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運命の選択
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八月二十日。眠る前に日付が変わって、その数字の並びを見ると胸が落ち着かなかったけれど、眠気はすぐにやって来て薫を朝まで包み込んでくれた。
「朝早いね」
玄関へ向かう薫へ母が声を掛けた。「うん。行きたいところがあって」「遅くならないようにね」いつものように言葉少なに会話し、薫は母を振り返った。
「最近夜勤多かったけど大丈夫?無理しないでいいから」
留学生だった父は、日本での学びを終えると母を残し帰国してしまった。彼女の妊娠が分かったのは、それからすぐのことだった。その頃にはすでに父からの連絡は途絶えていて、けれど彼女は腹に宿った命を前に覚悟を決めた。当時の彼女は駆け出しのモデルで、夜は別の仕事を持っていた。収入は一人で暮らすには申し分なかったけれど、二人となると、それも赤ちゃんとの生活となると、何もかもが難しい。彼女は東京の夜に一人、腹に命を抱え、何を思ったのだろうか。
「私は大丈夫。薫こそ、無理しないでね」
母は明るく手を振った。薫もそれに応えて手を振り返した。こうやって何年も、どんな日も、二人で乗り越えてきた。
電車に乗り新宿のバスターミナルへ向かう。日曜日の早朝だからか肌に触れる空気がいつもより軽い。改札を出た瞬間、直線的な光が薫に降り注いだ。空を仰げば、パキッとした空の色に目が眩んだ。
空港行きのリムジンバスに乗り込むと、冷気が火照った身体を包み込んでくれた。なのに、座席に腰を下ろしても、車窓の向こうを眺めても、鼓動は落ち着かない。
胸に手を当てる。鼓動の奥にある心の様子を確かめる。大丈夫。心は心臓よりもいくらか落ち着いている。
幼い頃に一度だけ訪れたことのあるその建物は、記憶に焼き付いた印象とほぼ変わらなかった。弛んだ布地のような天井、カウンターに並んだアルファベット、行き交う旅人たち。エスカレーターに身を預け、薫はそれらをひと繋ぎの絵画のように眺めた。
出国ロビーは賑わっていた。何時にどの便でというのはメッセージで知ったけれど、ここに来ることは彼に伝えていない。伝えていないのに、薫は確信していた。きっと会える。
様々な宝石に埋もれてもオパールの輝きに目が留まってしまうように、異国の旅人たちに紛れても、彼は静謐に、けれど燦然と輝いていた。
薫の視線が吸い込まれる。今ならカメラのシャッターを切る人間の気持ちが分かる気がした。その一瞬を自分が閉じ込めねばと、心が躍起になる。
無言のまま、見つめる。もう分かっている。彼はいずれこの視線に気付く。だけど、もう少し、このままで。夏が去るように、彼は去る。輝かしく切ない季節が終わる。未来がやって来る。嵐を乗せて。
「……、」
青い瞳が見開かれ、彼の唇が、かおる、と動いた。聞こえてもいないのに、聞こえる。彼の声が、息遣いが。
彼の視線に応える為に手を振る。彼が駆け出したので、つられて足が前に出る。
「薫!どうして!」
鼻先まで詰め寄り両肩を引き寄せる文彦に薫は笑った。「見送りに来てくれたの?」頷けば、文彦は崩れるように微笑み、それからくしゃりと目を細めた。夏の日差しに目が眩んだ薫のように。
「ああ、そうか。この夏のパリに君はいないんだな」
ひと夏の逢瀬を共にした相手を理解しているのは、目の前の彼も同じこと。寄っていく眉根を見ていると、切ない。胸の奥から喉元がぎゅうっと引き絞れた。
「あのね、僕、」
言葉に詰まり、見つめ合う。文彦はこの言葉の続きを待っていてくれる。そういう確信が、信頼が、二人の間には育っていた。
