3 / 10
おばけトンネルだった場所
しおりを挟む
「あれ?けい、こんな時間からサンドイッチ食べてんの?」
啓介はパンのくずを口端につけたまま、白のTシャツと青の短パン姿の瑠璃を呆然と見つめた。二日酔いの為にホテルの朝食に間に合わず、昼を過ぎたところでようやく喫茶店のタマゴサンドにありついているところだった。
「る、瑠璃、どうしてここに」
「え?だってここ俺の行きつけだもん。昼過ぎて腹減って珈琲も飲みたかったから。あ、空いてたらここ座ってもいい?」
昨日はあんなに瑠璃がやって来るのを待っていたのに。喉元まで込み上げた恨み言を飲み下し、啓介は「どうぞ」と言って向かいの椅子を引いてやった。「あはは。すごい。外国の人みたいだな、けい」無意識で女性にするようにしてしまい、啓介は咳払いしながら席へ戻った。
「ここのタマゴサンド美味しいよな。ルームサービスにもレストランの食事にも飽きたってお客さんによく教えてあげるんだ。俺は照り焼きチキンサンドにしようかな」
慣れた様子で注文しマスターと世間話までしている瑠璃。啓介はタマゴサンドを咀嚼しながらそんな瑠璃を盗み見た。レストランに誘ったことはなかったことになっているんだろうか。それとも、聞こえていなかったとか……?
「あ、のさ。瑠璃、昨日のことなんだけど……」
瑠璃の前に照り焼きチキンサンドとブレンドコーヒーが並んだところで単刀直入に切り出せば、瑠璃は眉根を寄せてかっくりと頭を下げた。「昨日はごめん」再び上がった瑠璃の頬は赤みを帯び、上目遣いの瞳は潤んでいた。
「『ビオラ』ってここら辺で一番高級なレストランで、俺なんかランチにも行ったことないよ。俺、あんまりお金も持ってないし、そんなところに着てくような服もないし。……もしかして待ちぼうけさせちゃった?」
待った。二時間は待った。……そう即答してもよかったけれど、瑠璃があまりにばつ悪そうにしているので、感じていたモヤモヤもどこかへ消えてしまった。
「じゃあさ……、次、こうならないように、連絡先交換しとかない?」
このタイミングならいけるかもしれない。すでに瑠璃の連絡先を手にしているかのような気になって提案したけれど、瑠璃は「スマホ、家に置いてきちゃった……」と消え入りそうな声で断った。さすがの啓介も急降下する機嫌を顔に出してしまう。
「やだ。怒らないで」
瑠璃の手が啓介の手に触れる。「怒ってないよ」言っても、眉間の皺は隠せない。なんで連絡先教えてくんないの。プライドが邪魔してその一言が口に出せない。むっつりと黙り込んでしまった啓介の頬に、瑠璃の人差し指がつんと触れた。
「そんなに俺とご飯食べたかったの?可愛いヤツ」
「うるさい。もう、マジでなんなのお前」
思わず素が出てしまい、啓介はそれを誤魔化すようにがしがしと頭を掻いた。瑠璃は啓介の頬を突いていた手を膝に戻して「ごめんね」と、まるで子どもを宥めるかのような声音で謝った。
昨夜は向かいの席に瑠璃が座るのをずっと待っていた。店員に「一人分の料金で構いませんよ」と言われたのが悔しくて、予約した通り二人分のコースの料金を置いて帰った。これ以上なく惨めだったのに、それを上回るほどに瑠璃が恋しかった。一目でいい、瑠璃に会いたかった。
「じゃあ、今日さあ、一日中一緒にいようよ」
甘えた瑠璃の声。悔しいのに、嬉しい。どんどん膨らんでいく嬉しさに悔しさが押し負けて、啓介はとうとうコクンと頷いてしまった。「やったあ!俺もけいと遊びたいなって思ってた!」満面の笑みと素直な言葉に後押しされ、啓介の口元もみるみる緩む。
「俺のサンドイッチ分けてあげる。ほら、あーんして。あーん……」
