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おばけお屋敷への招待

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 我が家に招待したい、というのは、社交辞令ではなかったらしい。
「直は家の中か?」
 玄関先のサルビアに水をやっていた世良は思わぬ客人に息が止まりそうになった。
 憮然とした表情とは裏腹に、日曜日の早朝に現れた譲司は軽やかな口ぶりで直の所在を尋ねた。格好は先日と変わらず、白シャツに黒のスラックス、藍色の鼻緒の下駄……。
「あれ?ジョージ君?どうしたの?」
 庭でバッタを探していた直が譲司の声に誘われ玄関先まで駆けて来る。譲司は「君たちを我が家に招待したい」と言って、朱色の封蝋で閉じられた封筒を直へ差し出した。
「ジョージ君のおうちに?いいの?」
「ああ。君たちさえ構わなければ、ぜひに」
「ピアノ、ひいてくれる?」
「善処しよう」
 色よい返事に、直は瞳を輝かせた。彼女は譲司の手を取り、「ママも!」と言って世良を手招きした。封筒の中身はおそらく招待状で、だから今すぐにということではないはずなのだが、譲司は何も口を挟まなかった。
「あ、あの、藤巻さん、いいんですか」
 世良は譲司を気遣ったが、彼は直に対するのとはまた違う態度で「構わない」とだけ言った。譲司のひんやりとした態度に心細くなりながら、けれど直を放っておくわけにもいかず、世良はなけなしの社交性をフル回転させて洋館の門をくぐった。
「上がって、好きに寛いでくれ」
 玄関扉の向こうを見て、世良は言葉を失った。
 おそらくは、あの、整頓の行き届いた……、というか、グランドピアノと棚しかない部屋にあったものなのだろう。食器棚やワインセラー、骨董品、病院の一角にありそうな柱時計、テーブルセットにソファー、その他諸々が廊下に散乱していた。部屋に並べれば品の良い調度品として本領を発揮するだろうに、居場所を間違えているせいでどれもこれもガラクタのように見えてしまう。
「ねえ、ジョージ君のお部屋はどこ?」
「私の部屋……?ここは私の……、いや、正確には祖父の建てたものだが、今は私が所有しているわけだから、全て私の部屋だ。……うん?ああ、そうか、私の個人的な書斎のことか。構わない。案内しよう」
 緩いカーヴを描いた階段をずんずん上がって行く譲司と直に押され気味になりながら、世良はつっかけを玄関に揃え、裸足のまま階段を上がった。階段の先、飴色の扉の向こうは、自室というよりも魔窟だった。
「わ!なにこれ!ジョージ君!毎日ちゃんとお片付けしてるのっ?」
 几帳面な五歳児は部屋の惨状を前に眉を吊り上げた。それもそのはず、床には楽譜や本が直(じか)に積み重なり、レコードが詰め込まれた棚の上には更にCDが山積みにされている。部屋の隅に置かれた小さなちゃぶ台の周囲には、飲みかけのペットボトルやレジ袋がポイポイと放られ散らかり尽くしている。そして驚くべきことに、この汚部屋の中心にも、「我こそがこの部屋の主」と言わんばかりに、年季の入ったグランドピアノが居座っている。
「毎日……、は、していないかもしれない」
「だめだよ!遊んだらちゃんとお片付けしなくちゃ!」
 直は譲司の手を握ったままプリプリ怒り、けれど一転して難しい表情になってしまった譲司を見てプッと噴き出した。
「ねえ、ピアノひいてっ。『きらきら星』の続き!」
「先にお茶でもいかがかな?美味しい茶菓子もあるよ」
「おかしはいい!ピアノひいて!」
 直に強請られピアノの前に座った譲司と、瞬間、視線が通う。真正面から見ると、譲司の瞳は猛禽類のそれのようだった。世良が息を飲んでいる間に、直は譲司の隣に膝立ちになり、人差し指でいたずらに鍵盤を押した。
 ポーン……。
 音が跳ねる。転がる。誰かの心の中へ、容易く侵入する。
 譲司と再び視線が重なる。譲司の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
 パラン、タラン、ダラン、ララン……、
『きらきら星』にはない、激情がやって来る。
 鍵盤の上を、大きな両手が縦横無尽に駆け回る。譲司の両手はまるで機械のように、いっそ機械以上に、精密にパキパキと動いた。主旋律が舞い戻るたび、音は激しさを増す。まるで、伝えたいことはいつだってたった一つなのだと言わんばかりに。……ピークに差し掛かったところで、曲は途切れた。散り散りになるのではなく、プツンと消えた。思わず目で確かめれば、譲司の手元は先程の激しさが嘘のように静止していた。
 世良は息を潜めて直を確かめた。直は譲司の手元を見つめたまま、「『きらきら星』じゃなかった」と呟いた。
