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転がり始めた運命(美広視点)
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初舞台は目まぐるしく過ぎて、正直なところ記憶にない。
美広はカーテンコールでやっと、スポットライトの向こうに観客がいることに気が付いた。息が次第に上がって、自分の胸がこれ以上なく逸っていることに気付く。それを掻き消さんばかりの、土砂降りのような拍手。喝采を頭から浴びると、美広の身体の細胞が一つ残らず震えた。
ああ、こんな景色を、マスターは……。
「聞いた?秋からはじまる『エリザベート』、トート役に犬飼伸之と間宮倫太郎が決まったらしいよ。帝宝の営業さんが言ってたからホントだよきっと」
「マジで?ますますチケット取りにくくなるな」
帰り支度をしているメンバーが美広の隣でぼやき合う。社交的でない美広でもその噂は知っている。帝宝ミュージカル『エリザベート』は舞台俳優を志す者なら誰しも一度は憧れる演目だ。ここ四年、ルドルフ役とフランツ役を行き来していた犬飼が、満を持してのトート。花村月人シリーズでもタッグを組んでいる間宮とのダブルキャストは大きな話題になるだろう。
けれど美広が気になっているのは一人の若手俳優のことだった。
マスターもきっとメインキャストオーディションを受けたはず。彼は自身の望んだ役をもらえたのだろうか……。
四年前に事故で亡くなる直前まで、廣田はトートを演じていた。事故は公演期間中のことで、廣田の急死を受けルドルフを演じていた間宮の手にトートが渡った。以後、帝宝『エリザベート』のトートは間宮倫太郎が四年連続で演じている。
マスターはトートが演りたかったんじゃないのかな。美広にはそう思えてならなかった。
僕も頑張らなくちゃ。美広は上を向いて表情を引き締めた。
「あれ?サトさん、今日は舞台があったんじゃないの?」
夕方、事務所の稽古室でストレッチをしていると学校帰りの金の卵達が美広の周りに集まって来た。
「うん。でも、十二時のやつだけだったから。今日はボイトレもあるし、早めに入ってちょっと身体動かそうかなって」
「サトさんて鉄人だよな~。俺だったらウチ帰ってるわ」
「僕はもうこんな年齢だしさ。背水の陣だよね、正直な所……」
美広は自虐的な言葉をこぼしたが、その瞳はきらきらと輝いている。「サトさん無理すんなよ~」「俺がビッグになったらサトさんをプロデューサーとかに紹介してやるから」「サトさんだったら次のオーデ受かるって」妹とそう変わらない年齢の男の子によってたかって慰められ、美広は苦笑いした。
今年で二十六。俳優としては遅い出発だったこともあり、後がない。けれど後がないからこそ、燃える。崖の際でいるような人生が自分には似合っている。
「うわ!ヤバ!見てコレ!公式から『エリザベート』のキャスト発表出てる!」
レッスン着の青年がスマートフォンを片手に上ずった声を上げる。舞台の控室も『エリザベート』の話題で持ちきりだったのに、今日の内にキャスト発表。美広は我関せずでストレッチを続けた。
「え!?マジ?マジじゃん!やべえ!」
きっと間宮と犬飼のことだろう。美広は涼しい顔でストレッチを再開した。
「周防佳澄!ルドルフ役だって!すっご!」
「……えっ!?」
美広は百八十センチを超える長身の集まりに割って入った。
「み、見せて!」
「うん、ああ、いいけど……」
もう既にビジュアルが公開されている。間宮のトートが美しいのは勿論だが、犬飼のトートは野性味がありながらも甘い色香を感じさせた。美広はキャストの名を順に目で追った。
――ルドルフ役 周防佳澄
マスターが、ルドルフを……。
間宮のトートと佳澄のルドルフの『闇が広がる』……!美しいに決まっている!頬をピンクにしてはふはふと息を弾ませはじめる美広に金の卵たちは小首を傾げた。
僕も……僕も、頑張らないと!
