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それぞれの過去、それぞれのいばら
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――輔君に、早くよくなってねって言って、渡してね。
持たされたケーキは母から渡されたもので、けれど、ベッドに横たえた輔を見た瞬間に、薫の眦から涙があふれてしまった。
自室の入り口に泣いている子どもを見つけ、輔は「うおっ」と間の抜けた声を上げた。輔の声が、いつもの調子が差し込む表情が、部屋をパッと明るくした。
――え、なに?なんか持って来てくれたの?……薫?どーした?
いつになく優しい顔をした輔がゆっくりと起き上がる。どうした、と尋ねるのに、彼はこの涙の内訳を知っているようだった。
――泣くなよ。そんなに泣いたら干からびちゃうぞ。
十七歳の彼は、十二歳の薫からすれば大人で、だから「泣かないで」と頭を撫でられると、薫の方が安心してしまった。温かくて大きな手。夏そのもののような体温を乗せた指が、穏やかに薫の髪を掻き混ぜた。
輔は薫を、最初は壊れ物にするように、けれど最後はきつく、抱きしめてくれた。輔の顔が埋もれたようになった肩に熱を感じて、薫もまた輔の背に腕を回した。彼の腕の中で散々泣いて、慰められて、ケーキを渡して家に戻ると、Tシャツの肩口に染みができていた。触れると冷たくて、その部分に唇を寄せると海の味がした。
「懐かしいことでも思い出してる?」
カシャ。出会った日に持っていたフィルムカメラからシャッター音が響く。薫は芝生に腰を下ろし膝を抱えた。そうすると文彦も同じようにしゃがむから、薫は可笑しくなってくすりと笑った。
「文彦君がレンズを通して言うことって、大体当たってる。そういう占い師みたい」
「カメラ占い師?モデルより稼げるならやろうかな。……今日は眼鏡は?裸眼、初めて見る」
眼鏡はあのまま輔の部屋に残して来てしまった。輔にはあれから会っていない。
「なくしちゃって。でも、ほとんど度入ってないから。生活には支障ないよ」
「伊達だったんだ。なんか薫らしい」
七月も中盤に入り季節は夏の盛りを迎えている。四月に事務所から独立した三つ年上の先輩は、早めにパリに入ってパリコレクションのキャスティングを受けると言っていた。
「文彦君はパリコレ出たことある?」
「あるよ。でももう結構前。十七歳の時」
「十七?今の僕の歳だ。すごいね」
「向うじゃそんなもんだよ。歳重ねてると、モデル以外に何してるの?って、付加価値求められちゃったりする。バックボーンのあるモデルって強いからね」
「歳重ねてるって、何歳くらいのこと?」
「二十歳が一つのラインかもね。だからか周りのモデルはみんなサバ読んでた」
「今年は出ないの?」
「今年も出ないよ」
文彦の声は張り詰めていた。けれど張り詰めた琴線の向こうに謎めいた彼の本質が覗いて、薫は思わず「なんで?」と尋ねた。
「嫌な思い出があるから。だから、夏のパリには近づかないようにしてる」
二年前の夏のパリ。汗水垂らして事務所を回り、何件ものキャスティングを受けている文彦を想像する。「ねえ、どんな思い出?教えて」好奇心に押されて近寄れば、文彦はカメラを下ろして顔を顰めた。
「いいよ、教えてあげる。……でも、条件がある。薫も嫌な思い出を一つ教えてくれる?」
そう言われて薫が思い出すのはコルセットを腰に巻いた彼のことだけれど、“嫌な思い出”ではない。心に残ったのは嫌悪感でなく、歯痒さと心細さと、Tシャツの肩口に滲んだ涙の痕だ。
「分かった。一番嫌だった思い出、教える。だから文彦君のも教えて」
文彦は一瞬瞳を丸くして、それから「オーケー」と言って不敵に微笑んだ。
「おれが十六歳の春、両親が離婚して。円満な別れだったけど、おれにとっては晴天の霹靂だった。おれの父は映画監督で、仕事でヨーロッパを行ったり来たりしている母に代わって現場に連れて行ってくれたりしてね。そんな父と離れて暮らすってことが、当時のおれにはよく分からなかった。