「リストの『マゼッパ』という曲だよ」
 譲司は鍵盤に視線を落としたまま、直の不満に言葉を返した。「ふぅん」直はそうとだけ言うと、興味をなくしたように部屋を出て行った。一瞬にして、部屋が静寂に包まれる。子どもというのは、いるだけで何かを奏でているものらしい。
 譲司は鍵盤蓋を閉じ、椅子から腰を上げた。
「彼女は手厳しいな。どうやら、お気に召さなかったようだ」
 譲司は肩を竦めて笑った。「『きらきら星』の方がよかったか」溜息交じりに独り言ちた譲司に、世良は「両方、すてきでした」と言った。譲司は視線だけで世良を見やった。やはり、猛禽類の目つきだった。
「すぅちゃんは、最後まで聴きたかっただけだと思います。あの子、気になることがあると、そっちに意識が集中しちゃうから……」
 譲司は鍵盤蓋を撫で、「そう……」と言った。その表情がどこか寂しげで、世良はハッとした。
 誰よりも、この人が、最後まで弾きたいと思ってるんだ。
 世良は稲妻が走るようにそう感じて、胸の前で両手を握り合わせた。その仕種を見て、譲司は目を細めた。
「君、歌う時もそうしていたな」
 しみじみと言われ、どこからか熱がこみ上げる。年上の男からそんな声音を向けられることなど長い間なかったから耐性がない。譲司は「お茶でもいかが。下に降りよう」と言って先に部屋を出た。
 白い格子の吐き出し窓から初夏の風が吹き抜ける。エゴノキの白い花が揺れ、その香りが世良の鼻孔を擽った。窓からは世良たちの家がよく見えた。降り注ぐようなピアノの音色を思い起こし、ピアノを振り返る。いつも聴いていたのは、この部屋のピアノの音だったんだ。世良は踵を返し、足元に気を付けて部屋を出た。
「ねえ、すぅはコーヒー飲めないよ。牛乳ある?」
 廊下に出ているダイニングテーブルに、ホットコーヒーが三つ並んでいる。直の言葉に譲司は瞳を瞬かせ、「牛乳か。少し待っていて」と言って奥の部屋へ入って行った。
 戻って来た譲司の手元のトレイには、牛乳の入ったグラスと水饅頭が乗っていた。水饅頭はしっかりと冷やされていて、汗を浮かべた世良と直にぴったりのごちそうだった。成長過程にある直の食べっぷりは目ざましく、それに気を良くしたのか、譲司は錦玉までふるまってくれた。
「金魚がゼリーの中を泳いでる!」
 赤い金魚が色とりどりの石を見下ろしながら寒天の中を泳いでいる。譲司は歯を見せて笑い、「食べてごらん。その金魚は美味しいよ」といたずらっぽく囁いた。
「ええ、もったいなくて食べられない。こんなにきれいなおかしがあるんだ」
「あれ。私が店で見た時には泳いでいたんだけどね」
「えっ、うそだ、この金魚、動いてたの?」
 譲司と直のやりとりが微笑ましく、世良は緊張をほぐして二人を眺めた。「なんだ、君も欲しいのか?」「いえ、僕は水饅頭を美味しく頂きましたので……」見ていただけなのに物欲しそうに思われてしまい、世良は手元をもじもじさせた。
「ごちそうさまでした」
 楽しげな二人をひとしきり眺め、世良は食器を手に席を立った。……先ほど牛乳を取りに行った部屋にシンクがあるのだろうか?世良は廊下を進み、突き当たって左の戸を開けた。
 世良は再び言葉を失った。台所には違いないのだろうが、銀色の調理台には例の羊羹がうず高く積み上げられていた。
「君。客人が空になった器を持ち歩くものじゃ、」
「なんです、これは」
 声色の打って変わった世良に、譲司は「何って、」と眉を上げた。
「私の食事だよ。君たちも食べただろう?日によって抹茶入り、黒砂糖入り、和三盆入り、蜂蜜入りと、気分で味を変えてね。朝昼晩と食べても全く飽きない」
 どこか誇らしげな譲司に、世良は白目を剥きそうになった。味を変えるって……、結局は羊羹でしょう?この豆と砂糖と寒天の塊を三食……?そういえば、彼の自室にはペットボトルのゴミはあっても弁当や総菜の容器はなかった。まさか、本当に、三食をこの羊羹でしのいでいるのだろうか……。
「あ、あの。その羊羹が美味しいのは分かりますけど、それだけじゃ身体に障りますよ」
「なに?羊羹は低糖質で疲労回復効果のある、宇宙食にも非常食にもなっている完全栄養食品だぞ。実際、私は三か月ほど羊羹しか口にしていないが、健康そのものだ」
 譲司はそうのたまうが、肌はくすみ、目の下には暗いクマができて、唇は荒れている。世良は山盛りの羊羹と譲司のそれほどよろしくない肌艶を見比べ、ぎゅっと拳を握った。
「藤巻さん。お昼のご予定は……、」
「昼?いや……、特に、何も」
 食事のたびに羊羹を切り分けている譲司を想像し、世良は意を決した。
「よかったら、一緒に昼食を食べませんか。今度は、僕のうちで……」
 譲司は世良の申し出に案外素直に頷き、直は「ジョージ君、行こう」と当たり前のように譲司の手を引いた。
