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愛に飛び込み、愛に溺れろ!!
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「おかえりなさいませ、江永様」
昼前、くたびれた姿でホテルに現れた啓介に紺は微笑んだ。啓介は差し出されたカードキーを見もせずにカウンターの向こうの紺に詰め寄った。
「瑠璃の居場所を教えて。どうしても伝えたいことがある」
「瑠璃は午後休。もうここにはいない」
「じゃあどこに居るの。お願い、瑠璃の居場所を教えて」
宿敵の懇願に紺は笑みを浮かべた。
「その様子じゃまた瑠璃にフラれたんだろ。もう諦めろよ」
「諦めるなんて出来ない」
髭がまばらに浮かんだ口元で、啓介ははっきりとそう言った。
「会ったらきっと後悔するぞ」
その声音は明らかに脅しの意を含んでいた。それを分かっていて、啓介はコクンと頷いた。瑠璃の前に立つ為に毒や蛇を飲まなければならないというのなら、そうするしかなかった。
もう啓介に選択肢はない。手札を持っているのは瑠璃。イニシアチブを取られた恋愛をしてこなかった啓介はやけに無防備な表情で紺の言葉の続きを待った。
「港にでも行ってみろよ。いいもん見れるぞ」
それが翻って“よくないもの”を表していることは啓介にも予感できた。
「港。分かった。ありがとう。行ってみる」
「後で泣きべそかくなよ。けど、昔のよしみだ、骨だけは拾ってやる」
紺にしては心強い言葉が啓介の背中を押す。啓介は紺に頭を下げホテルを飛び出した。
ホテルへの道中に瑠璃の姿はなかった。入れ違いだったに違いない。こんなにも近くに居るのにそんな些細なすれ違いで瑠璃に会うことが叶わなくなってしまう。心が離れれば、なおさら。
十一年前の夏の続きなんかじゃない。“僕”が望んでいるのはそんなものじゃない。過去の僕じゃない。今の僕の手を取って欲しい。
長い坂を全速力で下る。走りにくい上に靴擦れが痛み、革靴で来たことをすぐに後悔した。濃紺のセットアップはしわくちゃで、整えたはずの髪も無残にほどけている。けれどそんなことを気にしている余裕はこれっぽっちもなかった。
眼下に海が広がると白い船が入り江に入っていくのが見えた。啓介はジャケットをはためかせながら坂を駆け下りた。
過去に向き合えば全てが清算されるなんてことはなく、瑠璃の瞳に映る啓介は「思い出のままでいてほしかった」と思わせてしまった啓介のままだろう。
けれど構わなかった。この身体と心に纏わりつくもの、それをすべて含めて江永啓介だ。
いろんな人を傷つけてきた。瑠璃までも傷つけた。きっと自分は瑠璃にこっぴどくフラれるだろう。今までの清算を迫られるだろう。
……それでも構わない。瑠璃に会いたい。この気持ちを伝えたい。瑠璃が今の自分を、望まなくても。
港に入った途端、見知った後ろ姿が目に飛び込んで来て、啓介は汗を拭うことも忘れ息を吸った。
「瑠璃!」
振り返ったのは瑠璃だった。大きな瞳を二、三度瞬かせ、唇が「けい」を形取る。
啓介は足を止めた。瑠璃の隣にはロングヘアにスパイラルパーマをかけた男が寄り添っていた。瑠璃の腕は何日か前の啓介にしたように男の腕にひたりと絡んでいる。啓介は頬を震わせ瑠璃に詰め寄った。
「瑠璃、なにしてんだよ!」
瑠璃はその声にびくりと震えた。声音は啓介自身が感じているよりずっと怒気を孕んでいて、その感情は全身にまで伝播していた。
「なに?どうした?瑠璃の元カレ?」
口を開いたのは瑠璃の隣の男だった。瑠璃の名前を自分と同じように呼び捨てにするこの男。見覚えなどない。啓介は瞳を朱に染め男に向き直った。
「お前こそ誰?瑠璃の隣からどいてくれる?瑠璃は今日“僕”と過ごす予定なんだけど」
男は大きくした瞳を瞬かせ、口端を上げて瑠璃を見下ろした。
