褐色の天使は、僕の裏切りを赦さない。

野中にんぎょ

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褐色の小悪魔に振り回されて

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 ホテルを出てしばらく歩いたところにバス停が見え啓介は胸を撫で下ろした。
「けーい!こっち!こっち!」
 待合から顔を出した瑠璃がこちらに大きく手を振るものだから、啓介は思わず笑ってしまった。十一年前のあの夏の続きが、今やっと始まったのだと思えてならなかった。
「すれ違っちゃったらどうしようって不安だったんだけど……、会えてよかった!バスが来るまで座って待ってようよ」
 昨日のぎこちない距離感はどこへやら。瑠璃は啓介の腕に自身の腕を絡ませぐいぐいと引っ張った。古びた小さな待合は四つの柱にトタン屋根を被せただけのそれで、まるでここだけが時間の干渉から逃れているかのようだった。
 ――瑠璃、もし暇なら一緒に遊ぼうよ。
 そう誘ったのは啓介だった。あの頃は毎日当たり前のように二人で遊びに出かけていたから、改めて誘いをかけるのはむず痒かった。瑠璃はしばらく視線を伏せていたけれど、口元に添えていた手を下ろして「分かった」と微笑んでくれた。
 ――明日の十三時、ホテルを下ったところにあるバス停に来て。
 連絡先の交換もせずに、待ち合わせの場所と時間だけを示し合わせて落ち合う。啓介は嬉しかった。紺の言動に感じた違和感など杞憂に過ぎなかったのだ。
「この島、すごく変わっただろ。いろんなとこ出来たんだよ」
「びっくりした。ガタガタだった道が綺麗に伸びて、ブドウ畑も昔の半分くらいになってて……。ツーリングで島を一周したけど島の人よりも観光客の方が多いんじゃないかって感じた」
 瑠璃の鳶色の瞳に影が走る。啓介はその表情に目を凝らしたけれど、次の瞬間には元の人懐こい笑顔に戻っていた。
「な、俺が言った通り、水着持って来た?」
「あ、うん、一応、持って来たけど……」
「観光客御用達のビーチよりもいいところ連れてってやるから。楽しみにしてて」
 バスに乗ってつづら折りになった坂を下り、ホテルとは真反対にある西側の海岸に出る。太陽が照りつけるでこぼこ道をするすると駆けていく瑠璃。啓介は顎から汗を滴らせながら瑠璃の背中を追った。
「どーした?へばっちゃった?瑠璃君がひっぱってやろーか?」
 踵を返して戻って来た瑠璃が悪戯っぽく微笑み啓介の手を握る。「けいの手、すごくおっきくなった」そう言ってはにかんだ彼を啓介は横目で盗み見た。
「ほら、見て!俺のプライベートビーチ!すごいだろ!」
 道なき道を抜け、緑滴る茂みを超えると、真っ白の砂浜が一面に広がった。ひと一人いない小さな海岸には大岩がいくつか転がり、その間を波が泡を立てながら寄せては返している。野趣溢れる風景に啓介は瞳を輝かせた。
 波の手前で立ち止まった瑠璃は着ていたTシャツとハーフパンツを脱いで岩場へ放った。見る間に海水パンツ一枚になった彼はつま先立ちになり太陽に向かって伸びをした。
「あ~、気持ちいい!天気よくてよかった!」
 張りのある彼の身体は太陽の下で眩いばかりに輝いた。胸はふっくらと丸みを帯びているのに、腰回りはきりりと締まっている。かと思えば、尻は生意気につんと上を向いていて……。鍛えているのか、絞っているのか、もしかしたらその両方かもしれない。瑠璃は待ちきれないとばかりに海へ飛び込んで泳ぎ回った。海面の下で揺らめく瑠璃を見つめていると、啓介の胸がじんわりと熱を帯びた。
「けいー!泳がないのー?こっち来いってー!」
 瑠璃は岸からずいぶんと離れた場所で海面から顔を出している。まるで人魚姫だな。啓介はそっと微笑み木陰の落ちた岩場に腰を下ろした。
 ここに来たばかりの頃も、瑠璃は啓介を海に連れて行ってくれた。
 ――海で泳ぐのに子どもだけで大丈夫なの?
 啓介の手を引く瑠璃にそう問えば、彼は肩を揺らして笑った。
 ――だいじょーぶ!オレ、泳ぐの得意だし!けいが溺れたらオレが助けてあげる!
