褐色の天使は、僕の裏切りを赦さない。

野中にんぎょ

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その裏切りは、身勝手で、切実で、真っ直ぐで

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 ほんの一瞬のキスが啓介の気力を奪い去ってしまった。
 バスローブ姿のままベッドに横になり何度目か分からない溜息を吐く。
 どんな言葉を掛ければ瑠璃を引き留めることが出来たのだろうと、記憶を引き出してはその度に啓介の脳裏で瑠璃が部屋を出て行ってしまう。きっと、どんな言葉や贈り物でも瑠璃を引き留めることは出来なかった。
 啓介は吊るしたままのスーツを引き寄せ胸に抱いた。
 肩口にこめかみを擦り付け瞼を下ろす。本当は、こうやって瑠璃を抱きしめたかった。
 これ以上先に進めば心が傷つくことは避けられない。啓介はスーツを抱いていた腕に力を込めた。瞼の裏、明るい闇の向こうには、いつだってきらきらと輝く瑠璃がいる。
「行くか」
 自分を奮い立たせるように呟き洗面台まで闊歩する。蛇口をめいいっぱいにひねり冷水を面に叩きつけ、濡れた前髪を掻き上げる。鏡の中の青年が真っ直ぐに自分を見つめ返してくるものだから、啓介は笑ってしまった。
 あのレストランに着て行ったテーラードジャケットとパンツのセットアップに身を包み髪をグリースで撫でつける。……明後日には東京に帰らなければならない。瑠璃へ募るこの想いを持ち帰ることは出来そうになかった。
 蒸し暑い曇り空の下、啓介は黒の革靴で坂を登っていく。ヒビひとつ無いアスファルトから蜃気楼が立ち上り啓介の瞳を歪ませた。顎から額から汗が伝う。それでも啓介はジャケットを脱がなかった。
 どれだけ必死なんだよと自分に辟易してみるも、啓介には分かっている。軽井沢の女に熱を上げていた父も結局は一心不乱に縋って来る母に押し切られ夫婦を続けている。身も世もないほど足掻かなければ、欲しいものは手に入らない。啓介は母からも学んでいた。
 瑠璃の祖父のブドウ畑に立ち入ると、青い海と灰色の空の間から強い風が吹き抜けた。撫でつけていた髪が緩み、額に何筋か落ちて来る。啓介はおばけトンネルがあった場所を目指し足を進めた。
 ……パタ、パタタタ、タタッ、……サー……、
 頬に雫が触れたかと思うと、それは見る間に雨に変わった。
 眼下に広がる海を見下ろし、啓介は足を止めた。波音に耳をすませ、風に身体を預け、瞼を下ろす。激しさを増した雨が叩きつけるように海へ大地へ降り注いだ。
 ――けい、どれ食べる?俺が取ってあげる!
 九歳の啓介が東京に帰る前日の晩、互いの両親が二人に気を利かせてバーベキューを催してくれた。バーベキューをして、花火をして、アイスを食べて、輝かしい夏の最後の頁を惜しむかのように笑い合う。
 日中は気丈にしていた瑠璃も夜が更けるにつれて表情を曇らせる瞬間が増えていった。ふと、瑠璃が縁側を離れブドウ畑の網をくぐって行った。談笑する大人たちを横目に啓介は瑠璃の後を追った。
 灯台の明かりを頼りに畑を進み、おばけトンネルの中をそっと覗き込む。
 瑠璃は泣いていた。
 背中を丸めて、膝を抱えて、くすんくすん、と、女の子みたいに泣いていた。
 昼間は男の子らしくやんちゃに暴れ回っている瑠璃がそうしているのを見ると、啓介の胸がぎゅっとなった。瑠璃がかわいそうで、可愛くて、胸が掻きむしられた。
 ――瑠璃。
 呼ぶと瑠璃はハッとこちらを振り返って涙を拭った。けれど、大粒のそれはしとしとと頬を伝い、瑠璃の凛々しい顔を見る間にぐちゃぐちゃにしてしまう。
 ――けい。
 啓介は許しを得たように瑠璃の元へ駆け寄った「けい」。もう一度名前を呼ばれて、啓介は瑠璃を掻き抱いた。瑠璃もそれに応じて啓介の背に腕を回した。
