一途な獣は愛にこそ跪く

野中にんぎょ

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二匹の獣(中)

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 淡く、それでいて長い口づけだった。
 慈雨はつま先立ちになって静の首へ腕を回し、夢中で柔らかな温みに吸い付いた。紐を解かれた袴が足元に落ち、それに気を取られているうちに着物の帯まで解かれてしまう。肩から着物が滑り落ち長襦袢姿になった慈雨は、静の肩に両手を突き視線を足元へ落とした。
「静、おれ、」
 先ほどとは違う手が伸びて来たのかと思うほど俊敏に、左手が再び慈雨の面を上向かせる。「慈雨」瞳を覗き込まれ名を注がれると、慈雨の両手はすとんと落ちてしまった。
「おれが獣だということを忘れたか?おれは貴方を頂くのに躊躇などしない。いま、ここで、おれのものにする、絶対に」
 長襦袢の紐が落ちる。長襦袢と共に肌襦袢も肩から落とされ、慈雨は真昼の光にさらされた素肌をさっと両腕で覆った。それを咎めるように、静の手が慈雨の両腕を開こうとする。「しずかっ……」懇願の意を込めて名を呼んでも、静は慈雨の肌を眺めることを止めなかった。
「もう待てない。……おれは貴方をずっと……、」
 首筋に柔く歯を立てられ、慈雨は甘い声を上げた。時折見えたあの犬歯が自分の首筋を食んでいると思うとたまらなかった。静に抱きかかえられシーツへ下ろされる。覆い被さって来る静の瞳の中では光の粒が結んでは切れていた。
「っあ、はぁ……、」
 静の鼻先と前髪が裸の胸を擽る。熱い手のひらは慈雨の身体を隈なく這い、慈雨は熱で潤んだ瞳でその様子を見つめた。衣服で隠れていた場所ばかりに向けられている視線をこちらへ呼び戻したくて、慈雨は鼻先で静の額を押した。……またあの眼差しが慈雨を捕らえ、身体と心その全てを絡めとる。慈雨の胸が熱くなる。熱くて熱くて、しょうがなくなる。
「死んだ方がましかもしれないって思った時、静の顔が頭に浮かんだ」
 イヌの瞳が鋭く研ぎ澄まされる。清水の隠れ家でのことだと分かったのだろう、静はまるで獲物を待ち伏せする獣のように、慈雨の言葉の続きを息を殺して待った。
「死ぬ前に一度だけ静の顔が見たいって、殺されるなら静に殺されたいって、そう思った。……でも、飛び降りたら静がいて、おれを受け止めてくれて……」
「慈雨」
 瞳に籠っていた熱が涙になって、慈雨の目尻から滑り落ちようとする。静は慈雨の頬を両手で包み、目も眩むような口づけをくれた。
「あの時、貴方を鏑木さんに任せて皆殺しにしておけばよかった」
「おまえは本当にそうしてしまいそうで怖いよ」
「おれは本気だ。貴方にそんな思いをさせたヤツは、このおれが一人残らず、一匹残らず殺す」
 いつか梢に顔を切り付けられた時と同じ目をして、静は言った。慈雨は静を窘める気のない自分に呆れつつ、頬を緩めた。
「駄目。おまえは、おれの傍にいなきゃ、駄目。そんなことをしている暇があるなら、おれの傍にいるようにして」
 慈雨はただ一つ身に着けていたショーツを脱ぎ、静へぎこちなく微笑みかけた。恥じ入りかけて手のひらが自ずと性器を隠そうとする。けれど惚れた相手に尻込みする姿など見せたくない。慈雨は迷っていた手を縫い付けるようにギュッとシーツを握りしめた。
「こんな身体だけど。魅力的ではないかもしれないけど。おまえに触れて欲しい……」
 薄い胸に、骨ばった腰、小ぶりの尻。「めぼしい雌」とは到底形容できない体躯を晒し、慈雨は言葉と態度で静を求めた。
 静の指先が、つう、と慈雨の下腹から臍、臍から胸、乳首、鎖骨へと、なぞるように上がって行く。指先が下唇まで行きついて、慈雨は心のままにその指先を食んだ。静の指に吸い付くだけで、頭の芯がじんと痺れた。
「貴方が魅力的でなかったら、発情の抑制剤なんて飲まなかった」
