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ハリネズミのやさしい棘
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圭司との間に不思議な空気が流れるようになった。あんなに怖かった圭司だけれど、こちらが落ち着いて彼の言動を処理すれば付き合いに問題はなく、ともすれば京一よりも気遣いがある。何より、思い返してみれば最後に圭司につねられたのは小学校中学年くらいの頃。恐怖で圭司についてのアップデートが進んでいなかったようだ。
受験勉強から解放され余暇を持て余した真緒は、同じく春休み真っ只中の圭司の部屋を訪ねるようになった。
「ん、もうちょいで終わるから、その辺でスマホでもいじっといて」
前触れもなくやって来る真緒を、圭司は決して邪険にしない。春休みをアルバイトと資格の勉強に充てているという彼は、ただ黙々と机に向かってペンを走らせていた。
「何の資格の勉強してるの?」
「行政書士。就活で忙しくなる前に、一回挑戦してみようかって」
「ぎょうせいしょし……」
どこかで聞いたことのある単語をあやふやに復唱すれば、圭司はペンを動かしながら「ふ」と小さく笑った。
「個人や事業主に代わって官公署に出す書類を作ったり提出したりする職業」
「……難しそうだし大変そう。そういう仕事に就きたいの?」
「俺は行政書士になりたいっていうよりも……、なんつーか……」
圭司はおもむろに『判例六法』という分厚い本を手に取りパラパラと捲った。
「問題がルールによって整頓されていく感じが気持ちいいっていうか……。判例読んでるとおもしろいよ。ルールを道しるべにしてゴールに辿り着く作業を垣間見てるみたいで」
スマートフォンを膝の上に置いたまま、真緒は瞳を瞬かせた。長い間圭司と向き合っていなかったせいか、目を輝かせて語る彼を見ていると不思議だった。
「と言っても簡単に取れる資格でもないから。これは腕試しみたいなもんかな」
真緒には、圭司の言っていることが全ては理解出来なかった。それでも、机に向かう圭司の背中は光の粒を纏ってチカチカと輝いている。こっそりスマートフォンで調べてみると、合格率はなんと五パーセント。そんな資格を「腕試し」と言って熱心に机に向かっている彼が、真緒の心にぐんぐん近づいて来る。
具体的な未来のビジョンがなくても、「すき」「気になる」の気持ちで学びの野に飛び込んでもいいんだ。
ペンの走る音と頁の捲られる音だけが続く部屋で、真緒はどこかほっとし、問題集を覗き込む圭司を頼もしく思った。
「ああ、疲れた。ちょっと横にならせて」
椅子から腰を上げ伸びをした彼はそのままベッドへ倒れ込む。ちらりと盗み見れば、伏せた睫毛が頬に影を落としていた。石膏から切り出したような鼻筋に、山を描いた咽喉仏、つんと上を向いた上唇。
けい君って、綺麗だなあ。
真緒はスマートフォンから視線を上げて圭司の容貌をこっそりと眺めた。
圭司は綺麗だ。なんというか、整っている。京一の容貌は「かっこいい」という感じだが、圭司は「綺麗」。少し前までは一枚壁を隔てた場所から彼を見ていて、だから彼がいくら綺麗でもスクリーンの中の俳優を「綺麗」だと感じるのと同じようになんとなくそう思っていた。でも今は少し違う。「綺麗だな」という感想に温みが乗って、その熱が胸の奥にまで迫って来る。
「……なに?俺の顔になんかついてんの?」
瞼が上がった途端にかち合う視線。真緒は慌てて「ピアス何個ついてるのかなって数えてた」と取り繕った。
「きょーちゃんって初めてピアス開けたのいつ?」
卒業式も終わり真緒の心は浮き立っていた。髪も染めたい、ピアスも開けたい、服だって買いたい。ベッドでくつろぐ圭司の傍に腰掛けて尋ねてみる。圭司を「きょーちゃん」と呼ぶのにもすっかり慣れてしまった。
