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星に抱きしめられて(美広視点)
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演劇の聖地である下北沢。その一角に佇む木田劇場。ホールというには小さく、小劇場というには大きい。傾斜のある客席が観客との一体感を持たせてくれる、特別な場所。美広達はそこで『エイト、アタマのナカのファイブ』を上演している。当初は十二月の中旬から年を跨いで一月末までの上演予定だった。
十二月の間は『アクトレス・ナイト』で主演を務めた川中目当ての客と、窪塚のネームバリューに惹かれた客が半々になったような客席だった。
きっかけは『アクトレス・ナイト』で川中のファンになったという演劇評論家のSNS。
『アクナイで主役を務めた川中ひまりを筆頭に、五つの感情を演じる役者達の演技の幅には驚かされた。嫌悪演じる佐藤美広の感情の爆発。そこから物語が加速する。主人公を演じるのがヒューマノイドであったりとケレン味の強い本作だが、予想外に演劇の根っこの旨味を味わえた。何よりヒューマノイドを含めたチームの結束を感じる。窪塚の演出家としてのバランス感覚はさすが。一見の価値あり。』
テレビ番組の構成作家も務める彼の評論には定評がある。そこから一気に客が増えた。
舞台は追加公演が決定。その間に役のシャッフルや一時的なキャスト増員などイベント的な要素も追加され、あっという間にロングランへ突入。年を越したら別のオーディションを受けなければと思っていたのに、美広は春先まで嫌悪役を演じることになった。
「三月末で一旦区切りにしようか。最後までこの調子でやっていこう!」
窪塚からそう伝えられたのは二月上旬のことで、現実味がまるでなかった。皆、日々変化し続けるこの舞台に適応するので必死だったからだ。
けれど、はじまりがあれば、終わりがある。
「今日で終わりなんて、嘘みたい」
舞台袖で川中が呟いた。
「まだ終わってない。はじまってもないよ」
英人が川中の手を握る。川中は微笑んで、英人の手を握り返した。「そうね。英人の言う通り。気を抜くのは早いよね」他のメンバーもその会話を聞いて、上を向いた。この物語はまだ、終わってない。
「ソニアちゃんは綺麗だ。女のひとの背中がこんなにも真っ白なんだっていうことを、僕は初めて知った」
スポットライトが英人に当たる。表情に浮かべた笑みには興奮というよりも温みのある感情が乗っていて、主人格が穏やかな気性なのだと五人へ伝えてくれた。
英人はソニアと交流を持つうち、彼女の脆さに気が付く。彼女を守ろうと奮闘する英人だが空回るばかりで、ついにソニアからも愛想を尽かされることになる。
「ソニアちゃんに嫌われた……」
悲しみは声を震わせて蹲る。「もう会ってくれなくなったら……どうしよう!」恐れも頭を振り立てて悲しみにしな垂れた。ここはいつも双子のように寄り添い合っている。
「好きの反対は無関心だよ。僕に関心を持ってくれてるってことじゃないの?」
喜びはそんなことを言うがやや離れた場所におり四人の耳には届かない。
「許せない!なんで僕が嫌われるんだ?悪いのはワダだ!」
状況問わずエネルギーに満ち満ちた怒り。他の四人は顔を顰める。膝を抱えていた嫌悪がその奥で立ち上がった。
「お前らが身の程以上のものを望んだからだ」
嫌悪の矛先は自身に向かっている。他の四つと嫌悪の決定的な違いはここにある。
この脚本の中で、嫌悪はいつだって自分自身と現実を責め、苦しんでいる。英人の自意識は嫌悪に凝縮されているのだ。
「こんな僕が!あのオンナの特別になれるわけがないだろ!俺のことはどうせ遊びだったんだ!ワダも、あのオンナも、僕も……みんなクズだ!」
嫌悪は前半までの寡黙ぶりが嘘だったかのように立ち回って一つ一つの感情に難癖をつけていく。美広はいつもそこで切なくなる。
ソニアのことを罵りながら、根っからソニアを求めているのは嫌悪だ。彼は常にもがいていて、いたいけに感じるほど一生懸命だ。嫌悪は怒りとは別種類のエネルギーの固まりで、だからこそソリが合わない。嫌悪と怒りの間に不穏が漂う。
