褐色の天使は、僕の裏切りを赦さない。

野中にんぎょ

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相思相愛だった君と、手応えゼロの再会

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 ――けい。オレ、おばけトンネルで待ってるから。ずーっとずっと、待ってるから。
 つんと跳ねた目尻から涙をこぼしている彼を、九歳の啓介けいすけは食い入るように見つめた。瑠璃るりの傍に在りたい。そう思うのに脚は動かず、今にも張り裂けそうな感情だけが胸の奥で膨らんでいく。
 ――啓介、船が来ちゃう。
 母親に手を取られ啓介は真っ白な船に乗り込んだ。港を見回しても瑠璃はいない。
 ――瑠璃君にちゃんとさよならできた?
 優しく尋ねられ啓介は首を振った。瑠璃がここにいるわけがない。だって、瑠璃はおばけトンネルで自分をいつまでも待っているのだから。


「江永ぁ、夏休みはこっちにいないってホント?」
 江永啓介えながけいすけは友人の声にハッとしてスマートフォンから視線を上げた。辺りを見渡せば講義は終わっていて、教卓の前には出席カードを出す生徒たちが列を成していた。「うん。本当」啓介は簡潔にそう答え席を立った。
「マジで?啓介がいないとつまんねー」
 その一言を背に啓介は噴き出してしまった。お前が楽しんでいるのは“江永啓介”という人間ではなく、江永啓介を取り巻く環境だろ。大学三年生になった啓介はこの手の取り巻きに飽き飽きしていた。
 啓介は生粋のぼんぼんだ。スーパーゼネコンの開発部門を束ねる父と財閥家の令嬢である母を持つ啓介は、生まれてからずっと“エリート”の特等席に乗っている。
「啓介がひと夏を軽井沢の別荘で過ごす」という噂は瞬く間に広がり、「俺も」「私も」と多くの手が上がったが、啓介はたった一人で瀬戸内海の小さな島へ降り立った。
 むっとした青い香りは悠然たる山々からのものだろうか。覚えのある香りが潮風に混じり、啓介の鼻孔は懐かしさと切なさに満たされた。記憶よりも小奇麗に整えられた港が近づくと、それに応じて啓介の鼓動が高鳴っていく。船から見下ろした港は何度も夢に見たあの光景とそう違わず、啓介の足を竦ませた。
「江永様」
 船を降りようとした啓介は一人の男に呼び止められた。どくん。啓介の心臓が跳ね上がる。
 声のした方へ視線をやると黒髪を撫でつけた男が会釈をよこした。一目見ただけで啓介には分かった。違う、瑠璃じゃない――。
「江永啓介様でお間違いないでしょうか。……お迎えに上がりました。私、レゾナンスMITUSIMAでチーフコンシェルジュを務めております、山本紺やまもとこんと申します」
 紺と名乗った彼には十分な見覚えがあった。彼の目元に並ぶ二つの黒子を確認し啓介は相好を崩した。「もしかして、こんちゃん?」問えば、紺もまたほどけるように笑った。
「お久しぶりです、江永様。まさか私のことまで覚えておられるなんて」
「敬語はやめてよ。覚えてるに決まってるだろ」
「……車までご案内いたします。足元にお気を付けください」
 女優が使っているような大きな日傘を差され啓介は黒塗りのセダンへ向かった。後部座席に乗り込みフロントミラー越しに紺を見やると、ハンドルに手を掛けた彼はにやりと笑みを返した。
「久しぶりだな、啓介。悪そーな大学生になっちゃって……」
 親しげに揶揄われ、啓介は弾けたように笑った。車はぴしりと舗装された車道へ滑り出していく。
「ごめんな。ホテルのブランドに関わっちゃうからさ。外で私語は出来なくて」
「こんちゃんがレゾナンスで働いてたなんて」
片目を細めて笑う癖は変わっていない。啓介は車窓から島を見渡し、迎えに来てくれるかもしれないと期待していた人物に想いを馳せた。もしかしたら、彼はあのままおばけトンネルで俺を待っているのだろうか――。
「瑠璃のことは覚えてるだろうなって思ってたけど。俺のことまで覚えてるなんてな」
 紺の口から瑠璃の名前が出て啓介は運転席に視線を戻した。
「瑠璃は元気?」
 何気なく尋ねたつもりだったのに、その声はひどく固かった。
「元気だよ。瑠璃もレゾナンスで働いてるから、宿泊中に会えればいいな」
 “会えればいいな”――?その言葉に啓介は違和感を覚えた。なぜなら瑠璃は紺の弟で、九歳の啓介に島中を案内してくれた同い年の親友で、啓介の胸には瑠璃との思い出が今も鮮やかに残っていて――。
 別れてから何の連絡も取っていなかったのに、この島に来た自分を出迎えてくれるのは彼だと、心のどこかでそう思っていた。俺ってこんなに傲慢だったか?啓介は熟れた頬を俯かせてスマートフォンの黒い画面を見つめた。


