愛しいヒューマノイドの心臓は動いている。

野中にんぎょ

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静かな別れ(美広視点)

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この人の望む僕でいたい。最後の一瞬まで。
――ヒューマノイドですよ。……だからずっと傍に居ます。
 あなたの抱える孤独や不安が少しでも和らげばいい。僕の出番が終わっても、あなたの為の存在があなたの孤独を癒してくれるはず。美広はそんな思いを込めて主人の背に腕を回した。
 刻一刻と別れの時が近づく。
『美女と野獣』にビースト役で出演していた舞台俳優を見て、美広は全てを悟った。
 雄々しく、けれど繊細な芝居。ベルに対する苦悩や愛を体具した彼のビーストは、そこが舞台と忘れさせてしまうような迫力があった。
 舞台俳優の名は、廣田一成。間宮にも並ぶバーンズプロの看板俳優の一人だった。
 ――君、舞台俳優のヒロタイッセイにそっくりだな。
 オーディションで幾度となく美広へかけられてきた言葉。だから、芸名だけは知っていた。
 美広は廣田が演じているのを初めて観て、瞬きを忘れた。……本当に僕にそっくりだ。どんなメイクをしていたって、どんな衣装を着ていたって分かる。自分にそっくりな役者が、眩い舞台の上に立って喝采を浴びている。
 ああ、この人か。
 美広は気付いた。この人が、マスターの大切なひとだったのか。
 二年前、廣田は交通事故に巻き込まれ命を落とした。まだ役者としての盛りを迎えたばかり、早すぎる別れだった。
 ヒロ。
 そう呼びたかったのは、廣田さんだったんですね。
 美広は嬉しかった。そんな大好きなひとの名前を僕に与えてくれたんだ。そう思った。切ないけれど、もう自分の気持ちなどかまわない。
 佳澄と廣田の間に何があったのかは分からない。けれど自分を「ヒロ」と呼ぶことで佳澄が癒されてくれたのなら、これ以上の幸いはないと思った。
 ――マスター、僕、あなたの傍に居られて、本当に幸せです。
 言葉にすればなんてありふれているのだろう。言葉だけでは足りなくて、美広は佳澄を抱いた腕に力を込めた。
 あなたは僕のひかり。そして、誰かのひかり。僕はそんなあなたを、地上から見つめ続ける。あなたがひかりを灯し続ける限り。
 あと数日で、約束していた一か月が終わってしまう。
「わ……。なんか最近、すごいご馳走じゃない?」
 風呂から出てテーブルを見るなり、佳澄は目を見開いた。美広は「グラタンもありますよ」とオーブンから出したてのそれを献立の中央に添えた。
 マカロニグラタン、鶏ハムの乗ったサラダ、オニオンスープ、キャロットラペ、佳澄がお気に入りのパン屋のバケット。グラタンに乗ったチーズがぷくぷくと弾けているのを見て、佳澄は「美味そう」と呟いた。
「毎日こんなに作るの大変だろ。いいのに、別に……」
「余ったら翌日のお弁当に入れられますし。鶏ハムは薄くスライスしてバケットにはさんでも美味しいと思いますよ。明日の朝、作ってみますね」
 主人が夕方に帰宅してくれたのが嬉しくて、美広は佳澄の向かいに腰を下ろした。
「ヒロはもう食べたの?」
「いいえ」
「なら一緒に食べようよ」
 両手で頬杖を突いて主人を見つめる。
「マスターが食べ終わってから食べます」
「はあ?なにそれ。食べにくいんですけど……」
「マスターがご飯食べるとこ、見たいんです」
 強請れば、佳澄は早々に諦めてキャロットラペに箸を伸ばした。
「このニンジンのサラダ、美味しい。シンプルな味付けでさっぱりしていて俺好み。くるみが混ざってるのもいいね。アクセントになる」
「マスターから教わりましたから」
 料理の話、仕事の話、家の中であったこと……。料理を挟んでふたり、他愛のない会話をする。
「グラタンも美味い。ヒロは本当に料理が上手だ」
 そういうあなたは相手の良い所を見つけるのが上手な人。美広は微笑んで佳澄のグラスの麦茶を足した。
