おれの愛する不機嫌なクピド

野中にんぎょ

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ずっと戻りたかった場所、ずっと見たかった姿

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『家に帰れた?』
 薫は文彦からのメッセージで目を覚ました。時刻を確かめればもう昼で、こんなに寝たのはいつぶりだろうと目を擦る。『帰れたよ。心配させてごめん』返信すれば、またすぐにメッセージが返って来た。
『よかった。おれじゃきっと間に合わなかった』
 輔に送ってもらったことを知っているようなメッセージに目が留まる。謝られているような、突き放されているような、どっちつかずの心地になり、『気にしてくれてありがとう』と打って、けれど消して、画面を伏せた。
「薫、悪いんだけど小ネギ買って来てくれない?」
 ノックもせずドアを開ける母を詰るように見やれば、「これ」とエコバックと財布を押し付けられ、薫はしぶしぶ立ち上がった。
「薫君!ごめんね、ちょっと急用ができちゃって。涼しい所で待っててくれる?」
 店先まで来たところで、薫は「すぐに戻ります」の札を掛けようとしている輔の母に遭遇した。彼女の手に持たれていたのはシリコンのスイムキャップで、輔が高校時代に使っていたものに似ていた。
「坊主の忘れもんか?おかみさん、どれくらいで戻れるの?」
 スイムキャップに見入っていると、薫の後ろから常連のおじいさんが顔を出した。「あの子、忘れっぽくて嫌になっちゃう。三十分はかからないと思うんだけど……」「一旦家に戻ろうかね。急がせたら悪いし、この暑さじゃ干からびちまう」「あの、」薫の声に二人が振り返る。
「おばさん。僕が代わりに届けようか?」
「ええっ、薫君、でも、」
 彼女は瞳を大きくし、それから、「じゃあ、お願いしようかな」と言ってチラシの裏に地図を描いてくれた。かしまドルフィンクラブ。そこが輔の勤め先だった。
 輔がシリコンのスイムキャップを使い始めたのは高校入学を目前にしてからで、同じスイミングスクールに通っていた同級生に冷やかされていたけれど、輔は決して競泳へのスタンスを変えなかった。何が何でも、藁に縋ってでも、一番になりたい。輔はそういう闘志を隠さなかった。
「黒木先生ですか?もうすぐレッスンが終わりますので、少々お待ちください」
 忘れ物を渡してもらうだけでよかったのに、受付の女性の笑顔に押されて薫は頷いてしまった。
 黒木先生。輔君、ここでそう呼ばれてるんだ。実際に耳にすると薫の胸がじんわりと熱くなった。
「プールの手前に観覧席があるので、待っている間に見学して行かれませんか?黒木先生、お子さんにとても人気なんですよ」
 惚れた弱みか、その言葉に十分すぎるほど興味をそそられてしまう。「今ちょうど、年中さんのレッスン中で。よかったらぜひ」促されるまま待合から奥へ進んでしまったのは、今の輔がどんな顔をしてプールにいるのかを知りたかったから。薫の記憶の中、プールに佇む輔は水面を鋭く睨んでいる。そんな場所に何が映っているの。その問いは、とうとう投げかけることができなかった。
「はい!トーン、トン、ぴょん!……はーい、よくできました!」
 プールの浅瀬、水中に置かれたジャンプ台から子どもたちが弾みをつけて飛び上がる。輔は両手を広げ、水の中へ飛び込む彼らをサポートしていた。十名ほどだろうか、まだ小学生にも満たない彼らは、アームリングのついた両腕で楽しそうに水を掻いていた。
「じゃあ次は輪くぐりするよ。黒木先生が持ってるフープをくぐってね。背の順に並びましょう!」
 はあ~い。間延びした返事に輔がくしゃっと笑う。「あっ、すごい、泳げてるね」「はい、上手!」「顔濡れるの大丈夫になったね、すごいね」生徒一人一人に声を掛けている輔を見ていると、薫の胸が忙しなく脈打ち始めた。
「黒木先生、若いし男の先生だからどうかなーって思ってたけど、褒め上手だよね。うちの娘なんか、家でも黒木先生黒木先生って」