「あのね。火、ついたよ」
文彦の青磁色の瞳の中に、光が散る。チカ、チカ、と、瞬く星や火花のように輝き、消えて行く。文彦は綺麗だ。薫にだけ届く輝きを持っている宝石みたいだ。
「僕、きっと行くから。そっちに、自分の足で行くから」
「うん。薫はそう答えると思ってた」
「どれだけ時間がかかるのか、本当に行けるのか、全然分からないけど、でも、僕、絶対に行くから」
感情が熱になって、涙に生まれ変わる。
脱皮する生き物はこんな気持ちなんだろうか。過去を、こだわっていたものを脱いで、まっさらになる。新しく柔い肌は傷つきやすく感じやすい。最初に感じるのは、風。それから、恐れ。
怖いよ。怖いけど、怖いままでも進めるって、そうして強くなるんだって、もう知っているから。
「薫ならできる」
抱きしめられると、瞳が熱くなった。
もうこんな人には出会えないだろう。生まれたての肌をすり寄せ、瞼を下ろし、文彦の温みを記憶する。シャッターを切るみたいにして。
次に彼に会えるのは、ずいぶん先のことになるだろう。そんなことまで分かってしまって、薫は文彦の胸にひしと掴まった。
「僕たち、まるで、そういう運命みたいでしょう?」
いつかの文彦の言葉を借りて互いを祝福する。これまでの二人と、これからの二人を。「うん。運命だ。君は僕の、運命」彼の笑みが涙に変わる。別れの時が近づく。この世界に二人と居ない彼との別れが。
「ねえ、カメラ、貸して」
腕と胸の狭間で囁くと、文彦は手持ちの鞄からカメラを出してくれた。
「ふふ。手荷物に入れてるの?」
「いつもそうしてる。カメラを持つ人はみんなそうだ」
「あっちでもいっぱい撮るんだろうね」
「いいものが撮れたら送るよ」
言葉を交わしながらカメラを受け取り、ファインダーを覗く。
四角の額縁に、文彦が収まる。そこは思っていたより明るい場所で、誰しもに光が降り注いでいることを証明しているかのようだった。
ぼやけた笑顔を見つめたくて、彼がやっていたようにレンズの腹をくるくると指で摩ってみる。ぼやけたり、はっきりしたり、それを繰り返して、文彦の微笑みがこちらに語り掛けて来る。
ジーッ……、カシャッ。
一瞬を、閉じ込める。まるで泥棒みたいだと思った。小さくて、愛しい、わがままな泥棒。
「このカメラで自分を撮ったの、初めてだ」
返されたカメラを見つめ、文彦はぽつりと呟いた。
「これが、僕から見た文彦君だから。文彦君って、すごく綺麗なんだよ」
訴えると文彦の瞳が揺れた。この人だって不安なんだ。薫はそう感じて、拳を握っていた文彦の手に触れた。
「僕、文彦君にもらった写真、お守りにするから」
「ああ、あの、最初の一枚か」
「そう。出会った時に、文彦君が撮ってくれたやつ。僕、ずっと大切にするから」
「おれも、この一枚を君だと思って大切にする」
カメラに唇を寄せた文彦は、一歩二歩と薫から離れ、けれどもう一度と薫へ歩み寄った。
「薫」
「文彦君」
「もう一度、抱きしめてもいい?」
返事の代わりに、文彦の身体を抱き寄せる。ゆっくりと、けれど、きつく、文彦の腕が薫の抱擁に応え、そして、柔らかな温みが薫のこめかみに触れた。それは、文彦がくれた最初で最後の口づけだった。
「薫、元気でね」
「文彦君もね」
「さよなら」
「……さよなら」
別れの言葉とは別に、馴染みのない発音の言葉が薫の耳元へ囁かれた。確かめるように見上げれば、「もう行かなくちゃ」と、青い眼差しはゲートの向こうを見つめていた。
「ありがとう。文彦君に出会えてよかった」
身体を離してちゃんと届くように伝える。受け取って欲しくて、この言葉をいつか思い出してほしくて。
