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何度だってすれ違って、何度だって惹かれ合う
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「バカ」
輔の首に両腕で縋りついて唇に唇を押し付ける。鼻と鼻、歯と歯がぶつかって、輔は唇をくっつけたまま「ふは」と笑った。輔の手に腰のくびれを宥めるように摩られ、ぎこちなく首を傾げる。ようやっとキスらしい形に収まり、薫は夢中で輔の口づけに応えた。
「ああ、だめだな。羽ばたく前に捕まえちゃった。こうするつもり、なかったんだけど」
「この期に及んでそんなこと言う?聞きたくないよ」
「おまえは知らないだろうけど、おれよりいい男なんていっぱいいるんだよ」
この恋から手を引くような素振りを見せているのに、頬を撫でる手は優しく、視線は甘ったるい。薫は輔を睨み「そんなの知ってる」と応酬した。
シングルマザーの母は昼も夜も働いていた。薫を黒木家に預けて夜勤に出ることもしばしばで、薫がキッズモデルの収入を得るまでそんな生活が続いた。
母に放置されているという感覚はなかった。それでも、寂しかった。ぬくもりや、仕種、匂い、声、そういうものが恋しかった。
そういうものに似た何かを、輔がくれた。可愛い可愛いと抱きしめてくれて、寂しそうにすればあやしてくれて、大きなおかずは食べやすいように分けてくれて、強請れば絵本を何冊でも読んでくれた。夜はもちろん、一緒の布団で寝た。互いの温もりや匂いが相手に移ってしまうほど寄り添って過ごした。
心の隙間を埋めてくれた輔は特別な存在だ。それも、最上級の特別。愛したい、愛されたい。狂おしいほどの感情が輔ただ一人へ注がれた。友情や家族愛とは違う、あまりに鮮烈な感情を前に、薫は抵抗することもなくただ粛々とその恋を受け入れた。一世一代の、絶対の恋だった。
そんな人生を懸けた恋も、レモンイエローのワンピースや輔より背の低い女の子を前にすると無力だった。細い手首、小さな桜色の爪、肩の傍で揺れる黒髪。“可愛い”が、詰まっている。今の彼が求めているであろう、“可愛い”が。
彼女らに比べ自分はどうだろう。背が伸びるたび、“可愛い”が減っていく。どうか神様と願っても、声は低くなり、髭も生えるようになった。変貌していく身体を鏡の前から睨んでは、五歳のままでいられたらよかったのに、なんて、バカなことを思った。
叶わぬ恋ならば、せめてもう一度だけ、輔の「可愛い」が聞きたかった。モデルの仕事を躍起になってこなして雑誌の専属モデルにだって選ばれた。それでも彼は「可愛い」と言わなかった。それならモデルでいる意味はないと、モデルを辞めようとも思った。けれど、辞めたいと思えなかった。フラッシュに浮き上がる自分の影が、あのシャッター音が、薫の心の深い部分に結びついて離れなかった。……もうずっと、苦しかった。
今なら分かる。苦しかったのは、輔に「可愛い」と言ってもらえなかったからじゃない。そう言われたいのに、当の自分が自分のことを可愛いとも綺麗だともかっこいいとも思えなかったからだ。過去の“可愛い”に縋って、今の自分を受け止められずに、愛せずに、疑ってばかりいたからだ。
でももう、それもやめだ。自分を詰るのも他人を詰るのも、もう飽きた。
だって輔は「可愛い」と言うのと同じくらい、いやそれ以上に、薫を大切にしてくれた。コミュニケーションを惜しまず、助けが必要な時は必ず現れて、薫の気持ちや状態に気を配り、どんな薫も輔らしいやり方で受け止めてくれた。
薫はもうずっと、輔に大切にされてきた。「可愛い」以上の、愛情を注いでくれた。
「いい男じゃなくても、輔君がいい。そのままの、輔君がいい。輔君しか、欲しくない」
ありのままの彼が、ありのままの愛をくれた。あの形の愛でなかったら、きっと自分は満たされていなかった。飾らなくていい、そのままでいい。そんなあなただから、この胸の中でずっと輝いている。
「どこかへ行っても帰って来るように、ちゃんと大切にしなきゃだめだよ」
温かな首筋に鼻先をすり寄せ囁けば、「うん、そのつもり」と彼にしては素直な返事が返ってきた。