「……ってこの子は言ってるけど。瑠璃、そーなん?」
瑠璃が男と見つめ合えば啓介のこめかみに青筋が立つ。瑠璃は何も言わずに頭を横に振った。「だってさ。君の勘違いじゃないの?」サングラスを外しながらそう言った男の顔には大人の余裕が漂っていた。
「瑠璃、僕、昨日はあの場所でずっと瑠璃を、」
そこまで言って啓介は唇を噛んだ。果たされなかった約束を再現しようとしたところで、今の瑠璃に何の関係があるだろう。瑠璃が望んだことじゃない。瑠璃の許しを乞いたくて、自分が勝手にそうしただけ……。
どうしたら瑠璃がこの腕の中に戻って来てくれるのか。分からないのに啓介はぐるぐると考えた。瑠璃の腕は男の腕に絡まったまま。それを見ていると気がおかしくなりそうだった。
「けい、俺、言ったよね。もうやめて。俺たち、もうお互いのことを忘れた方がいい」
「るり」
名前を呼ぶと熱く滲んだ視界の中で瑠璃が瞳を歪ませた。重なっていた視線がいとも簡単に離れていく。
「行こう、ユウ君」
「……瑠璃!」
啓介一人を残して瑠璃とユウは船に向かった。「瑠璃!」叫んでも、瑠璃は振り向かない。小さな背中は縋るようにしてユウに身を寄せている。
僕、どこで間違ったんだろう。
九歳の啓介は大粒の涙をこぼしながら二人の背中を見つめた。
考えていた通り瑠璃はずっと自分のことを覚えていて、心は傍にあったはずなのに、抱えていた感情はまるきり別のもので。心が離れる。繋いでいたはずの心が。瑠璃が自分でない他の誰かとどこかへ行ってしまう。僕は、僕の心は、こんなにも瑠璃の傍に在るのに。
いやだ。るり。いかないで。
しゃくりあげると喉元が熱くなった。チックによく似た心地になってざわざわと不安が押し寄せる。不安の波間から絶望が忍び寄って来て、啓介の足首を掴もうとする。
るり。るり。るり……。
「僕はどうせ、過去形だよ」
二十一歳の啓介は吐き捨てるように呟き、面を上げた。幼い啓介もハッとしたように濡れた面を上げる。
瑠璃がすきになったのは九歳の自分だったのだろう。瑠璃ひとりを真っ直ぐに見つめ、決して自分からは握った手を離さなかった、そんな自分だったのだろう。
瑠璃は僕を変わったと言った。確かに変わった。あの頃の自分じゃない。
けれど、変わってない。僕は、あの頃から何一つ変わってない。君の前では、何一つ。
「瑠璃!」
出向していく船を追って啓介は駆け出した。
「瑠璃!瑠璃!……瑠璃っ!!」
船はしぶきを上げて港を離れていく。港を駆け、船と道とが袂を別った時、啓介は声を振り絞り「行くな!」と叫んだ。
ふと、船の後部のデッキに瑠璃が現れる。啓介はぐっと爪先に力を込めた。船と道とが、瑠璃と自分とがどんどん離れていく。
「瑠璃!戻って来て!瑠璃!!」
ユウに腕を掴まれ、瑠璃の視線は啓介を離れた。何か言い含められ、瑠璃はユウに肩を抱かれ船内へと踵を返す。
「瑠璃っ、瑠璃ぃっ!!」
咽喉を枯らして叫ぶと、瑠璃がもう一度啓介を振り返った。
目と目が合って、心が重なる。それは一瞬を更に砕いたような刹那のことで、けれど啓介にはそれで十分だった。
啓介は走りながらジャケットと革靴を脱ぎ捨て、海へ飛び込んだ。
……どぷん。
一瞬にして無音の世界へ誘われる。ぶくぶくと大小さまざまな泡が立ち上っては揺れる海面へ消え、啓介は水中で必死に藻掻いた。
けい。
自分の名前を呼ぶ声が確かに聞こえる。けい。もう一度呼ばれると、沈んでいくばかりの身体からふっと力が抜けた。その瞬間に海の底から風のようなものが湧き上がり、啓介を海面へと押し上げた。
「けい!……けい!……い……!」
波に喘ぎながら自分を呼んでいる声の主を探す。船の手すりから身を乗り出した瑠璃を見た次の瞬間、啓介の面は波に叩かれてしまった。四肢をばたつかせて海面から再び顔を出す。「る」声は再び波に攫われ、啓介は波間へ飲み込まれてしまった。
僕、このまま、死ぬのかな?
