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王子様にも、ヒーローにもなれないけど
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早朝の交差点での撮影が終わると、モデルたちは口々に「腹減った」と鳴き始めた。巣の中の雛に獲物を分け与えるように、スタッフが慌ただしく温かなスープとパンを配り始める。
「おれ、スープだけでいい」
亮は配られたパンを薫の膝に乗せ、「クラムチャウダーだ」と声を弾ませた。専属モデルの集結したバスの中はさながら男子校で、今週のジャンプがどうとか出来たばかりの彼女がどうとかフレッシュな話題で持ち切りになっていた。騒がしいのに慣れずバスを出れば、薫はいつものカメラマンに遭遇した。
「金原君、最近変わったね。雰囲気がすごく柔らかくなった」
「……そうですかね?自分では分からないです」
薫はカメラマンに曖昧な笑みを返し、並べられた折りたたみ椅子に腰掛けた。「隣いい?」カメラマンが隣に座ると、彼に面した半身が反射的に強張った。
「成長期なのに、パンとスープで足りる?」
「お腹いっぱいってほどではないですけど、帰るまでは持ちそうです」
「じゃあ、この後どう?一緒にコーヒーの美味い店行こうよ」
先日のやりとりを思い起こし、女性社員と亮も一緒なのだろうと、薫は「分かりました」と返した。
「え、いいの?」
「亮君、もう誘ってます?僕が誘いましょうか?」
「え?亮?……あ、えーと……、」
カメラマンの視線の先を見やれば、バスの窓際に座っている亮が小さく手を振っていた。カメラマンは軽い笑みを浮かべて亮に手を振り返した。仲睦まじい様子にあてられ席を立とうとすると、カメラマンの手が薫の膝に触れた。
「待って」
言葉にされると、ぎくりとした。カメラマンはしばらく逡巡し、「いや、亮誘っといてよ。亮がいた方が金原君も楽しいでしょ」と言った。
「なんか、康介さんにしては渋い感じの店やね。なぁ見て、軽食も美味しそうなんあるよ」
カメラマンと亮の距離は、撮影現場でのそれよりもずっと近かった。亮の声音は彼を前にすると甘くまろやかになって、棘のある言い回しも影を潜めた。薫は亮がカメラマンの八代(やしろ)を「康(こう)介(すけ)さん」と呼ぶのを初めて聞いた。
「康介さん、なんする?エスプレッソ?」
「そうしようかな。金原君と亮は?ここ卵サンドが美味しいよ」
亮が配られたパンを食べなかったのは、八代とどこかへ寄りたかったからなのかもしれない。薫はいたたまれなくなりメニュー表を閉じた。
「僕はアメリカンコーヒーだけ頂きます。この後、塾があって。時間があんまり……」
「おれがタマゴサンド頼むけんちょっと食べる?勉強するなら食べとかないかんやろ。頭働かんやん」
元から世話好きな亮がいつものように薫を気遣う。そんなやりとりを意外に思ったのか、八代は「本当に仲いいんだ、ポーズかと思ってた」と言って二人を茶化した。
亮が何気なく灰皿を八代の方へ寄せた。「今日はいい」八代は灰皿を元の位置に戻した。
「僕、煙草平気ですよ」
「や、みんな親御さんから預かってる子でしょう。金原君なんか高校生じゃない。煙草の匂いなんかついてたら親御さんが心配するよ」
「ちょっと康介さん、おれはいいん?」
「亮はいいの」
亮はその言葉に満足したように目を細めた。見様によってはうっとりしているようにも取れて、薫は架空の塾が始まる時間を早めなくてはと腕時計を確認した。
「あ、ごめん、ちょっと電話してくる」
スマートフォンを手に喫茶店を出る亮。亮がいなくなった途端、八代の視線が顔のパーツを順に撫でているように感じ、薫は身体を強張らせた。
「亮って誰にでもああだよね。距離感バグってるっていうか、人懐こい。そこがいいんだけど」
亮は自分の特別ではないと、暗に言っているように聞こえる。分かっていてボタンを掛け違えていくような感覚を拭いたくて、薫は「ですね」と同意した。