 九歳の啓介は当時リゾート部門でディベロッパーを務めていた父と島暮らしに憧れを抱いていた母に連れられこの島を訪れた。その頃の三ツ島はブドウ畑に覆われていて“未開拓の地”というのがしっくりくる隆々とした島だった。
 家族で過ごしていた古民家の隣にも広大なブドウ畑があった。白い袋をヴェールのように下げたブドウたちは可憐な実を控えめにつけている。いち、にい、さん……。縁側に横たえブドウを数えていると、網を纏った柵の向こうからこちらを覗いている一人の男の子に気が付いた。
 ――お前、こんなとこで何やってんのー?
 刈り上げた短髪は赤茶けてふわふわと揺れている。同世代の男の子から人懐こく声を掛けられ、啓介はひくりと喉を鳴らした。
 この頃の啓介にはチックが付きまとっていた。どうしよう、またバカにされる、しゃべり方ヘンって、いじめられる……。枕にしていた児童書を胸に抱き退散しようとすると、男の子は網をくぐってこちらにやってきてしまった。
 ――俺は山本瑠璃やまもとるり!なあ、じいちゃんのブドウ、食べさせてあげよっか?
 瑠璃は夜闇の色のようなブドウを差し出した。ブルームに包まれたそれは指先に摘まんで丸めた天の川のようだった。男の子の期待の眼差しに負け、啓介はそれを頬張った。
 ――お、おいしい。あまい。すごく。
 本当は緊張で味なんてしなかった。けれど瑠璃は太陽のように笑った。二人はその日から友達になって、啓介はその夏、飽きるほどブドウを食べることになった。


「すごい綺麗になってるね、この島」
 エントランスの籐のソファーで脚を組みながら呟けば、コンシェルジュの紺は微笑んだ。「あの頃とはずいぶん変わりました。何もかも」その言葉は寂しさを匂わせているのに、声音はどこか冴え冴えとしていた。
「昨日紹介してもらった渓谷のアクティビティはすごくおもしろかった。ありがとう」
「それはよかったです。今日はどちらへ?よろしければご案内いたしましょうか」
 もうすでに滞在を開始して一週間が経っていた。人間関係の鬱陶しさや都会の喧騒から逃れたくてここにやって来たのに、山と海の風景には早々に飽き脳が刺激を求め始める。
瑠璃には一度も会えていない。おばけトンネルに行ってみようかとも考えたけれど、小奇麗な街並みを見ているとそんな場所はもうどこにもないのだと思えて仕方なかった。
「瑠璃のシフトとか分かんない?このホテルのどこで働いてるの?」
「そーゆーことは言えない決まりなんだよ。賢い啓介になら分かるだろ」
 紺に宥められ臍を曲げた啓介は所在なさげにプールサイドを歩いた。売店で買ったビーチサンダルは都会で履く革靴よりも気分を解放的にしてくれるのに、変わり果てた島を見ると何とも言えない気持ちになった。
 思い出の場所は、島というよりも街になっていた。お婆さんが切り盛りしていた駄菓子屋は洒落たカフェに、瑠璃が島に一つしかないと言っていた肉屋は移住者が営んでいるという土産物店になっていた。潮風に揺れるプールの水面に爪先を下ろし、啓介は溜息を吐いた。
「りりあちゃん!お兄さんに謝って!」
 キッズプールで遊んでいた一組の母子に視線が注がれる。三歳前後の女の子が水鉄砲を手にこてんと小首を傾げていた。……水をかけられたのだろう、藍色の作業着を身に纏った彼は水の滴る面を拭いきらりと笑った。
「大丈夫ですよ!庭木の剪定を終えたところだったから、すごく暑くて。逆に気分がすっきりしちゃいました」
 キャップを脱ぎ額の水気を拭う彼。根元の黒い金髪が風に揺れ、短髪から覗く耳には銀色のピアスが光った。跳ねた目尻に艶を乗せた大きな瞳。ぽってりとした唇の右端には黒子が一つ――。啓介は思わず立ち上がった。
 青年は女の子の頭を撫でると脚立を肩に掛けホテルの裏手へ。啓介は弾かれたようにその後を追った。
「瑠璃!」
 思わず叫んでしまい、啓介は口元を手で覆った。黒のキャップを被った彼は振り返り、大きな瞳を瞬かせた。……間違いない、瑠璃だ!そう確信すると全身の細胞が戦慄いた。
 青年は先ほどの女の子と変わらない仕種で小首を傾げ啓介に歩み寄る。瑞々しい褐色の肌。頬は夕日色に上気し、鎖骨には玉になった汗が浮いていた。
「え……?けい……?」
 嬉しさや驚きより、戸惑いをたっぷりと含んだ声。啓介は一瞬ぎくりとしたけれど、彼が自分を覚えてくれていたことが嬉しくて「そう!けいだよ!江永啓介!覚えてる?」と声を弾ませた。
「わ、けい、どうしたの、こんなとこに一人で……。あ、友達?彼女とかと?」
 瑠璃は明らかにこちらとの距離感を測りかねていた。が、すっかりこの島の思い出に浸っていた啓介は彼の傍まで寄り「全然一人。瑠璃も、なんか、その、でかくなったね」と言いつつスマートフォンを取り出した。
「でかく?……あはは!でかくなるの、当たり前じゃん。何年ぶりだと思ってんの。でかいって言えば、けいの方がでかいじゃん」
 連絡先を交換したくて画面を操作していると瑠璃の明るい声が降って来る。啓介は顔を上げてつくづくと瑠璃を見つめた。笑うと下瞼が膨らむ彼は、昔と全く変わっていないように見えるのに、人間としての魅力に満ち満ちていた。
「あの、瑠璃、よかったら連絡先……」
「ごめん、ここ、そういうの厳しくて。今は……ちょっと」
 まさか、断られるなんて思ってもみなかった。衝撃を受けている自分に衝撃を受け、啓介は固まってしまう。瑠璃はそんな啓介を見てくすりと微笑んだ。
「ねえ、いつまでここにいるの?」
 首を傾げて上目遣いで見つめて来る瑠璃。その仕種だって変わっていない。なのに、息を飲むほど蠱惑的に感じてしまうのはどうしてなのだろうか。啓介は次第に熱くなっていく頬を隠しも出来ずに、瑠璃の美貌に見入ってしまった。
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