とくん、とくん……。柔らかな鼓動が聞こえる。ああ、こんなものも、一枚の写真に閉じ込められたらいいのに。薫は静かに微笑んで、輔の肩に頬ずりした。
白の軽バンがきゅるきゅると唸りを上げながら駐車場を出て行く。真っ青な空を見上げると、入道雲の傍に飛行機雲が伸びていた。今頃、文彦は空を行っているのだろうか。
「ありがとう」
ぽつりと車窓へ呟くと、自分に向けられた言葉ではないと分かっているのか、輔は薫を打見しただけで、黙ったまま運転を続けた。
文彦との出会いがなければ、今の自分はいない。重ねたシャッターの分だけ近づいて、互いの心に触れた。文彦を介して、自分を知った。与えられた愛の分だけ、心が開けた。
文彦との間にあったのは恋ではなかったけれど、確かに、愛だった。
「ねえ、どこ行くの?」
軽バンがことこと揺れながら海岸沿いを進む。くろき青果への道はとっくに通り過ぎていて、薫は不安げに輔の横顔に尋ねた。
「……二人きりに、なれるとこ」
ぶっきらぼうに答える輔はこちらを見ようともしない。「二人きり?なんで?」そんな尋ね方をしたからか、輔は「全部言わなきゃ分かんねーの?」と桃色になった頬で薫を詰った。
「おれがおまえと二人きりになりたいからだよ。おれんちは母さんがずっと店番してるし、おまえんちはおばちゃんがいるだろ。二人きりになんてなれないの、おまえも分かんだろ」
「え、でも、今までだって、輔君の部屋で、二人で」
「あん時はまだ、こういう関係じゃ、なかっただろ」
桃から杏子、杏子から林檎になってしまう輔の頬。薫も同じく真っ赤になって、「じゃあ、どこ行くの」と性懲りもなく問いを重ねた。
「海沿いとか、よくあるだろ」
「海沿い……?」
「だから!どこにでもあるけど、店の車だから、住んでるところから離れてるの方がいいよねってこと!……車ごと入れるようなラブホじゃないと、気まずいだろ、色々……」
「えっ」
戸惑いの声に、輔の横顔が歪んだ。「らぶほ、って」「ラブホテルだよ。おまえだって知ってんだろ」輔にはっきりと言われ、薫の目頭が熱で重くなった。
「や、やだ、そんなとこ、行ったことないっ」
ぶるぶると頭を振り立てて訴えれば、輔は予想していたとばかりに顔を顰めて頭を掻いた。
「おれだって、いきなりそんなとこ連れて行きたくねーよ!おまえと二人でいるなら、キレーなホテルの高層階の部屋とか、そういうのがいいって分かってるよ。……急ぐのもよくないって分かってる。分かってるけど……、」
赤信号を前にした車内。沈黙が通り過ぎ、涙目になっている薫を打見して、ハンドルに面を埋めた輔は「ごめん」と謝った。
「おれ、焦ってるわ。ごめん。おまえのことになると全然余裕なくて、うまくできない。……このまま帰ろ。驚かせて、怖がらせて、ごめん」
いつもの様子でない輔の横顔とウインカーを切る手元を交互に見つめ、薫は息を吸った。
「輔君、待って」
信号が変わる前にと、輔の腕に触れる。輔は「無理しなくていいよ」と言って微笑んだ。
「その代わりさ、部屋寄ってってよ。少し話そ。……ホントごめん。おれが欲張りなだけだから。薫は気にすんな」
優しい笑みが切なくて、薫はそれ以上何も言えなくなった。
気持ちが結ばれて、ただそれだけで嬉しくて、今はただ目の前のことしか見えなくて。そういうことをするなら輔がいいと何度も思っていたのに、怖気づいてしまった。
歩調が合わない。どうしてだろう。いつも一歩、二歩先に彼は居て。急いでいるのに、追いつけない。あと少し自分が進めれば、彼の隣に並べるのに。
「なんか飲む?果物のジュースなら山ほどあるけど」
輔の部屋に上がり、夕焼けに照らされた彼の表情を真面に見て、薫ははっきりと後悔した。あの車の行き先が輔の気持ちそのものだったのに、恋人として、真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれただけなのに。それを飲み込みきれなくて、怖がって……。
「輔君、待ってっ、」
薫はクーラーのリモコンを握っている輔の背に抱き着いた。ギシッ。床が軋んで、下の階に居る輔の母の顔が薫の脳裏を過った。
「おーおー。熱烈だな。待ってな。喉、乾いたろ」