大きな泡をごぽんと口から吐き出すと、喉と鼻が見る間に海水で満たされてしまった。意識が繋がったり途切れたりを繰り返し、苦しさに藻掻いていた四肢が力を失くす。今更に身体が横たわるように浮き上がり、けれどしばらくすると再び底へと沈み始めた。
海面は美しかった。太陽の光がちらちらと揺らめき、魚が群れを成している影が星屑のように舞った。
どぽん。
無数の泡が海面を弾けさせる。魚たちは散り、まとまっていた太陽の光も散り散りになった。一瞬、自分を覆うように落ちた影に目が眩み、それから啓介は閉じかけていた瞳を見開いた。
人魚。啓介は、人魚を見た。
……る、
気絶しそうになっているというのに名前を呼ぼうとする啓介を、人魚は、瑠璃は困ったように笑った。
瑠璃は舞うように啓介の傍へ近づき、啓介はそれに応えるように腕を伸ばした。けれど瑠璃は頭を横に振る。微笑んでいる瑠璃を見つめ、啓介は伸ばした腕から力を抜いた。瑠璃は後方に回り啓介の顎を上向かせるように掴んだ。啓介は瑠璃に全てを委ねた。
吸い込まれるように海面が近づき、目も眩むような光が啓介の顔面に降り注いだ。
「……はっ!げほ、かはっ、はあっ、はあっ」
顎と口を覆っていた手を啓介の小脇に回し、瑠璃は船から投げ入れられたリングブイに掴まった。瑠璃の表情は見止めることが出来ない、それでも、小さな溜息のようなものが聞こえて来て、それは紛れもない瑠璃のもので、啓介は深く息をしながら眉根を寄せた。
「もう、ばっかじゃないの、はあっ、お前っ……」
「だって、瑠璃が、とられると、思って、はあ、は、絶対いやだって、はあ、思って、」
「泳げるようになったんじゃなかったの……」
「およげ、泳げる、っく、はあ、はあっ、スイミングスクールにだって通ってた、はあ、でも、海は、」
「そうだよ、海は、勝手が違うよ……」
小さなリングブイに身を寄せた二人は切れ切れに言葉を交わしながら漁港からやって来る船を見つめた。瑠璃よりも一回り身体が大きいはずの自分が彼の脇に抱えられ命を永らえている。この身体に触れている彼の温もりが何よりも嬉しくい。啓介はどこか可笑しくなって、「ふふ」と微笑んだ。そんな啓介の額を瑠璃はすかさず小突いた。
「ばか。笑うなっ。俺が行かなきゃ死んでたかもしれないのに」
「ごめん。ごめん、瑠璃」
「もう、デートも台無し。最悪……」
「僕とデートすればいい」
「……なにそれ」
「すきだよ、瑠璃。デートなら僕とすればいい。あんな男とするよりずっと楽しいデートにしてあげる」
瑠璃の手に自分の手を重ね、心のままに口にする。瑠璃は顔を顰め、肺の息を掻き集めたような溜息を波間へこぼした。
昼前、くたびれた姿でホテルに現れた啓介に紺は微笑んだ。啓介は差し出されたカードキーを見もせずにカウンターの向こうの紺に詰め寄った。
「瑠璃の居場所を教えて。どうしても伝えたいことがある」
「瑠璃は午後休。もうここにはいない」
「じゃあどこに居るの。お願い、瑠璃の居場所を教えて」
宿敵の懇願に紺は笑みを浮かべた。
「その様子じゃまた瑠璃にフラれたんだろ。もう諦めろよ」
「諦めるなんて出来ない」
髭がまばらに浮かんだ口元で、啓介ははっきりとそう言った。
「会ったらきっと後悔するぞ」
その声音は明らかに脅しの意を含んでいた。それを分かっていて、啓介はコクンと頷いた。瑠璃の前に立つ為に毒や蛇を飲まなければならないというのなら、そうするしかなかった。