「お前が自分勝手に英人を支配するから……!お前のッ、お前のせい!全部全部っ、お前のせい!」
怒りに馬乗りになった嫌悪がナイフを振り上げたところへ気の優しい恐れが飛び込んでくる。嫌悪は恐れを、刺してしまう。
美広の眦から感情の高ぶりがこぼれる。
ここからは台詞がない。
幼い頃から抑え込んできた感情が、爆発する。腹の底から記憶の底から怒涛の勢いで傾れくる感情の渦に身を任せる。美広は、そこが舞台だということを、忘れる。
悲しかったよね。悔しかったよね。怖かったよね。もう、大丈夫。
サスペンス色の強くなっていく赤い照明の落ちた板の上で、美広は過去の自分を抱きしめ、慰める。
僕の頭の中に、入ってきて、いいよ。
ずっとずっと、ごめんね。今、迎えに来たよ。
君をもう二度と、置いて行ったりしない。
他の感情達は美広の嫌悪を受けた演技をしてくれる。
感情が波紋になって伝播する。
喜びは意を決して嫌悪を抱き寄せる。その他の感情達もつられて嫌悪に縋りつき、五つの感情は、一つになる。
「あ……」
観客の声が、小さく響く。
千秋楽のラスト。通常であれば英人が血濡れたナイフを持っている場面で暗転するラストだが、今日は違う。
英人が笑って観客に手を振り、闇に帰って行く。英人は何度も同じ時空をループして、やっと愛するソニアを殺さずに済んだのだ。
これを窪塚に提案したのは川中だった。その提案は嫌悪には救いのあるラストなのに英人に救いがないのはおかしい、という真っ直ぐ過ぎる指摘だった。このラストをどう受け取るかは観客次第。それでも、六人にはこのラストしか考えられなかった。
カーテンコール。最初で最後のスタンディング・オーベーション。夏の夕立ちのように、拍手と歓声が六人へと降り注ぐ。
六人で手を繋いで舞台に出た。
ココロのありかはどこだろう。ココロってなんだろう。どんな形?匂い?多分、舐めると甘い。触るとつるつるしてる。丁度、僕の隣に居る、ヒューマノイドの手のひらのように。
美広は英人に微笑みかけた。英人もそれに応えて微笑んでくれた。
「ヤダ、もう、泣きたくなんか、なかったのに」
いつも気丈な川中が涙をこぼしたからか、皆つられて涙目になってしまった。涙を拭う美広。その視界の端で、よく知った背丈の男性が立ち上がった。
「……」
血のりにまみれた美広は会場の隅を見つめて息を飲んだ。
立って拍手している、バケットハットを深く被った男性……。
「マスター」
美広の呟きが拍手の音に掻き消された。
マスター。どうして。……どうしてここに。
幕が下がると同時に、美広は弾かれたように舞台袖を飛び出した。
「あ!ケンオ君じゃん!ケンオ君、一緒に撮らせてもらっても……」
美広の周りに人だかりが出来てしまう。「う、あ、ごめんなさい、あの、ちょっと通して頂けると……」人混みの中から黒い帽子を被った頭を探すが、見当たらない……。美広は必死になって人混みを掻き分けようとした。
「はーい注目!血のりベッタリの人より俺と撮りたい人!手え上げて!」
ラストの状態のまま出て来た美広の後ろから高梨が現れる。目を丸くしている美広に高梨は顎をしゃくった。
「よく分かんねーけど。佐藤さん、行って。ここは俺がオトリになるわ」
見渡すと、あとのキャストも全員出て来て撮影会のようなことが始まっていた。「あ……ありがとう!」美広は全速力でその場から飛び出した。
マスター、来てたんだ。僕の芝居を観に来てくれたんだ。
胸が、息が逸る。会いたかった。ずっとずっと、会いたかった。その背中を追いかけて気が付いた。彼がどれだけ遠い人なのかということを。
「……あ……」
劇場の階段を下りきって道路に視線をやる。
居ない。
「マスター……」
もう自分は彼のヒューマノイドでもないのに、美広はその名で彼を呼んだ。
血のりの付いたシャツをはためかせている美広を見て通行人がぎょっとしたような顔になる。駄目だ、戻ろう、一度着替えて、それから……。でも間に合うの?もう、会えないかもしれない、もう二度と――。
「う……」
