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泡の向こうに消えた、僕の人魚姫
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「来てくれて嬉しい」
扉を開けた先に瑠璃が居ることがこんなにも嬉しい。「入って。ルームサービスでも頼もうよ」腰に手を添え緊張しきった横顔の瑠璃を部屋へ招こうとする。が、瑠璃は扉の傍に立ったまま動こうとしない。
「俺、ここでいい。今日ここに来たのは、けいに伝えたいことがあって……、ただそれだけだから」
「伝えたいこと?……じゃあ扉は閉めとこうか」
閉まっていく扉を振り返り瑠璃は唇を震わせた。
「ワインは飲める?外は暑いから喉乾いただろ。ペリエもあるよ」
「けい、」
「おしゃべりするなら飲み物がないと。瑠璃、ここに座って」
グラスにペリエを注ぎテーブルに置く。椅子を引いても瑠璃は立ったままだった。
「俺、本当は、けいがすきなのか嫌いなのか、分からないんだ」
震えた声はその言葉の真摯さを物語っている。啓介は微笑み「嫌い?どうして?」と続きを促した。
「本当は、本当は俺、おばけトンネルに来なかったお前を、ずっと憎く思ってた。ずっと一緒だって、離れても友達だって、お前はそう言ったのに、来てくれなくて」
瑠璃は絞り出すように、けれど一旦口に出せば連なる気持ちを吐き出さずにはいられないとばかりに口走った。視線は啓介を捉えず俯いたままで、彼がこの告白に罪悪感を抱えていることを表していた。
「お前のお父さんが関わった仕事でじいちゃんのブドウ畑もあんな風になっちゃって。じいちゃん、畑が小さくなってからすぐにボケちゃって、死んじゃって、」
父の仕事は九歳の啓介には何の関係もない。そんなことはきっと瑠璃も分かっている。けれど、繋げずにはいられない、恨まずにはいられない。自分が破った約束はそれほどの傷を瑠璃の心に残してしまった。
胸が震えた。純粋な瑠璃にこんな思いを抱えさせていたなんて。切なくて、悲しくて、嬉しくて、たまらない。
「だから、本当は俺、お前がずっと、憎かった。何年経ってもこの島に帰って来ないお前が、ずっとずっと憎かった!」
うち震えた声に共鳴するかのように瞳に光が滲み、こぼれる。いつも笑顔の瑠璃が眉根を寄せて涙をこぼしている様は啓介の心を揺さぶった。瑠璃の言葉は本物だ。だからこそ、どんな感情をぶつけられても啓介にはその全てがきらめいて見えた。
「思い出のままにして欲しかった。なんで今更ここに帰って来たの?俺の記憶の中で子どものままでいてくれたらよかったのに、なんで」
思い出のままで……。そう言われると、嫌い、憎い、と言われるよりずっと堪えた。彼の横顔に走っていた影の正体に気が付き啓介は自嘲気味な笑みをこぼした。十一年前、啓介がこの島を離れた瞬間から、瑠璃の心は啓介の心とは全く別のベクトルを描いていたのだ。
「俺、ずっと、けいをそんな風に思ってたのに、会うと、嬉しくて。けいを見た瞬間に、あの夏に戻ったような気持ちになって、嬉しくて、楽しくて……」
「……俺も瑠璃に会えて嬉しかった」
「そうじゃない!けいの思うような気持ちじゃない!俺は、本当に心から嬉しくて、お前に感じてた憎しみも一瞬で消えて、昔に戻ったみたいで、もしかしたらまた普通の友達みたいに仲良くできるんじゃないかって、」
瑠璃は言葉の続きを飲み込むように瞼を下ろした。
「そう思ったのに、だめだった」
だめなことなんかあるものか、俺達は何度だってあの夏の日の続きを紡ぐことが出来るんだ。だからこっちを向いて。「けい」って呼んで。笑って。俺の、僕の手を引いて。
「けいの傍に居ると、憎い気持ちも、すきな気持ちも、一緒に大きくなる」