「十六の時、ニードルで開けたのが最初。……なに?ピアス開けたいの?」
「うん。右と左に一つずつ。ニードルで開けるのは一人じゃハードル高いから、ピアッサーで開けようかなって」
圭司は眉を上げたのち、にたりと笑った。上半身を起こし真緒の耳たぶに触れて来る。黒のシーツがかすかに波打った。
「ピアッサー、音凄いよ?バチン!って大きな音するから穴ズレちゃう子もいるし」
「でも、ニードルは初心者には難しいってネットに書いてあったよ」
「俺が開けてあげる。ニードルの方が綺麗に開くし、穴も安定するのが早い。ピアッサーと違ってファーストピアスも好きなの着けられるよ」
実を言えば、冬物セールでずっと狙っていたピアスを購入したばかり。「痛いのはどっち?」何気なく尋ねれば、圭司は格好の餌食だと言わんばかりに食いついた。
「痛いのはニードル。でも、氷で冷やしとけばどうってことないよ。綺麗に開かずに膿んだりしたらそっちの方が痛いしね」
机の引き出しを漁り薄く白い箱を取り出す圭司。「これがニードル」見せてもらったそれは思ったよりも長く太かった。針は注射器のそれのように輪になっていて、真緒はすっかり及び腰になってしまった。「あれ?怖気づいちゃった?」圭司の声がやけに弾んでいる。
「怖くない。痛いのが嫌ってだけ……」
「痛いのなんか当たり前じゃん。身体に穴開けるんだから痛いに決まってる。……どうする?開ける?」
「ん、どうしよう、開けてもらおうかな……」
いやに優しげな指先が真緒の耳たぶを撫でる。「全部俺がやってあげる。ほら、真緒は家からピアス持って来な」その声に真緒の背筋がふるりと震えた。いつものおぞけとは違う、熱っぽいそれだった。
自宅に戻り、まだ開封していなかったピアスを手に取る。つねられるよりも痛いことをされてしまう。しかも、今回は自分から望んで……。そう思うと、真緒の胸の奥がじゅくじゅくと熟れたようになった。
「いい感じのピアス。でもバイト始める気なら面接でなんか言われちゃうかもね。俺のおさがりあげよっか?」
初めて見る圭司のアクセサリーケース。シンプルな黒のケースの中はそのほとんどがシルバーアクセサリーだった。
「これとかどう?サージカルステンレスだし肌も荒れにくいと思う」
渡されたそれは薄い円柱のような、ごくシンプルなデザインだった。艶の無い質感と無駄を削いだデザインは真緒の趣味に合っている。「いいの?高そう」「いいよ。いま開けさせてくれるなら真緒にあげる。どうする?やる?」浅く頷くと、圭司は満足そうに笑った。
洗いたての圭司の手がピアスと四角いゴムを消毒する。アルコールの香りが漂って、真緒は思わず姿勢を正した。
「ここと……ここでいい?鏡見てみて」
耳たぶにマジックでしるしをつけ、鏡越しに圭司が尋ねる。真緒はまた一つ頷いた。もう、圭司にされるがまま。透明な袋からニードルがするりと出て来る。鋭く尖ったそれは圭司の手指さえも傷つけてしまいそうだった。
「じゃ、開けるよ」
耳裏にゴムがひたりと当てられる。恐る恐る視線をやれば、ニードルの先がこちらを向いていた。その切っ先が光った気がして、真緒は思わず圭司のスウェットの胸を握りしめた。「怖い?」「ちょっとだけ……」強がりは見抜かれているようで、圭司の唇がほのかに緩む。
「ニードル見ない方がいいよ。どうせ開けるところは見られないんだし。……俺の目、見て」
「けい君、ちょっと待って、俺、」
「きょーちゃん、でしょ」
「きょーちゃん、俺、ニードル無理かも、」
「真緒」
真っ直ぐな圭司の視線は、蛇の眼差しに似ていた。ああきっと、あの時の俺はマムシにこうやって睨まれて動けなくなっちゃったんだ。真緒はもうすっかり抵抗する気をなくして圭司に全てを委ねた。