文彦は薫を振り返り、蕾が綻ぶように微笑んだ。
「やっぱり、薫は綺麗だ。触れるのも、勿体ないくらい」
同じだけのものを返された気がして悔しくなる。手を振るたびに小さくなっていく背中を見つめ、薫は小さく息を吐いた。
「さよなら、文彦君」
柔い羽でも、いつか彼の居る場所まで飛べるだろうか。
背筋を伸ばして前へと足を踏み出す、一歩を踏みしめる。自分の瞳が、水面を睨む輔のそれや、パリを語る文彦のそれと、同じような光を宿し始めたことに気が付く。あの日灯った熱は、薫の胸の中で燃え続けている。
「間に合うかな……、」
腕時計の針を確認し、エスカレーターを駆け下りる。リムジンバスが出発したところに出くわし、今度はスマートフォンを確認する。「九時四十二分……、」腕時計はただ二分遅れていただけだった。
文彦とは意識しなくても噛み合えるのに、輔とはほんの少しのことですれ違ってしまう。
たった二分。たった六センチ。たった五年。たった一言足りなくて、言い過ぎて。それだけのことですれ違う。
それなのに、どうしてこんなにも、愛おしくて、欲しくて、たまらないのだろうか。すれ違うたびに、それでもこの人じゃなきゃだめなんだと、分からされてしまうのだろうか。
「すみません、色子総合運動場までお願いします」
居ても立ってもいられず、互いの距離を一ミリでも縮めたくてタクシーへ飛び乗る。運命なんて待てない。運命を追い越して彼に会いたい。
弟としか見られていないことなど分かっている。
実際、薫だって輔に甘えてきた。そういう眼差しでしかこちらを見てくれない輔をを少しでも乱してやりたくて、不機嫌でわがままで、一生懸命だった。
可愛いって、言って!
言えなくても瞳で何度もそう訴えた。輔はおそらく分かっていただろう。けれど、冗談でも口にしてくれなかった。そうするともっと欲しくなった。だって輔の「可愛い」は特別だ。絶景も、富も、名声も、勝負にならない。
総合運動場に到着し、薫はタクシーから飛び出した。
案内板で温水プールの位置を確認すると現在地から二キロも離れていた。「なにこれ、広すぎでしょ」薫は息を切らしながら悪態をつき、駆け出した。
ただ前へ踏み出す。一秒でも早く、一センチでも長く。左手に自由広場、右手に児童館、続いて駐車場、左手に野球場、バカでかい体育館を経て、試合の真っ最中の第一テニスコートの傍を通り過ぎる。
「はぁっ、はぁっ、はぁ、はっ、」
真夏の炎天下、蜃気楼の向こうにプールの施設が見えてくる。プログラムを終えた小学生たちがぞろぞろと列を成して薫の行く手を阻んだ。「す、すみません、通してくださいっ」薫は道を開けてくれた彼らに頭を下げながら自動ドアをくぐった。
「男子自由形百メートル、二十歳から二十九歳の部、終わりましたか」
薫は受付に速足で詰め寄り、早口でまくし立てた。
「今ちょうど決勝が始まるところですよ。観覧の方はあちらの階段を上って、」
ありがとうございます、と逸った息を混じらせて礼を言い、薫は再び駆け出した。階段を上がり観覧席へ出ると、眼下に真っ青なプールが広がった。
広い館内いっぱいに歓声が渦巻いている。薫は周囲の熱気に圧倒された。
「Take your marks.」
黄色のスタート台に立った選手たちがスタートの体勢を取る。スタートラインに並んだ八名を手前から確かめ、薫は相好を崩した。離れていたって分かる。他の選手がスタート台に手をついている中、遅れて構えを取っている奥から二番目の選手。間違いなく、輔だった。
ピッ。
電子音が響き八名が一斉に水面へ飛び込んだ。選手たちは刃が切り込むように水中へ吸い込まれ、そこから水を持ち上げ急浮上する。薫は観覧席の階段を降り、手すりに両手をついて身を乗り出した。水しぶきが館内の空気を混ぜ、一度止んでいた歓声が再び膨らんでいく。