サンドイッチを差し出すのと同時に瑠璃の唇も「あーん」の形を取る。啓介も一度は断ったけれど「あーんしてっ!」と可愛く怒られると成す術なく「あーん」してしまった。
「なあ、どこにいく?船に乗って市内にでも行く?」
腕を絡ませ小首を傾げる瑠璃。距離感がどう考えても恋人のそれで啓介は頬を掻いた。瑠璃よりも、満更でもない自分が問題だ。
「ん~……。なんか疲れたし、癒されるとこ行きたいかな……」
「癒されるとこ?レゾナンスの岩盤浴とかスパは評判良いみたいだけど」
「や、そういうのじゃなくて。この前みたいな、瑠璃が島の中で気に入ってるとこ、行きたい。そういう場所、見たりするだけでも癒されるし……」
しどろもどろになりながら伝えれば、瑠璃は微笑んだ。その笑みがハッとするほど美しくて、啓介は瑠璃を覗き込むように見つめてしまう。
瑠璃は、他の人間とは違う。
漠然と、けれどはっきりとそう思えてならなかった。家族とも、大学のヤツらとも、ステータスに群がって来る異性とも、誰とも違っている。瑠璃だけが際立って輝いている。……いつからそうだったのだろう。自分のことなのに、啓介には答えが出せなかった。
「じゃあ、俺のお気に入りの場所、連れてってあげる」
その声は、やけに静かだった。台風の中心が無風であるように、この基点を逸れれば何かが起こってしまう、そんな予兆を孕んでいた。
「どこまで登るの?」
息を弾ませながら尋ねた啓介に笑みだけを返し、瑠璃は坂を上っていく。喫茶店を出て「しばらく登りが続くよ」と言ったきり、瑠璃は口を噤んでいた。
瑠璃の背中を見つめていると、十一年前にもこんな坂を二人で登ったことを思い出した。
――ここから先は俺の陣地だ。入るなら金を出せ。
二人で遊んでいたところに現れた二歳年上のガキ大将は、浜辺の手前に立ちふさがり右手を突き出した。が、瑠璃は無視を決めて彼の傍を通り過ぎようとした。
――おい!俺の言ったことが聞こえなかったのか!?
生意気な態度の瑠璃にガキ大将は食って掛かった。が、六歳年上の紺のコミュニティに揉まれながら育った瑠璃には何の効果もない。
――お前、なに見てんだよ。なんか文句あんのか!?
瑠璃に脅しが通用しないと見るや否や、ガキ大将は標的を啓介に変えた。彼は啓介のプールバックを奪い、砂浜に叩きつけ、何度も踏みつけた。
――や、やややややややややっ、!
やめろ、と言おうとしたけれど、緊張のあまり咽喉と胸が引き付けた。この島に来てからはあまり出ていなかった、いや、出てはいたけれど瑠璃のおかげで意識せずに過ごすことが出来ていたチックが噴き出し、啓介は見る間に青ざめた。
――なんだよ、お前、きっもちわりい。どっかいけよ!
はっきりと口に出されて、啓介の胸はナイフで刺し抜かれたように虚空を抱いた。その空虚を、瑠璃が飛び蹴りで貫いた。
ガキ大将に飛び蹴りを食らわせた瑠璃は、後から現れたガキ大将の取り巻きに袋叩きにされた。都会の小学校ではまず見ない原始的な懲罰に震え上がり、啓介は瑠璃を助けることが出来なかった。
泣きじゃくる啓介と動かなくなった瑠璃を残し、ガキ大将たちは浜辺へ消えた。瑠璃はタイミングを見計らって起き上がり、啓介の涙を拭った。
――泣くな。お前は何も悪くないんだから。涙がもったいない。
啓介の手を引き、瑠璃は坂を登った。
――オレ、泣きたくなったらこうやって坂を登るんだ。自分の息と心臓の音に耳をすませてたらさ、気付いたら涙が止まってんの。本当だよ。
坂を登り切ったところで二人は何を見たのだろうか。きっと素晴らしい景色だったのだと思う。けれど啓介の脳裏にはどんなに素晴らしい景色よりも瑠璃の膝から滴った血が焼き付いている。僕が瑠璃を守らなきゃいけなかったのに。そういう後悔と一緒に、焼き付いている。