ふつ、と肌の表面が破れる音。「あ、きょう、ちゃん」痛みは鋭く、しかもそれがニードルの長さの分だけ続く。真緒は圭司の服を握った手に力を込めた。
「まーお。俺見て。目、見て」
落ちてしまった瞼を上げて圭司を見つめる。自分の視界が濡れているせいか、彼の瞳もまた濡れているように見えた。
あの不思議な瑠璃色の瞳に、どこか恍惚とした表情の自分が映っている。この先に自分を待ち受けているものを、恐れているようにも、期待しているようにも見える。肉体を確かに貫いていく針の痛み。真緒は睫毛に涙の粒を乗せてただひたすらに耐えた。
「ほら、ピアス通るよ。ニードルも抜ける……」
糸引くように痛みを残して抜けていくニードル。「んう」思わず声が出てしまい、真緒は口元を抑えた。「動かない。キャッチ着けてるとこだから」心臓がうるさい。耳の先まで心臓になったみたいにバクバクする。今日はもう片耳だけでいい。そう思った矢先、圭司はもう反対の耳の準備に取り掛かってしまった。
「反対開けるよ。俺の目、見て」
「待って、きょーちゃん、ちょっと休ませて」
「休んだらもっと怖くなる。……開けるよ」
やっぱり、圭司は「きょーちゃん」ではない。ニードルが皮膚を突き破り、その厚みよりもずっと深く肉を刺し抜く。真緒は息を詰まらせた。思わず縋った圭司の両肩は自分のそれよりもずっとがっちりしていて男らしかった。
「うん、綺麗に開いたんじゃない?ピアスがニードルと同じゲージだったから出血も少ないし。……痛かった?」
「思ったより痛かった……」
涙を拭きながら訴えると圭司は目を細めて微笑んだ。圭司に見つめられていると実感し、真緒の頬が熱くなる。心臓がいつまでも落ち着かない。両耳のファーストピアスを熱心に見つめる圭司に耐えかねて、真緒は彼の胸を軽く押し返した。
「なに?穴開けてやったのに、冷たいヤツ」
「違う、近いんだって。きょーちゃんだって俺に近い離れろって言ったじゃん」
「そうだったっけ?」
とぼけるだけで離れてくれない圭司に真緒の身体が熱くなっていく。
「俺は好きな時に真緒に近づいていいんだよ。だって真緒は俺のおもちゃじゃん。自分のおもちゃでいつ遊ぼうが、俺の勝手」
顎を撫でていた指が真緒の下唇の輪郭を崩した、その時だった。
ドアの向こうからドタドタと階段を駆け上がる足音が響き渡る。真緒よりも先に、圭司が身体を離した。
「圭司!真緒お!」
弾けるように開いたドアから飛び出してきたのは瞼を腫らした京一だった。「きょーちゃん!?」思わず立ち上がる真緒の手首を圭司の手がすかさず掴む。ハッとして見やれば、圭司は言葉を堪えるように唇を噛みしめた。視線を交わす二人の間に京一が割り込んで来る。
「勝手に入んな。ノックくらいしろ!」
「フラれた」
その呟きに六畳の部屋は静まり返った。「俺、フラれたみたいだ」重ねられた言葉は語尾が震えていた。真緒はどうしてか圭司を見つめた。圭司もまた、真緒を見つめていた。
「フラれたって……噓でしょ?」
「保護猫のボランティア活動と仕事に集中したいって。俺が求めているものを自分じゃ与えられないからって。だから別れて欲しいって……」
寂しがりやの京一を思い、真緒はそれ以上の言及を止めた。仕事とボランティア活動に精を出す彼女が京一とすれ違っていく姿が、はっきりと想像できてしまった。
「俺、そんなに求めちゃってた?自分じゃ分かんねえよ。なあ、どう思う?」
顔を上げた京一は鼻を赤くして目を潤ませている。真緒は圭司に掴まれた手とは反対の手を伸ばし京一の背を摩った。
「そんなの知るかよ」
放り出されるように圭司の手から解放される真緒の手。乾いた笑みを浮かべた圭司がおもむろに立ち上がる。