拳を握って気合いを入れる……と、美広のジャージのポケットでスマートフォンが震えた。マネージャーからだ。ついてくれているマネージャーは自分のような売れない役者を何人も抱えていて、個人のスマートフォンには滅多に連絡を入れて来ない。なにかあったのかもしれないと、美広は稽古場を出てスマートフォンを耳に当てた。
『あ、佐藤君?今、大丈夫?』
もしかして受けまくっているオーディションで何か粗相でもしてしまったのだろうか。美広はびくびくしながら「はい……」と返事をした。
『去年受けた『アクトレス・ナイト』の演出家の窪塚さん分かる?今年の冬から窪塚さん演出でオリジナル脚本の舞台があるそうで、佐藤君もオーディション受けてみないかってお誘いがうちに直接あって』
「ええっ!?」
うそだ……あんなに生意気な態度を取ったのに!美広の沈黙に心中を察したのかマネージャーは電話の向こうで笑った。
『舞台に立つと妙に堂々としてるところがイイってさ。オーディションの日についてなんだけど……。今、スケジュール確認出来るものある?』
美広は落ち着かない胸を押さえながら、急いで稽古場に戻り手帳を手に取った。
「おお。来てくれたんだ?」
オーディション会場の小劇場に着くなり、美広の肩を親しげに叩いた男。窪塚さんってこの人か!美広は「お声掛け頂いて光栄です……」と冷や汗をかきながら頭を下げた。美広を、廣田一成そっくりと評したスパイラルパーマの男こそ、演出家の窪塚だったのだ。
あの時、イラッとして睨んじゃったかも。やってやるぜ!なんて柄にもなく思って生意気な顔してたかも……!美広は蒼褪めていった。
「またあの小生意気な顔で舞台に立ってよね~。俺、ああいうの大好物だから」
美広の旋毛に一枚岩が落ちてくる。うう、もう、ダメかも……。項垂れる美広にオーディション用の台本が渡された。
「事務所から歌と台詞とダンスの動画はもらってるから。今日は演じるだけ。緊張しないで、ちょっとしたワークショップだと思って参加して」
無理、絶対無理。「分かりました……」消え入りそうな声で返事をすると、窪塚は笑顔で去って行った。バチバチに火花が飛び散っているオーディション会場の中で、美広はいくつもの鋭い視線にさらされた。
配られたオーディション用の台本は十頁程のものだった。
タイトルは『エイト、アタマのナカのファイブ』。
主人公・英人の頭の中に棲む五つの感情とその闘争を描いたサスペンス。キャストは喜び、嫌悪、悲しみ、恐れ、怒り、そして主人公の英人。
「じゃあ……スタープロモーションから高梨洋介君、モリプロダクションから佐藤美広君、バーンズプロから川中ひまりさん、前にどうぞ」
台本を握って前に出る。
「高梨君は喜び。佐藤君は嫌悪。川中さんは怒り。冒頭からどうぞ」
美広は台本を一度開いて、閉じた。息を吐いて……吸う。
「やだよお……」
冒頭の台詞は嫌悪のもの。がくっと俯き自身の肩を抱く美広。絞り出した声は震えている。「なーにが嫌なんだよ!女の子に触れるチャンスじゃん!」喜びを演じる高梨が美広の肩を親しげに引き寄せた。嫌悪はぐっと顔を歪めた。
「やなもんは……やなんだよ!大体こんなサークル、頭悪い人間の集まりだろ。その中に居るオンナなんだ、バカに決まってる……」
「はあ!?何言ってんの!?そんなんだから童貞なんだろいつまで経っても!」
怒りを演じる川中は目をすがめ人差し指で嫌悪の額をずいずい小突いた。「イテーんだよ。やめろ、やめろって……」嫌悪の抵抗は次第に緩慢になり、やがて力なく項垂れたままなんの抵抗もしなくなる……。
「うん!そこまで!じゃ、シャッフルしてみよっか!喜びは川中さん、怒りは佐藤君、嫌悪は高梨君ね~。……ただし。さっきのキャラクターのままで、演じてみようか!」
台本を確認していた三人の面がぱっと上がる。感情はシャッフルしてキャラクターは先程のもの……?