「ほら、着いたよ」
瑠璃は啓介を振り返って笑った。啓介は瞳を瞬かせ、あの時よりも狭い、けれど何よりも記憶を疼かせる光景を見渡した。
「ブドウ畑だ。すごい。ブドウってこんな真夏にもう実をつけてるんだ」
素直にそう呟けば、瑠璃は「ふ」と軽く噴き出して「たくさん食べさせてやったのに忘れちゃったの?」と穏やかな声音で啓介を詰った。
そうだ、あの夏以上にブドウを食べた季節はなかった。そこから数年は啓介にとってブドウは夏の果実だったのに……。瑠璃は啓介を置いてブドウ畑へと足を踏み入れた。
「勝手に入って大丈夫?」
もうすでに濃紺に色づいたブドウの実が清楚な白い傘をつけて生っている。振り返った瑠璃は微笑んでいた。なのに、その様はもの寂しげだった。
「ここも忘れちゃった?……ずいぶん小さくなっちゃったけど、じいちゃんのブドウ畑だよ」
啓介は辺りを見回した。あの頃に過ごした古民家は跡形もなく、記憶とはずいぶん違う印象の風景だった。幼い瑠璃に手を引かれて畑に入ると「どこまで続いているのか」と不安になるほどだったのに、今の畑には「個人の楽しみ」という印象を受けてしまう。
「ほら、隣にレゾナンスのアウトドアセンターが建ってるでしょ。それで、畑の大部分はなくなっちゃって」
高い柵の向こうにはバーベキューをしている男女や芝生を駆け回っている子どもたちが見えた。この建物を建てる為に、あのブドウ畑は――。ワイシャツを着た父の背中と、あの日の瑠璃の背中が脳裏で重なり、啓介は口元を抑えた。
「……瑠璃のじいちゃんは?元気?」
「生きてたら九十歳超えてたなあ。八年前かな。レゾナンスのホテルがオープンした次の年に死んじゃった」
おもむろにブドウの実を一つ摘み、瑠璃は啓介の傍へと歩み寄った。
「食べてみて」
ブルームを薄く纏った瑠璃色のそれを、啓介は瑠璃の指から食んだ。ぷちんと弾けた皮の奥から甘みと香りが広がって、その全てが啓介の記憶の扉を叩いた。
「瑠璃、俺、お前にずっと謝りたかった。島を出た日、約束を破って、お前をおばけトンネルに待ちぼうけさせたこと……」
瑠璃は一瞬眉根を寄せ、けれどやっぱり微笑み直して「ううん」と頭を横に振った。
「謝らなくていいよ。俺、その日は熱が出て。……おばけトンネルには、行ってないんだ。だから謝らないで。俺こそ、見送りに行けなくて、ごめんな」
ごめん、と、言いたかったのに、瑠璃はその言葉を遮るようにそう言った。
啓介はパンのくずを口端につけたまま、白のTシャツと青の短パン姿の瑠璃を呆然と見つめた。二日酔いの為にホテルの朝食に間に合わず、昼を過ぎたところでようやく喫茶店のタマゴサンドにありついているところだった。
「る、瑠璃、どうしてここに」
「え?だってここ俺の行きつけだもん。昼過ぎて腹減って珈琲も飲みたかったから。あ、空いてたらここ座ってもいい?」
昨日はあんなに瑠璃がやって来るのを待っていたのに。喉元まで込み上げた恨み言を飲み下し、啓介は「どうぞ」と言って向かいの椅子を引いてやった。「あはは。すごい。外国の人みたいだな、けい」無意識で女性にするようにしてしまい、啓介は咳払いしながら席へ戻った。
「ここのタマゴサンド美味しいよな。ルームサービスにもレストランの食事にも飽きたってお客さんによく教えてあげるんだ。俺は照り焼きチキンサンドにしようかな」
慣れた様子で注文しマスターと世間話までしている瑠璃。啓介はタマゴサンドを咀嚼しながらそんな瑠璃を盗み見た。レストランに誘ったことはなかったことになっているんだろうか。それとも、聞こえていなかったとか……?