「そんなの本人に訊けよ。俺が知るわけねーだろ」
「圭司、なんだよ、慰めてくれたっていいだろ」
「なんで俺がそんなことしなくちゃなんないの?……真緒にでも甘えとけば?」
ニヒルな笑みを浮かべ、圭司は自室を去って行く。「けい君!」真緒は圭司を追おうと立ち上がったが、「真緒」と京一に呼び止められ眼差しを震わせた。
「ごめん、きょーちゃん、けい君が心配だから、行ってくる!」
自身の名を呼んだ京一の声を振りほどき、真緒は階段を駆け下りた。
「けい君!」
玄関で靴を履いていた圭司が真緒を振り返り目を見開く。けれどそれも一瞬のこと。圭司の瞳は真緒から興味をなくして前を向いてしまった。胸が、ぎゅっとしめつけられた。圭司に力いっぱいつねられた時よりも、ずっと強い痛みだった。
「きょーちゃん!」
圭司の肩がわずかに反応する。「きょーちゃんっ!」真緒は走り寄り圭司の背を掻き抱いた。そうでもしないと圭司がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
「俺はきょーちゃんじゃないよ。お前のきょーちゃんも戻って来たし、もうお前は俺をそう呼ばなくたっていい」
いやだ、そんなのいや。まだ俺のきょーちゃんでいて。真緒は圭司の背に擦りつけるように頭を振り立てた。
「失恋した後ってさ、優しくしとくと得だよ。……俺も経験あるから分かる。こんなことしてないで京一のとこ戻りな」
きつく回していた手に触れられて、真緒は自分がどうしたらいいのか分からなくなった。
つねって、けい君。
なぜかそう思った。
痣になるくらい、涙が出るくらい、つねって。
「俺のおもちゃっていうのも、もう止めてあげる」
「けい君っ」
「次は頑張りなよ。あいつが満足するほどあいつを愛せるのは、お前くらいなんだから」
圭司はそう言って真緒の手をほどくと、扉の向こうに消えた。
もう俺、けい君のおもちゃじゃないんだ。そう思うと、ばかみたいに身軽で、ばかみたいに心細かった。
ニードルで貫かれた耳たぶが、いつまでも痛くて熱い。圭司の優しさの棘が、真緒の心臓を刺し抜いた。その棘は真っ直ぐで鋭くて、胸が詰まるくらい美しかった。
受験勉強から解放され余暇を持て余した真緒は、同じく春休み真っ只中の圭司の部屋を訪ねるようになった。
「ん、もうちょいで終わるから、その辺でスマホでもいじっといて」
前触れもなくやって来る真緒を、圭司は決して邪険にしない。春休みをアルバイトと資格の勉強に充てているという彼は、ただ黙々と机に向かってペンを走らせていた。
「何の資格の勉強してるの?」
「行政書士。就活で忙しくなる前に、一回挑戦してみようかって」
「ぎょうせいしょし……」
どこかで聞いたことのある単語をあやふやに復唱すれば、圭司はペンを動かしながら「ふ」と小さく笑った。
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「……難しそうだし大変そう。そういう仕事に就きたいの?」
「俺は行政書士になりたいっていうよりも……、なんつーか……」
圭司はおもむろに『判例六法』という分厚い本を手に取りパラパラと捲った。
「問題がルールによって整頓されていく感じが気持ちいいっていうか……。判例読んでるとおもしろいよ。ルールを道しるべにしてゴールに辿り着く作業を垣間見てるみたいで」
スマートフォンを膝の上に置いたまま、真緒は瞳を瞬かせた。長い間圭司と向き合っていなかったせいか、目を輝かせて語る彼を見ていると不思議だった。
「と言っても簡単に取れる資格でもないから。これは腕試しみたいなもんかな」