「亮君、友達多いですから。服屋の店員ともすぐ仲良くなっちゃうし」
「二人で服見に行くんだ?」
「僕、服はあんまりで。だから亮君が色々教えてくれるんです。去年のリアルクローズのコーナーは亮君が一緒にコーデを考えてくれて」
「ああ、だからか。ガラッと系統変わったなって思った」
窓の外を打見しても、亮はいない。「おまたせいたしました。アメリカンのお客様……」店員が沈黙を裂いてホッとする。コーヒーを飲み干して帰ってしまおう。そう思いカップに手を伸ばすと、「金原君」と呼ばれ反対の手を取られた。
「今度、二人でメシ行かない?亮とのこと相談させてほしい」
「亮君?あの……、亮君と付き合ってるんですか?」
「はは。付き合ってはないけど、いい感じかな。おれとしてはこの先に進みたくて」
亮を見る限り二人は両想いのはずだ。ホッとして「僕でよければ」と返すと、八代もまた安堵したように相好を崩した。八代の手はいつの間にか離れていた。「じゃ、連絡先教えてもらってもいいかな?」八代に言われるがまま連絡先を交換していると、文彦からメッセージが届いた。
『日本を離れる日が決まった。八月二十日。それまでにたくさん会おう』
八月二十日――。その日付に時が間延びしたようになって、通知をしまう。と、もう一つ通知が上がり、薫の指先が止まった。
『思い出、いっぱい欲しい。スマホでたくさん、カメラでもたくさん、薫を撮りたい』
まだ日本にいるくせに、思い出にしないでよね。
そう思いながら通知をしまい、薫は八代の連絡先に『金原です』とメッセージを送った。薫は早々にコーヒーを飲み干し、亮が席に戻らないうちに店を出た。
「おー、会えた」
自宅マンションの手前から輔がこちらへ手を振る。八代に触れられた時とは別の動揺が漲って、それだけで薫の頬が熱くなった。輔はカラッとした笑みを浮かべて薫に駆け寄り、「忘れ物」と眼鏡を差し出した。
「部屋に忘れてっただろ。取りに来るかなって待ってたけど、来ないし、そんなら俺が届けようかって」
輔の口端は薫の前ではいつも上がっていて、だからか、この気持ちに気付かれているのではないかと不安が先に立つ。眼鏡を受け取り、「ありがとう」と言えば、上がっている彼の口端が少し窪んだ。
「薫、あのさ、」
ブブッ。手に持っていたスマートフォンが震える。『早速、今週の土曜の夜はどう?返事は親御さんに聞いてからでいいよ』八代からのメッセージが目に入り、薫はスマートフォンをポケットへ押し込んだ。
「……あー……。伊月さん?」
なぜいつも文彦の名前が出るのだろう。「違う。仕事の人」「仕事の話?」「うん、まあ、そう」言い淀んでいる最中にも、八代に触れられた手の甲から違和感が這い上がってくる。その違和感はあの大きなスタジオの傍にあった個室に繋がって、嫌だやめてください、という震えた声を引きずり出して……。
「薫?……おい、大丈夫か、おまえ、顔色が……」
感覚が頭上を抜けぐるぐると大きく回り始める。そんな自分の状態よりも先に、自分より確かなものに支えられていることが肌から伝わってきた。
「薫、大丈夫?気分悪い?」
視線を上げれば、輔の焦った表情が目の前にあった。
「薫、そのまま力抜いてて、大丈夫だから」
薫、薫、と、何度も名前を呼んで、鉛になったような薫の身体を抱き上げる輔。彼は長身の薫を軽々と横抱きにして、エレベーターのボタンを肘で押した。薫は輔の身体がすでに逞しさを取り戻していることに気付き、やるせなさと心細さで溺れてしまいそうになった。
「ごめん、鍵だけ出せる?」
玄関の前で下ろされ、薫は輔に支えられながら鍵を開けた。プールの水にさらされた髪の匂いが薫の鼻先を掠めた。懐かしい匂いだった。
「ほら、横になって。水か何か持って来る?」
ベッドに横たえさせられ、何も返事をしないで輔を見つめていると、彼のこめかみに汗が光っているのを見つけた。薫は枕元にあるはずのリモコンを探った。
「クーラーつけたいの?薫は動かないでいいから」
