にそう言えば、彼女は世良を振り返り、微笑んだ。
あなたはどうして、傍にもいないのに僕の背筋を伸ばしてしまうんだろう。僕にはあなたが、やっぱり、ふしぎな人に思えてならない。
美里のレッスンはアドバイスが分かりやすい上にきめ細かく、譲司の指導にはない側面があった。譲司は感覚的な指摘だけして直自身の気付きを待つようなところがあったが、美里は軽いアシストを入れ車輪を転がすようにして直のやる気を保った。世良は久しぶりに溌溂と鍵盤を叩く直を見た。
「美里先生、直をお願いします」
体験レッスンが終了するや否や、世良は美里に頭を下げた。美里は「えっ」と驚きの声を上げ、「私でいいんですか?」と世良と直を交互に見た。
「美里先生は、この子がつまずいている部分にすぐに気付いて、具体的なフォローを入れてくれて。この子、気分にムラがあるんですけど、美里先生が上手に扱ってくれたから、最後まで前向きな気持ちでピアノを弾けたみたいです。よかったらここに通わせてください。……あの、いつから通えますか?月謝はいつからお支払いすれば……、」
美里は飛び上がったようになり、「ちょ、ちょっと待っていてください!」と言ってデスクに置いていた鞄からスケジュール帳を引っ張り出した。
「ごめんなさい、実は、直ちゃんが生徒第一号で。この教室は見切り発車で始めたから、月謝も決めていなくって。月謝は次のレッスンまでに決めておきます、レッスンは週に一度の予定で、ええと……、そうだ、今里さん、あの、」
美里は頬を上気させ瞳まで潤ませて、世良に「先に言っておかなければならないことがあって」と芯のある声で言った。
「私、今年の春に音大を卒業して。在学中も留学しようかずっと迷っていたんですけど、ある人の……、藤巻さんの言葉で、最近、決心がついて。だから、その、この音楽教室は、その資金を貯めるための、なんていうか、手段なんです。でも、子どもにピアノを教えるのも、私の小さい頃からの夢で……。もちろん、一生懸命やります。でも、資金が貯まって準備ができたら、直ちゃんの成長を見届けずに、私……」
ああ、なるほど、それで、「生徒第一号」。世良はあっさり「構いませんよ」と返した。
「え!?い、いいんですか?私、途中で、フランスとかドイツとかに行っちゃうかもしれないんですよ!?生徒を途中で放り出しちゃうかもしれないんですよ!?」
「構いませんよ。夢を追っている大人が傍にいてくれることは、音楽とは別のこともこの子に教えてくれると思うから。……それに、」
世良は大人二人のやり取りを見守っている直の頭を撫で、微笑みかけた。
「この子も夢を追ってるんです。藤巻譲二さんよりピアノが上手な、一番のピアニストになるんですって。美里先生と並走できれば、この子も心強いと思います」
美里は滲んだ涙を拭い、「こちらこそ、よろしくお願いします」と言って深く頭を下げた。
「ミサト先生のピアノね、ジョージ君のと違うけど、きれいな音がした」
帰り道、直はそう言って嬉しそうに頬を上げた。
「すぅちゃんのピアノも、きれいな音がするよ。ママには、そう聴こえる」
世良の手を握り返し、直は「そっか」と言って、スキップし始めた。夏の終わりの夕日に照らされて伸びた彼女の影は、真っ直ぐに、のびやかに、先へ先へと弾んだ。
スマートフォンが深夜二時に震える。
『いま書いている小説のことで話したいことがあります。以下の日程で空いている日があれば教えてください。時間帯は世良の都合に合わせます。』
それは欅からのメッセージで、世良は小説を推敲していた手を止め、譲司のCDを手に取った。直の眠りを妨げないように音量を下げて曲を流せば、心に風が通り抜けた。
「夏ぶりだな」
指定されたマンションの一室に到着すると、欅が出迎えてくれた。世良はすぐに悟った。この一室は欅の仕事場だ。
世良は恐る恐る、部屋へ足を踏み入れた。部屋は陽が入って明るく、観葉植物がいくつも置いてあった。本が壁のようになっている以外はどこにでもある単身暮らしのようなのに、今の世良には違和感があった。
「これを読んでほしい」
