おれの愛する不機嫌なクピド

野中にんぎょ

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差し出される手、未来へのいざない

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「スタッフが参りますので、掛けてお待ちください」
 二人を控室に残し女性社員が去って行く。ドアが閉まった瞬間に「薫」「パリコレって」と同時に言葉を発してしまい、二人は丸くなった瞳を見合わせた。
「なんでここにいるの?パリコレ……出るの?パリに行ってたの?」
「うん。パリに五日間。……ここにいるのはね、縁があって。ずっとタイミングが合わなかったんだけど、これ以上引っ張るのも申し訳なかったし、何より、君と撮りたかった」
 そんなことの為に?鼓動と戸惑いが込み上げ薫は視線を逸らした。「薫」呼び掛けられ顔を背ければ、頬に指先が触れた。今までこんなふうに文彦から触れられたことがあっただろうか。驚いて見つめ返せば青色の瞳が揺れた。
「七日間会えなかっただけなのに、薫とおれはすごく離れてた」
「確かに、距離はすごく離れてたよ。それに、出会ってからは何度も会ってたし……」
「ううん、そうじゃない。薫からの電話を切った瞬間に、ぐっと離れた。おれは薫を迎えに行けなかった。……黒木さんが、来てくれたんでしょ?」
 薫は言葉に詰まった。文彦の表情が切なげに歪んでいる気がして、何度も目を凝らし確かめる。
「うん。輔が偶然通りがかって、連れて帰ってくれて」
「……まるで、そういう運命みたい」
 悔しげに笑う文彦に薫の視線が釘付けになった。文彦の感情が自分に向かって渦巻いているのを感じ、喉の奥がせり上がった。
「パリに行ったのは自分がそうしたかったからなのに、今は後悔すらしてる。ずっと日本にいればよかったって、薫が頼ってくれたのはおれなのにって、離れいてたのは距離だけだったのにって」
「何言ってるの。五日の滞在でパリコレの出演を決められるモデルが日本にどれだけいると思ってるの。すごいよ、文彦君は。……夏のパリ、行ったんだ。リベンジしたんだ」
「行った。あのシーズンが嘘みたいにトントン拍子にことが進んで、拍子抜けした」
「おめでとう」
「……ありがとう」
 薫はモデルとして高みへ登って行く文彦を眩しく思った。過去を吐露した時とは違い、今を語る彼の声ははっきりとしていた。この人も過去に挑むんだ。そう思うと、輔へ抱く憧憬に似た気持ちが文彦に向かって芽生えた。
「夏のパリ、撮った?」
「もちろん撮ったよ。写真も見せたい、話したいこともたくさんある。今日、二人の時間が欲しい。今日じゃなきゃだめだ。……お願い、薫」
 頬に触れていた指先が手の甲まで降り、薫の手を握りしめた。……次の瞬間、ドアがノックされる音が部屋に響いた。「どうぞ」文彦の手は何事もなかったかのように離れていった。
 ドアが開き何人ものスタッフが現れる。薫と文彦はそれぞれの持ち場へと案内され、糸引く視線を残しながら離れた。
「“憧れを手にする”というテーマでブランドごとにコーディネートを用意しています。今日撮影するのは特集ページの中盤、“過去と未来を思考する”をコンセプトにした頁で、定番商品と新作のコントラストやそれらが合わさった時の化学反応なんかを表現してもらえれば」
「憧れか。おもしろそう。……このバーキン、可愛いですね。これも撮影で使うんですか?」
 キッチュなチャームやワッペンで彩られたキャメルのバーキンを指差し文彦が微笑む。女性社員の傍らで文彦にメイクを施していたスタイリストがハッと眼差しをきらめかせた。
「ヴィンテージショップで見つけたんです。撮影に使えるか分からなかったんですけど、完全に私の趣味で持って来ちゃいました」
「定番の型はシンプルな仕種できまるから緊張します。でも、これだけ可愛かったらリラックスして持てそう」
 スタイリストは文彦の髪を整えながら嬉しそうに笑った。文彦の言葉で現場が温まっていくのを感じ、薫はそういう気遣いをさらりとこなしてしまう彼に自分の未熟さを実感させられた。
「緊張してる?」