 こんな日々がずっと続けばいいのに。
 そう願う一方で美広の脳裏には文緒がちらついた。帰ったら文緒にもいっぱいご馳走を作ってあげたい。日を追うごとに自分の中身が「ヒューマノイドのヒロ」から「佐藤美広」へと戻っていく……。
 佳澄との日々は、美広の宝物になった。
 辛い時だけに開く箱の中へ、そっとしまっておくような宝物。
 本来なら雲の上にいるようなひと。でも、偶然が重なって平行線が交わり、傍に居ることを許された。ヒロの居場所はここだ。でも佐藤美広の居場所はここじゃない。
「一か月点検、日取り決まったの?」
「二日後に」
 こんなに綺麗で優しい人が傍にいたら誰だって恋をしてしまう。だから、彼にこんな想いを抱くのは自分だけじゃない。思い上がってはいけない。美広は自分に言い聞かせた。
「いつ帰ってくる?」
「不具合が無ければ一週間後には」
「一週間か。ヒロを受け取れるようにスケジュール調整しとかないと」
 麦茶を置き、佳澄は困ったように笑った。
「なんか、長く感じるな。なるべく早く帰って来て」
 美広も困ってしまった。離れがたい、触れたい、最後なのだから抱きしめて欲しい。欲が気持ちを追い越そうとする。けれど、我慢は、我慢だけは得意だから。
「早く帰ります。マスターだったら僕がいなくても支障ないと思いますけど、そう言って頂けて嬉しいです」
「ん。どこも悪い所ないといいね」
 頭を撫でられ、美広は目を細めた。「作り置き、いっぱいしときますね」そう言うと「お願いね」と返ってくる。
 嬉しい……涙が出るほど。けれどここには居られない。
 どうして僕はヒューマノイドじゃないのだろうか。人間なのだろうか。
 すべて忘れてあなたの胸に飛び込みたい。好きと伝えられればどんなに……。
 でも、それは出来ない。僕には「佐藤美広」の人生が待ってる。僕はそれを、放棄しようとは思わない。あなたが「周防佳澄」の人生を懸命に歩んでいるように。
 あなたがくれたものを抱いて、僕は僕の人生を生きる。
 あなたのようなひとが、自分と同じ時を生きていると知ったから。あなたの隣にいられたことを誇りに思うから。僕は「佐藤美広」の人生に戻る。ここに来る前よりも、胸を張って。


「いってきます。点検の見送り出来なくてごめんな。気を付けてね」
「いいえ。マスターも、気を付けて。いってらっしゃい」
 出演予定の夏ドラマの時期に併せて出るのだという写真集の撮影の為に、早朝の出勤。佳澄は寝ぼけ眼で玄関に立った。無理もない、昨日も深夜までラジオの生放送だったのだ。
 この人はどんどん忙しくなるのだろう。美広は最後まで佳澄が眩しかった。
 佳澄がドアを開けると、佳澄の背が美広の視界から消えそうになった。
「……マスター!」
 裸足のまま玄関に出て呼びかける。すると佳澄はすぐに「どうしたの?」と振り向いてくれた。この瞳。自分が映ったこの藍色の瞳……。美広は悲しくなった。けれど涙は見せたくない。主人の耳の傍で跳ねた髪を梳いて、笑ってみせた。
 本当は、頭を撫でてあげたかった。いつも頑張ってるねって、無理をしないでねって、声をかけてあげたかった。
「寝癖ついてますよ。気を付けて帰って来てくださいね」
「うん。ありがとう。行ってくる」
 今度こそ、扉は閉まってしまった。
 美広はしんとした廊下からリビングに踵を返した。
 手始めに、与えられていた自室を整頓した。布団カバーを変えて、普段は掃除機をかけるだけだが今日はそれに加えて拭き掃除も。その延長で全室を掃除して、作り置きに取りかかる。一週間も家を開けるのだ、痛みやすい食材は避けて……。野菜が好きな佳澄の為にと美広は頭をひねった。
 この間好評だったくるみ入りのキャロットラペに、ひじきの煮物、きんぴらレンコン、大根のべっ甲煮、カボチャとサツマイモのサラダ。鶏ハム、鶏手羽元と卵の煮物、メンチカツ、キャベツの千切り、ケークサレ……。後は、魚の気分の日のために塩鮭を冷凍庫に。うちの主人は焼き魚にこだわりがあり、直前に火を入れたいタイプなのだ。
「ふう。これでいいかなあ。足りないかなあ」
