褐色の天使は、僕の裏切りを赦さない。

野中にんぎょ

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牽制と本音のシーソーゲーム

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 ブドウ畑を出て、瑠璃の行きつけだという居酒屋で酒まで飲んで、ホテルまで送ってもらって。思い出話もたくさんして、瑠璃は笑顔で、なのに心が晴れない。啓介は黙り込んだまま一頁も進まない文庫本を手にベッドで横になっていた。
 瑠璃に会いたい。なのに、それと同じくらい、怖い。瑠璃の気持ちが分からない。
 偶然に出会えば一日中一緒に居られて、瑠璃も楽しそうで、なのに連絡先はいつまで経っても教えてくれない。いつも笑顔でいるのに、ふとした時、横顔に影が差す。あの日、ブドウ畑に連れて行かれた本意も分からない。瑠璃は俺のことをどう思っているのだろう。
「江永様。お品物をお持ちしました」
 内線が鳴り扉を開ければ綺麗な接客スマイルを浮かべた紺が立っていた。
「こんちゃん。チーフコンシェルジュって暇なの?」
「おうおう、言うじゃないの。仕方ねーだろ、コンシェルジュなんてもんは言わば何でも屋さんみたいなもんだからな。なんでもやらなきゃな、なんでも」
 渡されたスーツを受け取った啓介は「サイズはこれでぴったり?」とカバーをはぐり中身を確認した。
「んなの分かるかよ。兄だからって弟のサイズが分かるわけじゃねーんだよ。……ていうかさ、俺、言ったよな?」
 瑠璃のサイズのスーツを、と紺に注文をつけたのは啓介だ。紺の目の色が変わったのを見て啓介は確信した。瑠璃から紺の話題が出ないのは、兄弟が互いに啓介の話題を避けているからだ。兄弟間で腫れもののように扱われてしまう“けい”を思い啓介は苦笑した。「会えたらいいね」というのは紺の精一杯の社交辞令だったに違いない。
「これは遊んでもらったお礼に渡したいだけ。瑠璃、レストランに行けるような服がないって言ってたから。スーツだったら別の機会にも使えるかなって」
「礼でこんな何万もするスーツを?あいつはアホだけど流石に気が引けるだろうからやめてほしい」
「やめてほしい?何を?」
 紺は瞳に影を走らせた。ああ、またこれだ。紺と瑠璃はよく似ている。
「もう瑠璃に構うのはよせ。お前には多数の中の一人でも、あいつにとっては違うんだ。島を出て暮らしたことも、女と付き合ったこともないんだよ。からかわないでやってくれ」
「俺にとっても瑠璃はたった一人だよ」
 思ったことをそのまま口に出すと、紺は乾いた笑みをこぼした。
「なにが、たった一人、だよ。どーせあっちで女食い荒らしてんだろ。ひと夏のおもちゃにするには瑠璃じゃ役不足なんじゃないの?」
「食い荒らしてなんかない。瑠璃をそんな風に扱う気もない。なんでそんなことこんちゃんに言われなくちゃなんないの?」
「夏になるとお前みたいのが島に増えるんだよ。フロントの女の子の涙が夏の風物詩になっちゃってるからね。チーフの俺がお前を対応してんのはそういうこと。……瑠璃はアホだけど、さすがにそういうのの餌食になってんのは兄貴として見過ごせねーよ」
 身も蓋もない言われように啓介は苦虫を噛み、それでも紺から視線を逸らさなかった。
「瑠璃は違う。他の誰とも違う。瑠璃は、俺の特別だ」
 穏やかで朗らかな瑠璃。優しい瑠璃。清らかな瑠璃。可愛い瑠璃。俺の瑠璃……。瑠璃は特別。瑠璃はたった一人。瑠璃はかけがえのない、俺の――。
 啓介の胸の内を見透かし、紺は溜息を吐いた。
「お前、昔と全然変わってねーのな。お前が瑠璃のこと考え始めたらすぐに分かるよ。だってすっげー目になってるもん。……自分では気づいてないの?」
 啓介は片頬で笑った。そんなこと、知るはずがない。
「こんちゃん、スーツありがとう。また必要になったら呼ぶね」
 啓介はそう言って紺を部屋から追い出した。
 敏腕ディベロッパーとして日本を、時に世界を駆け回った父。啓介の育児に悩み過干渉気味だった母。繊細な啓介はアンバランスな両親の間で揺れていた。
 五歳になってから突然に始まったチック。初等部受験を控えており狼狽した母は何人もの医者に啓介を診せ、そのたびに同じような言葉を返された。「まずはお母さんがリラックスして」。母はこの言葉にひどく思い悩んだ。
 丁度その頃、父の浮気が発覚した。軽井沢で父と関わったという女性から自宅に無言電話がかかるようになった。