「……嫌だよ!」
快活な声だが頑なな意思が感じられる。嫌なものは嫌!というような高梨の演技に美広と川中ははたとした。
「なにが嫌なんだよ!?女の子に触れるチャンスじゃんっ!」
強引に高梨を引き寄せる川中。嫌悪を非難するような声。喜びは楽しいことがこの後に待っているのにと焦れている。
「嫌なもんは嫌なんだよ。大体こんなサークル……頭悪い人間の集まりだろ?その中に居るオンナなんだ……バカに決まってる!」
決めつけて頑なに喜びを受け入れようとしない嫌悪。そこに怒りの美広がやって来る。
「はあ?何言ってんの?そんなんだから童貞なんだろ……いつまで経っても……」
顎を反らして嫌悪を見下す怒り。額には青筋が浮かんでいる。美広は容赦なく高梨の尻を蹴った。「イテーんだよっ。やめろ!」嫌悪の虚勢でワンシーンが締めくくられた。
「お!いいね!……で、このオーデの趣旨分かってきたところで!もう一回やろっか!喜びは佐藤君、嫌悪は川中さん、怒りは高梨君で!……キャラクターはそのままね」
感情を入れ替え、キャストを入れ替え、キャラクターを入れ替え、参加者は窪塚の手のひらの上で転がされてしまう。会場に集められた全員が解放されたのはそれから四時間が経ってから。会場を去る者は皆、疲労困憊で溜め息を吐いていた。
それから一か月が経っても、オーディションの返事はなかった。
美広自身も『レ・ミゼラブル』の十二役をこなすので精一杯の日々。オーディションを受けたことさえ忘れかけた頃……。
「佐藤君、決まったよ」
事務所の稽古場で筋トレをしていた美広に、ついでに、といった様子でマネージャーが声をかけた。五キロのダンベルを両手に持った美広は「え?」と間抜けな声を出した。
「窪塚さんの舞台、嫌悪役で決まったよ。ということで、受けるオーデちょっとだけ減らしてもらってもいい?」
頭が、真っ白になった。役。名前のある役が、もらえた。僕にとって初めての……!
「あ……はい!頑張ります!」
「あはは。顔合わせ近日中にあるからよろしくね。スケジュール、スマホに送ってるから確認しといて」
去っていくマネージャー。美広はダンベルを放ってスマートフォンに飛びついた。
マスターに報告しなきゃ!けれど、連絡先も知らなければ、杉崎との約束の三年も経っていない。熱くなっていた美広の胸に風が吹き抜けていく。
会いたい。会って、顔を見て、話したい。今までのこと……。
ただただ憧れて彼に追いつきたいと思う一心で、今までちっともそう思わなかったのに。なぜか無性に会いたくなって、美広の視界がにじんだ。マスターに伝えたら頭を撫でてくれるかな。それとも、怒られる?「勝手にネクタイ持って行かないでよ」って……「俺に嘘を吐いたな」って……。
美広は涙がこぼれないように上を向いた。僕も、負けない。自分にだけは。
「出来るかじゃない。演るんだ」
魔法の呪文を呟くと、心が落ち着く。美広は涙を拭って自身の両頬を叩いた。
美広はカーテンコールでやっと、スポットライトの向こうに観客がいることに気が付いた。息が次第に上がって、自分の胸がこれ以上なく逸っていることに気付く。それを掻き消さんばかりの、土砂降りのような拍手。喝采を頭から浴びると、美広の身体の細胞が一つ残らず震えた。
ああ、こんな景色を、マスターは……。
「聞いた?秋からはじまる『エリザベート』、トート役に犬飼伸之と間宮倫太郎が決まったらしいよ。帝宝の営業さんが言ってたからホントだよきっと」
「マジで?ますますチケット取りにくくなるな」
帰り支度をしているメンバーが美広の隣でぼやき合う。社交的でない美広でもその噂は知っている。帝宝ミュージカル『エリザベート』は舞台俳優を志す者なら誰しも一度は憧れる演目だ。ここ四年、ルドルフ役とフランツ役を行き来していた犬飼が、満を持してのトート。花村月人シリーズでもタッグを組んでいる間宮とのダブルキャストは大きな話題になるだろう。
けれど美広が気になっているのは一人の若手俳優のことだった。
マスターもきっとメインキャストオーディションを受けたはず。彼は自身の望んだ役をもらえたのだろうか……。
四年前に事故で亡くなる直前まで、廣田はトートを演じていた。事故は公演期間中のことで、廣田の急死を受けルドルフを演じていた間宮の手にトートが渡った。以後、帝宝『エリザベート』のトートは間宮倫太郎が四年連続で演じている。
マスターはトートが演りたかったんじゃないのかな。美広にはそう思えてならなかった。
僕も頑張らなくちゃ。美広は上を向いて表情を引き締めた。
「あれ?サトさん、今日は舞台があったんじゃないの?」
夕方、事務所の稽古室でストレッチをしていると学校帰りの金の卵達が美広の周りに集まって来た。
「うん。でも、十二時のやつだけだったから。今日はボイトレもあるし、早めに入ってちょっと身体動かそうかなって」
「サトさんて鉄人だよな~。俺だったらウチ帰ってるわ」
「僕はもうこんな年齢だしさ。背水の陣だよね、正直な所……」
美広は自虐的な言葉をこぼしたが、その瞳はきらきらと輝いている。「サトさん無理すんなよ~」「俺がビッグになったらサトさんをプロデューサーとかに紹介してやるから」「サトさんだったら次のオーデ受かるって」妹とそう変わらない年齢の男の子によってたかって慰められ、美広は苦笑いした。