モデルは知り合いに頼まれてやってただけで、仕事って感覚はなかった。でも、父と離れて、母に連れられて日本とヨーロッパを行き来して、友達もできなかったし、そんなだから撮影現場だけがおれにとって唯一変わらない場所で、いつの間にかホームになってた。
ショーモデルは何度か経験したことがあったから自信があった。なにより、おれは若かった。どうせやるなら昇れる場所まで昇り詰めたいって、日本からデンマークに行くのと同じ感覚で夏のパリへ渡った。
でも、あの場所は違った。英語と片言のフランス語でキャスティングを受けてはフラれて、フィッティングまで行けてもコンファームまで辿り着けなくて、直接事務所を訪ねてドアを叩いては門前払いで。六月にパリに入ったのに、七月の下旬になっても事務所が決まらなかった。
悔しかった。結局ギリギリで事務所が決まってコレクション自体は経験したけど……、何かと報われないシーズンだった。決まってたキャスティングも当日にルックがなくなったり、それさえ知らされずに控室に延々座ってたりね。そんなことがザラにあった」
ふう。淀みなくしゃべっていた文彦が息を吐く。確かに、そんな経験をしていれば、舞い込む仕事をこなしているだけの人間をプロとは表現できないだろう。
「クロージングルックを任されたブランドがあった」
「ショーの大トリ?すごいね」
「そう。それだけは嬉しかった記憶がある。ランウェイを見るだけで胸が高揚した。……でも、その時の動画がシーズン後に出回って、『これってあの映画に出てた脇役の子じゃないか?』『この子はあの映画にもこの映画にも脇役で出てる』『どうもあの映画監督の息子らしい』ってSNSで特定が始まって。しまいには、『親のコネでクロージングルックを飾った』って、言われちゃって。
最悪だった。親のコネなんかじゃないって、火がついて、ミラノ、ニューヨーク、ロンドン、ありとあらゆるブランドの服を着てランウェイを歩いた。パリになんか行かなければよかったと何度も後悔したのに、皮肉にもその経験値で採用してくれるところが多かった。コレクション以外の仕事もどんどん舞い込んで、モデルとして稼いだお金で生きていけるようになった。
そうなるとなんだか空しくなった。火が消えて、煙だけが残って、けれど仕事はあって。自分に求められているものが分かるようになって、過去に学んだことから取捨選択して表現して、でもそれはおれそのものではなくて、本当のおれは置いてきぼりをくらって、経験を出力するだけのキカイみたいになっちゃって」
文彦は薄く微笑み、カメラをしきりに揉んだ。
「最初は暇つぶしだったんだ。キャスティングも決まらなくてメッセージの返事も来なくて暇な時、持って来てたこのカメラで何気なく風景を撮ってた。でも、暇つぶしがいつの間にか息抜きになって、好きなことになって……。写真はいいよね。一瞬を切り取るとそれが永遠に近いものになって、人が生きるより少し早いスピードで色褪せていく。ファインダーを覗いてシャッターを切ると、どうしてか現実よりも美しく撮れるし、その世界が自分を受け入れてくれたように感じる」
このカメラはずっと文彦の傍にあった。そして、これからも。
そう思うと、この機械がじっと考え込んでいるように見えてくる。目の前の彼と、同じように。
「モデル、辞めるの?」
「辞めるかもしれない。なによりもう、やりきったと思ってる」
「写真を仕事にするの?」
「それも分からない。好きで撮ってるだけだから。これで食べていけたらとか、特別な表現をしたいとか、そういうことは思ってない。……でも、君は……、薫のことは、ずっと撮りたいって、思ってる」
思わず文彦を見つめれば、真珠色の肌がじわりと上気していた。文彦は川を見つめたまま一度唇を結んで、それから思いついたように笑った。
「薫って不思議だよ。薫だけは、自分の画角に収めても、なんか薫のままで、自分のものみたいに思えない。薫の世界に触れることはできても、そこから先には入らないでって言われてる気がして、眺めるだけになる。だから何枚撮っても足りないなって思う」
「文彦君が入りたくないって思ってるだけじゃないの?気遣いのある人じゃん、意外と」
「あはは。そうかも。不用意に触れて汚したくないとは、確かに思ってる」