「瑠璃」
「どっちの気持ちも忘れられない。こんなの普通じゃない。……こんなんじゃ、俺、だめになる」
「待って、瑠璃」
踵を返そうとする瑠璃の手を取り扉へ縫い付ける。鳶色の瞳から一筋の涙が伝って、その様が呆れるほど綺麗で、啓介はぎくりと肩を揺らした。
「どうして約束を破ったの?」
呟き、瑠璃は眉を歪めて笑った。
「お前の言う通りだよ。俺、おばけトンネルでお前を待ってた。ずっとずっと、待ってた。絶対にけいは来てくれるって、信じてた。だって、お前が、ずっと一緒だって言ってくれたから。俺もそうなれたらいいのにって、思ってたから……」
父は結局、軽井沢の女と縁を切った。……そして文句を言いながらも未だに母と夫婦を続けている。ずっと一緒だと、離れても心は繋がっていると言っていたのに、軽井沢の彼女に囁いた言葉は確かに熱を持っていたのに、真実にはなり得なかった。
「でも、けいは来なかった」
「……」
「俺のことなんか、手に入れたってすぐに飽きるよ。東京に帰ったら思い出すことも出来なくなる。……十一年前みたいに」
温くなったグラスに口をつける者はいない。啓介はたまらなくなり吊るされたままになっていた新品のスーツを瑠璃の眼前に差し出した。
「俺を遊びに連れて行ってくれただろ?このスーツはそのお礼。……こんなもの、ひと夏の恋の相手にわざわざ贈ったりしない。瑠璃は俺の特別だ。俺は長い間ここに来なかったかもしれないけど、心はこの島から離れてなかった」
瑠璃は啓介の言葉を笑った。どんなに綺麗な言葉を口にしても、行動が伴っていなければ、それはただの飾りに過ぎない。
けれど、啓介にとってはそれが真実だった。
長い間、ずっと心に何かが引っかかっていて。それが瑠璃だったのだと、やっと気が付いたのに。やっと、出会えたのに。自分の言葉が通じない。声が、心が、届かない。
「俺、けいを忘れる」
「……瑠璃!」
「だからけいも俺を忘れて」
「忘れられるはずない、俺がおばけトンネルに行かなかったのは、瑠璃が、瑠璃のことが、」
「そんなこと言って、ここに来るまでは俺を忘れてたんだろ?……手に入らないから欲しくなっちゃうだけだよ。ただそれだけ。けいは俺のことなんかすきじゃない」
啓介は言葉を失った。瑠璃が本気でそう言っているのだと、はっきりと分かった。
動揺している啓介の頬に瑠璃の手が触れる。指先はひたりと冷たくて、なのに眼差しは際限なく感情を膨らませている。
「けい」
嫌いだと、憎いと言っていたのに、この名前を呼ぶ声は柔らかい。
ああ、俺、怖かった。本当は、瑠璃に忘れられているのかもしれないと、そう思っていて、ずっと踏み出せなくて、他の物を掻き集めてその穴を埋めようとして。
幸せな記憶はすぐに忘れる。でも、傷ついた記憶は一生心に残る。俺を覚えていてほしくてわざとおばけトンネルに行かなかったのに。行かなかった俺の方が傷ついて、十一年経っても脳裏に何度も瑠璃の笑顔が浮かんで。
忘れたことなんてなかったよ。何度だって瑠璃を思い出したよ。自分だけの宝石にしたくて誰にも言ったことはなかったけれど、本当なんだ。
「さよなら、けい」
重なった唇は、かさついていた。
女からするような華やかな香りも、絹のような肌もない。
なのに、胸に焼き付く。心の柔い部分を狙い定めたように刺し抜かれる。
瑠璃だから。瑠璃だけが。痛みに麻痺したこの心にいとも簡単に触れてしまう。
「瑠璃、待って、」
握っていたはずの手首がするりと離れ、彼の後ろ手が扉を開けた。
「待って、俺、まだ、瑠璃に言いたかったこと、全部言えてない。……明日、あのブドウ畑で、おばけトンネルのあった場所で会おう。今度は俺が待つよ。何度だって、いつまでだって、お前を待つよ、だから……!」