今年で二十六。俳優としては遅い出発だったこともあり、後がない。けれど後がないからこそ、燃える。崖の際でいるような人生が自分には似合っている。
「うわ!ヤバ!見てコレ!公式から『エリザベート』のキャスト発表出てる!」
レッスン着の青年がスマートフォンを片手に上ずった声を上げる。舞台の控室も『エリザベート』の話題で持ちきりだったのに、今日の内にキャスト発表。美広は我関せずでストレッチを続けた。
「え!?マジ?マジじゃん!やべえ!」
きっと間宮と犬飼のことだろう。美広は涼しい顔でストレッチを再開した。
「周防佳澄!ルドルフ役だって!すっご!」
「……えっ!?」
美広は百八十センチを超える長身の集まりに割って入った。
「み、見せて!」
「うん、ああ、いいけど……」
もう既にビジュアルが公開されている。間宮のトートが美しいのは勿論だが、犬飼のトートは野性味がありながらも甘い色香を感じさせた。美広はキャストの名を順に目で追った。
――ルドルフ役 周防佳澄
マスターが、ルドルフを……。
間宮のトートと佳澄のルドルフの『闇が広がる』……!美しいに決まっている!頬をピンクにしてはふはふと息を弾ませはじめる美広に金の卵たちは小首を傾げた。
僕も……僕も、頑張らないと!
拳を握って気合いを入れる……と、美広のジャージのポケットでスマートフォンが震えた。マネージャーからだ。ついてくれているマネージャーは自分のような売れない役者を何人も抱えていて、個人のスマートフォンには滅多に連絡を入れて来ない。なにかあったのかもしれないと、美広は稽古場を出てスマートフォンを耳に当てた。
『あ、佐藤君?今、大丈夫?』
もしかして受けまくっているオーディションで何か粗相でもしてしまったのだろうか。美広はびくびくしながら「はい……」と返事をした。
『去年受けた『アクトレス・ナイト』の演出家の窪塚さん分かる?今年の冬から窪塚さん演出でオリジナル脚本の舞台があるそうで、佐藤君もオーディション受けてみないかってお誘いがうちに直接あって』
「ええっ!?」
うそだ……あんなに生意気な態度を取ったのに!美広の沈黙に心中を察したのかマネージャーは電話の向こうで笑った。
『舞台に立つと妙に堂々としてるところがイイってさ。オーディションの日についてなんだけど……。今、スケジュール確認出来るものある?』
美広は落ち着かない胸を押さえながら、急いで稽古場に戻り手帳を手に取った。
「おお。来てくれたんだ?」
オーディション会場の小劇場に着くなり、美広の肩を親しげに叩いた男。窪塚さんってこの人か!美広は「お声掛け頂いて光栄です……」と冷や汗をかきながら頭を下げた。美広を、廣田一成そっくりと評したスパイラルパーマの男こそ、演出家の窪塚だったのだ。
あの時、イラッとして睨んじゃったかも。やってやるぜ!なんて柄にもなく思って生意気な顔してたかも……!美広は蒼褪めていった。
「またあの小生意気な顔で舞台に立ってよね~。俺、ああいうの大好物だから」
美広の旋毛に一枚岩が落ちてくる。うう、もう、ダメかも……。項垂れる美広にオーディション用の台本が渡された。
「事務所から歌と台詞とダンスの動画はもらってるから。今日は演じるだけ。緊張しないで、ちょっとしたワークショップだと思って参加して」
無理、絶対無理。「分かりました……」消え入りそうな声で返事をすると、窪塚は笑顔で去って行った。バチバチに火花が飛び散っているオーディション会場の中で、美広はいくつもの鋭い視線にさらされた。
配られたオーディション用の台本は十頁程のものだった。
タイトルは『エイト、アタマのナカのファイブ』。
主人公・英人の頭の中に棲む五つの感情とその闘争を描いたサスペンス。キャストは喜び、嫌悪、悲しみ、恐れ、怒り、そして主人公の英人。
「じゃあ……スタープロモーションから高梨洋介君、モリプロダクションから佐藤美広君、バーンズプロから川中ひまりさん、前にどうぞ」
台本を握って前に出る。
「高梨君は喜び。佐藤君は嫌悪。川中さんは怒り。冒頭からどうぞ」
美広は台本を一度開いて、閉じた。息を吐いて……吸う。
「やだよお……」
冒頭の台詞は嫌悪のもの。がくっと俯き自身の肩を抱く美広。絞り出した声は震えている。「なーにが嫌なんだよ!女の子に触れるチャンスじゃん!」喜びを演じる高梨が美広の肩を親しげに引き寄せた。嫌悪はぐっと顔を歪めた。
「やなもんは……やなんだよ!大体こんなサークル、頭悪い人間の集まりだろ。その中に居るオンナなんだ、バカに決まってる……」
「はあ!?何言ってんの!?そんなんだから童貞なんだろいつまで経っても!」
怒りを演じる川中は目をすがめ人差し指で嫌悪の額をずいずい小突いた。「イテーんだよ。やめろ、やめろって……」嫌悪の抵抗は次第に緩慢になり、やがて力なく項垂れたままなんの抵抗もしなくなる……。
「うん!そこまで!じゃ、シャッフルしてみよっか!喜びは川中さん、怒りは佐藤君、嫌悪は高梨君ね~。……ただし。さっきのキャラクターのままで、演じてみようか!」
台本を確認していた三人の面がぱっと上がる。感情はシャッフルしてキャラクターは先程のもの……?