不用意に触れて。そう聞くと、薫は先日の輔の両手を思い出した。不用意に、不躾に、触れたいと思うから触れる、そんな調子で薫の脇腹を撫で上げた手。どうしてかいたたまれなくなり文彦の眼差しから目を逸らすと、「薫の番だよ」と促された。
「文彦君の話を聞いた後だとパンチが足りないかも。こういう業界じゃよくあることなんだろうけどね……」
心の奥に、しまい込みたかったもの。しまい込んでも、ふとした拍子に出て来てしまうもの。思い出したら最後、眼前まで迫って来てしまうもの。
誰にも打ち明けるものかと躍起になっていたそれが、出会ったばかりの男を前に紐解かれる。文彦は薫を不思議だと言ったけれど、薫には文彦の方がよほど不思議だった。
「十四歳の時。女の子向けのティーン雑誌にシーズンモデルとして呼ばれたことがあって。大きな事務所の偉い人がその雑誌の僕を見て、この子に会ってみたい、何枚か撮らせてくれないかって、事務所を通じずに直接母さんに連絡してきて」
「え、なんかそれ、危なくない?」
「僕でさえそう思った。なんか変だなって。……でも、当時入ってた事務所は声掛けられたとこに比べれば小っちゃくて、『薫君なら俳優への道だって開ける、大河ドラマの子役オーディションに出られるツテもあるからどうか』とか言われて、母さんも舞い上がっちゃって」
キッズモデルやキッズタレントの界隈ではよくある話だ。そう自分に言い聞かせて笑顔を保っても、文彦の表情はすでに固くなっていた。
「指定された場所に行くと、そこはちゃんとしたスタジオだった。母さんは別室に通されて、その後ろ姿を見てたら、規約の説明を受けるからねって言われて……。まあ、なんていうか、僕は最初に入った大きなスタジオから個室みたいなところに移動あせられて……、何言われたのかは覚えてないんだけど……。結果的には、裸を撮られた」
「薫」
伸ばされた文彦の手は、薫に触れずに芝生へ落ちた。文彦はそんな自分を戒めるように唇を噛み、話を遮るようなことはしなかった。
「嫌だって、やめてって、言ったと思う。けど、『撮られたくてモデルをやってるんだろう、資料の為に撮っているだけだから』って言い返されて、そのまま何枚も」
「そのこと、事務所に、母親に、言った?」
「言ってない。嫌だって言ったのにって、思っちゃって。誰にも言えなくて。……今後については後日連絡するからって言われて、待っても連絡が来ないから母さんが名刺にある番号に掛けたら通じなくて。結局、詐欺だったってことだね。こんな分かりやすい事例もないんだろうけど、まんまと引っかかっちゃったね」
これが僕の、嫌な思い出。
そう付け加えて肩を竦めると、文彦は瞳を潤ませて「ごめん」と口走った。
「出会った日、おれにあんなに怒ってたのは、撮られるのが怖かったから?」
「……出た。占い師」
「本当は、モデルの仕事が怖い?カメラの前に立つのが、怖い?」
「怖くても、やらなくちゃいけない理由があったから。……もう、その理由、なくなっちゃったんだけど……」
「ごめん。本当に、ごめん」
頭を下げた彼の旋毛が、あの日の輔の旋毛とは逆の毛流れを描いていて、思わず手が伸びる。ぽんぽん、と、宥めるように触れると撫でるという動作になって、薫は文彦の頭を抱き寄せた。
「つらかったんだね、僕たち」
裸を撮られた十四歳の自分よりも、夏のパリで泣いていた十七歳の彼を抱きしめたかった。背にそろそろと腕が回され、十七歳の彼が裸の少年を抱きしめ返した。
つらかった、なんて認めたくなかった。なのに、文彦と分け合うとすんなり「つらかった」と思えた。
「ねえ、撮ってよ。うんと綺麗に」
眩しそうに目を細める彼に向って笑う。この前褒められたように、くるりとターンして、もう一度と、両手を広げて足を踏みしめる。シャッター音が今を閉じ込める。一瞬が永遠になる。彼が自分を撮ったということが、未来に残る。
持たされたケーキは母から渡されたもので、けれど、ベッドに横たえた輔を見た瞬間に、薫の眦から涙があふれてしまった。
自室の入り口に泣いている子どもを見つけ、輔は「うおっ」と間の抜けた声を上げた。輔の声が、いつもの調子が差し込む表情が、部屋をパッと明るくした。
――え、なに?なんか持って来てくれたの?……薫?どーした?