その呼び掛けに瑠璃は応えなかった。グラスの中の泡の向こうに、瑠璃は消えた。
扉を開けた先に瑠璃が居ることがこんなにも嬉しい。「入って。ルームサービスでも頼もうよ」腰に手を添え緊張しきった横顔の瑠璃を部屋へ招こうとする。が、瑠璃は扉の傍に立ったまま動こうとしない。
「俺、ここでいい。今日ここに来たのは、けいに伝えたいことがあって……、ただそれだけだから」
「伝えたいこと?……じゃあ扉は閉めとこうか」
閉まっていく扉を振り返り瑠璃は唇を震わせた。
「ワインは飲める?外は暑いから喉乾いただろ。ペリエもあるよ」
「けい、」
「おしゃべりするなら飲み物がないと。瑠璃、ここに座って」
グラスにペリエを注ぎテーブルに置く。椅子を引いても瑠璃は立ったままだった。
「俺、本当は、けいがすきなのか嫌いなのか、分からないんだ」
震えた声はその言葉の真摯さを物語っている。啓介は微笑み「嫌い?どうして?」と続きを促した。
「本当は、本当は俺、おばけトンネルに来なかったお前を、ずっと憎く思ってた。ずっと一緒だって、離れても友達だって、お前はそう言ったのに、来てくれなくて」
瑠璃は絞り出すように、けれど一旦口に出せば連なる気持ちを吐き出さずにはいられないとばかりに口走った。視線は啓介を捉えず俯いたままで、彼がこの告白に罪悪感を抱えていることを表していた。
「お前のお父さんが関わった仕事でじいちゃんのブドウ畑もあんな風になっちゃって。じいちゃん、畑が小さくなってからすぐにボケちゃって、死んじゃって、」
父の仕事は九歳の啓介には何の関係もない。そんなことはきっと瑠璃も分かっている。けれど、繋げずにはいられない、恨まずにはいられない。自分が破った約束はそれほどの傷を瑠璃の心に残してしまった。
胸が震えた。純粋な瑠璃にこんな思いを抱えさせていたなんて。切なくて、悲しくて、嬉しくて、たまらない。
「だから、本当は俺、お前がずっと、憎かった。何年経ってもこの島に帰って来ないお前が、ずっとずっと憎かった!」
うち震えた声に共鳴するかのように瞳に光が滲み、こぼれる。いつも笑顔の瑠璃が眉根を寄せて涙をこぼしている様は啓介の心を揺さぶった。瑠璃の言葉は本物だ。だからこそ、どんな感情をぶつけられても啓介にはその全てがきらめいて見えた。
「思い出のままにして欲しかった。なんで今更ここに帰って来たの?俺の記憶の中で子どものままでいてくれたらよかったのに、なんで」
思い出のままで……。そう言われると、嫌い、憎い、と言われるよりずっと堪えた。彼の横顔に走っていた影の正体に気が付き啓介は自嘲気味な笑みをこぼした。十一年前、啓介がこの島を離れた瞬間から、瑠璃の心は啓介の心とは全く別のベクトルを描いていたのだ。
「俺、ずっと、けいをそんな風に思ってたのに、会うと、嬉しくて。けいを見た瞬間に、あの夏に戻ったような気持ちになって、嬉しくて、楽しくて……」
「……俺も瑠璃に会えて嬉しかった」
「そうじゃない!けいの思うような気持ちじゃない!俺は、本当に心から嬉しくて、お前に感じてた憎しみも一瞬で消えて、昔に戻ったみたいで、もしかしたらまた普通の友達みたいに仲良くできるんじゃないかって、」
瑠璃は言葉の続きを飲み込むように瞼を下ろした。
「そう思ったのに、だめだった」
だめなことなんかあるものか、俺達は何度だってあの夏の日の続きを紡ぐことが出来るんだ。だからこっちを向いて。「けい」って呼んで。笑って。俺の、僕の手を引いて。
「けいの傍に居ると、憎い気持ちも、すきな気持ちも、一緒に大きくなる」
「瑠璃」
「どっちの気持ちも忘れられない。こんなの普通じゃない。……こんなんじゃ、俺、だめになる」
「待って、瑠璃」