視界がぐにゃりと歪む。喉の奥がせり上がって、鼻の奥がじんと熱くなった。
謝りたい。黙って出て行ったこと、勝手にネクタイを持って出たこと、嘘を吐いていたこと。
お礼も言いたい。芝居の楽しさを教えてくれて、優しくしてくれて、居場所を与えてくれて、頭を撫でてくれて。
でも、一番に伝えたいのは――。
「なに泣いてんの?」
美広の背を、懐かしい声がノックした。
振り向いたはずみに、美広の眦からまたひとつ涙が転がった。
金色の髪を風に揺らしている彼。体躯も三年の間に随分がっちりとして、眼差しも落ち着いたように見える。
「ますたー」
呼ぶと、佳澄は呆れたように笑った。
「お前、いつまで俺のヒューマノイドの気分なわけ?……初めまして、佐藤美広さん。俺のこと、知らないわけないよね?」
手を差し出されて、美広は瞳を瞬かせた。マスターが僕の名前……。
どっどっどっ……、と胸の鼓動がうるさく脈打つ。手が震えて、指先まで鼓動が伝播して、けれど美広は佳澄の手を迷わず取った。きゅっ、と握り返されると伝わってくる、懐かしい温度。三年前の記憶がぶりかえして、美広は顔をくしゃくしゃにした。大粒の涙がしとどにこぼれる。
「ま、ますたあ、ぼく、ごめんなさい、うそついて、だまってでてって」
泣きじゃくる美広の手を、佳澄はぐいと引いた。血のりの散った頬に、パーカーの胸が触れる。……佳澄の匂いがした。甘くて切ない、大好きな人の匂い。
左手で美広の手を、右手で腰を引き寄せる佳澄。美広の涙がその胸元に模様を作る。
「……それだけ?」
尋ねられ、美広はひくんと喉を鳴らした。
「ずっと、ずっと見てました。テレビでも、スマホでも、雑誌でも……。マスターが頑張ってるところ……かっこいいところ、見てました。マスターはすごい。ふぁ、ファンに……なっちゃいました」
「ふ。それは嬉しいけど。もっと他にないの?」
「ほか……ほかにもありますっ。お芝居の楽しさや奥深さ……教えてもらって。すごく優しく……してもらって。ここに居ていいって、言ってくれて。僕を安心させてくれて、褒めてくれて、ご飯も食べてくれて、困ったら助けてくれて……。ありがとうって、ずっと言いたかった、こんな僕を大事にしてくれてありがとうって……」
佳澄の背に手を伸ばして抱き寄せる。すると佳澄も抱擁に応えて、美広の背に腕を回してくれた。すっぽりと包まれると、まるで巣の中に居るみたいに安心した。
「うん。……うん。嬉しいよ。でもさ、俺は欲張りだから、もっと他のも欲しい」
この気持ちを、差し出してもいいのだろうか。
美広は一瞬迷って、けれど、胸越しに佳澄の心臓が逸っているのが分かって、自身の鼓動で声が掻き消されないようにと大きく息を吸った。
「すき。あなたが、すき」
三年も離れていたのに、一瞬だって、忘れることはなかった。
時を忘れるほどのきらめきを、あなたが僕にくれたから。
両手から溢れるくらい、くれたから。
「傍にいたい。ずっとずっと、あなたの傍にいたい」
藍色の瞳を見つめる。なぜか甘く詰るような声になってしまって、美広は頬を熱くした。
「……うん」
佳澄は頷いて、眼差しを柔らかくした。美広の胸の奥がきゅうんと疼いた。マスターだいすき。強く、強くそう思った。
「俺も、お前に傍にいて欲しい。すきだよ。ずっと、待ってた。ずっとずっと、お前を待ってた……」
溜め息の混じった言葉の尾。きつく抱きすくめられて、美広は胸を反らした。
「ふ、あ、くるしい、ますたー」
胸の中で押しつぶされながらそう言えば「佳澄だよ」と声が降ってきた。
「お前が人間で、良かった。お前が役者で良かった。お前が俺のとこに来てくれて、良かった。お前を待ってて良かった。今日ここに来て良かった。俺はお前がこの世界にいてくれることが嬉しい。……すきだよ、美広」
愛する人と唇を合わせると、こんなにも優しい気持ちになる。美広はそれを、生まれて初めて知った。
佳澄の温もりを唇を通して味わう。温かくて、優しくて、柔らかい。マスターはいつも、僕がずっと欲しかったものをくれる……。
唇を離すと、熱を共有していた分、唇が冷えて寂しさが募る。けれど佳澄の頬に移ってしまった血のりを見て、美広は微笑んだ。唇を離しても、こんなにも近くに佳澄がいる……。