真緒には、圭司の言っていることが全ては理解出来なかった。それでも、机に向かう圭司の背中は光の粒を纏ってチカチカと輝いている。こっそりスマートフォンで調べてみると、合格率はなんと五パーセント。そんな資格を「腕試し」と言って熱心に机に向かっている彼が、真緒の心にぐんぐん近づいて来る。
具体的な未来のビジョンがなくても、「すき」「気になる」の気持ちで学びの野に飛び込んでもいいんだ。
ペンの走る音と頁の捲られる音だけが続く部屋で、真緒はどこかほっとし、問題集を覗き込む圭司を頼もしく思った。
「ああ、疲れた。ちょっと横にならせて」
椅子から腰を上げ伸びをした彼はそのままベッドへ倒れ込む。ちらりと盗み見れば、伏せた睫毛が頬に影を落としていた。石膏から切り出したような鼻筋に、山を描いた咽喉仏、つんと上を向いた上唇。
けい君って、綺麗だなあ。
真緒はスマートフォンから視線を上げて圭司の容貌をこっそりと眺めた。
圭司は綺麗だ。なんというか、整っている。京一の容貌は「かっこいい」という感じだが、圭司は「綺麗」。少し前までは一枚壁を隔てた場所から彼を見ていて、だから彼がいくら綺麗でもスクリーンの中の俳優を「綺麗」だと感じるのと同じようになんとなくそう思っていた。でも今は少し違う。「綺麗だな」という感想に温みが乗って、その熱が胸の奥にまで迫って来る。
「……なに?俺の顔になんかついてんの?」
瞼が上がった途端にかち合う視線。真緒は慌てて「ピアス何個ついてるのかなって数えてた」と取り繕った。
「きょーちゃんって初めてピアス開けたのいつ?」
卒業式も終わり真緒の心は浮き立っていた。髪も染めたい、ピアスも開けたい、服だって買いたい。ベッドでくつろぐ圭司の傍に腰掛けて尋ねてみる。圭司を「きょーちゃん」と呼ぶのにもすっかり慣れてしまった。
「十六の時、ニードルで開けたのが最初。……なに?ピアス開けたいの?」
「うん。右と左に一つずつ。ニードルで開けるのは一人じゃハードル高いから、ピアッサーで開けようかなって」
圭司は眉を上げたのち、にたりと笑った。上半身を起こし真緒の耳たぶに触れて来る。黒のシーツがかすかに波打った。
「ピアッサー、音凄いよ?バチン!って大きな音するから穴ズレちゃう子もいるし」
「でも、ニードルは初心者には難しいってネットに書いてあったよ」
「俺が開けてあげる。ニードルの方が綺麗に開くし、穴も安定するのが早い。ピアッサーと違ってファーストピアスも好きなの着けられるよ」
実を言えば、冬物セールでずっと狙っていたピアスを購入したばかり。「痛いのはどっち?」何気なく尋ねれば、圭司は格好の餌食だと言わんばかりに食いついた。
「痛いのはニードル。でも、氷で冷やしとけばどうってことないよ。綺麗に開かずに膿んだりしたらそっちの方が痛いしね」
机の引き出しを漁り薄く白い箱を取り出す圭司。「これがニードル」見せてもらったそれは思ったよりも長く太かった。針は注射器のそれのように輪になっていて、真緒はすっかり及び腰になってしまった。「あれ?怖気づいちゃった?」圭司の声がやけに弾んでいる。
「怖くない。痛いのが嫌ってだけ……」
「痛いのなんか当たり前じゃん。身体に穴開けるんだから痛いに決まってる。……どうする?開ける?」
「ん、どうしよう、開けてもらおうかな……」
いやに優しげな指先が真緒の耳たぶを撫でる。「全部俺がやってあげる。ほら、真緒は家からピアス持って来な」その声に真緒の背筋がふるりと震えた。いつものおぞけとは違う、熱っぽいそれだった。
自宅に戻り、まだ開封していなかったピアスを手に取る。つねられるよりも痛いことをされてしまう。しかも、今回は自分から望んで……。そう思うと、真緒の胸の奥がじゅくじゅくと熟れたようになった。
「いい感じのピアス。でもバイト始める気なら面接でなんか言われちゃうかもね。俺のおさがりあげよっか?」