 ――けい、いかないで。どこにも、いかないで……。
 啓介の頬を濡らした瑠璃の涙は熱かった。自分より逞しいと思っていた瑠璃の身体は抱きしめるとか細くて、啓介の身体をむず痒い熱が駆け巡った。
 ――僕、またこの島に帰って来る。約束する。
 ――本当に?いつ帰って来る?
 ――分からない、分からないけど、必ず帰って来るから。だから、泣かないで。
 曖昧な、けれど真摯な言葉に瑠璃は微笑んだ。やっぱり瑠璃はきれいだ。啓介はそう思った。
 瑠璃はこの島みたい。
 艶のある葉をつけた木々、広くて青い海、爽やかで柔らかい風、温かくて芳しい雨、でこぼこして力強い大地、のびやかに囀る鳥、甘いブドウ……。
 瑠璃はきれいだ。この世の何よりも。変わって欲しくない。この島がどれだけ変わっても、瑠璃には――。
 ――ありがと、けい、なんか元気出た。
 瑠璃は啓介の小さな胸の中で涙を拭い笑って見せた。赤い目元が月影を受けてきらきらと輝いていた。
 ――明日、船が出る前にもう一度だけ、けいに会いたい。
 小さな願いに啓介は深く頷いた。瑠璃はくすぐったそうにはにかみ啓介の両手を握った。
 ――けい。オレ、おばけトンネルで待ってるから。ずーっとずっと、待ってるから。
 その約束は、果たされるべきものだったのだと思う。少なくともその時の啓介は約束を守ろうと思っていたし、何よりこれが最後だなんて思いたくなかった。
 その晩、啓介の父と母は何日かぶりに言い争った。
 二人とも我を忘れて声を荒げている。布団の中で耳を塞いだけれど、啓介の耳には一言一句はっきりと聞こえた。
 日中はずっと瑠璃の傍を離れない啓介には知る由もないこと。軽井沢の女がこの家に押しかけて来たのだという。彼女はこう言ったらしい。「江永さんは貴女と別れるつもりでいるんです。妻も子どもも捨てて私と暮らすって言ってくれたんです」。啓介は唇を噛みしめた。
 瑠璃。
 啓介は瞼の裏の瑠璃を見つめて涙をこぼした。
 パパもママもいらない。僕には瑠璃だけでいい。でも夜が明けたらこの島を出なきゃならない。いま愛を誓ってもいつか心が離れてしまうのなら、どうすればいいの。瑠璃はどうしたら僕を覚えていてくれるの。
 ――瑠璃君にちゃんとさよならできた?
 大きな白い船の上、母に尋ねられ啓介は頭を横に振った。
 ――いいの?瑠璃君にもう会えなくなっちゃうんだよ?
 母は戸惑い、港に瑠璃の姿を探してくれた。
 瑠璃がこんなところに居るはずがない。
 啓介は静かに笑みをこぼし、母を置いて船の後部へと回った。そこからはあのブドウ畑と古民家が見えた。瑠璃はあそこでいつまでも僕を待っている。そう思うといくらか心が軽くなった。
 ――瑠璃。
 きっとこの声は聞こえない。瑠璃には大人になるまで会えないだろう。でも構わない。大人の僕が瑠璃を迎えに行けばいいだけなのだから。……そうだ。大人になったら瑠璃を島から連れ出して、誰も二人を知らない場所で二人きりで暮らそう。降って湧いたその思い付きはいつか自分を待っている輝かしい未来のように思えた。
 ――瑠璃、大すきだよ。
 この声が潮風にさらわれて瑠璃の心まで届きますように。啓介はいつまでも、船の後部からあのブドウ畑を見つめ続けた。
「……瑠璃」
 雨が止み空が晴れても、海に夕日が沈んでも、空に星がきらめき始めても、瑠璃は啓介の前に現れなかった。
 啓介は膝を抱え夜の海を眺めた。
 波音が静寂を和らげる。この島で過ごしていたあの頃、幼い啓介は波音を聞きながら眠りについていた。優しい子守歌に包まれたような心地になり、啓介は再び膝に額を擦り付け瞼を下ろした。
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