「あ、のさ。瑠璃、昨日のことなんだけど……」
瑠璃の前に照り焼きチキンサンドとブレンドコーヒーが並んだところで単刀直入に切り出せば、瑠璃は眉根を寄せてかっくりと頭を下げた。「昨日はごめん」再び上がった瑠璃の頬は赤みを帯び、上目遣いの瞳は潤んでいた。
「『ビオラ』ってここら辺で一番高級なレストランで、俺なんかランチにも行ったことないよ。俺、あんまりお金も持ってないし、そんなところに着てくような服もないし。……もしかして待ちぼうけさせちゃった?」
待った。二時間は待った。……そう即答してもよかったけれど、瑠璃があまりにばつ悪そうにしているので、感じていたモヤモヤもどこかへ消えてしまった。
「じゃあさ……、次、こうならないように、連絡先交換しとかない?」
このタイミングならいけるかもしれない。すでに瑠璃の連絡先を手にしているかのような気になって提案したけれど、瑠璃は「スマホ、家に置いてきちゃった……」と消え入りそうな声で断った。さすがの啓介も急降下する機嫌を顔に出してしまう。
「やだ。怒らないで」
瑠璃の手が啓介の手に触れる。「怒ってないよ」言っても、眉間の皺は隠せない。なんで連絡先教えてくんないの。プライドが邪魔してその一言が口に出せない。むっつりと黙り込んでしまった啓介の頬に、瑠璃の人差し指がつんと触れた。
「そんなに俺とご飯食べたかったの?可愛いヤツ」
「うるさい。もう、マジでなんなのお前」
思わず素が出てしまい、啓介はそれを誤魔化すようにがしがしと頭を掻いた。瑠璃は啓介の頬を突いていた手を膝に戻して「ごめんね」と、まるで子どもを宥めるかのような声音で謝った。
昨夜は向かいの席に瑠璃が座るのをずっと待っていた。店員に「一人分の料金で構いませんよ」と言われたのが悔しくて、予約した通り二人分のコースの料金を置いて帰った。これ以上なく惨めだったのに、それを上回るほどに瑠璃が恋しかった。一目でいい、瑠璃に会いたかった。
「じゃあ、今日さあ、一日中一緒にいようよ」
甘えた瑠璃の声。悔しいのに、嬉しい。どんどん膨らんでいく嬉しさに悔しさが押し負けて、啓介はとうとうコクンと頷いてしまった。「やったあ!俺もけいと遊びたいなって思ってた!」満面の笑みと素直な言葉に後押しされ、啓介の口元もみるみる緩む。
「俺のサンドイッチ分けてあげる。ほら、あーんして。あーん……」
サンドイッチを差し出すのと同時に瑠璃の唇も「あーん」の形を取る。啓介も一度は断ったけれど「あーんしてっ!」と可愛く怒られると成す術なく「あーん」してしまった。
「なあ、どこにいく?船に乗って市内にでも行く?」
腕を絡ませ小首を傾げる瑠璃。距離感がどう考えても恋人のそれで啓介は頬を掻いた。瑠璃よりも、満更でもない自分が問題だ。
「ん~……。なんか疲れたし、癒されるとこ行きたいかな……」
「癒されるとこ?レゾナンスの岩盤浴とかスパは評判良いみたいだけど」
「や、そういうのじゃなくて。この前みたいな、瑠璃が島の中で気に入ってるとこ、行きたい。そういう場所、見たりするだけでも癒されるし……」
しどろもどろになりながら伝えれば、瑠璃は微笑んだ。その笑みがハッとするほど美しくて、啓介は瑠璃を覗き込むように見つめてしまう。
瑠璃は、他の人間とは違う。
漠然と、けれどはっきりとそう思えてならなかった。家族とも、大学のヤツらとも、ステータスに群がって来る異性とも、誰とも違っている。瑠璃だけが際立って輝いている。……いつからそうだったのだろう。自分のことなのに、啓介には答えが出せなかった。
「じゃあ、俺のお気に入りの場所、連れてってあげる」
その声は、やけに静かだった。台風の中心が無風であるように、この基点を逸れれば何かが起こってしまう、そんな予兆を孕んでいた。
「どこまで登るの?」
息を弾ませながら尋ねた啓介に笑みだけを返し、瑠璃は坂を上っていく。喫茶店を出て「しばらく登りが続くよ」と言ったきり、瑠璃は口を噤んでいた。
瑠璃の背中を見つめていると、十一年前にもこんな坂を二人で登ったことを思い出した。
――ここから先は俺の陣地だ。入るなら金を出せ。
二人で遊んでいたところに現れた二歳年上のガキ大将は、浜辺の手前に立ちふさがり右手を突き出した。が、瑠璃は無視を決めて彼の傍を通り過ぎようとした。
――おい!俺の言ったことが聞こえなかったのか!?
生意気な態度の瑠璃にガキ大将は食って掛かった。が、六歳年上の紺のコミュニティに揉まれながら育った瑠璃には何の効果もない。
――お前、なに見てんだよ。なんか文句あんのか!?
瑠璃に脅しが通用しないと見るや否や、ガキ大将は標的を啓介に変えた。彼は啓介のプールバックを奪い、砂浜に叩きつけ、何度も踏みつけた。
――や、やややややややややっ、!
やめろ、と言おうとしたけれど、緊張のあまり咽喉と胸が引き付けた。この島に来てからはあまり出ていなかった、いや、出てはいたけれど瑠璃のおかげで意識せずに過ごすことが出来ていたチックが噴き出し、啓介は見る間に青ざめた。
――なんだよ、お前、きっもちわりい。どっかいけよ!