もう啓介に選択肢はない。手札を持っているのは瑠璃。イニシアチブを取られた恋愛をしてこなかった啓介はやけに無防備な表情で紺の言葉の続きを待った。
「港にでも行ってみろよ。いいもん見れるぞ」
それが翻って“よくないもの”を表していることは啓介にも予感できた。
「港。分かった。ありがとう。行ってみる」
「後で泣きべそかくなよ。けど、昔のよしみだ、骨だけは拾ってやる」
紺にしては心強い言葉が啓介の背中を押す。啓介は紺に頭を下げホテルを飛び出した。
ホテルへの道中に瑠璃の姿はなかった。入れ違いだったに違いない。こんなにも近くに居るのにそんな些細なすれ違いで瑠璃に会うことが叶わなくなってしまう。心が離れれば、なおさら。
十一年前の夏の続きなんかじゃない。“僕”が望んでいるのはそんなものじゃない。過去の僕じゃない。今の僕の手を取って欲しい。
長い坂を全速力で下る。走りにくい上に靴擦れが痛み、革靴で来たことをすぐに後悔した。濃紺のセットアップはしわくちゃで、整えたはずの髪も無残にほどけている。けれどそんなことを気にしている余裕はこれっぽっちもなかった。
眼下に海が広がると白い船が入り江に入っていくのが見えた。啓介はジャケットをはためかせながら坂を駆け下りた。
過去に向き合えば全てが清算されるなんてことはなく、瑠璃の瞳に映る啓介は「思い出のままでいてほしかった」と思わせてしまった啓介のままだろう。
けれど構わなかった。この身体と心に纏わりつくもの、それをすべて含めて江永啓介だ。
いろんな人を傷つけてきた。瑠璃までも傷つけた。きっと自分は瑠璃にこっぴどくフラれるだろう。今までの清算を迫られるだろう。
……それでも構わない。瑠璃に会いたい。この気持ちを伝えたい。瑠璃が今の自分を、望まなくても。
港に入った途端、見知った後ろ姿が目に飛び込んで来て、啓介は汗を拭うことも忘れ息を吸った。
「瑠璃!」
振り返ったのは瑠璃だった。大きな瞳を二、三度瞬かせ、唇が「けい」を形取る。
啓介は足を止めた。瑠璃の隣にはロングヘアにスパイラルパーマをかけた男が寄り添っていた。瑠璃の腕は何日か前の啓介にしたように男の腕にひたりと絡んでいる。啓介は頬を震わせ瑠璃に詰め寄った。
「瑠璃、なにしてんだよ!」
瑠璃はその声にびくりと震えた。声音は啓介自身が感じているよりずっと怒気を孕んでいて、その感情は全身にまで伝播していた。
「なに?どうした?瑠璃の元カレ?」
口を開いたのは瑠璃の隣の男だった。瑠璃の名前を自分と同じように呼び捨てにするこの男。見覚えなどない。啓介は瞳を朱に染め男に向き直った。
「お前こそ誰?瑠璃の隣からどいてくれる?瑠璃は今日“僕”と過ごす予定なんだけど」
男は大きくした瞳を瞬かせ、口端を上げて瑠璃を見下ろした。
「……ってこの子は言ってるけど。瑠璃、そーなん?」
瑠璃が男と見つめ合えば啓介のこめかみに青筋が立つ。瑠璃は何も言わずに頭を横に振った。「だってさ。君の勘違いじゃないの?」サングラスを外しながらそう言った男の顔には大人の余裕が漂っていた。
「瑠璃、僕、昨日はあの場所でずっと瑠璃を、」
そこまで言って啓介は唇を噛んだ。果たされなかった約束を再現しようとしたところで、今の瑠璃に何の関係があるだろう。瑠璃が望んだことじゃない。瑠璃の許しを乞いたくて、自分が勝手にそうしただけ……。
