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一番遠くて、一番近いところにいるあなた(美広視点)

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「お兄ちゃんの事務所所属と……私の内定にカンパーイ!」
 まさか文緒の口から「内定」なんて言葉を聞く日が来るとは。「文緒、おめでとう」美広は妹が掲げたグラスに自分のグラスを当てた。
「今日、ご飯すごく豪華じゃない?どれも美味しそう~」
 炬燵机に並んだ、鶏の唐揚げ、ローストビーフ、けんちん汁、わかさぎの南蛮漬け、かに玉。どれもこれも文緒の大好物だ。ご馳走を見て頬に手を当てている妹を前に、美広は微笑んだ。
「まあ、たまにはね。冷めないうちに食べて」
「はあい。なにから食べよっかなあ~」
 あれから、二年が経った。
 なりふり構わず目の前のことを片付けている間に文緒は高校三年生。進学するものと思いきや、美広に相談もなしに大手通販販売会社の面接を受け見事内定した。勤務先は都内にある本社とのことで兄は胸を撫で下ろしたが、準備が整い次第、家を出て一人暮らしをするつもりらしい。
 娘のように可愛がってきた妹も、この家からいなくなる。美広は安堵か杞憂か分からない溜め息を吐きながらオレンジジュースを傾けた。
「にしてもさあ。この一年は激動だったよね~」
「ごめんね。僕のワガママで文緒を振り回して……」
「ちーがーうっ。お兄ちゃんはいつまで私を子どもだと思ってるの?もう十八だよ?来年からは大手の正社員だよ?お兄ちゃんには心配されたくないっ」
 鋭い指摘に返す言葉も無い。困ったように笑っている兄を見つめ、文緒は姿勢を改めた。
「そうじゃなくって。お兄ちゃんはお兄ちゃんで、私は私で頑張ったじゃんってこと。二人で力合わせて一年乗り越えられて良かったね、ってこと!」
 文緒が高校二年生の秋。美広は劇団シリウスのオーディションに合格し、研究生になった。
 劇団シリウスは全国を回りながら公演を行っている日本でも有数の商業劇団だ。
 喜びもつかの間、美広は老舗劇団の厳しい洗礼を受けることになった。数あるコースからノーマルコースに振り分けられたが、周りを見てみれば大学や専門学校で演劇を学んでいた研究生ばかり。研究生オーディションの合格率はわずか四パーセント。自分が受かったのは何かの間違いでは?美広本人でさえ本気でそう思った。
 月曜日から金曜日の朝から夕方まで、みっちりと演劇の指導。バレエ、呼吸法、各ダンス、ソルフェージュ、台詞指導、メンタルトレーニング……。何から何まで初めてのことばかり。それでも、美広は食らいついた。負けるもんかと常に思っていた。どんなに無様でも絶対に負けない、自分自身には。
 本格的に演技の勉強が出来ることが嬉しかった。通っていた俳優養成所とは違って、基礎の基礎から骨の髄まで叩きつけるように稽古を付けてもらえた。そして何より、環境が素晴らしかった。舞台やレッスンの設備は勿論、講師も熱心で芝居への愛に溢れた人ばかりだった。苦しかったけれど、それ以上に楽しかった。
 けれどその一方で、アルバイトは許されず、研究生期間の一年で文緒の進学の為にと置いていた貯金を切り崩すことになってしまった。
「文緒には大学に行って欲しかったんだけどな……、僕のせいで……」
「もう。またその話?いい加減聞き飽きたよっ。勉強は好きだけど、学びたいことがないの。出来たら出来たで、その時に学ぶよ。今は社会に出てみたいのっ」
 頬を膨らませて唐揚げに齧り付く文緒。この子だったらどこに出しても大丈夫だと思う反面、苦労ばかりさせてしまったなと悔やまれる。
 劇団シリウスの研究生として一年を終え最終試験を受けた美広。試験に受かれば劇団員として収入を得ながら演劇に身を投じることが出来る。やれることは全てやった。手ごたえは確かにあった。けれど現実はそんなに甘くない。……結果は不合格だった。
 この時ばかりは辛かった。一年間も何をしていたんだろう、と自分を責めた。
 二十四歳にもなって情けないけれど、泣いた。布団の中で、涙が止まらなかった。するとどこからか、声が聞こえた。
 ――出来るかじゃない。演るんだよ。
 きつい光を眼差しに宿した佳澄の声が、美広の頭の中で響き渡った。優しい声で、仕種で、慰めて欲しいのに。美広の頭の中の彼は、そうしてくれない。
 出来るかじゃない。演るんだよ。
 美広は何度も布団の中で自分に言い聞かせた。
 出来るかじゃない!演るんだよ!