 そう言われてもまだプールバックを胸に抱いて不安そうにする啓介。瑠璃は仕方なさそうに微笑んで「紺が先に行ってるし、見守りのおじちゃんもいるから大丈夫だよ」と優しく言い含めた。
 あの時の瑠璃の寂しそうな表情を今になって思い出し、啓介は腰を上げてTシャツを脱ぎ捨てた。
「わ、ぜんぜん、足つかねえじゃんっ」
 室内プールやお遊びの海水浴なら大学生になって何度も行った。けれどここはそんな生易しいものではない。自然そのものに身体を預けている感覚が懐かしく、啓介は笑い声を立てながら波に弄ばれた。
「けい、だいじょーぶ?こっちおいで、ほら」
 こちらはこんなにも波に揺さぶられているのに、瑠璃はするすると波を掻き分けて啓介の傍まで寄って来た。あっぷあっぷと波に喘ぎながら岩場に身を寄せる。やっと足がつく場所まで戻って来られたと思ったら、背後から「うくく」と喉奥から込み上げたような笑みが聞こえて来た。
「なに、けい、まだ泳げないの?俺が教えてあげて、最後には泳げるようになってたよね?」
「……泳げるっつの。久々に海で泳いだから、今日はちょっと……」
 瑠璃は濡れた前髪を掻き上げけらけら笑った。背中にぴったりとくっついた素肌がやけに熱い。振り返り、眉毛にくっついた水滴を指先で払ってやると、瑠璃は視線を逸らして口元を緩めた。一瞬の沈黙の間に、啓介の脳裏にはおばけトンネルでのことが蘇った。そうだ、あの日、約束を守れなかったことを謝りたくて、俺は――。
「あの、瑠璃、俺さ、」
 意を決して見つめれば、瑠璃は「ふふ。“俺”、だって」と笑みを深めた。
「昔は自分のこと“僕”って言ってたのに。“俺”に変えちゃったの?もったいないなあ」
「なんだよそれ。もったいないって、なにが……」
「だって、“僕”の方がけいに似合ってるよ。どんなに周りに合わせた格好しても、瞳は真っ直ぐなんだもん。育ちのいい子なんだろうなって、すぐに分かっちゃう」
 “周りに合わせた格好”とは、ツーブロックのモッシュヘアのことだろうか、それとも、大学に入学してから焦って開けたピアスホールのことだろうか。頬が熱くなっていくのを感じ啓介はそっぽを向いた。
「な、な、“僕”って、言ってみて?」
「はあ?別にみんな自分のこと“俺”って言うじゃん」
「ええ~?いいだろ!お願い!思い出に浸らせてよ。昔のけいのこと、あれからいっぱい思い出したんだあ。けいって素直だったなあ、かっこよかったなあ、可愛かったなあって」
 全部過去形じゃん。啓介はむっとして瑠璃を睨んだけれど、瑠璃ときたら期待の眼差しでこちらを見つめている。啓介は太陽以上の熱烈な光線に負けて溜息を吐いた。
「ぼ、僕……」
 ぽつりと呟けば瑠璃はその場で飛び跳ねた。光の粒のような飛沫が彼の胸を濡らす。
「俺から僕に戻せば?そっちの方が可愛いよ?」
 雫の落ち始めた前髪を再度掻き上げていたずらにはにかむ瑠璃。啓介は「からかってんじゃねーよ」と彼を押しのけ砂浜へ踵を返した。
「怒んないでよ。待ってってば!」
 啓介が砂浜に腰を下ろすと、瑠璃はその隣に横になった。褐色の肌に白の砂粒が吸い付く様はどこか淫らだ。瑠璃の臍の辺りで木漏れ日が揺れるのを見ていると、彼がこちらを見つめていることに気が付いた。「怒ってないよ」そう言っても、瑠璃はただ黙って微笑むだけ。白い砂浜に横たえる若さ漲る体躯。啓介は瑠璃の肉体に見入っていた自分に気が付き膝を抱えた。
「なあ、けい、もう少し泳いでアイスクリーム食べに行こう?」
 同い年のはずの彼がやけに無邪気に言ってのける。着替えの際に岩場から垣間見た海水パンツの下の白さが、啓介の脳裏にはっきりと焼き付いた。


 先週とは打って変わって上機嫌の啓介を紺は笑った。「待ち人来たり、というところでしょうか」眉を上げながら揶揄われたけれど、啓介は満更でもなさそうに微笑みを返した。
「こんちゃん、この辺の子たちってどこで遊んでんの?」
「江永様のデートのお相手は十一年ぶりに再会した誰かさんですか?」
「……もし彼が喜ぶような場所があれば教えて欲しいんだけど」