ローテーブルの前に座ると、短編ほどの分量の原稿を差し出された。世良は戸惑い、欅を確かめた。けれど欅は何も言わない。世良は手を膝の上に置いたまま、「読む前に、どうして僕が呼ばれたのか、どうしてこの小説を読まなければならないのか、説明してほしい」と欅の耳に届くように言った。
「世良の関わっている物語だから、世に出すには世良の了解が必要だと思って」
「僕の?……なんで、」
問うた時点で分かっている。書きたかったから、書いたのだ。小説家とはそういう生き物だ。
「僕が嫌だと言えば、この物語は君と僕の心にしまったままにできるの?」
欅は問いに答えなかった。「……分かってると思うけど、僕、読むの遅いよ」世良は欅の頑なさに負け、原稿を手に取った。
五頁読んで、世良はなぜ自分がここへ呼ばれたのかを理解した。
この物語は、かつての家族の物語。欅と、世良の。そして、欅、世良、直の。
物語は一貫して欅の視点で綴られている。心の揺れやすい小説家が小説家志望の書店員に出会い、彼の生活に傾れ込み、堕落し、破滅を経て再生していく。原稿に綴られた日々は、かつての世良の日々と、まるで印象が違った。同じ日々を、同じ場所で過ごしたはずなのに……。
直についても、漏らさず書いてあった。
世良は原稿の中で作者の手駒のように動き回る直を見つめ、紙の束を握りしめた。こんなの、すぅちゃんじゃない。この人はすぅちゃんのことを何も分かっていない。
この人の中心にはいつだって「篠田七緒」がいて、彼はどんなライフステージを経てもそこを動こうとしない……。僕は、すぅちゃんがこんなふうに表されると知っていたら、すぅちゃんをこの人に会わせただろうか。
この人の人生を、この人が一人称で書き、それを誰かが「おもしろい」と言う。人として、恋人として、父親として破綻していても、この人は文学の世界に守られて、「小説家」と呼ばれる。
変わったと思っていた人が何一つ変わっていなかったことに気付き、世良はショックを受けた。それでも、頁を捲る手は止まらなかった。そういう力量が、欅にはあった。小説を愛し、そして小説からも愛された、彼には。
「どうだった?」
最後の頁を読み終えると、間を置いて欅が尋ねた。世良は視線を原稿に落としたまま、言いたかったことも、言うべきことも、見失った。
「この人は、小説家だから」何度だってそう思って許容してきた。けれど、彼が直を作品に出そうとしている今は簡単にそう思えない。加えて、欅は新しい家族が増えたばかりだ。現パートナーの受け取り方次第で欅の安寧が崩れる可能性だってある。
「確かにおもしろい……、おもしろいよ。でも、これを今のタイミングで世に出していいの?子どもが産まれたばかりじゃない。そんな時に、こんな私小説……」
「璃子はもう三か月だよ。世良だって、私小説はファンタジーだって言ってただろ。登場人物の名前は変えるつもりだから安心して」
欅の目は輝いていた。小説を書いている時の目だった。そういう彼が好きだった。小説に自分自身も他人も簡単に捧げられてしまう、小説を一途に愛する彼が。
「君の奥さんは、読めば分かってしまうよ。だってずっと一緒に作品を作って来た人じゃない。……この作品、僕の他に誰かに読ませた?」
「今の担当に読ませたら、おもしろいって」
指先が、一瞬にして凍りついた。
今の欅のパートナーは、篠田七緒である彼をデビュー十二年目から支えて来た元担当編集者だ。結婚をきっかけに篠田七緒の担当を外れたと聞いたが……。
「お願い。今はやめて。そうしないと、君が今たいせつにしているものが、ぐちゃぐちゃになっちゃう。奥さんは君のそういうところを理解していると思う。時が経てば、おもしろいって言ってくれる。……でも今はやめて。少し待って」
欅の瞳も、世良の言葉で一瞬にして冷えた。
欅は、自身の小説が世に出る悦びを知ってしまっている。彼は自分の書いたもので生を繋いで来た、生を繋ぐために書き続けた、まぎれもない小説家だ。世良は自身と欅の間にある溝をその瞳に見て身体を強張らせた。
「世良は、書いてる?書いてないから、おれの気持ちが分からないんじゃない?」
身体の芯が灼熱に貫かれ、世良は立ち上がった。