初めて見る圭司のアクセサリーケース。シンプルな黒のケースの中はそのほとんどがシルバーアクセサリーだった。
「これとかどう?サージカルステンレスだし肌も荒れにくいと思う」
渡されたそれは薄い円柱のような、ごくシンプルなデザインだった。艶の無い質感と無駄を削いだデザインは真緒の趣味に合っている。「いいの?高そう」「いいよ。いま開けさせてくれるなら真緒にあげる。どうする?やる?」浅く頷くと、圭司は満足そうに笑った。
洗いたての圭司の手がピアスと四角いゴムを消毒する。アルコールの香りが漂って、真緒は思わず姿勢を正した。
「ここと……ここでいい?鏡見てみて」
耳たぶにマジックでしるしをつけ、鏡越しに圭司が尋ねる。真緒はまた一つ頷いた。もう、圭司にされるがまま。透明な袋からニードルがするりと出て来る。鋭く尖ったそれは圭司の手指さえも傷つけてしまいそうだった。
「じゃ、開けるよ」
耳裏にゴムがひたりと当てられる。恐る恐る視線をやれば、ニードルの先がこちらを向いていた。その切っ先が光った気がして、真緒は思わず圭司のスウェットの胸を握りしめた。「怖い?」「ちょっとだけ……」強がりは見抜かれているようで、圭司の唇がほのかに緩む。
「ニードル見ない方がいいよ。どうせ開けるところは見られないんだし。……俺の目、見て」
「けい君、ちょっと待って、俺、」
「きょーちゃん、でしょ」
「きょーちゃん、俺、ニードル無理かも、」
「真緒」
真っ直ぐな圭司の視線は、蛇の眼差しに似ていた。ああきっと、あの時の俺はマムシにこうやって睨まれて動けなくなっちゃったんだ。真緒はもうすっかり抵抗する気をなくして圭司に全てを委ねた。
ふつ、と肌の表面が破れる音。「あ、きょう、ちゃん」痛みは鋭く、しかもそれがニードルの長さの分だけ続く。真緒は圭司の服を握った手に力を込めた。
「まーお。俺見て。目、見て」
落ちてしまった瞼を上げて圭司を見つめる。自分の視界が濡れているせいか、彼の瞳もまた濡れているように見えた。
あの不思議な瑠璃色の瞳に、どこか恍惚とした表情の自分が映っている。この先に自分を待ち受けているものを、恐れているようにも、期待しているようにも見える。肉体を確かに貫いていく針の痛み。真緒は睫毛に涙の粒を乗せてただひたすらに耐えた。
「ほら、ピアス通るよ。ニードルも抜ける……」
糸引くように痛みを残して抜けていくニードル。「んう」思わず声が出てしまい、真緒は口元を抑えた。「動かない。キャッチ着けてるとこだから」心臓がうるさい。耳の先まで心臓になったみたいにバクバクする。今日はもう片耳だけでいい。そう思った矢先、圭司はもう反対の耳の準備に取り掛かってしまった。
「反対開けるよ。俺の目、見て」
「待って、きょーちゃん、ちょっと休ませて」
「休んだらもっと怖くなる。……開けるよ」
やっぱり、圭司は「きょーちゃん」ではない。ニードルが皮膚を突き破り、その厚みよりもずっと深く肉を刺し抜く。真緒は息を詰まらせた。思わず縋った圭司の両肩は自分のそれよりもずっとがっちりしていて男らしかった。
「うん、綺麗に開いたんじゃない?ピアスがニードルと同じゲージだったから出血も少ないし。……痛かった?」
「思ったより痛かった……」
涙を拭きながら訴えると圭司は目を細めて微笑んだ。圭司に見つめられていると実感し、真緒の頬が熱くなる。心臓がいつまでも落ち着かない。両耳のファーストピアスを熱心に見つめる圭司に耐えかねて、真緒は彼の胸を軽く押し返した。
「なに?穴開けてやったのに、冷たいヤツ」
「違う、近いんだって。きょーちゃんだって俺に近い離れろって言ったじゃん」
「そうだったっけ?」
とぼけるだけで離れてくれない圭司に真緒の身体が熱くなっていく。
「俺は好きな時に真緒に近づいていいんだよ。だって真緒は俺のおもちゃじゃん。自分のおもちゃでいつ遊ぼうが、俺の勝手」