「佳澄君。血のり、ほっぺに付いちゃいましたね」
「なんで敬語?俺達同い年でしょ。ウェブでプロフィール見たよ?」
「だって大先輩でしょう、佳澄君は……」
人差し指で頬に移った血のりを拭いながら言えば、佳澄は眉間に皺を寄せた。こんなやりとり一つでも胸が柔らかく締めつけられる。
「マスター」
美広は佳澄の胸に頬を寄せた。二つの心臓は途切れることなく脈打って、寄り添っている。
もう、離れませんように。
美広は温かな居場所に包まれて、まんまるの涙の粒をこぼした。
十二月の間は『アクトレス・ナイト』で主演を務めた川中目当ての客と、窪塚のネームバリューに惹かれた客が半々になったような客席だった。
きっかけは『アクトレス・ナイト』で川中のファンになったという演劇評論家のSNS。
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窪塚からそう伝えられたのは二月上旬のことで、現実味がまるでなかった。皆、日々変化し続けるこの舞台に適応するので必死だったからだ。
けれど、はじまりがあれば、終わりがある。
「今日で終わりなんて、嘘みたい」
舞台袖で川中が呟いた。
「まだ終わってない。はじまってもないよ」
英人が川中の手を握る。川中は微笑んで、英人の手を握り返した。「そうね。英人の言う通り。気を抜くのは早いよね」他のメンバーもその会話を聞いて、上を向いた。この物語はまだ、終わってない。
「ソニアちゃんは綺麗だ。女のひとの背中がこんなにも真っ白なんだっていうことを、僕は初めて知った」
スポットライトが英人に当たる。表情に浮かべた笑みには興奮というよりも温みのある感情が乗っていて、主人格が穏やかな気性なのだと五人へ伝えてくれた。
英人はソニアと交流を持つうち、彼女の脆さに気が付く。彼女を守ろうと奮闘する英人だが空回るばかりで、ついにソニアからも愛想を尽かされることになる。
「ソニアちゃんに嫌われた……」
悲しみは声を震わせて蹲る。「もう会ってくれなくなったら……どうしよう!」恐れも頭を振り立てて悲しみにしな垂れた。ここはいつも双子のように寄り添い合っている。
「好きの反対は無関心だよ。僕に関心を持ってくれてるってことじゃないの?」
喜びはそんなことを言うがやや離れた場所におり四人の耳には届かない。
「許せない!なんで僕が嫌われるんだ?悪いのはワダだ!」
状況問わずエネルギーに満ち満ちた怒り。他の四人は顔を顰める。膝を抱えていた嫌悪がその奥で立ち上がった。
「お前らが身の程以上のものを望んだからだ」
嫌悪の矛先は自身に向かっている。他の四つと嫌悪の決定的な違いはここにある。
この脚本の中で、嫌悪はいつだって自分自身と現実を責め、苦しんでいる。英人の自意識は嫌悪に凝縮されているのだ。
「こんな僕が!あのオンナの特別になれるわけがないだろ!俺のことはどうせ遊びだったんだ!ワダも、あのオンナも、僕も……みんなクズだ!」
嫌悪は前半までの寡黙ぶりが嘘だったかのように立ち回って一つ一つの感情に難癖をつけていく。美広はいつもそこで切なくなる。
ソニアのことを罵りながら、根っからソニアを求めているのは嫌悪だ。彼は常にもがいていて、いたいけに感じるほど一生懸命だ。嫌悪は怒りとは別種類のエネルギーの固まりで、だからこそソリが合わない。嫌悪と怒りの間に不穏が漂う。
「お前が自分勝手に英人を支配するから……!お前のッ、お前のせい!全部全部っ、お前のせい!」
怒りに馬乗りになった嫌悪がナイフを振り上げたところへ気の優しい恐れが飛び込んでくる。嫌悪は恐れを、刺してしまう。
美広の眦から感情の高ぶりがこぼれる。
ここからは台詞がない。
幼い頃から抑え込んできた感情が、爆発する。腹の底から記憶の底から怒涛の勢いで傾れくる感情の渦に身を任せる。美広は、そこが舞台だということを、忘れる。
悲しかったよね。悔しかったよね。怖かったよね。もう、大丈夫。
サスペンス色の強くなっていく赤い照明の落ちた板の上で、美広は過去の自分を抱きしめ、慰める。