「書いてる。僕は君みたいな、小説で生活できる人間じゃないけど、書いてるよ」
「書いてるんだ。そっか。なんか安心した」
欅は世良の怒りを軽く退け、「でも、ブランクが長いな」と商品を値踏みするかのように眉を顰めた。
「ちゃんと書き上げた?物語は書き上げることが全てだよ」
「いま、推敲してる」
「どこかへ出す?」
「……賞に出したくて書いたんじゃないから。自分が書きたかったから書いただけだから」
「へえ。なんか眩しいな。読ませてよ。今日は持って来てないの?」
世良は両手で面を覆って、ふらついた。こんな気の狂うようなやりとりを、あの頃、何度繰り返しただろう。彼とのコミュニケーションは、どこかずれていて噛み合わない。そのノイズを、もう、愛おしいとは思えない。
この人は、小説を書いていても、「生活」をしていない。自分の頭の中で捏ねた言葉を紙の上に吐き出しているだけ。そこに現実はない。
「僕、もう帰るよ。その短編は、もう少し時間を置いて、生活が落ち着いてから、奥さんの許可を得て、君が世に出すかどうかを決めて」
言って、世良はひったくるように鞄を持った。「世良!」名前を呼ばれた次の瞬間に腕を掴まれ、世良は咄嗟に抵抗した。きっとこの人は、この場面も小説の種にするのだろう。もしかしたら、三人で過ごしたあの数か月でさえ、この人にとっては肥しでしかないのかもしれない。そう思うと、空しくて、悔しかった。
この部屋は異様だ。この人の好むものばかり。まるで欅自身を守る要塞のよう。かつては、自分もこの要塞の一部だった。それが、自分の、唯一の喜びだった。でも今は、こんなのおかしいと感じてしまう。
譲司さん!
心の中にいるあの人を呼ぶ。自分を奮い立たせたくて、温かく眩しいものに触れた瞬間があったのだと思い出したくて。譲司は世良の瞼の裏で世良を振り返り、微笑んでくれた。譲司さん、譲司さん、譲司さん……!
「なにしてるの!」
瞼を下ろしていた世良には、何が起きたのか分からなかった。
欅の手が腕から離れ、肩に掛けていた荷物が落ち、破裂音が耳元で鳴って、頬に痛みが走った。瞼を上げるとそこには、髪を乱した女性と、その胸元に、スリングに入った赤ちゃんがいた。
女性は血走った瞳をぶるぶると震わせ、世良の頬を打った手を握りしめた。
「どうしてあなたがここにいるの」
女性は世良を睨みながら呟き、欅に詰め寄って、欅の頬を叩いた。彼女の背中は疲れ切っていた。
「帰って!ここから出て行って!」
掠れて裏返った声が漆喰の壁を震わせる。世良は荷物を取り、玄関へ向かった。
「世良!世良の意見を聞いてない。世良はどう思う、この作品を世に出していいのかどうか……!」
欅に再び問われ、世良は前を向いたままドアに向かって言った。
「どちらでもいいよ。君の好きにして。君の作品だ」
世良は走った。逃げるのではなく、何かを追いたくて、真っ直ぐに走った。
このまま、あの人の元まで駆けて、胸に飛び込んでしまいたい。
そんなことを思ってしまう女々しい自分を置き去りにしたくて、世良は全力で走った。頬を打たれたことよりも、小説と離れていた期間を「ブランク」と言い切られたことの方が、よほど悔しかった。
世良は息を切らして立ち止まり、下を向いてしまいそうになる面を上げ、視線を空に投げた。深呼吸して最寄りの駅に入り、電車に乗って帰路を行く。
世良は家に帰ってすぐに譲司のCDを再生した。途端に、涙が溢れた。
――泣き虫だな、君は。
譲司の声が聞こえた気がしたけれど、それはピアノの音だった。世良は泣きじゃくりながら頬を冷やし、夕飯を準備した。CDを聴き終える頃には涙は止まっていて、直のお迎えの時間になっていた。世良は鞄とヘルメットを手に、もう一度玄関を出た。
マンションのドアから出て来た女性には、世良も直も見覚えがあった。
「ミサト先生?ここでなにしてるの?」
直の問いに美里はころころと笑い、世良に会釈した。
ひと時の師であった譲司がいなくなり、世良は直のピアノの先生を探した。スーパーの掲示板に張り出された「いるか音楽教室」のチラシに描かれたイルカに直が反応し、お試しレッスンを申し込んだのだが……。まさか、「美里先生」の教室だったとは。