 客人が来ることなど滅多にないから、相応の用意はしていない。けれど、食べることが好きな直のために食材はあれこれと常備している。世良は冷蔵庫から材料を取り出し、調理台に並べた。
「ここがオチャノマ。ここがすぅのテント。ジョージ君、このソファーに座ってね。ごはんができるまで、ご本を読んで待ちましょう。どれがいい?」
 台所にいる世良に代わり、直が客人の相手をしはじめる。背の高い譲司は背中を丸めて鴨居をくぐり、茶の間を見渡した。
「驚いたな。この棚にあるものは全部絵本?」
「そうだよ。このタナは絵本のタナ。それからこっちとこっちはママのタナ。テレビのとなりはお写真とか絵を集めた本のタナ、そっちはマンガのタナ」
「君のママは本の虫なんだな?」
 直はキョトンとし、「ママはママだよ?」と首を傾げた。
「どれ。直が一等気に入っているものを私に見せてくれ」
 世良がふと茶の間を覗くと、譲司はことのほか寛いだ様子で直を膝に乗せ、絵本をそらんじる彼女に頷きを返していた。すぅちゃん、もう藤巻さんのお膝に乗っちゃってる。世良は娘の人懐こさにひとり噴き出し、フライパンを取り出した。
 塩焼きそば、プチトマトのはちみつ漬け、塩ゆでしたスナップエンドウとトウモロコシを食卓に並べ、「すぅちゃん、麦茶注ぐ?」と直を手招きする。「つぐ!」直は譲司の膝から飛び降り、三つのグラスに冷えた麦茶を注いだ。
「ジョージ君はおたんじょうび席ね」
 直に招かれ、譲司はそろそろと座布団の上に正座した。明らかに顔色の悪くなった譲司は塩焼きそばをきりりと睨み、「気を悪くしないでほしいんだが……」と前置きした。
「私は野菜が苦手だ。特にこれ。ニンジンとピーマンとネギ。美味しく食べられた試しがない」
 真剣な面持ちでそんなことを言う譲司に、世良は涼しく微笑んだ。譲司の偏食は予想済みだ。
「一口だけでも、いかがですか?お口に合わないようであれば、残してもらって構いませんよ」
 譲司はグウッと押し黙り、「いただきます」をしている直を見やった。直は新幹線の箸を手に取り、焼きそばを啜り始めた。
「すぅちゃん、他のお野菜も食べられるだけよそってね」
 直はコクンと頷き、自分の皿にプチトマトとスナップエンドウをよそった。
「ジョージ君、食べないの?」
 とうとう直に尋ねられ、譲司は観念したように箸を取った。野菜とそばを箸の先で摘まみ、ひと時睨んで、思い切ったように口へ運ぶ姿は、ピアノを前にした堂々たる姿とはまるで違っていた。
 もにょもにょと咀嚼し、ゴックンと飲み込み、譲司は下ろしていた瞼を上げた。「食べられましたね」そう声をかけると、譲司は武骨な手で喉元を摩り、瞳を瞬かせた。
「ニンジンが、甘かった」
「最初に油でじっくり炒めておくと、甘くなるんです」
「ピーマンもそれほど苦くなかった」
「ピーマンの繊維を断つように切って、塩もみしておくんです。染み出た苦み成分を絞った後に油で炒めると、苦みを抑えることができるんですよ」
「ネギも、あの嫌な香りがしなかった」
「それは、小口切りにしたものを冷凍したからかな?香りは長ネギより小ネギの方が弱いかもしれませんね」
 譲司は感心したように頷き、姿勢を正して焼きそばを啜った。
「これはなんだ?フルーティーで爽やかで美味しい」
 これも世良の予想通り、譲司はプチトマトのはちみつ漬けをお気に召したようだった。「湯剥きしたプチトマトをはちみつで漬けるんですよ。よく冷やしておくと美味しいんです」譲司は再び頷き、プチトマトを自身の皿へよそった。
 いつの間にか譲司の皿も空になり、直は二杯目の麦茶をふるまった。直はポットを置くと、譲司の頭をそっと撫でた。
「ジョージ君、ぜんぶ食べられたね。えらかったね」
 直は慈愛のこもった瞳で譲司を見つめ、労った。譲司は直の行動に面食らったようになっていたけれど、直の手を払うことはなく、彼女の好きにさせた。
「ごちそうさま。美味しい手料理と楽しいひと時をありがとう。……では、また」
 譲司は食後の紅茶を飲み終えるとサッと腰を上げて今里家を後にした。世良と直は譲司を門から見送っていたけれど、譲司の姿はすぐに見えなくなってしまった。
 家に戻ると、直はあの朱色の封蝋をはぐった。封筒から出て来たのは、招待状ではなく、一枚の羽根だった。
その羽はふしぎな色合いをしていた。根元は白く、羽軸から左は黒、右は鮮やかな瑠璃色。直の手で握れば大きさがちょうどよく、直はその羽を麦わら帽子のリボンに差し込んだ。
 藤巻さんって、ふしぎな人。
 世良はその羽に感じたように、譲司をふしぎに思った。心が羽に擽られたような甘やかなむず痒さが、しばらく世良の胸に留まった。
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