「輔君」
ひらひらと優雅に、けれど速さを増して水の中を切っていく輔。まるで魚だ。今までだって何度もそう思った。いつ水面に出て来るのかと焦れてしまうほど時間を長く感じ、けれど五十メートルの中腹付近で皆が浮かび上がって来る。……勝負はここからだ。
「輔君!頑張れ!頑張れっ!!」
水面に白い飛沫が立つ。輔は速いと信じていたけれど、他の七名も同じように速かった。輔は先頭から頭一つ分遅れた形でターンし、それまでの激しさが嘘のように、美しくしなやかに壁を蹴った。観覧席から見下ろせば、ぐっ、と輔の体躯が伸びたように感じた。他の選手より深く潜ったのか、輔の影は水面に上がって来ず、けれどその内に差が縮まっていた。
「二十五秒、ゼロニ!」
審判の声に会場がざわめく。「速い!ヤバイ!」薫の隣でプールを見下ろしていた少年が瞳を輝かせた。
ザーッ、と、波の一部になったかのように水の中を行く選手たち。ぐんぐん、ぐんぐん、前へ出る。けれど一方でじりじりと差が開いていく。他の五名が先頭の選手から引き離される中、輔が食らいつく。
「輔君!頑張れ!」
輔が必死に水を掻いているのが伝わって来る。手すりを握りしめ前のめって叫べば、黒いゴーグルが水面からこちらを見たような気がした。輔君。心の中から呼びかける。一瞬を刻んで永遠にしたようなそれは刹那のことで、次の瞬間にはほとんどの選手がゴールタッチしていた。
「三島一着!五十二秒サンロク!……二着、黒木!三着、福田!四着……、」
やっべえはえぇ!隣ではしゃぐ少年たちの声が遠くに感じた。
輔君、輔君。
輔は水から陸へと戻り頭を一度振った。腰に手を当て俯いている輔に一着の男が歩み寄り、輔の肩を叩いた。……知り合いだったのだろうか、それともスポーツマンシップ的な何かだろうか。輔はゴーグルとキャップを取り、相手の笑顔に笑顔で応えた。
これまでの輔だったら、プールサイドでこんなことはあり得なかった。あと一歩というところで相手に追いつかず、悔しさを感じていないわけがない。なのに、今の輔は清々しく笑っている。
悔しいけど、まあ、やれることはやったね。
そう聞こえて来そうで、薫の心の方が、悔しさと切なさでいっぱいになった。
もう、ずいぶん前から、輔君は立ち直っていたんだ。
薫は今になってそんなことに気が付いて、自分が彼を足止めしていたことにも気が付いて、胸を詰まらせた。水を掻く力強い腕、しなやかな脚、水の中でも鋭く輝く強い意志。輔は何一つ失っていなかった。
ふと、男と別れた輔が観覧席を見上げた。
「頑張ったね」
口にするつもりのなかった言葉を漏らせば、輔はそれに応えるように片手を上げた。
驚いて、心臓が止まったようになる。うそ。そんな。どうして。
この広い会場で、まさか、本当にあの時、輔はこちらに気付いたのだろうか。
表彰式は拍子抜けするほどほのぼのしていた。それぞれの練習着に身を包んだ大人たちと子どもたちがのんびりと表彰状を受け取り笑顔を見せた。輔の表彰状は本人でなくスイミングスクールの代表者が受け取り、輔は最後までその場に現れなかった。
観覧席のベンチに腰掛け退場していく選手たちに拍手を送る。と、薫のすぐ傍に影が落ちた。
「なに、薫、もう帰って来ちゃったの?」
薫は眉間に力を入れ唇を「へ」の字にした。面を上げれば、いつものジャージ姿の輔が薫を見下ろしていた。
「朝早いね」
玄関へ向かう薫へ母が声を掛けた。「うん。行きたいところがあって」「遅くならないようにね」いつものように言葉少なに会話し、薫は母を振り返った。
「最近夜勤多かったけど大丈夫?無理しないでいいから」