「あの、美里先生。あの時は本当に、」
「ああ、いいんですよ。私、あそこ辞めようと思ってたんです」
美里はカラリと笑い、「どうぞ」と言って、世良と直を迎え入れた。美里先生、ミドリ音楽教室を辞めたんだ。胃がしくしくと痛むような心地がし、けれどグランドピアノのある部屋へ入ると、譲司の姿を見た気がして時が止まったようになった。……僕はこれから、グランドピアノを見るたびに、あの人を思い出すのだろうか。
直は美里のグランドピアノをひたと見つめた。美里は直に視線を合わせ、手を差し出した。
「改めて。私は入鹿美里。直ちゃん、今日はいっぱいピアノ弾こうね」
直は美里と握手し、はにかんだ。美里はすっくと立ち、「椅子の高さを調整するから、一度座ってみて」と直を促した。
「今里さん。前のお教室で使っていた教本とか、持ってたりしますか?」
「あ、はい。実は今日、持って来ていて」
「見せてもらってもいいですか?」
四冊の教本と、譲司の作ってくれた基礎練習の楽譜を差し出すと、美里はテープで繋げられた手書きの楽譜を見つめ、「これは、あの……、その、藤巻譲二さんが?」と遠慮がちに尋ねた。
「ご縁があって、直にピアノを教えてくれて。美里先生、分かっていたけど、黙っていてくれたんですね」
「ごめんなさい。楽譜を見て、思わず……」
美里はいたたまれなさそうに視線を伏せ、「中学生の時に初めて聴いて、今も大好きな曲があって……」と語り始めた。
「藤巻譲二さんの、初めて出したソロアルバムの、最後の……、本当の最後の曲で。たぶん、藤巻さんが作曲したものなんですけど、曲名も詳細もなくて、もちろん、楽譜なんてものもなくて。だから私、楽譜に書き起こしたんです。聴いては修正して、それっぽいのはできたんですけど、正解かどうかはご本人にしか分かりませんよね……」
美里はハッと面を上げ、「すみません、個人的な話を」と言って、椅子を調整しはじめた。
あなたの作ったものが、こうやって誰かの心に残ってる。
美里先生だけじゃない。きっと多くの人が、今もあなたの音楽を聴いてる。
僕の書いたものも、誰かの心に残っているだろうか。
いつか、そういうものが僕にも書けるだろうか。
「藤巻さんが聞いたら、きっと喜ぶと思います」
美里の背中にそう言えば、彼女は世良を振り返り、微笑んだ。
あなたはどうして、傍にもいないのに僕の背筋を伸ばしてしまうんだろう。僕にはあなたが、やっぱり、ふしぎな人に思えてならない。
美里のレッスンはアドバイスが分かりやすい上にきめ細かく、譲司の指導にはない側面があった。譲司は感覚的な指摘だけして直自身の気付きを待つようなところがあったが、美里は軽いアシストを入れ車輪を転がすようにして直のやる気を保った。世良は久しぶりに溌溂と鍵盤を叩く直を見た。
「美里先生、直をお願いします」
体験レッスンが終了するや否や、世良は美里に頭を下げた。美里は「えっ」と驚きの声を上げ、「私でいいんですか?」と世良と直を交互に見た。
「美里先生は、この子がつまずいている部分にすぐに気付いて、具体的なフォローを入れてくれて。この子、気分にムラがあるんですけど、美里先生が上手に扱ってくれたから、最後まで前向きな気持ちでピアノを弾けたみたいです。よかったらここに通わせてください。……あの、いつから通えますか?月謝はいつからお支払いすれば……、」
美里は飛び上がったようになり、「ちょ、ちょっと待っていてください!」と言ってデスクに置いていた鞄からスケジュール帳を引っ張り出した。
「ごめんなさい、実は、直ちゃんが生徒第一号で。この教室は見切り発車で始めたから、月謝も決めていなくって。月謝は次のレッスンまでに決めておきます、レッスンは週に一度の予定で、ええと……、そうだ、今里さん、あの、」
美里は頬を上気させ瞳まで潤ませて、世良に「先に言っておかなければならないことがあって」と芯のある声で言った。
「私、今年の春に音大を卒業して。在学中も留学しようかずっと迷っていたんですけど、ある人の……、藤巻さんの言葉で、最近、決心がついて。だから、その、この音楽教室は、その資金を貯めるための、なんていうか、手段なんです。でも、子どもにピアノを教えるのも、私の小さい頃からの夢で……。もちろん、一生懸命やります。でも、資金が貯まって準備ができたら、直ちゃんの成長を見届けずに、私……」