ふっと、輔の影が薫に覆い被さった。ピピッ。リモコンを挟んで手と手が重なって、視線が重なって、彼のこめかみから汗が一筋伝っていった。
コ――……。
エアコンから温もりきった空気が注がれる。輔の髪が揺れ、今日は乾いているな、なんて暢気に思う。
どっ、どっ、どっ、どっ……。
見つめ合うと、息が止まる。心臓まで止まってしまいそうになる。泡立った血液が全身を駆け巡って、抜け出せるはずの迷路の出口を見失ってしまう。
スマートフォンが薫のポケットの中で震えた。
八代さんかな、嫌だな……。ぼんやり考えていると、輔の手が伸びてスマートフォンを抜き取ってしまった。
「ごめん。見ちゃった。……やっぱり伊月さんじゃん」
ひらりと眼前に翳された画面には『いつ会える?今日はもう難しい?』と、文彦にしては急いた言葉が綴られていた。
「いつ会える?だって。仲良いねえ」
「こっちにいるのは一時帰国なんだって。だから、日本を離れる前に会おうって、そういうことだよ」
野良ネコのように振り向きこちらを確かめる輔。輔はスマートフォンを枕元へ戻し、ベッドの縁に腰掛けた。
「伊月さんて、もしかしなくてもどっかのハーフ?」
「父親がデンマーク人で、母親が日本とイギリスのハーフなんだって」
「なんじゃそりゃ。すっげえな」
輔の肩が小刻みに揺れて、笑った顔も見たいのにと思ってしまう。輔をこの夏で一番近くに感じてTシャツの裾を引っ張れば、「ん」と返事をした彼が横顔で振り返ってくれた。輔の額にあった汗は引いていた。眩しそうに細められた瞳が優しくて、薫の胸がぎゅっとなる。見つめているうちに、輔は再び前に向き直った。
「伊月さんってかっこいいよな。おれ、おまえがおまえより背の高い誰かといるの久しぶりに見た」
「だってモデルだもん」
「モデルでもだよ。薫だって仕事でスタイル良くてキレーな顔のヤツらに囲まれてても、伊月さんはなんか違うって思うんじゃない?」
「文彦君、パリコレにも出てた人なんだよ。雑誌の専属モデルとは訳が違うよ」
「や……、それもすごいけど、おれが言いたいのは、そーいうことじゃ……」
「なんか、輔君がそんなこと言うの珍しいね」
ギッ。輔が固まった反動でベッドが軋む。
輔は自分の容姿に疎いが他人の容姿はそれ以上に気に留めない。だから、輔の「可愛い」は特別だった。それをもらえている間は、輔にとって自分は特別なんだと思うことができたのに。
「珍しくねーよ。普通に思うわ」
捨て鉢に言うと、輔はガシガシと頭を掻いた。整髪料を付けない彼の髪はパサついていて、けれどその隅々まで輔そのものの生命力が行き渡っている。文彦の洗練された美とは違う美しさが、輔にはある。
「おれってダセー……」
呟かれたその言葉に薫は思わず起き上がった。輔の口からそんな言葉を聞くのは初めてだった。「寝とけって、具合悪くなるぞ」胸をトンと押され、薫は納得がいかないまま仰向けになった。
「どうしたの?なにがダサいの?髪の毛ボサボサなとこ?」
「なんだよそれ。おれだって水泳ない日はちゃんとしてるっつの」
「……そうだよね。僕が知らないだけだよね。スクールの生徒さんとデートしてた時は、きちんとしてたもんね」
オリーブ色の開襟シャツと、オフホワイトのゆったりしたボトムス。髪だってセットしていた。薫の前ではジャージか部屋着かというような輔が浮足立った恰好をしているとムッとする。
「あんなん、モデルのおまえらからしたら部屋着みたいなもんだろ。きちんとした格好とか言われる方が恥ずかしいわ。一般人のおれをいじめんなっつの」
輔のむくれた声に薫の苛立ちが途切れた。いじめたつもりなんてない。そういう輔と二人で出かけてみたかっただけで。
苛立っていたのに、今度は切なくなって、薫は壁側へ寝返りを打った。どうせ僕は輔君と一生デートできないんだ。そう思うと、身体がベッドに沈み込んでそのまま消えてしまいそうだった。
「……あのさ。八月二十日、どう?来れそー?」
なんでもないことのように尋ねられ、けれどその声はどこか緊張していた。