 モノグラムのトランクケースを片手に文彦が囁く。グレースケールのタイダイ模様のスーツに黒のシャツ。主張の強いアイテムを自分のものにしてしまえる文彦はやはり異次元の存在だった。
 対して薫はワインレッドのスーツに光沢のある紫のシャツ。文彦の衣装とは違いリラックス感漂うシルエットだ。着こなしが難しいように感じるが、その実、こういった組み合わせは誰が着ても“個性派モデル”というような具合に落ち着く。
「もちろん緊張してますよ」
「あれ?敬語?そういう感じでいく?」
「文彦君はモデルの大先輩ですから」
「じゃあ、おれがリードしなきゃね」
 フラッシュを合図に視線を絡め近づいていく。文彦の人差し指を飾るシグネットリングが薫の腰で光る。文彦の手に引き寄せられ、けれど視線はカメラへ。カメラマンは忙しくシャッターを切り、その音だけが空間を満たしていた。
 文彦が手足や視線を動かす度に、空気が張り詰めたり緩んだりする。どのポーズが、どの表情が、なんて記憶を捲らなくても、身体に触れる文彦の指先が次にどうすればいいのかを教えてくれる。
「おれを見て」
 ゆっくりと、視線を肩から面へ滑らせる。「薫」名前を呼ばれると、ずっと触って欲しかった場所をくすぐられた気がして笑みがこぼれた。
「おれといればカメラの前でも怖くないでしょ?」
「ちょっと前から、怖くなくなった。多分……、文彦君に、出会ってから。文彦君に撮られるようになってから、誰のカメラの前に立っても、怖くなくなった。僕、いま、無敵かも」
 文彦は瞳を見張った。フラッシュが二人を、二人の影を克明に暴く。「おれも」何かに操られるように、文彦は唇をほどいた。
「おれも、薫に出会ってから何も怖くなくなった。未来も過去も、来るものを受け止めようって思えた。……だから、あの頃パリに残してきたものを、取りに帰ろうって決めたんだ」
 言葉と視線で結び合う。二人だけの方法で関係を編んでいく過程を、カメラだけが見ている。
「薫も来て。おれと来て」
「どこへ?……パリに?」
「そう。パリに。おれと来て。薫じゃなきゃ、だめだ。おれがだめなんだ」
 パシャ。チチチッ……、パシャッ。光が点滅する。赤?青?それとも、黄色?戸惑っている内に、「はい、オーケーです!」とカメラマンの声が上がった。
「なんか、ヤバい。これってもう、セックスじゃん」
 モニターを覗き込んでいるスタッフがぽつりと呟いた。薫は、だろうなと、漠然と思った。相手を心から想い身も心も委ねる行為がそれならば、文彦と薫のセックスはこれなのだろう。
 撮影を終えた二人は示し合わせた場所で落ち合った。互いを周囲の視線から隠すように寄り添い、言葉少なに雑踏を抜け、辿り着いたのは高級ホテルの一室だった。
「ごめん。ちょっと散らかってるけど、好きな場所に掛けて」
 男は誰でも部屋に人を呼ぶとき「散らかってて」と前置きするのだろうか。薫は輔の部屋よりもずいぶん整頓されている一室を見渡しソファーへ腰掛けた。
「なんかすごいところに泊ってるね」
「いつもよりいいところにしたよ。コーヒーでよかった?」
 文彦は冷蔵庫からボトルコーヒーを取り出しカップへ注いだ。そんな姿でさえ絵になる。頬杖を突いて文彦の仕種を見つめれば、彼は面映ゆそうにはにかんだ。
「二十日っていうのは、それくらいにパリに行かなきゃってことだったんだ」
「うん。思い付きで渡ったから、なんだか言うに言えなくて」
「思い付き?……ふふっ。なんだか次元が違い過ぎて話に着いて行けないよ」
「なんでも最初は思い付きからじゃないの?薫も行きたかったら、おれに着いて来ればいい」
 やけに真剣な彼にどう応えていいのか分からず、けれど誤解を恐れずに「着いて行って、僕、何をするの?」と不安を口にする。文彦は不安を受け止めてくれる。夏の短い逢瀬の間に、薫にはそういう確信が生まれていた。
「エージェントに君のことを話したら、ぜひ会いたいって。……けど、パリでモデルの仕事がもらえるかどうかは君次第だ。もし実りのないシーズンだったとしても、ファッションウィークの空気を味わうだけで訪れただけの価値がある」
 文彦がパリコレクションに特別な思いを抱いていることが伝わって、肌がひりひりした。彼が夏のパリを忌避していたのは、思い入れの強さの裏返しだ。