顎を撫でていた指が真緒の下唇の輪郭を崩した、その時だった。
ドアの向こうからドタドタと階段を駆け上がる足音が響き渡る。真緒よりも先に、圭司が身体を離した。
「圭司!真緒お!」
弾けるように開いたドアから飛び出してきたのは瞼を腫らした京一だった。「きょーちゃん!?」思わず立ち上がる真緒の手首を圭司の手がすかさず掴む。ハッとして見やれば、圭司は言葉を堪えるように唇を噛みしめた。視線を交わす二人の間に京一が割り込んで来る。
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「フラれたって……噓でしょ?」
「保護猫のボランティア活動と仕事に集中したいって。俺が求めているものを自分じゃ与えられないからって。だから別れて欲しいって……」
寂しがりやの京一を思い、真緒はそれ以上の言及を止めた。仕事とボランティア活動に精を出す彼女が京一とすれ違っていく姿が、はっきりと想像できてしまった。
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顔を上げた京一は鼻を赤くして目を潤ませている。真緒は圭司に掴まれた手とは反対の手を伸ばし京一の背を摩った。
「そんなの知るかよ」
放り出されるように圭司の手から解放される真緒の手。乾いた笑みを浮かべた圭司がおもむろに立ち上がる。
「そんなの本人に訊けよ。俺が知るわけねーだろ」
「圭司、なんだよ、慰めてくれたっていいだろ」
「なんで俺がそんなことしなくちゃなんないの?……真緒にでも甘えとけば?」
ニヒルな笑みを浮かべ、圭司は自室を去って行く。「けい君!」真緒は圭司を追おうと立ち上がったが、「真緒」と京一に呼び止められ眼差しを震わせた。
「ごめん、きょーちゃん、けい君が心配だから、行ってくる!」
自身の名を呼んだ京一の声を振りほどき、真緒は階段を駆け下りた。
「けい君!」
玄関で靴を履いていた圭司が真緒を振り返り目を見開く。けれどそれも一瞬のこと。圭司の瞳は真緒から興味をなくして前を向いてしまった。胸が、ぎゅっとしめつけられた。圭司に力いっぱいつねられた時よりも、ずっと強い痛みだった。
「きょーちゃん!」
圭司の肩がわずかに反応する。「きょーちゃんっ!」真緒は走り寄り圭司の背を掻き抱いた。そうでもしないと圭司がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
「俺はきょーちゃんじゃないよ。お前のきょーちゃんも戻って来たし、もうお前は俺をそう呼ばなくたっていい」
いやだ、そんなのいや。まだ俺のきょーちゃんでいて。真緒は圭司の背に擦りつけるように頭を振り立てた。
「失恋した後ってさ、優しくしとくと得だよ。……俺も経験あるから分かる。こんなことしてないで京一のとこ戻りな」
きつく回していた手に触れられて、真緒は自分がどうしたらいいのか分からなくなった。
つねって、けい君。
なぜかそう思った。
痣になるくらい、涙が出るくらい、つねって。
「俺のおもちゃっていうのも、もう止めてあげる」
「けい君っ」
「次は頑張りなよ。あいつが満足するほどあいつを愛せるのは、お前くらいなんだから」
圭司はそう言って真緒の手をほどくと、扉の向こうに消えた。
もう俺、けい君のおもちゃじゃないんだ。そう思うと、ばかみたいに身軽で、ばかみたいに心細かった。
ニードルで貫かれた耳たぶが、いつまでも痛くて熱い。圭司の優しさの棘が、真緒の心臓を刺し抜いた。その棘は真っ直ぐで鋭くて、胸が詰まるくらい美しかった。
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