留学生だった父は、日本での学びを終えると母を残し帰国してしまった。彼女の妊娠が分かったのは、それからすぐのことだった。その頃にはすでに父からの連絡は途絶えていて、けれど彼女は腹に宿った命を前に覚悟を決めた。当時の彼女は駆け出しのモデルで、夜は別の仕事を持っていた。収入は一人で暮らすには申し分なかったけれど、二人となると、それも赤ちゃんとの生活となると、何もかもが難しい。彼女は東京の夜に一人、腹に命を抱え、何を思ったのだろうか。
「私は大丈夫。薫こそ、無理しないでね」
母は明るく手を振った。薫もそれに応えて手を振り返した。こうやって何年も、どんな日も、二人で乗り越えてきた。
電車に乗り新宿のバスターミナルへ向かう。日曜日の早朝だからか肌に触れる空気がいつもより軽い。改札を出た瞬間、直線的な光が薫に降り注いだ。空を仰げば、パキッとした空の色に目が眩んだ。
空港行きのリムジンバスに乗り込むと、冷気が火照った身体を包み込んでくれた。なのに、座席に腰を下ろしても、車窓の向こうを眺めても、鼓動は落ち着かない。
胸に手を当てる。鼓動の奥にある心の様子を確かめる。大丈夫。心は心臓よりもいくらか落ち着いている。
幼い頃に一度だけ訪れたことのあるその建物は、記憶に焼き付いた印象とほぼ変わらなかった。弛んだ布地のような天井、カウンターに並んだアルファベット、行き交う旅人たち。エスカレーターに身を預け、薫はそれらをひと繋ぎの絵画のように眺めた。
出国ロビーは賑わっていた。何時にどの便でというのはメッセージで知ったけれど、ここに来ることは彼に伝えていない。伝えていないのに、薫は確信していた。きっと会える。
様々な宝石に埋もれてもオパールの輝きに目が留まってしまうように、異国の旅人たちに紛れても、彼は静謐に、けれど燦然と輝いていた。
薫の視線が吸い込まれる。今ならカメラのシャッターを切る人間の気持ちが分かる気がした。その一瞬を自分が閉じ込めねばと、心が躍起になる。
無言のまま、見つめる。もう分かっている。彼はいずれこの視線に気付く。だけど、もう少し、このままで。夏が去るように、彼は去る。輝かしく切ない季節が終わる。未来がやって来る。嵐を乗せて。
「……、」
青い瞳が見開かれ、彼の唇が、かおる、と動いた。聞こえてもいないのに、聞こえる。彼の声が、息遣いが。
彼の視線に応える為に手を振る。彼が駆け出したので、つられて足が前に出る。
「薫!どうして!」
鼻先まで詰め寄り両肩を引き寄せる文彦に薫は笑った。「見送りに来てくれたの?」頷けば、文彦は崩れるように微笑み、それからくしゃりと目を細めた。夏の日差しに目が眩んだ薫のように。
「ああ、そうか。この夏のパリに君はいないんだな」
ひと夏の逢瀬を共にした相手を理解しているのは、目の前の彼も同じこと。寄っていく眉根を見ていると、切ない。胸の奥から喉元がぎゅうっと引き絞れた。
「あのね、僕、」
言葉に詰まり、見つめ合う。文彦はこの言葉の続きを待っていてくれる。そういう確信が、信頼が、二人の間には育っていた。
「あのね。火、ついたよ」
文彦の青磁色の瞳の中に、光が散る。チカ、チカ、と、瞬く星や火花のように輝き、消えて行く。文彦は綺麗だ。薫にだけ届く輝きを持っている宝石みたいだ。
「僕、きっと行くから。そっちに、自分の足で行くから」
「うん。薫はそう答えると思ってた」
「どれだけ時間がかかるのか、本当に行けるのか、全然分からないけど、でも、僕、絶対に行くから」
感情が熱になって、涙に生まれ変わる。
脱皮する生き物はこんな気持ちなんだろうか。過去を、こだわっていたものを脱いで、まっさらになる。新しく柔い肌は傷つきやすく感じやすい。最初に感じるのは、風。それから、恐れ。