いつになく優しい顔をした輔がゆっくりと起き上がる。どうした、と尋ねるのに、彼はこの涙の内訳を知っているようだった。
――泣くなよ。そんなに泣いたら干からびちゃうぞ。
十七歳の彼は、十二歳の薫からすれば大人で、だから「泣かないで」と頭を撫でられると、薫の方が安心してしまった。温かくて大きな手。夏そのもののような体温を乗せた指が、穏やかに薫の髪を掻き混ぜた。
輔は薫を、最初は壊れ物にするように、けれど最後はきつく、抱きしめてくれた。輔の顔が埋もれたようになった肩に熱を感じて、薫もまた輔の背に腕を回した。彼の腕の中で散々泣いて、慰められて、ケーキを渡して家に戻ると、Tシャツの肩口に染みができていた。触れると冷たくて、その部分に唇を寄せると海の味がした。
「懐かしいことでも思い出してる?」
カシャ。出会った日に持っていたフィルムカメラからシャッター音が響く。薫は芝生に腰を下ろし膝を抱えた。そうすると文彦も同じようにしゃがむから、薫は可笑しくなってくすりと笑った。
「文彦君がレンズを通して言うことって、大体当たってる。そういう占い師みたい」
「カメラ占い師?モデルより稼げるならやろうかな。……今日は眼鏡は?裸眼、初めて見る」
眼鏡はあのまま輔の部屋に残して来てしまった。輔にはあれから会っていない。
「なくしちゃって。でも、ほとんど度入ってないから。生活には支障ないよ」
「伊達だったんだ。なんか薫らしい」
七月も中盤に入り季節は夏の盛りを迎えている。四月に事務所から独立した三つ年上の先輩は、早めにパリに入ってパリコレクションのキャスティングを受けると言っていた。
「文彦君はパリコレ出たことある?」
「あるよ。でももう結構前。十七歳の時」
「十七?今の僕の歳だ。すごいね」
「向うじゃそんなもんだよ。歳重ねてると、モデル以外に何してるの?って、付加価値求められちゃったりする。バックボーンのあるモデルって強いからね」
「歳重ねてるって、何歳くらいのこと?」
「二十歳が一つのラインかもね。だからか周りのモデルはみんなサバ読んでた」
「今年は出ないの?」
「今年も出ないよ」
文彦の声は張り詰めていた。けれど張り詰めた琴線の向こうに謎めいた彼の本質が覗いて、薫は思わず「なんで?」と尋ねた。
「嫌な思い出があるから。だから、夏のパリには近づかないようにしてる」
二年前の夏のパリ。汗水垂らして事務所を回り、何件ものキャスティングを受けている文彦を想像する。「ねえ、どんな思い出?教えて」好奇心に押されて近寄れば、文彦はカメラを下ろして顔を顰めた。
「いいよ、教えてあげる。……でも、条件がある。薫も嫌な思い出を一つ教えてくれる?」
そう言われて薫が思い出すのはコルセットを腰に巻いた彼のことだけれど、“嫌な思い出”ではない。心に残ったのは嫌悪感でなく、歯痒さと心細さと、Tシャツの肩口に滲んだ涙の痕だ。
「分かった。一番嫌だった思い出、教える。だから文彦君のも教えて」
文彦は一瞬瞳を丸くして、それから「オーケー」と言って不敵に微笑んだ。
「おれが十六歳の春、両親が離婚して。円満な別れだったけど、おれにとっては晴天の霹靂だった。おれの父は映画監督で、仕事でヨーロッパを行ったり来たりしている母に代わって現場に連れて行ってくれたりしてね。そんな父と離れて暮らすってことが、当時のおれにはよく分からなかった。
モデルは知り合いに頼まれてやってただけで、仕事って感覚はなかった。でも、父と離れて、母に連れられて日本とヨーロッパを行き来して、友達もできなかったし、そんなだから撮影現場だけがおれにとって唯一変わらない場所で、いつの間にかホームになってた。
ショーモデルは何度か経験したことがあったから自信があった。なにより、おれは若かった。どうせやるなら昇れる場所まで昇り詰めたいって、日本からデンマークに行くのと同じ感覚で夏のパリへ渡った。