八月二十日と聞いて、薫は文彦のメッセージを思い出した。
「ちょっと、まだ、分からない」
「そっか。そうだよな。急かすようなこと言ってごめん」
そんなこと、謝らなくたっていいのに。
腰を痛めてから、輔は水泳に関することを「ごめん」という言葉と一緒に話すようになった。
そうさせたのは、きっと僕だ。
あの日、泣かずにケーキを渡せていたら、こんな言葉を言わせずに済んだのだろうか。
「薫」
輔の指が薫の前髪をそっと掻き上げた。「疲れが出たんだよ。ゆっくり休みな」穏やかな、夕方の海のような声。薫は行かないでと言う代わりに、輔のTシャツの裾を握った。
「おれって、ホント、ダサ……」
寄せては返す鼓動に混じり、そんな声が聞こえた気がした。
「おれ、スープだけでいい」
亮は配られたパンを薫の膝に乗せ、「クラムチャウダーだ」と声を弾ませた。専属モデルの集結したバスの中はさながら男子校で、今週のジャンプがどうとか出来たばかりの彼女がどうとかフレッシュな話題で持ち切りになっていた。騒がしいのに慣れずバスを出れば、薫はいつものカメラマンに遭遇した。
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「成長期なのに、パンとスープで足りる?」
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「じゃあ、この後どう?一緒にコーヒーの美味い店行こうよ」
先日のやりとりを思い起こし、女性社員と亮も一緒なのだろうと、薫は「分かりました」と返した。
「え、いいの?」
「亮君、もう誘ってます?僕が誘いましょうか?」
「え?亮?……あ、えーと……、」
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「待って」
言葉にされると、ぎくりとした。カメラマンはしばらく逡巡し、「いや、亮誘っといてよ。亮がいた方が金原君も楽しいでしょ」と言った。
「なんか、康介さんにしては渋い感じの店やね。なぁ見て、軽食も美味しそうなんあるよ」
カメラマンと亮の距離は、撮影現場でのそれよりもずっと近かった。亮の声音は彼を前にすると甘くまろやかになって、棘のある言い回しも影を潜めた。薫は亮がカメラマンの八代(やしろ)を「康(こう)介(すけ)さん」と呼ぶのを初めて聞いた。
「康介さん、なんする?エスプレッソ?」
「そうしようかな。金原君と亮は?ここ卵サンドが美味しいよ」
亮が配られたパンを食べなかったのは、八代とどこかへ寄りたかったからなのかもしれない。薫はいたたまれなくなりメニュー表を閉じた。
「僕はアメリカンコーヒーだけ頂きます。この後、塾があって。時間があんまり……」
「おれがタマゴサンド頼むけんちょっと食べる?勉強するなら食べとかないかんやろ。頭働かんやん」
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亮が何気なく灰皿を八代の方へ寄せた。「今日はいい」八代は灰皿を元の位置に戻した。
「僕、煙草平気ですよ」
「や、みんな親御さんから預かってる子でしょう。金原君なんか高校生じゃない。煙草の匂いなんかついてたら親御さんが心配するよ」
「ちょっと康介さん、おれはいいん?」
「亮はいいの」
亮はその言葉に満足したように目を細めた。見様によってはうっとりしているようにも取れて、薫は架空の塾が始まる時間を早めなくてはと腕時計を確認した。
「あ、ごめん、ちょっと電話してくる」
スマートフォンを手に喫茶店を出る亮。亮がいなくなった途端、八代の視線が顔のパーツを順に撫でているように感じ、薫は身体を強張らせた。
「亮って誰にでもああだよね。距離感バグってるっていうか、人懐こい。そこがいいんだけど」
亮は自分の特別ではないと、暗に言っているように聞こえる。分かっていてボタンを掛け違えていくような感覚を拭いたくて、薫は「ですね」と同意した。
「亮君、友達多いですから。服屋の店員ともすぐ仲良くなっちゃうし」