旋毛を優しく撫でられて、薫は違うそうじゃないと頭を振り立てた。シャツ一枚を隔てて熱を潜ませた身体に唇を押し付けると、輔がやっと振り返ってくれた。
「どうした?ここも怖い?」
優しくされただけ切なくなって、薫は「怖くない!」と輔の鼻先へ訴えた。
「なんにも怖くない。輔君がくれるもの、全部欲しいよ。うそじゃない」
向かい合ってくれた彼の背に腕を回し、「ラブホ、行けばよかった」と言えば、途端に涙が溢れた。
「なあ、どうした、泣くなって。……気持ちは嬉しいよ。でも無理はしないでいいから。今日みたいに言ってくれた方がいい。ごめん、今までグズグズしてたから、薫と気持ちが通じて、焦った。完全におれのせいだから、おまえは悪くないから」
傷つけてごめんね。そう言いたいのに、言えばきっと輔を傷つけてしまう。自分が流している涙の理由も分からず、薫はただ輔の腕の中でしゃくり上げた。
「薫、ごめんな、すきだよ。大切にするって、言ったのにな」
背中を摩られ、頭を撫でられて、涙が引っ込んでいく。幼い頃のように無防備にしゃくり上げる身体が、輔の身体に馴染んで、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。
「輔君、すき」
「おれもすきだよ」
ありふれた言葉なのに、心が余すところなく温かくなる。ありふれた愛をいま確かに二人で手にしていることに気が付いて、薫は泣き腫らした顔を上げて輔を見つめた。優しく温かな瞳。背中からは彼の腕ができる限り優しくと強張っているのが伝わってきた。
「キスしても、いい?」
尋ねると、ゆっくりと唇が重なった。一度温みを感じると、もっと欲しくなって自分から探るように首を傾げた。互いに角度を変えて相手の唇を愛撫する。何度も何度も温みを確かめて、やっと薫の心の準備が整った。
「お願い、ここじゃだめだって分かってるけど……」
自分のシャツのボタンに手を伸ばすと、輔は慌ててその手を取った。
「薫、おれ、止まれる自信ないよ」
「ごめん、僕が、尻込みしちゃって」
薫は輔の手を払いボタンを外していった。「おい、薫、」輔は心底焦った声を上げ、部屋の鍵を慌ただしく閉めた。
輔の首に両腕で縋りついて唇に唇を押し付ける。鼻と鼻、歯と歯がぶつかって、輔は唇をくっつけたまま「ふは」と笑った。輔の手に腰のくびれを宥めるように摩られ、ぎこちなく首を傾げる。ようやっとキスらしい形に収まり、薫は夢中で輔の口づけに応えた。
「ああ、だめだな。羽ばたく前に捕まえちゃった。こうするつもり、なかったんだけど」
「この期に及んでそんなこと言う?聞きたくないよ」
「おまえは知らないだろうけど、おれよりいい男なんていっぱいいるんだよ」
この恋から手を引くような素振りを見せているのに、頬を撫でる手は優しく、視線は甘ったるい。薫は輔を睨み「そんなの知ってる」と応酬した。
シングルマザーの母は昼も夜も働いていた。薫を黒木家に預けて夜勤に出ることもしばしばで、薫がキッズモデルの収入を得るまでそんな生活が続いた。
母に放置されているという感覚はなかった。それでも、寂しかった。ぬくもりや、仕種、匂い、声、そういうものが恋しかった。
そういうものに似た何かを、輔がくれた。可愛い可愛いと抱きしめてくれて、寂しそうにすればあやしてくれて、大きなおかずは食べやすいように分けてくれて、強請れば絵本を何冊でも読んでくれた。夜はもちろん、一緒の布団で寝た。互いの温もりや匂いが相手に移ってしまうほど寄り添って過ごした。
心の隙間を埋めてくれた輔は特別な存在だ。それも、最上級の特別。愛したい、愛されたい。狂おしいほどの感情が輔ただ一人へ注がれた。友情や家族愛とは違う、あまりに鮮烈な感情を前に、薫は抵抗することもなくただ粛々とその恋を受け入れた。一世一代の、絶対の恋だった。
そんな人生を懸けた恋も、レモンイエローのワンピースや輔より背の低い女の子を前にすると無力だった。細い手首、小さな桜色の爪、肩の傍で揺れる黒髪。“可愛い”が、詰まっている。今の彼が求めているであろう、“可愛い”が。
彼女らに比べ自分はどうだろう。背が伸びるたび、“可愛い”が減っていく。どうか神様と願っても、声は低くなり、髭も生えるようになった。変貌していく身体を鏡の前から睨んでは、五歳のままでいられたらよかったのに、なんて、バカなことを思った。
叶わぬ恋ならば、せめてもう一度だけ、輔の「可愛い」が聞きたかった。モデルの仕事を躍起になってこなして雑誌の専属モデルにだって選ばれた。それでも彼は「可愛い」と言わなかった。それならモデルでいる意味はないと、モデルを辞めようとも思った。けれど、辞めたいと思えなかった。フラッシュに浮き上がる自分の影が、あのシャッター音が、薫の心の深い部分に結びついて離れなかった。……もうずっと、苦しかった。
今なら分かる。苦しかったのは、輔に「可愛い」と言ってもらえなかったからじゃない。そう言われたいのに、当の自分が自分のことを可愛いとも綺麗だともかっこいいとも思えなかったからだ。過去の“可愛い”に縋って、今の自分を受け止められずに、愛せずに、疑ってばかりいたからだ。
でももう、それもやめだ。自分を詰るのも他人を詰るのも、もう飽きた。
だって輔は「可愛い」と言うのと同じくらい、いやそれ以上に、薫を大切にしてくれた。コミュニケーションを惜しまず、助けが必要な時は必ず現れて、薫の気持ちや状態に気を配り、どんな薫も輔らしいやり方で受け止めてくれた。
薫はもうずっと、輔に大切にされてきた。「可愛い」以上の、愛情を注いでくれた。
「いい男じゃなくても、輔君がいい。そのままの、輔君がいい。輔君しか、欲しくない」
ありのままの彼が、ありのままの愛をくれた。あの形の愛でなかったら、きっと自分は満たされていなかった。飾らなくていい、そのままでいい。そんなあなただから、この胸の中でずっと輝いている。
「どこかへ行っても帰って来るように、ちゃんと大切にしなきゃだめだよ」
温かな首筋に鼻先をすり寄せ囁けば、「うん、そのつもり」と彼にしては素直な返事が返ってきた。
とくん、とくん……。柔らかな鼓動が聞こえる。ああ、こんなものも、一枚の写真に閉じ込められたらいいのに。薫は静かに微笑んで、輔の肩に頬ずりした。
白の軽バンがきゅるきゅると唸りを上げながら駐車場を出て行く。真っ青な空を見上げると、入道雲の傍に飛行機雲が伸びていた。今頃、文彦は空を行っているのだろうか。
「ありがとう」
ぽつりと車窓へ呟くと、自分に向けられた言葉ではないと分かっているのか、輔は薫を打見しただけで、黙ったまま運転を続けた。
文彦との出会いがなければ、今の自分はいない。重ねたシャッターの分だけ近づいて、互いの心に触れた。文彦を介して、自分を知った。与えられた愛の分だけ、心が開けた。
文彦との間にあったのは恋ではなかったけれど、確かに、愛だった。
「ねえ、どこ行くの?」
軽バンがことこと揺れながら海岸沿いを進む。くろき青果への道はとっくに通り過ぎていて、薫は不安げに輔の横顔に尋ねた。
「……二人きりに、なれるとこ」
ぶっきらぼうに答える輔はこちらを見ようともしない。「二人きり?なんで?」そんな尋ね方をしたからか、輔は「全部言わなきゃ分かんねーの?」と桃色になった頬で薫を詰った。
「おれがおまえと二人きりになりたいからだよ。おれんちは母さんがずっと店番してるし、おまえんちはおばちゃんがいるだろ。二人きりになんてなれないの、おまえも分かんだろ」
「え、でも、今までだって、輔君の部屋で、二人で」
「あん時はまだ、こういう関係じゃ、なかっただろ」
桃から杏子、杏子から林檎になってしまう輔の頬。薫も同じく真っ赤になって、「じゃあ、どこ行くの」と性懲りもなく問いを重ねた。
「海沿いとか、よくあるだろ」
「海沿い……?」
「だから!どこにでもあるけど、店の車だから、住んでるところから離れてるの方がいいよねってこと!……車ごと入れるようなラブホじゃないと、気まずいだろ、色々……」
「えっ」
戸惑いの声に、輔の横顔が歪んだ。「らぶほ、って」「ラブホテルだよ。おまえだって知ってんだろ」輔にはっきりと言われ、薫の目頭が熱で重くなった。
「や、やだ、そんなとこ、行ったことないっ」
ぶるぶると頭を振り立てて訴えれば、輔は予想していたとばかりに顔を顰めて頭を掻いた。
「おれだって、いきなりそんなとこ連れて行きたくねーよ!おまえと二人でいるなら、キレーなホテルの高層階の部屋とか、そういうのがいいって分かってるよ。……急ぐのもよくないって分かってる。分かってるけど……、」
赤信号を前にした車内。沈黙が通り過ぎ、涙目になっている薫を打見して、ハンドルに面を埋めた輔は「ごめん」と謝った。
「おれ、焦ってるわ。ごめん。おまえのことになると全然余裕なくて、うまくできない。……このまま帰ろ。驚かせて、怖がらせて、ごめん」
いつもの様子でない輔の横顔とウインカーを切る手元を交互に見つめ、薫は息を吸った。
「輔君、待って」
信号が変わる前にと、輔の腕に触れる。輔は「無理しなくていいよ」と言って微笑んだ。
「その代わりさ、部屋寄ってってよ。少し話そ。……ホントごめん。おれが欲張りなだけだから。薫は気にすんな」
優しい笑みが切なくて、薫はそれ以上何も言えなくなった。
気持ちが結ばれて、ただそれだけで嬉しくて、今はただ目の前のことしか見えなくて。そういうことをするなら輔がいいと何度も思っていたのに、怖気づいてしまった。
歩調が合わない。どうしてだろう。いつも一歩、二歩先に彼は居て。急いでいるのに、追いつけない。あと少し自分が進めれば、彼の隣に並べるのに。
「なんか飲む?果物のジュースなら山ほどあるけど」
輔の部屋に上がり、夕焼けに照らされた彼の表情を真面に見て、薫ははっきりと後悔した。あの車の行き先が輔の気持ちそのものだったのに、恋人として、真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれただけなのに。それを飲み込みきれなくて、怖がって……。
「輔君、待ってっ、」
薫はクーラーのリモコンを握っている輔の背に抱き着いた。ギシッ。床が軋んで、下の階に居る輔の母の顔が薫の脳裏を過った。
「おーおー。熱烈だな。待ってな。喉、乾いたろ」
旋毛を優しく撫でられて、薫は違うそうじゃないと頭を振り立てた。シャツ一枚を隔てて熱を潜ませた身体に唇を押し付けると、輔がやっと振り返ってくれた。
「どうした?ここも怖い?」
優しくされただけ切なくなって、薫は「怖くない!」と輔の鼻先へ訴えた。
「なんにも怖くない。輔君がくれるもの、全部欲しいよ。うそじゃない」
向かい合ってくれた彼の背に腕を回し、「ラブホ、行けばよかった」と言えば、途端に涙が溢れた。
「なあ、どうした、泣くなって。……気持ちは嬉しいよ。でも無理はしないでいいから。今日みたいに言ってくれた方がいい。ごめん、今までグズグズしてたから、薫と気持ちが通じて、焦った。完全におれのせいだから、おまえは悪くないから」
傷つけてごめんね。そう言いたいのに、言えばきっと輔を傷つけてしまう。自分が流している涙の理由も分からず、薫はただ輔の腕の中でしゃくり上げた。
「薫、ごめんな、すきだよ。大切にするって、言ったのにな」
背中を摩られ、頭を撫でられて、涙が引っ込んでいく。幼い頃のように無防備にしゃくり上げる身体が、輔の身体に馴染んで、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。
「輔君、すき」
「おれもすきだよ」
ありふれた言葉なのに、心が余すところなく温かくなる。ありふれた愛をいま確かに二人で手にしていることに気が付いて、薫は泣き腫らした顔を上げて輔を見つめた。優しく温かな瞳。背中からは彼の腕ができる限り優しくと強張っているのが伝わってきた。
「キスしても、いい?」
尋ねると、ゆっくりと唇が重なった。一度温みを感じると、もっと欲しくなって自分から探るように首を傾げた。互いに角度を変えて相手の唇を愛撫する。何度も何度も温みを確かめて、やっと薫の心の準備が整った。
「お願い、ここじゃだめだって分かってるけど……」
自分のシャツのボタンに手を伸ばすと、輔は慌ててその手を取った。
「薫、おれ、止まれる自信ないよ」
「ごめん、僕が、尻込みしちゃって」
薫は輔の手を払いボタンを外していった。「おい、薫、」輔は心底焦った声を上げ、部屋の鍵を慌ただしく閉めた。
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