どうしたら瑠璃がこの腕の中に戻って来てくれるのか。分からないのに啓介はぐるぐると考えた。瑠璃の腕は男の腕に絡まったまま。それを見ていると気がおかしくなりそうだった。
「けい、俺、言ったよね。もうやめて。俺たち、もうお互いのことを忘れた方がいい」
「るり」
名前を呼ぶと熱く滲んだ視界の中で瑠璃が瞳を歪ませた。重なっていた視線がいとも簡単に離れていく。
「行こう、ユウ君」
「……瑠璃!」
啓介一人を残して瑠璃とユウは船に向かった。「瑠璃!」叫んでも、瑠璃は振り向かない。小さな背中は縋るようにしてユウに身を寄せている。
僕、どこで間違ったんだろう。
九歳の啓介は大粒の涙をこぼしながら二人の背中を見つめた。
考えていた通り瑠璃はずっと自分のことを覚えていて、心は傍にあったはずなのに、抱えていた感情はまるきり別のもので。心が離れる。繋いでいたはずの心が。瑠璃が自分でない他の誰かとどこかへ行ってしまう。僕は、僕の心は、こんなにも瑠璃の傍に在るのに。
いやだ。るり。いかないで。
しゃくりあげると喉元が熱くなった。チックによく似た心地になってざわざわと不安が押し寄せる。不安の波間から絶望が忍び寄って来て、啓介の足首を掴もうとする。
るり。るり。るり……。
「僕はどうせ、過去形だよ」
二十一歳の啓介は吐き捨てるように呟き、面を上げた。幼い啓介もハッとしたように濡れた面を上げる。
瑠璃がすきになったのは九歳の自分だったのだろう。瑠璃ひとりを真っ直ぐに見つめ、決して自分からは握った手を離さなかった、そんな自分だったのだろう。
瑠璃は僕を変わったと言った。確かに変わった。あの頃の自分じゃない。
けれど、変わってない。僕は、あの頃から何一つ変わってない。君の前では、何一つ。
「瑠璃!」
出向していく船を追って啓介は駆け出した。
「瑠璃!瑠璃!……瑠璃っ!!」
船はしぶきを上げて港を離れていく。港を駆け、船と道とが袂を別った時、啓介は声を振り絞り「行くな!」と叫んだ。
ふと、船の後部のデッキに瑠璃が現れる。啓介はぐっと爪先に力を込めた。船と道とが、瑠璃と自分とがどんどん離れていく。
「瑠璃!戻って来て!瑠璃!!」
ユウに腕を掴まれ、瑠璃の視線は啓介を離れた。何か言い含められ、瑠璃はユウに肩を抱かれ船内へと踵を返す。
「瑠璃っ、瑠璃ぃっ!!」
咽喉を枯らして叫ぶと、瑠璃がもう一度啓介を振り返った。
目と目が合って、心が重なる。それは一瞬を更に砕いたような刹那のことで、けれど啓介にはそれで十分だった。
啓介は走りながらジャケットと革靴を脱ぎ捨て、海へ飛び込んだ。
……どぷん。
一瞬にして無音の世界へ誘われる。ぶくぶくと大小さまざまな泡が立ち上っては揺れる海面へ消え、啓介は水中で必死に藻掻いた。
けい。
自分の名前を呼ぶ声が確かに聞こえる。けい。もう一度呼ばれると、沈んでいくばかりの身体からふっと力が抜けた。その瞬間に海の底から風のようなものが湧き上がり、啓介を海面へと押し上げた。
「けい!……けい!……い……!」
波に喘ぎながら自分を呼んでいる声の主を探す。船の手すりから身を乗り出した瑠璃を見た次の瞬間、啓介の面は波に叩かれてしまった。四肢をばたつかせて海面から再び顔を出す。「る」声は再び波に攫われ、啓介は波間へ飲み込まれてしまった。
僕、このまま、死ぬのかな?