でも、あの場所は違った。英語と片言のフランス語でキャスティングを受けてはフラれて、フィッティングまで行けてもコンファームまで辿り着けなくて、直接事務所を訪ねてドアを叩いては門前払いで。六月にパリに入ったのに、七月の下旬になっても事務所が決まらなかった。
悔しかった。結局ギリギリで事務所が決まってコレクション自体は経験したけど……、何かと報われないシーズンだった。決まってたキャスティングも当日にルックがなくなったり、それさえ知らされずに控室に延々座ってたりね。そんなことがザラにあった」
ふう。淀みなくしゃべっていた文彦が息を吐く。確かに、そんな経験をしていれば、舞い込む仕事をこなしているだけの人間をプロとは表現できないだろう。
「クロージングルックを任されたブランドがあった」
「ショーの大トリ?すごいね」
「そう。それだけは嬉しかった記憶がある。ランウェイを見るだけで胸が高揚した。……でも、その時の動画がシーズン後に出回って、『これってあの映画に出てた脇役の子じゃないか?』『この子はあの映画にもこの映画にも脇役で出てる』『どうもあの映画監督の息子らしい』ってSNSで特定が始まって。しまいには、『親のコネでクロージングルックを飾った』って、言われちゃって。
最悪だった。親のコネなんかじゃないって、火がついて、ミラノ、ニューヨーク、ロンドン、ありとあらゆるブランドの服を着てランウェイを歩いた。パリになんか行かなければよかったと何度も後悔したのに、皮肉にもその経験値で採用してくれるところが多かった。コレクション以外の仕事もどんどん舞い込んで、モデルとして稼いだお金で生きていけるようになった。
そうなるとなんだか空しくなった。火が消えて、煙だけが残って、けれど仕事はあって。自分に求められているものが分かるようになって、過去に学んだことから取捨選択して表現して、でもそれはおれそのものではなくて、本当のおれは置いてきぼりをくらって、経験を出力するだけのキカイみたいになっちゃって」
文彦は薄く微笑み、カメラをしきりに揉んだ。
「最初は暇つぶしだったんだ。キャスティングも決まらなくてメッセージの返事も来なくて暇な時、持って来てたこのカメラで何気なく風景を撮ってた。でも、暇つぶしがいつの間にか息抜きになって、好きなことになって……。写真はいいよね。一瞬を切り取るとそれが永遠に近いものになって、人が生きるより少し早いスピードで色褪せていく。ファインダーを覗いてシャッターを切ると、どうしてか現実よりも美しく撮れるし、その世界が自分を受け入れてくれたように感じる」
このカメラはずっと文彦の傍にあった。そして、これからも。
そう思うと、この機械がじっと考え込んでいるように見えてくる。目の前の彼と、同じように。
「モデル、辞めるの?」
「辞めるかもしれない。なによりもう、やりきったと思ってる」
「写真を仕事にするの?」
「それも分からない。好きで撮ってるだけだから。これで食べていけたらとか、特別な表現をしたいとか、そういうことは思ってない。……でも、君は……、薫のことは、ずっと撮りたいって、思ってる」
思わず文彦を見つめれば、真珠色の肌がじわりと上気していた。文彦は川を見つめたまま一度唇を結んで、それから思いついたように笑った。
「薫って不思議だよ。薫だけは、自分の画角に収めても、なんか薫のままで、自分のものみたいに思えない。薫の世界に触れることはできても、そこから先には入らないでって言われてる気がして、眺めるだけになる。だから何枚撮っても足りないなって思う」
「文彦君が入りたくないって思ってるだけじゃないの?気遣いのある人じゃん、意外と」
「あはは。そうかも。不用意に触れて汚したくないとは、確かに思ってる」