 否定しない啓介に紺は笑みを浮かべ直す。紺は持っていたタブレットの画面を暗転させ啓介の耳元に囁いた。
「夏休みを楽しく過ごしたいのなら、瑠璃に入れこまない方がいい」
 そうとだけ忠告すると、紺は革靴を鳴らしてカウンターから去ってしまった。
この島に来てから紺の態度が妙だ。ブラザーコンプレックスだろうかと記憶を探ってみるもそんなエピソードは見当たらない。啓介と瑠璃の間に割って入るような兄でなかったことは確かだ。
 二人で海に行ったあの日、瑠璃はのらりくらりと連絡先の要求をかわした。一日経って、二日経って、三日目にはもう瑠璃のことで頭がいっぱいになっている。瑠璃に再会した日の小さな手掛かりに縋り、啓介は屋外プールへ足を伸ばした。
 ビーチチェアに腰掛け本を読みふけるふりをして瑠璃の姿を探す。太陽は灼熱そのものなのにホテルが山から切り出したようになっている為か風通しがよく気持ちいい。が、一時間経っても二時間経っても瑠璃は現れず、啓介はとうとうシャツを脱ぎ捨ててプールへ飛び込んだ。
 頭から真水に潜ると火照った肌がひりりと悲鳴を上げた。肌と頭を冷やしたくてゆっくりと泳げば、庭園から剪定ばさみを手にした瑠璃がこちらに向かっているのが見えた。啓介はハッとして水面を掻き分けた。
「瑠璃!」
 プールサイドまで全速力で泳ぎ手を振ると、瑠璃は帽子のつばを上げて小さく手を振り返した。二人でいた時はあんなに距離が近かったのに。職場だからだろうと自分に言い聞かせながらも啓介は瑠璃の姿を見てブレーキを失った。プールから上がり雫を散らしながら瑠璃の元へと駆けていく。
「瑠璃、あのさ、よかったら今夜あたり飯なんか一緒に……」
 衝動のままに口走ると瑠璃は周囲に視線を配り「けい、ごめん、職場だから……」とばつ悪そうに両手を合わせた。年齢は同じでも、瑠璃は社会人、啓介は学生。自分の配慮が足らなかったのだと啓介は頬を熱くした。
「俺、今晩、島の中腹のレストランで夕食をとろうって思ってるんだ。『ビオラ』ってとこ。七時から予約してるんだけど……、その……、よかったら……」
 期待を捨てきれず未練たらたらと言葉を残し啓介は部屋に踵を返した。
 中等部に上がった途端に異性からもてはやされるようになった啓介は、恋愛的な意味で誰かを追ったことがない。外見は放っておいても誉めそやされたし、デートに誘わなくても誘われたし、告白しなくても告白されたし、モーションをかけなくてもスムーズにセックスまで進めたし、だから啓介には恋愛的な経験値が全くと言っていいほど無かった。
 誰かを食事に誘うのがこんなにも勇気のいることだったなんて。
 啓介はにわかに驚きながら、けれど瑠璃に魅力を感じる自分に気付かないふりも出来ず、あの日砂浜で同じ時を過ごしたことを恋しく思ってしまうのだった。
 結局、瑠璃はレストランに来なかった。
 迎えの車のハンドルを握っていたのは紺で、啓介はあからさまに顔を顰めた。
「フラれたって顔だね~」
 ドアを閉めるなり揶揄ってくる紺。啓介はシートにもたれかかり車窓を見つめた。「別に……」別に、フラれてないし。別に、友達だし。別に、付き合いたいとかそんなこと、思ってないし……。夏の感傷のせいで友情と恋愛感情がないまぜになっているだけだと自分に言い聞かせてみるも、夜景の向こうには瑠璃の微笑み。啓介は脚を組んで溜息を吐いた。
「瑠璃、俺のことなんか言ってた?」
 思わず口を突いて出た問いは女々しかった。
「瑠璃?今は一緒に暮らしてないしなあ……。会っても仕事場だし、プライベートの話は全く」
 兄弟で働いているホテルに俺が滞在しているのに話題の一つにもならないのか?啓介の機嫌は落ちるところまで落ちた。
 部屋に戻るなりベッドに突っ伏し、今日の為にとクリーニングを急がせたシャツを脱ぎ捨てる。瑠璃、晩飯は何食べたんだろう……。ヤケになって飲んだワインが今になって効いてきて、啓介はそのまままどろみへ誘われてしまった。
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