大きな泡をごぽんと口から吐き出すと、喉と鼻が見る間に海水で満たされてしまった。意識が繋がったり途切れたりを繰り返し、苦しさに藻掻いていた四肢が力を失くす。今更に身体が横たわるように浮き上がり、けれどしばらくすると再び底へと沈み始めた。
海面は美しかった。太陽の光がちらちらと揺らめき、魚が群れを成している影が星屑のように舞った。
どぽん。
無数の泡が海面を弾けさせる。魚たちは散り、まとまっていた太陽の光も散り散りになった。一瞬、自分を覆うように落ちた影に目が眩み、それから啓介は閉じかけていた瞳を見開いた。
人魚。啓介は、人魚を見た。
……る、
気絶しそうになっているというのに名前を呼ぼうとする啓介を、人魚は、瑠璃は困ったように笑った。
瑠璃は舞うように啓介の傍へ近づき、啓介はそれに応えるように腕を伸ばした。けれど瑠璃は頭を横に振る。微笑んでいる瑠璃を見つめ、啓介は伸ばした腕から力を抜いた。瑠璃は後方に回り啓介の顎を上向かせるように掴んだ。啓介は瑠璃に全てを委ねた。
吸い込まれるように海面が近づき、目も眩むような光が啓介の顔面に降り注いだ。
「……はっ!げほ、かはっ、はあっ、はあっ」
顎と口を覆っていた手を啓介の小脇に回し、瑠璃は船から投げ入れられたリングブイに掴まった。瑠璃の表情は見止めることが出来ない、それでも、小さな溜息のようなものが聞こえて来て、それは紛れもない瑠璃のもので、啓介は深く息をしながら眉根を寄せた。
「もう、ばっかじゃないの、はあっ、お前っ……」
「だって、瑠璃が、とられると、思って、はあ、は、絶対いやだって、はあ、思って、」
「泳げるようになったんじゃなかったの……」
「およげ、泳げる、っく、はあ、はあっ、スイミングスクールにだって通ってた、はあ、でも、海は、」
「そうだよ、海は、勝手が違うよ……」
小さなリングブイに身を寄せた二人は切れ切れに言葉を交わしながら漁港からやって来る船を見つめた。瑠璃よりも一回り身体が大きいはずの自分が彼の脇に抱えられ命を永らえている。この身体に触れている彼の温もりが何よりも嬉しくい。啓介はどこか可笑しくなって、「ふふ」と微笑んだ。そんな啓介の額を瑠璃はすかさず小突いた。
「ばか。笑うなっ。俺が行かなきゃ死んでたかもしれないのに」
「ごめん。ごめん、瑠璃」
「もう、デートも台無し。最悪……」
「僕とデートすればいい」
「……なにそれ」
「すきだよ、瑠璃。デートなら僕とすればいい。あんな男とするよりずっと楽しいデートにしてあげる」
瑠璃の手に自分の手を重ね、心のままに口にする。瑠璃は顔を顰め、肺の息を掻き集めたような溜息を波間へこぼした。
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