ああ、なるほど、それで、「生徒第一号」。世良はあっさり「構いませんよ」と返した。
「え!?い、いいんですか?私、途中で、フランスとかドイツとかに行っちゃうかもしれないんですよ!?生徒を途中で放り出しちゃうかもしれないんですよ!?」
「構いませんよ。夢を追っている大人が傍にいてくれることは、音楽とは別のこともこの子に教えてくれると思うから。……それに、」
世良は大人二人のやり取りを見守っている直の頭を撫で、微笑みかけた。
「この子も夢を追ってるんです。藤巻譲二さんよりピアノが上手な、一番のピアニストになるんですって。美里先生と並走できれば、この子も心強いと思います」
美里は滲んだ涙を拭い、「こちらこそ、よろしくお願いします」と言って深く頭を下げた。
「ミサト先生のピアノね、ジョージ君のと違うけど、きれいな音がした」
帰り道、直はそう言って嬉しそうに頬を上げた。
「すぅちゃんのピアノも、きれいな音がするよ。ママには、そう聴こえる」
世良の手を握り返し、直は「そっか」と言って、スキップし始めた。夏の終わりの夕日に照らされて伸びた彼女の影は、真っ直ぐに、のびやかに、先へ先へと弾んだ。
スマートフォンが深夜二時に震える。
『いま書いている小説のことで話したいことがあります。以下の日程で空いている日があれば教えてください。時間帯は世良の都合に合わせます。』
それは欅からのメッセージで、世良は小説を推敲していた手を止め、譲司のCDを手に取った。直の眠りを妨げないように音量を下げて曲を流せば、心に風が通り抜けた。
「夏ぶりだな」
指定されたマンションの一室に到着すると、欅が出迎えてくれた。世良はすぐに悟った。この一室は欅の仕事場だ。
世良は恐る恐る、部屋へ足を踏み入れた。部屋は陽が入って明るく、観葉植物がいくつも置いてあった。本が壁のようになっている以外はどこにでもある単身暮らしのようなのに、今の世良には違和感があった。
「これを読んでほしい」
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「世良の関わっている物語だから、世に出すには世良の了解が必要だと思って」
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欅は問いに答えなかった。「……分かってると思うけど、僕、読むの遅いよ」世良は欅の頑なさに負け、原稿を手に取った。
五頁読んで、世良はなぜ自分がここへ呼ばれたのかを理解した。
この物語は、かつての家族の物語。欅と、世良の。そして、欅、世良、直の。
物語は一貫して欅の視点で綴られている。心の揺れやすい小説家が小説家志望の書店員に出会い、彼の生活に傾れ込み、堕落し、破滅を経て再生していく。原稿に綴られた日々は、かつての世良の日々と、まるで印象が違った。同じ日々を、同じ場所で過ごしたはずなのに……。
直についても、漏らさず書いてあった。
世良は原稿の中で作者の手駒のように動き回る直を見つめ、紙の束を握りしめた。こんなの、すぅちゃんじゃない。この人はすぅちゃんのことを何も分かっていない。
この人の中心にはいつだって「篠田七緒」がいて、彼はどんなライフステージを経てもそこを動こうとしない……。僕は、すぅちゃんがこんなふうに表されると知っていたら、すぅちゃんをこの人に会わせただろうか。
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「どうだった?」
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「この人は、小説家だから」何度だってそう思って許容してきた。けれど、彼が直を作品に出そうとしている今は簡単にそう思えない。加えて、欅は新しい家族が増えたばかりだ。現パートナーの受け取り方次第で欅の安寧が崩れる可能性だってある。