僕の頭の中に、入ってきて、いいよ。
ずっとずっと、ごめんね。今、迎えに来たよ。
君をもう二度と、置いて行ったりしない。
他の感情達は美広の嫌悪を受けた演技をしてくれる。
感情が波紋になって伝播する。
喜びは意を決して嫌悪を抱き寄せる。その他の感情達もつられて嫌悪に縋りつき、五つの感情は、一つになる。
「あ……」
観客の声が、小さく響く。
千秋楽のラスト。通常であれば英人が血濡れたナイフを持っている場面で暗転するラストだが、今日は違う。
英人が笑って観客に手を振り、闇に帰って行く。英人は何度も同じ時空をループして、やっと愛するソニアを殺さずに済んだのだ。
これを窪塚に提案したのは川中だった。その提案は嫌悪には救いのあるラストなのに英人に救いがないのはおかしい、という真っ直ぐ過ぎる指摘だった。このラストをどう受け取るかは観客次第。それでも、六人にはこのラストしか考えられなかった。
カーテンコール。最初で最後のスタンディング・オーベーション。夏の夕立ちのように、拍手と歓声が六人へと降り注ぐ。
六人で手を繋いで舞台に出た。
ココロのありかはどこだろう。ココロってなんだろう。どんな形?匂い?多分、舐めると甘い。触るとつるつるしてる。丁度、僕の隣に居る、ヒューマノイドの手のひらのように。
美広は英人に微笑みかけた。英人もそれに応えて微笑んでくれた。
「ヤダ、もう、泣きたくなんか、なかったのに」
いつも気丈な川中が涙をこぼしたからか、皆つられて涙目になってしまった。涙を拭う美広。その視界の端で、よく知った背丈の男性が立ち上がった。
「……」
血のりにまみれた美広は会場の隅を見つめて息を飲んだ。
立って拍手している、バケットハットを深く被った男性……。
「マスター」
美広の呟きが拍手の音に掻き消された。
マスター。どうして。……どうしてここに。
幕が下がると同時に、美広は弾かれたように舞台袖を飛び出した。
「あ!ケンオ君じゃん!ケンオ君、一緒に撮らせてもらっても……」
美広の周りに人だかりが出来てしまう。「う、あ、ごめんなさい、あの、ちょっと通して頂けると……」人混みの中から黒い帽子を被った頭を探すが、見当たらない……。美広は必死になって人混みを掻き分けようとした。
「はーい注目!血のりベッタリの人より俺と撮りたい人!手え上げて!」
ラストの状態のまま出て来た美広の後ろから高梨が現れる。目を丸くしている美広に高梨は顎をしゃくった。
「よく分かんねーけど。佐藤さん、行って。ここは俺がオトリになるわ」
見渡すと、あとのキャストも全員出て来て撮影会のようなことが始まっていた。「あ……ありがとう!」美広は全速力でその場から飛び出した。
マスター、来てたんだ。僕の芝居を観に来てくれたんだ。
胸が、息が逸る。会いたかった。ずっとずっと、会いたかった。その背中を追いかけて気が付いた。彼がどれだけ遠い人なのかということを。
「……あ……」
劇場の階段を下りきって道路に視線をやる。
居ない。
「マスター……」
もう自分は彼のヒューマノイドでもないのに、美広はその名で彼を呼んだ。
血のりの付いたシャツをはためかせている美広を見て通行人がぎょっとしたような顔になる。駄目だ、戻ろう、一度着替えて、それから……。でも間に合うの?もう、会えないかもしれない、もう二度と――。
「う……」
視界がぐにゃりと歪む。喉の奥がせり上がって、鼻の奥がじんと熱くなった。
謝りたい。黙って出て行ったこと、勝手にネクタイを持って出たこと、嘘を吐いていたこと。
お礼も言いたい。芝居の楽しさを教えてくれて、優しくしてくれて、居場所を与えてくれて、頭を撫でてくれて。
でも、一番に伝えたいのは――。
「なに泣いてんの?」
美広の背を、懐かしい声がノックした。
振り向いたはずみに、美広の眦からまたひとつ涙が転がった。
金色の髪を風に揺らしている彼。体躯も三年の間に随分がっちりとして、眼差しも落ち着いたように見える。
「ますたー」
呼ぶと、佳澄は呆れたように笑った。
「お前、いつまで俺のヒューマノイドの気分なわけ?……初めまして、佐藤美広さん。俺のこと、知らないわけないよね?」