怖いよ。怖いけど、怖いままでも進めるって、そうして強くなるんだって、もう知っているから。
「薫ならできる」
抱きしめられると、瞳が熱くなった。
もうこんな人には出会えないだろう。生まれたての肌をすり寄せ、瞼を下ろし、文彦の温みを記憶する。シャッターを切るみたいにして。
次に彼に会えるのは、ずいぶん先のことになるだろう。そんなことまで分かってしまって、薫は文彦の胸にひしと掴まった。
「僕たち、まるで、そういう運命みたいでしょう?」
いつかの文彦の言葉を借りて互いを祝福する。これまでの二人と、これからの二人を。「うん。運命だ。君は僕の、運命」彼の笑みが涙に変わる。別れの時が近づく。この世界に二人と居ない彼との別れが。
「ねえ、カメラ、貸して」
腕と胸の狭間で囁くと、文彦は手持ちの鞄からカメラを出してくれた。
「ふふ。手荷物に入れてるの?」
「いつもそうしてる。カメラを持つ人はみんなそうだ」
「あっちでもいっぱい撮るんだろうね」
「いいものが撮れたら送るよ」
言葉を交わしながらカメラを受け取り、ファインダーを覗く。
四角の額縁に、文彦が収まる。そこは思っていたより明るい場所で、誰しもに光が降り注いでいることを証明しているかのようだった。
ぼやけた笑顔を見つめたくて、彼がやっていたようにレンズの腹をくるくると指で摩ってみる。ぼやけたり、はっきりしたり、それを繰り返して、文彦の微笑みがこちらに語り掛けて来る。
ジーッ……、カシャッ。
一瞬を、閉じ込める。まるで泥棒みたいだと思った。小さくて、愛しい、わがままな泥棒。
「このカメラで自分を撮ったの、初めてだ」
返されたカメラを見つめ、文彦はぽつりと呟いた。
「これが、僕から見た文彦君だから。文彦君って、すごく綺麗なんだよ」
訴えると文彦の瞳が揺れた。この人だって不安なんだ。薫はそう感じて、拳を握っていた文彦の手に触れた。
「僕、文彦君にもらった写真、お守りにするから」
「ああ、あの、最初の一枚か」
「そう。出会った時に、文彦君が撮ってくれたやつ。僕、ずっと大切にするから」
「おれも、この一枚を君だと思って大切にする」
カメラに唇を寄せた文彦は、一歩二歩と薫から離れ、けれどもう一度と薫へ歩み寄った。
「薫」
「文彦君」
「もう一度、抱きしめてもいい?」
返事の代わりに、文彦の身体を抱き寄せる。ゆっくりと、けれど、きつく、文彦の腕が薫の抱擁に応え、そして、柔らかな温みが薫のこめかみに触れた。それは、文彦がくれた最初で最後の口づけだった。
「薫、元気でね」
「文彦君もね」
「さよなら」
「……さよなら」
別れの言葉とは別に、馴染みのない発音の言葉が薫の耳元へ囁かれた。確かめるように見上げれば、「もう行かなくちゃ」と、青い眼差しはゲートの向こうを見つめていた。
「ありがとう。文彦君に出会えてよかった」
身体を離してちゃんと届くように伝える。受け取って欲しくて、この言葉をいつか思い出してほしくて。
文彦は薫を振り返り、蕾が綻ぶように微笑んだ。
「やっぱり、薫は綺麗だ。触れるのも、勿体ないくらい」
同じだけのものを返された気がして悔しくなる。手を振るたびに小さくなっていく背中を見つめ、薫は小さく息を吐いた。
「さよなら、文彦君」
柔い羽でも、いつか彼の居る場所まで飛べるだろうか。
背筋を伸ばして前へと足を踏み出す、一歩を踏みしめる。自分の瞳が、水面を睨む輔のそれや、パリを語る文彦のそれと、同じような光を宿し始めたことに気が付く。あの日灯った熱は、薫の胸の中で燃え続けている。
「間に合うかな……、」