「確かにおもしろい……、おもしろいよ。でも、これを今のタイミングで世に出していいの?子どもが産まれたばかりじゃない。そんな時に、こんな私小説……」
「璃子はもう三か月だよ。世良だって、私小説はファンタジーだって言ってただろ。登場人物の名前は変えるつもりだから安心して」
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「世良は、書いてる?書いてないから、おれの気持ちが分からないんじゃない?」
身体の芯が灼熱に貫かれ、世良は立ち上がった。
「書いてる。僕は君みたいな、小説で生活できる人間じゃないけど、書いてるよ」
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「僕、もう帰るよ。その短編は、もう少し時間を置いて、生活が落ち着いてから、奥さんの許可を得て、君が世に出すかどうかを決めて」
言って、世良はひったくるように鞄を持った。「世良!」名前を呼ばれた次の瞬間に腕を掴まれ、世良は咄嗟に抵抗した。きっとこの人は、この場面も小説の種にするのだろう。もしかしたら、三人で過ごしたあの数か月でさえ、この人にとっては肥しでしかないのかもしれない。そう思うと、空しくて、悔しかった。
この部屋は異様だ。この人の好むものばかり。まるで欅自身を守る要塞のよう。かつては、自分もこの要塞の一部だった。それが、自分の、唯一の喜びだった。でも今は、こんなのおかしいと感じてしまう。
譲司さん!
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「なにしてるの!」
瞼を下ろしていた世良には、何が起きたのか分からなかった。
欅の手が腕から離れ、肩に掛けていた荷物が落ち、破裂音が耳元で鳴って、頬に痛みが走った。瞼を上げるとそこには、髪を乱した女性と、その胸元に、スリングに入った赤ちゃんがいた。
女性は血走った瞳をぶるぶると震わせ、世良の頬を打った手を握りしめた。
「どうしてあなたがここにいるの」
女性は世良を睨みながら呟き、欅に詰め寄って、欅の頬を叩いた。彼女の背中は疲れ切っていた。
「帰って!ここから出て行って!」
掠れて裏返った声が漆喰の壁を震わせる。世良は荷物を取り、玄関へ向かった。
「世良!世良の意見を聞いてない。世良はどう思う、この作品を世に出していいのかどうか……!」
欅に再び問われ、世良は前を向いたままドアに向かって言った。
「どちらでもいいよ。君の好きにして。君の作品だ」
世良は走った。逃げるのではなく、何かを追いたくて、真っ直ぐに走った。
このまま、あの人の元まで駆けて、胸に飛び込んでしまいたい。
そんなことを思ってしまう女々しい自分を置き去りにしたくて、世良は全力で走った。頬を打たれたことよりも、小説と離れていた期間を「ブランク」と言い切られたことの方が、よほど悔しかった。
世良は息を切らして立ち止まり、下を向いてしまいそうになる面を上げ、視線を空に投げた。深呼吸して最寄りの駅に入り、電車に乗って帰路を行く。
世良は家に帰ってすぐに譲司のCDを再生した。途端に、涙が溢れた。
――泣き虫だな、君は。
譲司の声が聞こえた気がしたけれど、それはピアノの音だった。世良は泣きじゃくりながら頬を冷やし、夕飯を準備した。CDを聴き終える頃には涙は止まっていて、直のお迎えの時間になっていた。世良は鞄とヘルメットを手に、もう一度玄関を出た。
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幼なじみでもある帝と仲は良かったが、Ωとして求められないことに、ぼくは不安と悲しみを抱えていた・・・
『紫式部~実は、歴史上の人物がΩだった件』の紫式部の就職先・藤原彰子も実はΩで、男の子だった!?というオメガバースな歴史ファンタジー。
歴史や古文が苦手でも、だいじょうぶ。ふりがな満載・カッコ書きの説明大量。
フツーの日本語で書いています。
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