「……嫌だよ!」
快活な声だが頑なな意思が感じられる。嫌なものは嫌!というような高梨の演技に美広と川中ははたとした。
「なにが嫌なんだよ!?女の子に触れるチャンスじゃんっ!」
強引に高梨を引き寄せる川中。嫌悪を非難するような声。喜びは楽しいことがこの後に待っているのにと焦れている。
「嫌なもんは嫌なんだよ。大体こんなサークル……頭悪い人間の集まりだろ?その中に居るオンナなんだ……バカに決まってる!」
決めつけて頑なに喜びを受け入れようとしない嫌悪。そこに怒りの美広がやって来る。
「はあ?何言ってんの?そんなんだから童貞なんだろ……いつまで経っても……」
顎を反らして嫌悪を見下す怒り。額には青筋が浮かんでいる。美広は容赦なく高梨の尻を蹴った。「イテーんだよっ。やめろ!」嫌悪の虚勢でワンシーンが締めくくられた。
「お!いいね!……で、このオーデの趣旨分かってきたところで!もう一回やろっか!喜びは佐藤君、嫌悪は川中さん、怒りは高梨君で!……キャラクターはそのままね」
感情を入れ替え、キャストを入れ替え、キャラクターを入れ替え、参加者は窪塚の手のひらの上で転がされてしまう。会場に集められた全員が解放されたのはそれから四時間が経ってから。会場を去る者は皆、疲労困憊で溜め息を吐いていた。
それから一か月が経っても、オーディションの返事はなかった。
美広自身も『レ・ミゼラブル』の十二役をこなすので精一杯の日々。オーディションを受けたことさえ忘れかけた頃……。
「佐藤君、決まったよ」
事務所の稽古場で筋トレをしていた美広に、ついでに、といった様子でマネージャーが声をかけた。五キロのダンベルを両手に持った美広は「え?」と間抜けな声を出した。
「窪塚さんの舞台、嫌悪役で決まったよ。ということで、受けるオーデちょっとだけ減らしてもらってもいい?」
頭が、真っ白になった。役。名前のある役が、もらえた。僕にとって初めての……!
「あ……はい!頑張ります!」
「あはは。顔合わせ近日中にあるからよろしくね。スケジュール、スマホに送ってるから確認しといて」
去っていくマネージャー。美広はダンベルを放ってスマートフォンに飛びついた。
マスターに報告しなきゃ!けれど、連絡先も知らなければ、杉崎との約束の三年も経っていない。熱くなっていた美広の胸に風が吹き抜けていく。
会いたい。会って、顔を見て、話したい。今までのこと……。
ただただ憧れて彼に追いつきたいと思う一心で、今までちっともそう思わなかったのに。なぜか無性に会いたくなって、美広の視界がにじんだ。マスターに伝えたら頭を撫でてくれるかな。それとも、怒られる?「勝手にネクタイ持って行かないでよ」って……「俺に嘘を吐いたな」って……。
美広は涙がこぼれないように上を向いた。僕も、負けない。自分にだけは。
「出来るかじゃない。演るんだ」
魔法の呪文を呟くと、心が落ち着く。美広は涙を拭って自身の両頬を叩いた。
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