「二人で服見に行くんだ?」
「僕、服はあんまりで。だから亮君が色々教えてくれるんです。去年のリアルクローズのコーナーは亮君が一緒にコーデを考えてくれて」
「ああ、だからか。ガラッと系統変わったなって思った」
窓の外を打見しても、亮はいない。「おまたせいたしました。アメリカンのお客様……」店員が沈黙を裂いてホッとする。コーヒーを飲み干して帰ってしまおう。そう思いカップに手を伸ばすと、「金原君」と呼ばれ反対の手を取られた。
「今度、二人でメシ行かない?亮とのこと相談させてほしい」
「亮君?あの……、亮君と付き合ってるんですか?」
「はは。付き合ってはないけど、いい感じかな。おれとしてはこの先に進みたくて」
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『思い出、いっぱい欲しい。スマホでたくさん、カメラでもたくさん、薫を撮りたい』
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そう思いながら通知をしまい、薫は八代の連絡先に『金原です』とメッセージを送った。薫は早々にコーヒーを飲み干し、亮が席に戻らないうちに店を出た。
「おー、会えた」
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輔の口端は薫の前ではいつも上がっていて、だからか、この気持ちに気付かれているのではないかと不安が先に立つ。眼鏡を受け取り、「ありがとう」と言えば、上がっている彼の口端が少し窪んだ。
「薫、あのさ、」
ブブッ。手に持っていたスマートフォンが震える。『早速、今週の土曜の夜はどう?返事は親御さんに聞いてからでいいよ』八代からのメッセージが目に入り、薫はスマートフォンをポケットへ押し込んだ。
「……あー……。伊月さん?」
なぜいつも文彦の名前が出るのだろう。「違う。仕事の人」「仕事の話?」「うん、まあ、そう」言い淀んでいる最中にも、八代に触れられた手の甲から違和感が這い上がってくる。その違和感はあの大きなスタジオの傍にあった個室に繋がって、嫌だやめてください、という震えた声を引きずり出して……。
「薫?……おい、大丈夫か、おまえ、顔色が……」
感覚が頭上を抜けぐるぐると大きく回り始める。そんな自分の状態よりも先に、自分より確かなものに支えられていることが肌から伝わってきた。
「薫、大丈夫?気分悪い?」
視線を上げれば、輔の焦った表情が目の前にあった。
「薫、そのまま力抜いてて、大丈夫だから」
薫、薫、と、何度も名前を呼んで、鉛になったような薫の身体を抱き上げる輔。彼は長身の薫を軽々と横抱きにして、エレベーターのボタンを肘で押した。薫は輔の身体がすでに逞しさを取り戻していることに気付き、やるせなさと心細さで溺れてしまいそうになった。
「ごめん、鍵だけ出せる?」
玄関の前で下ろされ、薫は輔に支えられながら鍵を開けた。プールの水にさらされた髪の匂いが薫の鼻先を掠めた。懐かしい匂いだった。
「ほら、横になって。水か何か持って来る?」
ベッドに横たえさせられ、何も返事をしないで輔を見つめていると、彼のこめかみに汗が光っているのを見つけた。薫は枕元にあるはずのリモコンを探った。
「クーラーつけたいの?薫は動かないでいいから」
ふっと、輔の影が薫に覆い被さった。ピピッ。リモコンを挟んで手と手が重なって、視線が重なって、彼のこめかみから汗が一筋伝っていった。
コ――……。
エアコンから温もりきった空気が注がれる。輔の髪が揺れ、今日は乾いているな、なんて暢気に思う。
どっ、どっ、どっ、どっ……。
見つめ合うと、息が止まる。心臓まで止まってしまいそうになる。泡立った血液が全身を駆け巡って、抜け出せるはずの迷路の出口を見失ってしまう。
スマートフォンが薫のポケットの中で震えた。
八代さんかな、嫌だな……。ぼんやり考えていると、輔の手が伸びてスマートフォンを抜き取ってしまった。