踵を返そうとする瑠璃の手を取り扉へ縫い付ける。鳶色の瞳から一筋の涙が伝って、その様が呆れるほど綺麗で、啓介はぎくりと肩を揺らした。
「どうして約束を破ったの?」
呟き、瑠璃は眉を歪めて笑った。
「お前の言う通りだよ。俺、おばけトンネルでお前を待ってた。ずっとずっと、待ってた。絶対にけいは来てくれるって、信じてた。だって、お前が、ずっと一緒だって言ってくれたから。俺もそうなれたらいいのにって、思ってたから……」
父は結局、軽井沢の女と縁を切った。……そして文句を言いながらも未だに母と夫婦を続けている。ずっと一緒だと、離れても心は繋がっていると言っていたのに、軽井沢の彼女に囁いた言葉は確かに熱を持っていたのに、真実にはなり得なかった。
「でも、けいは来なかった」
「……」
「俺のことなんか、手に入れたってすぐに飽きるよ。東京に帰ったら思い出すことも出来なくなる。……十一年前みたいに」
温くなったグラスに口をつける者はいない。啓介はたまらなくなり吊るされたままになっていた新品のスーツを瑠璃の眼前に差し出した。
「俺を遊びに連れて行ってくれただろ?このスーツはそのお礼。……こんなもの、ひと夏の恋の相手にわざわざ贈ったりしない。瑠璃は俺の特別だ。俺は長い間ここに来なかったかもしれないけど、心はこの島から離れてなかった」
瑠璃は啓介の言葉を笑った。どんなに綺麗な言葉を口にしても、行動が伴っていなければ、それはただの飾りに過ぎない。
けれど、啓介にとってはそれが真実だった。
長い間、ずっと心に何かが引っかかっていて。それが瑠璃だったのだと、やっと気が付いたのに。やっと、出会えたのに。自分の言葉が通じない。声が、心が、届かない。
「俺、けいを忘れる」
「……瑠璃!」
「だからけいも俺を忘れて」
「忘れられるはずない、俺がおばけトンネルに行かなかったのは、瑠璃が、瑠璃のことが、」
「そんなこと言って、ここに来るまでは俺を忘れてたんだろ?……手に入らないから欲しくなっちゃうだけだよ。ただそれだけ。けいは俺のことなんかすきじゃない」
啓介は言葉を失った。瑠璃が本気でそう言っているのだと、はっきりと分かった。
動揺している啓介の頬に瑠璃の手が触れる。指先はひたりと冷たくて、なのに眼差しは際限なく感情を膨らませている。
「けい」
嫌いだと、憎いと言っていたのに、この名前を呼ぶ声は柔らかい。
ああ、俺、怖かった。本当は、瑠璃に忘れられているのかもしれないと、そう思っていて、ずっと踏み出せなくて、他の物を掻き集めてその穴を埋めようとして。
幸せな記憶はすぐに忘れる。でも、傷ついた記憶は一生心に残る。俺を覚えていてほしくてわざとおばけトンネルに行かなかったのに。行かなかった俺の方が傷ついて、十一年経っても脳裏に何度も瑠璃の笑顔が浮かんで。
忘れたことなんてなかったよ。何度だって瑠璃を思い出したよ。自分だけの宝石にしたくて誰にも言ったことはなかったけれど、本当なんだ。
「さよなら、けい」
重なった唇は、かさついていた。
女からするような華やかな香りも、絹のような肌もない。
なのに、胸に焼き付く。心の柔い部分を狙い定めたように刺し抜かれる。
瑠璃だから。瑠璃だけが。痛みに麻痺したこの心にいとも簡単に触れてしまう。
「瑠璃、待って、」
握っていたはずの手首がするりと離れ、彼の後ろ手が扉を開けた。
「待って、俺、まだ、瑠璃に言いたかったこと、全部言えてない。……明日、あのブドウ畑で、おばけトンネルのあった場所で会おう。今度は俺が待つよ。何度だって、いつまでだって、お前を待つよ、だから……!」
その呼び掛けに瑠璃は応えなかった。グラスの中の泡の向こうに、瑠璃は消えた。
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