「子どもの扱い上手いよね。甥っ子姪っ子でもいるのかな」
「ちっちゃい兄弟がいたりして。なんか長男っぽい」
 輔が見知らぬお母さんたちから褒めそやされ、薫まで得意になってくる。
 輔は三人兄弟の末っ子だ。子どもの扱いに慣れているのは五歳年下の幼馴染を弟のように可愛がっていた為だろう。末っ子の彼は兄二人に甘やかされるのを嫌がって、「おれも弟が欲しい!」と漏らしていた。その願いが叶ったのか、五歳の輔は生後三か月の薫に出会った。出会って一目で、「この子がおれの弟でしょう?だって天使みたいに可愛いよ!」と言って薫に頬ずりしたらしい。
「じゃあ最後に、藤野先生がいるところまでお散歩してみようか!黒木先生、補助お願いしまーす!」
 はいっ。水泳部時代と同じ声を上げて輔がスタートラインに立つ。その隣には、不安げに俯いている女の子がいた。
 ピーッ!ホイッスルを皮切りに、サイドラインを頼りに前へ進む子、水を掻きながらバタ足で進む子、コースロープを綱のようにして進む子、各々が自分のやり方で藤野先生の元を目指し始める。輔は不安そうにしていた女の子に話し掛け、背泳ぎの姿勢になった彼女を支えながら前に進み始めた。
「あっ、リコ、笑ってる」
 最前列にいたお母さんの一人が微笑む。リコちゃんは輔の顔を見上げ、パタパタとバタ足しながら無事に藤野先生の元まで辿り着いた。
「みんなよく頑張りました!最後にシャワーを浴びましょう!黒木先生に着いて行って~!」
 輔に続き生徒たちがぴょこぴょことシャワー室へ向かう。……と、朗らかに微笑んでいた輔の視線がピタリと止まった。硝子越しに薫と視線がかち合い、「おい、なんで、」と口をもごもごさせる輔。薫は唇をにんまりさせ手を振った。
「薫、なんで来てんの、母さんは!?」
「お店が忙しそうだったから僕が代わりに。ほら、忘れ物」
 生徒と保護者が帰り二人きりになった観覧席でスイムキャップを手渡す。
「確かに、ハートフルな仕事だね」
「うっせ。……でも、ありがと。ごめん、折角の休みに」
 また、“ごめん”か。薫の胸が切なく締め付けられた。
「輔君もここで練習してるの?」
「え?……あ、うん、そう。レッスン終わった後にトレーニングして帰る先生がほとんどで、おれもそれに混じって」
「輔君、その中で一番速いんじゃないの」
「ん~……。そうだね。今はおれが一番速いかも。泳げてた頃ほどじゃないけど、だいぶ戻って来た感あるし」
 言ってから、しまった!という顔をする輔。薫は怒りのポーズを取って輔を盛大に慌てさせてから相好を崩した。
「そうなんだ。なんか身体も前みたいにムキムキだし、相当泳いだんだね」
「泳ぐだけじゃこうなんねーよ。筋トレとか体幹とか、陸上トレーニングもみっちりやって、やっとだよ。マジなまってた」
「やっぱりそういうこともやってたんだ」
 再び墓穴を掘ったことに気付き、輔はぐにゅっと顔を歪めた。
 朝から夕方までプールで仕事をしているのに、輔は夜も休日もプールにいる。それどころか、彼はプールを上がっても、泳ぐことばかりを頭に巡らせている。
 本当に、好きなんだな。
 呆れて、それ以上にホッとして、薫は今度こそ輔に本当の笑みを向けた。
「輔君、水泳のことになるとストイックだから、ちょっと心配だけど。……頑張りすぎない程度に頑張って」
 プールで笑顔でいる輔を見ると、薫の目頭に熱がこもった。
 安心した。彼はもう苦しまないでこの場所にいられるのだと、戻りたかった場所に戻って来られたのだと、分かったから。
 薫は潤んだ瞳を悟られないようにと踵を返し足早に去ろうとした。その背中に、「薫!」と輔の声が弾けた。
「おれ、絶対に一番になるから!大会、見に来て!来てくれたら、獲った金メダル、おまえにあげるから!」
 プールにまで響く声でそんなことを言う輔。薫は頬を火照らせて、「メダルだとは限らないでしょ」と可愛くない返事をした。それでも、輔は笑って手を振ってくれた。海で一日中泳いでは真っ黒に焼けていた頃の、少年の彼に戻って。
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