 指が歯列の間を通り過ぎ、舌の中央を押す。固く熱いものがトレーニングウェア越しに太ももへ押し付けられて、慈雨は両脚を擦り合わせた。
 おれが傍にいたから?だから、ずっとそんなものを飲んでいたの?
 瞳で問うても、静は慈雨の舌と唇の感触を楽しむばかりで応えてくれない。上着の裾を引っ張ると、静は慈雨の口から引き抜いた手指で慈雨の手を掴んだ。
「梢が言ったことを覚えているか」
 喜重に呼び出された店で梢と対峙した日、梢は慈雨と慈雨のために育て上げられたイヌたちを結ぶ因縁について語った。「おれと静が初めて出会った日のこと?」静の左手が慈雨の乱れた前髪をそっと払う。静は今の慈雨に内包された幼い慈雨を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「おれは貴方を目にするまで、ヒトに仕えるために存在する自分の運命を呪っていた。だから、貴方がやって来ると聞いて喜び勇むヤツらを鼻で笑って、気に入らなければ貴方の喉元を食いちぎってやろうかと思っていた。なのに……、」
 孤高の美しい獣は、赤い血を滴らせながら幼い慈雨を見つめていた。孫に血を見せまいとしていた雷が、なぜかこの時だけは、慈雨の眼差しを遮らなかった。車窓にこびりついていた血の色とは違う、生きている色。今まさに鼓動を刻んでいる、その証――。
「貴方は美しかった。貴方は今まで出会った他の誰とも違うのだと、この群れで一番美しい雌なのだと、一目で分かった。……貴方の美しさに気を取られ、気付けばおれは醜態を晒していた。それからだ、絶対に貴方に選ばれなくてはと思うようになったのは」
 平凡な八歳の子どもを「美しい」と言い切られ、慈雨はまごついた。美しくなんかないと卑下しそうになって、けれどその言葉は喉の奥に沈んでいった。静はあまりにも真剣だった。
「群れで一番美しい雌と番いたいと願うことは、雄の宿命だ。おれだけでなく、その場にいる全てのイヌがそう思っていたことだろう。その中で、おれは最も幸運だった。貴方の護衛を任され、傍にいることを許された」
「雌って……、おれは男だよ」
「いいから聞け。……けれど、貴方の隣に立って、やっと分かった。群れで一番美しい雌だとばかり思っていた貴方は、力を誇示するための飾りじゃなく、生きているニンゲンだった。貴方は……いたずらっぽいところがあって、生に執着の薄いところがあって、弱そうなくせに誰かに守られるのを怖がって、怖がりなのにいざとなったら銃を構えておれを守ろうとして。おれはいつの間にか、貴方のことを、おれの力を知らしめるための貴方だとは、間違っても思えなくなった」
 静の頬に朱が滲む。慈雨もまたその熱にあてられて身体を熱くした。
「貴方は知らないだろうが、別荘で貴方と二人きりになった途端に突発的に発情が始まって、おれは情けないほど狼狽した。発情期なら経験したことがあったのに、これまでのものとは比べ物にならなかった。……おれは貴方が、欲しくて欲しくてたまらなかった」
 そこまで言うと、静は項垂れ慈雨の肩に面を埋めた。うち震えた息が肌にかかる。胸がむず痒くなって、慈雨は静のこめかみに唇を落とした。「今日の静はずいぶんとおしゃべりだな」揶揄ったつもりが、声音はずいぶん甘かった。
「おしゃべりにもなる。獣とヒトは違うだろう。本能だけではおれと貴方の想いの差を埋められない。だからおれはヒトの貴方の気を引きたくて、これだけ……」
「……うん」
「貴方は美しい。きれいだ、花や星のように。でも、美しいだけじゃない。その美しいだけじゃない部分を、おれはかけがえのないものだと思ってる。貴方にしかないものを持っている貴方と生きていけたらと思ってる。愛してる。愛してる、慈雨」
 惜しげもなく捧げられる愛の言葉。「しずか」慈雨は静の愛を求め、腕を伸ばした。
「おれもおまえを、愛してる」
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