腕時計の針を確認し、エスカレーターを駆け下りる。リムジンバスが出発したところに出くわし、今度はスマートフォンを確認する。「九時四十二分……、」腕時計はただ二分遅れていただけだった。
文彦とは意識しなくても噛み合えるのに、輔とはほんの少しのことですれ違ってしまう。
たった二分。たった六センチ。たった五年。たった一言足りなくて、言い過ぎて。それだけのことですれ違う。
それなのに、どうしてこんなにも、愛おしくて、欲しくて、たまらないのだろうか。すれ違うたびに、それでもこの人じゃなきゃだめなんだと、分からされてしまうのだろうか。
「すみません、色子総合運動場までお願いします」
居ても立ってもいられず、互いの距離を一ミリでも縮めたくてタクシーへ飛び乗る。運命なんて待てない。運命を追い越して彼に会いたい。
弟としか見られていないことなど分かっている。
実際、薫だって輔に甘えてきた。そういう眼差しでしかこちらを見てくれない輔をを少しでも乱してやりたくて、不機嫌でわがままで、一生懸命だった。
可愛いって、言って!
言えなくても瞳で何度もそう訴えた。輔はおそらく分かっていただろう。けれど、冗談でも口にしてくれなかった。そうするともっと欲しくなった。だって輔の「可愛い」は特別だ。絶景も、富も、名声も、勝負にならない。
総合運動場に到着し、薫はタクシーから飛び出した。
案内板で温水プールの位置を確認すると現在地から二キロも離れていた。「なにこれ、広すぎでしょ」薫は息を切らしながら悪態をつき、駆け出した。
ただ前へ踏み出す。一秒でも早く、一センチでも長く。左手に自由広場、右手に児童館、続いて駐車場、左手に野球場、バカでかい体育館を経て、試合の真っ最中の第一テニスコートの傍を通り過ぎる。
「はぁっ、はぁっ、はぁ、はっ、」
真夏の炎天下、蜃気楼の向こうにプールの施設が見えてくる。プログラムを終えた小学生たちがぞろぞろと列を成して薫の行く手を阻んだ。「す、すみません、通してくださいっ」薫は道を開けてくれた彼らに頭を下げながら自動ドアをくぐった。
「男子自由形百メートル、二十歳から二十九歳の部、終わりましたか」
薫は受付に速足で詰め寄り、早口でまくし立てた。
「今ちょうど決勝が始まるところですよ。観覧の方はあちらの階段を上って、」
ありがとうございます、と逸った息を混じらせて礼を言い、薫は再び駆け出した。階段を上がり観覧席へ出ると、眼下に真っ青なプールが広がった。
広い館内いっぱいに歓声が渦巻いている。薫は周囲の熱気に圧倒された。
「Take your marks.」
黄色のスタート台に立った選手たちがスタートの体勢を取る。スタートラインに並んだ八名を手前から確かめ、薫は相好を崩した。離れていたって分かる。他の選手がスタート台に手をついている中、遅れて構えを取っている奥から二番目の選手。間違いなく、輔だった。
ピッ。
電子音が響き八名が一斉に水面へ飛び込んだ。選手たちは刃が切り込むように水中へ吸い込まれ、そこから水を持ち上げ急浮上する。薫は観覧席の階段を降り、手すりに両手をついて身を乗り出した。水しぶきが館内の空気を混ぜ、一度止んでいた歓声が再び膨らんでいく。
「輔君」
ひらひらと優雅に、けれど速さを増して水の中を切っていく輔。まるで魚だ。今までだって何度もそう思った。いつ水面に出て来るのかと焦れてしまうほど時間を長く感じ、けれど五十メートルの中腹付近で皆が浮かび上がって来る。……勝負はここからだ。
「輔君!頑張れ!頑張れっ!!」
水面に白い飛沫が立つ。輔は速いと信じていたけれど、他の七名も同じように速かった。輔は先頭から頭一つ分遅れた形でターンし、それまでの激しさが嘘のように、美しくしなやかに壁を蹴った。観覧席から見下ろせば、ぐっ、と輔の体躯が伸びたように感じた。他の選手より深く潜ったのか、輔の影は水面に上がって来ず、けれどその内に差が縮まっていた。