 一方で、薫は、モデルとして生きていきたいとも、モデルで生きていけるとも思ったことがない。おれどころか、薫にはこの誘いを受け取る覚悟さえなかった。
 文彦は薫の戸惑いを受け止め、「いきなりこんなこと言われても驚くよね」と自虐的に笑った。
「最短でも、九月の後半から十月の頭まではパリに居た方がいいけど、君にはその間、学校だって仕事だってある。返事はいつでもいいよ」
「でも、文彦君は、今月の二十日には……」
「うん。パリに行く。掴めるだけのチャンスを掴むつもりだよ」
 水面を睨む輔の瞳と同じ光を宿した文彦のそれ。薫は文彦の熱意と決心に気圧されそうになり、けれどしっかりと背筋を伸ばして彼に向き合った。
「ごめん。今すぐには返事ができない。よく考えたいから返事は後日でもいい?」
 目を見て言えば、文彦は「分かった」と頷いてくれた。
 パリのファッションウィークそのもの以上に、ランウェイを歩く人々に興味がある。もちろん、そこを歩くモデルのうちの一人になる、ということにも。けれど、薫にはそういう未来を具体的に思い描くことができなかった。
 どうしてだろう。どうして僕には、熱意が足りないのだろう。
「薫は、パッと火がつくタイプだよ」
 薫の心を見透かしたように文彦が隣へ腰掛けた。「つくかな?だって、五歳からこれまでモデルしてるのに、未だに僕……」文彦はゆっくりと首を振った。
「親に言われただけで、この仕事を十余年も続けられるはずがない。そのうちにパッと火がつく。他の人にはないタイミングで、一気に燃え上がる」
 文彦に言い切られ、どくんと心臓が脈打つ。そんなことが、こんな自分に起こるのだろうか?
「おれと立てば、無敵だったでしょう」
「……うん。でも今は、無敵じゃない」
「無敵の君も素敵だけど、無敵じゃない君も素敵だよ。今日のカメラマンには撮れなかった君を撮らせて」
 文彦はテーブルの上に置いていたカメラを手に取った。薫はやおら立ち上がり、差し出された手にカップを渡した。
「文彦君。カーテン、閉めて。照明も、消して……」
 文彦は立ち上がり、カーテンを閉め、照明を消した。部屋が暗転し、薫は傍にあったナイトライトを点けた。
「いつでも好きなように撮って。現像してもいいけど、他の人には絶対に見せないで」
 輔のものを真似て買ったオリーブ色のシャツのボタンを外す。インナーを脱ぎ、ネイビーのスラックスを下ろす。ショーツ一枚になってから文彦を見やれば、彼はカメラを下ろして唇を噛んでいた。
「僕、もう、大丈夫になったんだって、分かりたい」
「薫、でも、」
「僕、昔は、ちゃんと可愛かったんだ。なのにどんどん、可愛くなくなった」
 薫はショーツを下ろし、一糸纏わぬ姿でベッドに腰掛けた。
「身長がどんどん伸びて、顔つきも男っぽくなって、可愛かった自分からどんどん離れていった。なのに、男性的な魅力もこれっぽっちもなくて。……僕、そんな自分が、すごく嫌だった」
 仄かな明かりが十七歳の薫を照らし出す。この肉体に、弱さも、強さも、過去も今も未来も、全てが詰まっている。
「でも、最近、悪くないなって思えるようになった。己惚れてるかもしれないけど、綺麗だって、思えるようになった。愛しく、思えるようになった」
 文彦はぶるぶると千切れんばかりに頭を振り立て、「そうだよ」と声を荒げた。
「薫、君は、綺麗なんだよ。とっても綺麗なんだ」
 必死に訴える文彦に、薫は笑みをこぼした。
「ねえ、撮って」
 強請れば、彼の人差し指がやっとシャッターボタンへ伸びた。
 ――なんか、ヤバい。これってもう、セックスじゃん。
 その一言を思い出し、薫はシーツの上で微笑んだ。シーツと闇の波間で四肢を動かせばその度にシャッターが切られる。何もかも開け放たれる。ああ、これも、多分そうだ。
 自分を愛し始めたことを、彼のカメラに収めて欲しかった。「薫」名前を呼ばれる。「文彦君」返事をすれば、彼は微笑んでくれた。丸くなっていた背筋は、いつの間にか、伸びていた。
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