 片っ端からオーディションを受けた。演じられるなら何だってかまわない。舞台、小劇場、テレビ、ラジオ、ウェブ……。何だって受けた。
 モリプロダクションの主催する舞台『アクトレス・ナイト』のオールキャストオーディションでのことだった。
 ――君。廣田一成にそっくりじゃない。
 ああまたか。思いながら、頭の隅にずっと引っかかっていた相手と比べられて、美広の負けず嫌いに火が付いた。
 なら、見せてあげる。僕が廣田一成じゃないってこと。
 直前で配られた台本を正確に暗記してみせ、四頁に渡るシーンをノンストップで演じた。手前に並んだ大人は皆、目を丸くしていた。やってやった。玉砕覚悟の美広に怖いものなど何もなかった。
 そんな生意気な態度がいけなかったのだろう。結果はまたも不合格。けれど後日、美広のスマートフォンが震えた。「君、うちで舞台役者やってみない?」思ってもない、大手事務所からの誘いだった。
「お兄ちゃんがモリプロにスカウトされちゃうなんてね~」
「もうっ。止めてよっ。僕だってびっくりしてるんだから。人違いじゃないかって、一か月経った今でも怯えてるもん……」
「でもさあ。やっと舞台も決まったじゃん。ちょいのちょいのちょい役だけど!」
「ちょい役でもありがたいよ。『レ・ミゼラブル』だよ!?こんな何もしてないヤツでも固定給もらえちゃうし……。先輩達に申し訳ないから一生懸命頑張らないと」
 来年の春から公演されるモリプロダクション主催の『レ・ミゼラブル』。なんと美広は十二役を演じることになっている。主に台詞のない通行人などの賑やかしだ。それでも、美広の胸は逸る。
 初めて出る舞台。一体どんな場所なのだろう。そこから見る景色は、どんな色をしているのだろう。
「お兄ちゃんの初舞台、観に行きたいなあ~。初任給出たら絶対観に行くから!」
「僕がどこに居るかも分かんないと思うよ?文緒が稼ぐお金なんだから、大切にしな?」
「初めての舞台は一回しかないんだよ?もう。そんなんだから恋人いないんじゃないの?」
 ぶふっ。南蛮漬けを咀嚼していたところに爆弾が投下され、美広はむせた。
 恋人など作る暇はない。ありがたいことに、所属事務所でも若手俳優向けに自主参加制のトレーニングを行っていて、美広はそれに朝から晩まで顔を出している。周りは十代の男の子ばかり。美広にはなぜかもうすでに「サトさん」というあだ名まで付けられていて、稽古場の主のような扱いを受けている。
「恋人なんて。僕になんか出来るわけない。自分のことで精一杯だし……」
「お兄ちゃん、浮いた話ないもんね。好きな人とかもいたことないの?」
 美広はまたもむせそうになる。……好きな人。いることは、いる。俯いて熱くなる頬を隠していると、テレビを観ていた文緒が「お兄ちゃん!」と美広の肩を叩いた。「観て!スミ様だよ!」
『かためる。まとまる。ツヤで、もっとハードにキメる』
 画面上にバストアップで出て来るスミ様。サングラスを外し、整髪料を手に前髪を掻き上げる。男っぽい仕種で櫛を通し、最後に片眉を上げてキメ顔。そしてカメラに向かって一言。
『資星堂メンズワックス・モア。新発売。アンタももっとハードにキメれば?』
「うわあ、スミ様、カッコいい……!」
 花の盛りの女子高校生に溜め息交じりの声を出させてしまうスミ様こと、周防佳澄。美広は画面を見ていられなくなって唐揚げを口に放り込んだ。
「あ!またスミ様だ!スミ様まつり~!」
『特別なチョコ、誰にあげるの?』
 バレンタイン間近。家のテレビで、駅前の大型ビジョンで、事務所の液晶で、スマートフォンの画面で。機関銃のように次々と現れるチョコレートを片手に微笑んだ佳澄。『君は俺に、くれるよね?』子犬の目で問いかけるシーンで終わるCMに文緒はうっとりと目を細めた。
「あげます~!スミ様の事務所に贈ればいいですかぁ~!?」
「こーら。声おっきいよ。迷惑になっちゃうから……」
 周防佳澄の人気は前にも増して目覚ましい。肩書きは「ネクストブレイクの若手俳優」から「実力派の人気若手俳優」に。長く務めた舞台子役としての土台を生かして、演劇・ミュージカル・テレビドラマ・邦画……、この二年、彼があらゆる場所で演じてきたのを美広は知っている。
 マスターはすごいな。
 憧れと、尊敬と、ちょっとした恋慕。画面の中の佳澄はいつもかっこよくて綺麗で眩しい。心の中ではいつも彼をマスターと呼んでしまう。もう自分は彼のヒューマノイドでもなんでもないのに。
 廣田一成そっくりのヒューマノイドと、仲良くやっているのだろうか。
 考えるだけで、美広の思考に影が差す。やだなあ。佳澄とそのヒューマノイドが仲良くしているのも、それを嫌だと思う自分も、両方やだなあと思う。
「でもさあ、お兄ちゃんもスミ様好きだよね?」
「確かにかっこいいとは思うけど、好きとは言ってない」
「うそだあ。だってスミ様が出てるドラマとか映画とか必ずチェックしてるじゃん」
 妹の指摘に兄は返事をしない。文緒はレコーダーの傍に積まれたディスクを手に取って「これはなんですかっ?証拠は上がってるんですよっ?スミ様の出演してる大河ドラマの録画を焼いたものですよねえ?」と眉を吊り上げた。
「はいはい、分かった、分かりました。演技の参考にしてるだけっ。深い意味はないから!もう勘弁してください……」
「分かればよろしい」
 文緒は満足そうに鼻から息を吐いてかに玉を皿に取り分ける。「お兄ちゃんも食べて。かに玉好きでしょ?」「うん。ありがとう」受け取り、もうしばらくしたらこんなやりとりもなくなるのかと、美広は少し切なくなった。
 あと、一年。
 杉崎との約束まで、あと一年。僕に何が出来るのだろう。
「出来るかじゃない……演るんだよ」
 呟いた言葉に文緒が反応して「どうしたの?何か言った?」と兄の表情を確かめた。美広は微笑んで「ううん、独り言」と頭を横に振った。
 顔を合わせても恥ずかしくないような役者になれたら、その時は――。美広は押入れの奥に丁寧にしまい込んだ群青色のネクタイを思った。
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