「二十五秒、ゼロニ!」
審判の声に会場がざわめく。「速い!ヤバイ!」薫の隣でプールを見下ろしていた少年が瞳を輝かせた。
ザーッ、と、波の一部になったかのように水の中を行く選手たち。ぐんぐん、ぐんぐん、前へ出る。けれど一方でじりじりと差が開いていく。他の五名が先頭の選手から引き離される中、輔が食らいつく。
「輔君!頑張れ!」
輔が必死に水を掻いているのが伝わって来る。手すりを握りしめ前のめって叫べば、黒いゴーグルが水面からこちらを見たような気がした。輔君。心の中から呼びかける。一瞬を刻んで永遠にしたようなそれは刹那のことで、次の瞬間にはほとんどの選手がゴールタッチしていた。
「三島一着!五十二秒サンロク!……二着、黒木!三着、福田!四着……、」
やっべえはえぇ!隣ではしゃぐ少年たちの声が遠くに感じた。
輔君、輔君。
輔は水から陸へと戻り頭を一度振った。腰に手を当て俯いている輔に一着の男が歩み寄り、輔の肩を叩いた。……知り合いだったのだろうか、それともスポーツマンシップ的な何かだろうか。輔はゴーグルとキャップを取り、相手の笑顔に笑顔で応えた。
これまでの輔だったら、プールサイドでこんなことはあり得なかった。あと一歩というところで相手に追いつかず、悔しさを感じていないわけがない。なのに、今の輔は清々しく笑っている。
悔しいけど、まあ、やれることはやったね。
そう聞こえて来そうで、薫の心の方が、悔しさと切なさでいっぱいになった。
もう、ずいぶん前から、輔君は立ち直っていたんだ。
薫は今になってそんなことに気が付いて、自分が彼を足止めしていたことにも気が付いて、胸を詰まらせた。水を掻く力強い腕、しなやかな脚、水の中でも鋭く輝く強い意志。輔は何一つ失っていなかった。
ふと、男と別れた輔が観覧席を見上げた。
「頑張ったね」
口にするつもりのなかった言葉を漏らせば、輔はそれに応えるように片手を上げた。
驚いて、心臓が止まったようになる。うそ。そんな。どうして。
この広い会場で、まさか、本当にあの時、輔はこちらに気付いたのだろうか。
表彰式は拍子抜けするほどほのぼのしていた。それぞれの練習着に身を包んだ大人たちと子どもたちがのんびりと表彰状を受け取り笑顔を見せた。輔の表彰状は本人でなくスイミングスクールの代表者が受け取り、輔は最後までその場に現れなかった。
観覧席のベンチに腰掛け退場していく選手たちに拍手を送る。と、薫のすぐ傍に影が落ちた。
「なに、薫、もう帰って来ちゃったの?」
薫は眉間に力を入れ唇を「へ」の字にした。面を上げれば、いつものジャージ姿の輔が薫を見下ろしていた。
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婚約者さん何気に嫉妬してない?

僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

夢では溺愛騎士、現実ではただのクラスメイト
春音優月
BL
真面目でおとなしい性格の藤村歩夢は、武士と呼ばれているクラスメイトの大谷虎太郎に密かに片想いしている。
クラスではほとんど会話も交わさないのに、なぜか毎晩歩夢の夢に出てくる虎太郎。しかも夢の中での虎太郎は、歩夢を守る騎士で恋人だった。
夢では溺愛騎士、現実ではただのクラスメイト。夢と現実が交錯する片想いの行方は――。
2024.02.23〜02.27
イラスト:かもねさま
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