「ごめん。見ちゃった。……やっぱり伊月さんじゃん」
ひらりと眼前に翳された画面には『いつ会える?今日はもう難しい?』と、文彦にしては急いた言葉が綴られていた。
「いつ会える?だって。仲良いねえ」
「こっちにいるのは一時帰国なんだって。だから、日本を離れる前に会おうって、そういうことだよ」
野良ネコのように振り向きこちらを確かめる輔。輔はスマートフォンを枕元へ戻し、ベッドの縁に腰掛けた。
「伊月さんて、もしかしなくてもどっかのハーフ?」
「父親がデンマーク人で、母親が日本とイギリスのハーフなんだって」
「なんじゃそりゃ。すっげえな」
輔の肩が小刻みに揺れて、笑った顔も見たいのにと思ってしまう。輔をこの夏で一番近くに感じてTシャツの裾を引っ張れば、「ん」と返事をした彼が横顔で振り返ってくれた。輔の額にあった汗は引いていた。眩しそうに細められた瞳が優しくて、薫の胸がぎゅっとなる。見つめているうちに、輔は再び前に向き直った。
「伊月さんってかっこいいよな。おれ、おまえがおまえより背の高い誰かといるの久しぶりに見た」
「だってモデルだもん」
「モデルでもだよ。薫だって仕事でスタイル良くてキレーな顔のヤツらに囲まれてても、伊月さんはなんか違うって思うんじゃない?」
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「なんか、輔君がそんなこと言うの珍しいね」
ギッ。輔が固まった反動でベッドが軋む。
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捨て鉢に言うと、輔はガシガシと頭を掻いた。整髪料を付けない彼の髪はパサついていて、けれどその隅々まで輔そのものの生命力が行き渡っている。文彦の洗練された美とは違う美しさが、輔にはある。
「おれってダセー……」
呟かれたその言葉に薫は思わず起き上がった。輔の口からそんな言葉を聞くのは初めてだった。「寝とけって、具合悪くなるぞ」胸をトンと押され、薫は納得がいかないまま仰向けになった。
「どうしたの?なにがダサいの?髪の毛ボサボサなとこ?」
「なんだよそれ。おれだって水泳ない日はちゃんとしてるっつの」
「……そうだよね。僕が知らないだけだよね。スクールの生徒さんとデートしてた時は、きちんとしてたもんね」
オリーブ色の開襟シャツと、オフホワイトのゆったりしたボトムス。髪だってセットしていた。薫の前ではジャージか部屋着かというような輔が浮足立った恰好をしているとムッとする。
「あんなん、モデルのおまえらからしたら部屋着みたいなもんだろ。きちんとした格好とか言われる方が恥ずかしいわ。一般人のおれをいじめんなっつの」
輔のむくれた声に薫の苛立ちが途切れた。いじめたつもりなんてない。そういう輔と二人で出かけてみたかっただけで。
苛立っていたのに、今度は切なくなって、薫は壁側へ寝返りを打った。どうせ僕は輔君と一生デートできないんだ。そう思うと、身体がベッドに沈み込んでそのまま消えてしまいそうだった。
「……あのさ。八月二十日、どう?来れそー?」
なんでもないことのように尋ねられ、けれどその声はどこか緊張していた。
八月二十日と聞いて、薫は文彦のメッセージを思い出した。
「ちょっと、まだ、分からない」
「そっか。そうだよな。急かすようなこと言ってごめん」
そんなこと、謝らなくたっていいのに。
腰を痛めてから、輔は水泳に関することを「ごめん」という言葉と一緒に話すようになった。
そうさせたのは、きっと僕だ。
あの日、泣かずにケーキを渡せていたら、こんな言葉を言わせずに済んだのだろうか。
「薫」
輔の指が薫の前髪をそっと掻き上げた。「疲れが出たんだよ。ゆっくり休みな」穏やかな、夕方の海のような声。薫は行かないでと言う代わりに、輔のTシャツの裾を握った。
「おれって、ホント、ダサ……」
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