手を差し出されて、美広は瞳を瞬かせた。マスターが僕の名前……。
どっどっどっ……、と胸の鼓動がうるさく脈打つ。手が震えて、指先まで鼓動が伝播して、けれど美広は佳澄の手を迷わず取った。きゅっ、と握り返されると伝わってくる、懐かしい温度。三年前の記憶がぶりかえして、美広は顔をくしゃくしゃにした。大粒の涙がしとどにこぼれる。
「ま、ますたあ、ぼく、ごめんなさい、うそついて、だまってでてって」
泣きじゃくる美広の手を、佳澄はぐいと引いた。血のりの散った頬に、パーカーの胸が触れる。……佳澄の匂いがした。甘くて切ない、大好きな人の匂い。
左手で美広の手を、右手で腰を引き寄せる佳澄。美広の涙がその胸元に模様を作る。
「……それだけ?」
尋ねられ、美広はひくんと喉を鳴らした。
「ずっと、ずっと見てました。テレビでも、スマホでも、雑誌でも……。マスターが頑張ってるところ……かっこいいところ、見てました。マスターはすごい。ふぁ、ファンに……なっちゃいました」
「ふ。それは嬉しいけど。もっと他にないの?」
「ほか……ほかにもありますっ。お芝居の楽しさや奥深さ……教えてもらって。すごく優しく……してもらって。ここに居ていいって、言ってくれて。僕を安心させてくれて、褒めてくれて、ご飯も食べてくれて、困ったら助けてくれて……。ありがとうって、ずっと言いたかった、こんな僕を大事にしてくれてありがとうって……」
佳澄の背に手を伸ばして抱き寄せる。すると佳澄も抱擁に応えて、美広の背に腕を回してくれた。すっぽりと包まれると、まるで巣の中に居るみたいに安心した。
「うん。……うん。嬉しいよ。でもさ、俺は欲張りだから、もっと他のも欲しい」
この気持ちを、差し出してもいいのだろうか。
美広は一瞬迷って、けれど、胸越しに佳澄の心臓が逸っているのが分かって、自身の鼓動で声が掻き消されないようにと大きく息を吸った。
「すき。あなたが、すき」
三年も離れていたのに、一瞬だって、忘れることはなかった。
時を忘れるほどのきらめきを、あなたが僕にくれたから。
両手から溢れるくらい、くれたから。
「傍にいたい。ずっとずっと、あなたの傍にいたい」
藍色の瞳を見つめる。なぜか甘く詰るような声になってしまって、美広は頬を熱くした。
「……うん」
佳澄は頷いて、眼差しを柔らかくした。美広の胸の奥がきゅうんと疼いた。マスターだいすき。強く、強くそう思った。
「俺も、お前に傍にいて欲しい。すきだよ。ずっと、待ってた。ずっとずっと、お前を待ってた……」
溜め息の混じった言葉の尾。きつく抱きすくめられて、美広は胸を反らした。
「ふ、あ、くるしい、ますたー」
胸の中で押しつぶされながらそう言えば「佳澄だよ」と声が降ってきた。
「お前が人間で、良かった。お前が役者で良かった。お前が俺のとこに来てくれて、良かった。お前を待ってて良かった。今日ここに来て良かった。俺はお前がこの世界にいてくれることが嬉しい。……すきだよ、美広」
愛する人と唇を合わせると、こんなにも優しい気持ちになる。美広はそれを、生まれて初めて知った。
佳澄の温もりを唇を通して味わう。温かくて、優しくて、柔らかい。マスターはいつも、僕がずっと欲しかったものをくれる……。
唇を離すと、熱を共有していた分、唇が冷えて寂しさが募る。けれど佳澄の頬に移ってしまった血のりを見て、美広は微笑んだ。唇を離しても、こんなにも近くに佳澄がいる……。
「佳澄君。血のり、ほっぺに付いちゃいましたね」
「なんで敬語?俺達同い年でしょ。ウェブでプロフィール見たよ?」
「だって大先輩でしょう、佳澄君は……」
人差し指で頬に移った血のりを拭いながら言えば、佳澄は眉間に皺を寄せた。こんなやりとり一つでも胸が柔らかく締めつけられる。
「マスター」
美広は佳澄の胸に頬を寄せた。二つの心臓は途切れることなく脈打って、寄り添っている。
もう、離れませんように。
美広は温かな居場所に包まれて、まんまるの涙の粒をこぼした。
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