 作り過ぎても食べられないかも、最近外食のお誘いも多いし……。美広はうずうずしてくる両手にそう言い聞かせてキッチンを離れた。
 佳澄の部屋のドアを開ける。
 入ると佳澄の匂いがした。安心する匂い。はぐられたままの布団を整頓して、美広はクローゼットに目を向けた。
「マスター、ごめんなさい」
 ウォークインクローゼットの中、タイが並んだ棚から一本のネクタイを手に取る。
 美広は自嘲気味に微笑みながら藍色のネクタイに頬を寄せた。あの日の佳澄の匂いがした。ずっと使って欲しいと思って選んだのにね。美広はネクタイを丁寧に小剣から巻いて自分のポケットに忍ばせた。
 マスター、ごめんなさい。美広は心の中でもう一度佳澄に謝り、部屋を出た。
「ミヒロ、もういいの?」
 エントランスを出るともうすでに杉崎と篁が美広を待っていた。
「はい。もう出られます」
「じゃあ、行こうか」
 二人に連れられてマンションを出る。もう二度と、ここには戻って来られないだろう。
 来た時とは違う車に乗り込んで、小さくなっていくマンションを振り返る。
「寂しい?」
 隣に座っていた杉崎がどこか申し訳なさそうに尋ねた。美広は首を横に振った。
「いいえ。楽しかったです。もしかしたら、人生で一番。映画みたいな毎日でした」
「……そう。それは良かった」
 笑う美広を、杉崎は言葉少なに労わった。
 ラボに戻り、杉崎といくつか約束事を交わした。以後三年は周防佳澄との接触を避けること、このことを口外しないこと……、その他諸々。約束を破れば賠償金を払わなければならないらしい。そのゼロの数に怯えながらも、美広は契約書にサインした。
「ミヒロ!」
 帰りの車に乗り込む美広の背へ杉崎の声がかかった。振り返った途端に抱き寄せられて、美広は驚いてしまった。
「オレのワガママを聞いてくれて、ありがとう。君とはこれっきりかもしれない。君も、元気で。幸せになってね、ミヒロ」
 抱き止めれば美広よりも小さな身体。「杉崎さんも、お元気で」美広は穏やかな心地で杉崎のハグを受け取った。
 車に乗り込めば篁からアイマスクとヘッドホンが渡され、美広は慣れた様子でそれらを装着した。車は進んで、いつしか美広と文緒のアパートの前に辿りつく。
 久しぶりに見たアパートは、懐かしかった。ここも僕の居場所だったんだ。そう思うとなぜか、美広の眦から涙があふれた。
「お兄ちゃん?お兄ちゃん、帰ってるの?」
 部屋の隅でしゃくり上げている兄の傍へ、帰宅した文緒が駆け寄った。
「どうしたの?監督とかに嫌なこと言われたの?」
 一か月も一人にしてしまった妹に合わせる顔がなく、美広はこれまでのことを何ひとつ言葉に出来なかった。
「大丈夫だよ。お兄ちゃん、泣かないで……」
「泣いて、ないよ……」
 強がれば、文緒は笑った。妹はか細い両腕で兄を抱き寄せ背を摩った。
「泣いてるよ。びっくりした。お兄ちゃんが泣いてるの、はじめて見たから……」
 美広はずっと「お兄ちゃん」の役を演じてきた。
 何があっても泣かないお兄ちゃん、料理が出来るお母さんのようなお兄ちゃん、いつでも妹を心配しているお兄ちゃん。文緒の為じゃない。現実に飲み込まれてしまいそうな自分の為に、そうしていた。
 そんな美広の心のよりどころが間宮演じるタカヤだった。テレビは誰にでも平等にある娯楽だった。いつも前向きで真っ直ぐなタカヤが大好きだった。自分も間宮と同じ場所に立ちたい、間宮にお礼を言いたい、その為に役者になりたい。そう、思っていた。佳澄と出会う前は――。
 でももう、出会ってしまった。
 佳澄に、出会ってしまった。大好きになってしまった。芝居も、佳澄も……。
「いいんだよ。……いいんだよ、お兄ちゃん」
 文緒は兄の全てを許した。兄が自分にあらゆるものを捧げていたことを知っているから。
 窓の外は三月だというのに雪がちらついていた。音もなく降り積もるそれは、いつか溶けるものとは思えないくらい、綺麗だった。
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