不用意に触れて。そう聞くと、薫は先日の輔の両手を思い出した。不用意に、不躾に、触れたいと思うから触れる、そんな調子で薫の脇腹を撫で上げた手。どうしてかいたたまれなくなり文彦の眼差しから目を逸らすと、「薫の番だよ」と促された。
「文彦君の話を聞いた後だとパンチが足りないかも。こういう業界じゃよくあることなんだろうけどね……」
心の奥に、しまい込みたかったもの。しまい込んでも、ふとした拍子に出て来てしまうもの。思い出したら最後、眼前まで迫って来てしまうもの。
誰にも打ち明けるものかと躍起になっていたそれが、出会ったばかりの男を前に紐解かれる。文彦は薫を不思議だと言ったけれど、薫には文彦の方がよほど不思議だった。
「十四歳の時。女の子向けのティーン雑誌にシーズンモデルとして呼ばれたことがあって。大きな事務所の偉い人がその雑誌の僕を見て、この子に会ってみたい、何枚か撮らせてくれないかって、事務所を通じずに直接母さんに連絡してきて」
「え、なんかそれ、危なくない?」
「僕でさえそう思った。なんか変だなって。……でも、当時入ってた事務所は声掛けられたとこに比べれば小っちゃくて、『薫君なら俳優への道だって開ける、大河ドラマの子役オーディションに出られるツテもあるからどうか』とか言われて、母さんも舞い上がっちゃって」
キッズモデルやキッズタレントの界隈ではよくある話だ。そう自分に言い聞かせて笑顔を保っても、文彦の表情はすでに固くなっていた。
「指定された場所に行くと、そこはちゃんとしたスタジオだった。母さんは別室に通されて、その後ろ姿を見てたら、規約の説明を受けるからねって言われて……。まあ、なんていうか、僕は最初に入った大きなスタジオから個室みたいなところに移動あせられて……、何言われたのかは覚えてないんだけど……。結果的には、裸を撮られた」
「薫」
伸ばされた文彦の手は、薫に触れずに芝生へ落ちた。文彦はそんな自分を戒めるように唇を噛み、話を遮るようなことはしなかった。
「嫌だって、やめてって、言ったと思う。けど、『撮られたくてモデルをやってるんだろう、資料の為に撮っているだけだから』って言い返されて、そのまま何枚も」
「そのこと、事務所に、母親に、言った?」
「言ってない。嫌だって言ったのにって、思っちゃって。誰にも言えなくて。……今後については後日連絡するからって言われて、待っても連絡が来ないから母さんが名刺にある番号に掛けたら通じなくて。結局、詐欺だったってことだね。こんな分かりやすい事例もないんだろうけど、まんまと引っかかっちゃったね」
これが僕の、嫌な思い出。
そう付け加えて肩を竦めると、文彦は瞳を潤ませて「ごめん」と口走った。
「出会った日、おれにあんなに怒ってたのは、撮られるのが怖かったから?」
「……出た。占い師」
「本当は、モデルの仕事が怖い?カメラの前に立つのが、怖い?」
「怖くても、やらなくちゃいけない理由があったから。……もう、その理由、なくなっちゃったんだけど……」
「ごめん。本当に、ごめん」
頭を下げた彼の旋毛が、あの日の輔の旋毛とは逆の毛流れを描いていて、思わず手が伸びる。ぽんぽん、と、宥めるように触れると撫でるという動作になって、薫は文彦の頭を抱き寄せた。
「つらかったんだね、僕たち」
裸を撮られた十四歳の自分よりも、夏のパリで泣いていた十七歳の彼を抱きしめたかった。背にそろそろと腕が回され、十七歳の彼が裸の少年を抱きしめ返した。
つらかった、なんて認めたくなかった。なのに、文彦と分け合うとすんなり「つらかった」と思えた。
「ねえ、撮ってよ。うんと綺麗に」
眩しそうに目を細める彼に向って笑う。この前褒められたように、くるりとターンして、もう一度と、両手を広げて足を踏みしめる。シャッター音が今を閉じ込める。一瞬が永遠になる。彼が自分を撮ったということが、未来に残る。
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