はっきりと口に出されて、啓介の胸はナイフで刺し抜かれたように虚空を抱いた。その空虚を、瑠璃が飛び蹴りで貫いた。
ガキ大将に飛び蹴りを食らわせた瑠璃は、後から現れたガキ大将の取り巻きに袋叩きにされた。都会の小学校ではまず見ない原始的な懲罰に震え上がり、啓介は瑠璃を助けることが出来なかった。
泣きじゃくる啓介と動かなくなった瑠璃を残し、ガキ大将たちは浜辺へ消えた。瑠璃はタイミングを見計らって起き上がり、啓介の涙を拭った。
――泣くな。お前は何も悪くないんだから。涙がもったいない。
啓介の手を引き、瑠璃は坂を登った。
――オレ、泣きたくなったらこうやって坂を登るんだ。自分の息と心臓の音に耳をすませてたらさ、気付いたら涙が止まってんの。本当だよ。
坂を登り切ったところで二人は何を見たのだろうか。きっと素晴らしい景色だったのだと思う。けれど啓介の脳裏にはどんなに素晴らしい景色よりも瑠璃の膝から滴った血が焼き付いている。僕が瑠璃を守らなきゃいけなかったのに。そういう後悔と一緒に、焼き付いている。
「ほら、着いたよ」
瑠璃は啓介を振り返って笑った。啓介は瞳を瞬かせ、あの時よりも狭い、けれど何よりも記憶を疼かせる光景を見渡した。
「ブドウ畑だ。すごい。ブドウってこんな真夏にもう実をつけてるんだ」
素直にそう呟けば、瑠璃は「ふ」と軽く噴き出して「たくさん食べさせてやったのに忘れちゃったの?」と穏やかな声音で啓介を詰った。
そうだ、あの夏以上にブドウを食べた季節はなかった。そこから数年は啓介にとってブドウは夏の果実だったのに……。瑠璃は啓介を置いてブドウ畑へと足を踏み入れた。
「勝手に入って大丈夫?」
もうすでに濃紺に色づいたブドウの実が清楚な白い傘をつけて生っている。振り返った瑠璃は微笑んでいた。なのに、その様はもの寂しげだった。
「ここも忘れちゃった?……ずいぶん小さくなっちゃったけど、じいちゃんのブドウ畑だよ」
啓介は辺りを見回した。あの頃に過ごした古民家は跡形もなく、記憶とはずいぶん違う印象の風景だった。幼い瑠璃に手を引かれて畑に入ると「どこまで続いているのか」と不安になるほどだったのに、今の畑には「個人の楽しみ」という印象を受けてしまう。
「ほら、隣にレゾナンスのアウトドアセンターが建ってるでしょ。それで、畑の大部分はなくなっちゃって」
高い柵の向こうにはバーベキューをしている男女や芝生を駆け回っている子どもたちが見えた。この建物を建てる為に、あのブドウ畑は――。ワイシャツを着た父の背中と、あの日の瑠璃の背中が脳裏で重なり、啓介は口元を抑えた。
「……瑠璃のじいちゃんは?元気?」
「生きてたら九十歳超えてたなあ。八年前かな。レゾナンスのホテルがオープンした次の年に死んじゃった」
おもむろにブドウの実を一つ摘み、瑠璃は啓介の傍へと歩み寄った。
「食べてみて」
ブルームを薄く纏った瑠璃色のそれを、啓介は瑠璃の指から食んだ。ぷちんと弾けた皮の奥から甘みと香りが広がって、その全てが啓介の記憶の扉を叩いた。
「瑠璃、俺、お前にずっと謝りたかった。島を出た日、約束を破って、お前をおばけトンネルに待ちぼうけさせたこと……」
瑠璃は一瞬眉根を寄せ、けれどやっぱり微笑み直して「ううん」と頭を横に振った。
「謝らなくていいよ。俺、その日は熱が出て。……おばけトンネルには、行ってないんだ。だから謝らないで。俺こそ、見送りに行けなくて、ごめんな」
ごめん、と、言いたかったのに、瑠璃はその言葉を遮るようにそう言った。
1
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
絶対にお嫁さんにするから覚悟してろよ!!!
toki
BL
「ていうかちゃんと寝てなさい」
「すいません……」
ゆるふわ距離感バグ幼馴染の読み切りBLです♪
一応、有馬くんが攻めのつもりで書きましたが、お好きなように解釈していただいて大丈夫です。
作中の表現ではわかりづらいですが、有馬くんはけっこう見目が良いです。でもガチで桜田くんしか眼中にないので自分が目立っている自覚はまったくありません。
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!(https://www.pixiv.net/artworks/110931919)

【完結】I adore you
ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。
そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。
※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる