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やっと差し出せた、やっと受け取れた、互いの気持ち

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「そんなすぐに行けるわけないでしょ。目指すような場所なら、なおさら」
 輔は薫の隣に腰掛け、いつものカラッとした笑みで「だな」と相槌を打った。その手には筒状に丸められた表彰状が握られていた。
「おれ、速かった?」
「速かった」
 間髪入れずに答えれば、輔は肩を揺らして笑い、「でも、もっと速いヤツいたな。ナメてたわ」と笑みを緩めた。丸めた表彰状でポンポンと反対の手のひらを叩く彼は、悔しさと満足感がない交ぜになった眼差しをしていた。
「メダルじゃねーし、二位だし、カッコつかねえわ」
 またそんなことを言って。
 そう思ったけれど、その言葉にこそ目元が緩んだ。まだ悔しいんだね。そう感じると薫は安心した。彼らしいな、と思った。
「来年も来るんでしょ」
 焚きつける意味で投げかければ、「当たり前だろ。次はぶち抜いてやるから」と冗談めかした本音を吐露する輔。彼の中の炎は狂ったように燃え上がっているのだろう。
「ねえ、それ、ちょうだい」
 表彰状を指差せば、輔は思い切り顔を顰めた。「やだよ。金メダルっつったじゃん」「来年一番だったとしても表彰状じゃん」「一番の表彰状じゃなきゃだめだ。これはあげない」あげるって言ったのはそっちじゃないか。薫は唇を尖らせ、不服を思う存分アピールした。
「うそつき。輔君なんかキライ」
 薫はぷいとそっぽを向いた。ちょっと露骨だったかなと思いきや、「おい、そんなことでぐずんなって」と慌てた手に肩を掴まれた。
「も~……。本当は嫌だよ。こんなん、あげたくねーって。一番じゃない証拠みたいじゃん」
「あげたくないならいいよ。約束したのに、くれないんだね」
「え~……、あ~……、なんで、クソ、こーゆーのがあげたいわけじゃないんだって……、あ~……もう、」
 輔は俯き頭をガシガシ掻いて、表彰状をこちらへ向けた。「返品不可だから」そう言った彼の頬が林檎みたいに赤くなっていて、薫の意識はそちらに釘付けになってしまった。
「ありがとう。大切にする」
 言いながら表情を確かめようとすると、今度は輔の方がそっぽを向いてしまった。
「ねえ、僕、ちゃんとここにいるよ」
 文彦の出国やパリへの誘いのことなど輔が知るわけもないのに、薫は輔の気を引きたくてそんなことを口にした。けれど、言葉にすると、それが全てのように感じた。きっと自分は、輔が好きなままなのだろう。いつか終わる初恋かもしれないけれど、当分は終わらない。終わる予定もない。
「じゃあ僕、行くね。また野菜買いに行くから」
 立ち上がろうとした薫の手を、大きくて温かな手のひらが攫った。
「ここにいて。隣にいて」
 ぎゅっ、と輔に手を握られる。僕の手を、輔君の手が……。身体も頭も混乱し、薫は手指に絡まる温度を何度も確認した。輔の手が薫の手を抱きすくめ、引き寄せる。熱くなった視界いっぱいに、らしくもなく口端を下げた輔が飛び込んで来た。
「来ないかもって、思った」
「……来ないわけない。輔君だってそんなの分かってたでしょ?」
 僕の気持ちなんて、分かってるんでしょ?
 詰るように見つめれば、輔は唇を噛んで額を摩った。黒髪からちらつく耳の先は熟れきって真っ赤になっていて、輔の感情の色に薫の目が釘付けになった。
「でも、今回は、無理だろって思った。もうこれで終わりなんだって、なにもかも遅かったって」
「終わりって……、」
「でも、薫は来てくれた。手すりから思いっきり上半身乗り出してるおまえが見えて、あぶねーな落っこちるぞって、泳いでる途中に思ったよ。……泳いでるときなんか、いつも頭ん中真っ白なのに、おまえが来たらすぐに分かった。来たって、思った」
 互いの膝の先が触れるほど近くで向き合っていたけれど、周囲の不躾な視線に薫の気が逸れていく。薫は俯いて旋毛しか見えなくなった輔と周囲を交互に見て、「輔君」と輔の手に空いていた手を添えた。
「手、離して。見られてるよ」
 小声で訴えれば、面を上げた輔は眉間に皺を寄せて一層きつく手を握りしめた。
「やだ。離さない。見られたっていいじゃん」
「でも、輔君の職場の人に見られちゃうかもしれない」
「別にいい」
 こうなると簡単には引かない彼を知っているから、薫は輔の手のひらの中で手指を動かした。
「ねえ、手、痛いよ」
 痛い、という言葉に輔の頑固が揺らぐ。手のひらがふっと軽くなり、そうかと思えば再度握りしめられ、そして結局、力は緩められた。緩んだ拘束の中で、薫は手を反転させ手のひらと手のひらが向き合うようにした。そっと手指を絡めれば、輔は大きな瞳で薫を見つめた。
「見られるの、ホントは、恥ずかしい」
 愛しい人を、輔を、まっすぐに見つめる。
「でも、すきだから、輔君がすきだから。このままで、いい」
 今度は薫から、ぎゅっと力を込めて握り返す。
 ずっと差し出せなかった気持ちを、そのまま、飾らずに明け渡す。
 ずっとずっと変わらない輔が、ずっとずっと好きだった。
 この想いはこれからも、きっとずっと、変わらない。
 輔は、はく、と唇を動かし、「あー……、もう……」と呻くように呟いた。次の瞬間、ざっと音を立てて立ち上がった、輔に薫は息が止まりそうになった。
「行くよ」
 繋いだ手を引かれて、今度は心臓が止まってしまいそうになった。何が起こって……。薫は戸惑いながら人だかりを裂いて行く輔の背中を見つめた。大きくて、広い背中。愛しくて、見ているだけで胸が苦しくなってしまう。
「あっつ。先、エンジンかけるわ。乗っといて」
 施設を出て駐車場まで来ると『くろき青果』の軽バンが停まっていた。手はするりと離れ、けれど薫の手指は心臓になってしまったかのように脈打っている。エンジンをかけクーラーのつまみに手を伸ばした輔は、立ち止まっている薫を見て、「ここ、乗って」と助手席を指差した。
 ぎくしゃくしながら助手席に乗り込むと、生ぬるい風が上半身に吹き付けた。隣に輔が乗り込むと車がぐらんと揺れて、その揺れに任せるようにして手を掴まれた。
「……」
 握った手は熱いくらいなのに、沈黙が続く。ずっと凝り固まっていた不安が、氷が融けるようにして涙になっていく。ただ手を繋いでいるだけなのに心がうち震えるほど嬉しくて、薫は小さく嗚咽をこぼした。ぐすぐすと洟を啜っていると、輔がやっとこちらを見てくれた。
「見られるのは恥ずかしいって、おまえが言うから」
 顎の先で玉になった雫を指先で掬い、輔は薫をじっと見つめた。
 薫は表彰状を膝に置き涙を拭った。拭いきれず滴ったものが表彰状の上に転がって、薫は慌てて雫を払った。顔の右半分に視線を感じ、ぎゅっと俯く。その間にも新しい涙がとろとろと溢れた。
「こっち向けよ」
「やだ、もう、みないで」
「向けって、」
 ぐい、と手を引っ張られて、膝から表彰状が落ちる。視線でそれを追おうとすると、今度は後頭部を引き寄せられた。「ふ」唇から漏れた息が行き場を失って唇と唇の間をすり抜ける。次の瞬間には、唇にも彼の温みが触れていた。
 汗の滲んだ額に輔の前髪が触れる。その下の唇の温度を、自分の唇で知る。
 僕、輔君とキスしてる。
 遅れて気が付いて、薫の自覚を確認したように輔の唇が離れていく。
「おれ、おまえが思ってるようなヤツじゃないよ。もう、ずっと前から」
 輔の瞳は濡れていた。先日と同じ言葉を繰り返す彼は、これまで何度もその言葉に対峙してきたかのように葛藤や望みを捨てきった顔をした。
「薫。おれが腰痛めた時にケーキ持って来てくれたの、覚えてる?あん時、おまえは十二で、おれは十七だった。ベッドで横になってボーッとしてたら、ケーキの箱持ったおまえがいつの間にか部屋の入り口に居て、泣いてて。……おれ、その時、腰痛めてからはじめて泣いたんだ」
 過去をなぞり、一つ一つの情景を言葉にする彼は、いつもよりも強い眼差しで薫を射抜いた。その眼差しに応えたくて、薫は手に力を込めた。
「ずっと、泣きたくなんてなかった。泣いたら全部受け入れちゃうような気がして、諦めちゃうような気がして、泣けなかった。……なのに、おまえが声上げて泣いてるの見たら……いつの間にかおれも泣いてた。泣くと、思ったよりすっきりした。泣いて、ケーキ食って、すっきりして、一旦水泳から離れた方がいいなって思って、部活も辞めた。マネージャーにならないかって誘われて、迷ったけど、なんかそれは違うなって、今のタイミングじゃねぇなって、自分で分かって断れた。おまえが泣いてくれたおかげで、おれ、余計な我慢しなくて済んだんだ。……それからちょっとして……、冬くらいかな。おまえがおれに妙な視線向けてることに気付いたのは」
「妙な、って!」
 やっぱり気付かれていたんだ。恥ずかしくてたまらなくなって手を振りほどこうとすると「話は最後まで聞けよ」と手を引きつけられた。
「おれ、薫にそういう目で見られてんのかって驚いたけど、悪い気はしなかった。ツンケンしてる理由はそれかって、おまえが妙に可愛く見えた。なんでもしてやりてぇなって思ってたし、実際、世話焼きまくった。……しばらくして、あれ、ちょっと違うって思った。可愛いって思ってたけど、普通の可愛いじゃないって。目の中に入れても痛くないって可愛いと、頭から丸飲みしたいっていう可愛いが、混じり合っちゃって、ぐちゃぐちゃになっちゃって、おれ……、」
 はぁ、と熱い息を吐いて、輔は何かを覚悟するように笑みを消した。
「おれ、変な夢まで見るようになった。おまえと、キスしたり、ハグしたり、それ以上のこと、する夢。夢ん中でおれ、夢だって分かってんのに、バカみたいにサカって、十二のおまえに、全部ぶつけて。……目が覚めたら、出るもん出てた。最悪だろ」
 カーッと、腹の底から熱が込み上げる。互いに面を真っ赤にして見つめ合う。吹き出し口からは冷気が来ているのに、汗が噴き出した。
「今だったらまだ許されるかもだけど、当時のおまえはランドセル背負った小学生で、罪悪感で吐きそうだった。ヤバイって思って、おまえを遠ざけるみたいに子ども扱いして、けど、おれから離れて欲しくなくて、ちょっかい出して。ヤバい上にダサいヤツなおれとは反対に、おまえはどんどん、なんていうか、綺麗になった。キラキラした世界で仕事してても中身は小さな頃と変わんなくて、そういうおまえは余計に綺麗に見えて、このままじゃだめだって思って、でもほっとけなくて、おれだけのおまえでいて欲しくて」
 輔が薫の表情をぐっと覗き込む。反対の手も取られて、互いの熱が飛び火する。
「ごめん、すきだ。薫がすき。こんなおれで、ごめん」
 輔の眼差しの強さに薫の視界が滲んだ。
 与えられた熱で、全部が融ける。心の底から湧き上がった気泡で今にも想いが溢れてしまいそう。
 うそだ。心の中で呟いたのに、輔は「うそじゃない。ホントだよ」と言ってくれた。
「おれ、薫のこと、ちゃんとすきだよ。だから、来てくれて嬉しかった。やっとおれのところに戻って来てくれたって思った。……おまえはどこにも行ってないのにな。誰のものでも、ないのにな」
 誰のものでもない?そんなの……。
 薫は輔の肩に向かって面をぶつけた。「うおっ」驚いたような声と共に輔の身体が揺れて、それから、片手が薫の背に回った。いつもの匂い。水の匂い。太陽の光を浴びた肌の甘い匂い。彼の腕に抱かれると、こんなにも熱い。
「おれ、どこかへ行っても、心はどこにも行ってない」
「……分かってる。おれが勝手に不安になってただけ。伊月さん、かっこいいから」
 容姿に頓着しない輔がそんなことを言うのが珍しく、薫は面を上げた。輔は悔しそうに微笑み、「薫をとられるって思ったよ」と囁いた。
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