 母は輪をかけて不安定になった。何かにつけ父を詰るくせに、父の長期出張には必ず啓介と共に着いて行くようになった。環境の変化が苦手な啓介はただただ辛かった。……そんなことを何度繰り返しただろう。この三ツ島で出会ったのが、瑠璃だった。
 ――あれ?けい、どーしたの?
 チックの出た啓介を、瑠璃は首を傾げて覗き込んだ。啓介は恥ずかしかった。瑠璃にヘンだと思われたくない。その一心でチックを止めようとするも、余計に身体が強張ってしまう。
 ――だいじょうぶだよ。
 そんな啓介の背を、瑠璃は撫でた。
 ――オレもねー、二年生になるまでは、さしすせそ、が言えなかったんだよ。
 その言葉が、どれだけ啓介を救ったか。背を撫でてくれた手が、どれだけ啓介を慰めたか。
 瑠璃はずっと特別だった。胸の宝箱の奥できらきらと輝いている、啓介だけの宝石だった。
「瑠璃」
 どこで作業しているのかなど、今では手に取るように分かる。穏やかに声を掛ければ瑠璃は周囲に目を配り控えめに笑った。
「渡したいものがあるんだ。俺の部屋、分かる?そこで夕食でもどう?俺しかいないからどんな格好でも大丈夫だよ」
 言い含めるように囁けば、瑠璃は視線を伏せた。
「ごめん、そういうお誘いは、ここでは断ることになってて。埋め合わせはまた今度……」
「今度って、いつ?俺、もう東京に帰らなくちゃならない。今度はないよ。今しかない」
 瑠璃はハッと面を上げた。
 瑠璃は素直だ。感情がすぐに面に出る。啓介は瑠璃を愛おしく感じて笑みを深めた。
「部屋で待ってる。瑠璃が来てくれるまで待ってる。瑠璃をおばけトンネルで待ちぼうけさせた分、俺も待つよ」
「言っただろ、俺、おばけトンネルには行ってないんだ。だから、」
「嘘だ」
 断言され、瑠璃は頬を赤くした。「本当はおばけトンネルで俺をずっと待ってたんだろ?」耳元で囁くと、瑠璃は啓介を押し返した。
「待ってない、何言ってんだよ、見てもないくせに、」
「見てなくても分かる。瑠璃は俺をずっと待ってくれてた」
「だったら……!」
 だったらなんで、来てくれなかったの。
 そう続くのであろう言葉が、彼らしくもなくささくれた声が、啓介は嬉しかった。
 父も母も、大学のヤツらも傍に寄って来る女も、自分なんか見ていない。江永啓介という人間を見つめてくれるのは、その中身に真っ直ぐ向き合ってくれるのは、純粋な感情をぶつけてくれるのは、瑠璃ただ一人。
「やっぱり。待っててくれたんだ。……嬉しい。本当に嬉しい」
「けい、やめて、俺、」
「こんちゃんから俺に関わるなって言われてたんだろ」
 瑠璃は取り繕うこともせずただ恥じ入るようにして眉を歪めた。
「瑠璃にとってこんちゃんの言いつけは絶対だったよな。でも、瑠璃はそれを破ってまで俺と会ってくれてた」
 黙り込んでしまった瑠璃の肩をそっと撫でる。「きっと来て。ずっと待ってる」囁けば、瑠璃はふるりと震え、身を翻して裏庭へと駆けて行った。
 おばけトンネルは、瑠璃の祖父が可愛い孫の為にこしらえた緑のトンネルだった。ブドウ畑の敷地内、海が一望できる場所に低めのパーゴラを立て、そこにブドウの蔓を絡ませた手作りのトンネル。啓介にはそのトンネルが愛そのものに見えた。
 ――ほら、けいもおいでよ。ここから海が見えるんだよ!
 瑠璃は額に触れるブドウの葉を避けながら声を弾ませた。海に夕日が蕩けて、一面オレンジ色に染まっている。
 ――きれいだろ!オレ、ここからの景色が一番すきなんだ!
 夕日に照りつけられた横顔がそんなことを言う。
 ――うん、きれいだね。
 啓介は彼が満足するようにそう答えた。けれど、本当は、どんな風景よりも、瑠璃が一番綺麗に見えた。そんな綺麗な瑠璃の傍に居ると自分までも特別な存在になれたような気がした。
 ――ねえ、瑠璃。
 啓介が瑠璃の手を握ると、瑠璃は得意げな顔で振り向いた。
 啓介が寝静まると父と母が口論を始める。二人は啓介に知られないようにそうしているらしいが、啓介は全てを知っていた。
 母を宥めすかした父は母が入浴している間に軽井沢の女へ電話を掛ける。
 ――我慢ばかりさせてすまない。どれだけ離れていても心は一つだ。これからもずっと一緒にいよう。
 啓介はひとを繋ぎ止めるための言葉を父からよく学んでいた。
 ――僕たち、離れても一緒だよ。ずーっと、一緒だよ。
 瑠璃は瞳を大きく瞬かせて、それから嬉しそうに頷いてくれた。父が電話口で言っていた言葉を真似して口に出しただけなのに、瑠璃は喜んだ。啓介はほっとした。瑠璃がやっと自分のものになったような気がしたからだ。
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