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おれの獣
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辿り着いた埠頭にあったのは、倉庫というより廃工場のようだった。焼け焦げたシャッターは張り裂け、中にある重機はすすけ、屋根は骨組みと奥半分を残し焼け落ちている。煙と灰の匂いに包まれたその場所に、雷は先陣を切って降り立った。
「待ちくたびれました」
裂けた屋根の下、照明が落ちたようになった場所で、一匹のイヌを従えた男が立ち上がる。
「望、少し痩せたな」
以前と変わらない声音が雷から望へ投げかけられる。梢は鞘から太刀を抜き、望の前へ出た。
「清水はもちろん、おまえたち一派に賛同していた者もここへは来られないだろう。清水の思惑は潰えた」
荼毘に伏されたような建物に潮風が吹き込む。「そうですか。それは残念です」望は声の温度を低くしたまま、ゆらりと立ち上がった。
「けれど方法はいくらでもある。おれは、おれの抱えた絶望を、悟がどれだけかけがえのない存在だったかを、貴方に教えたい」
「獄中で亡くすには惜しい男だった」
とうに感情を失っている面を置き去りに、望の手がひくりと震えた。「惜しい……、」雷の言葉を復唱し、望は肩を揺らして悲しく笑った。
「心にも無いことを。貴方は悟のことを獣の手駒としか思っていなかった。耳と尾を切り落とした悟の苦しみを、組のためにと自身を差し出した悟の献身を、貴方はこれっぽっちも分かっていない」
「悟の覚悟は本物だった。だからこそ、私は悟に応えたかった」
「悟に応えるというのは、ありもしない罪を悟に着せて自分は外の世界で生きることですか。抱えた病を知っていて悟をあんな場所へ行かせたことですか。一度面会に行ったきり二度と悟の前に現れなかったことですか」
「……」
「おれは貴方を決して許さない」
憎しみの呪詛が地を這う。望は背中越しに梢の顎に触れ、「梢、おれのために働いてくれるな?」と囁き、唇へ口づけを落とした。梢は望の手に自身の手を重ね、深く頷いた。
「その男の心は過去の番にある!おまえだってそれを知らないわけじゃないだろう!」
太刀を構える梢の前に立ちはだかり、静は吠えた。
「だって、愛してるんだもん」
梢は穏やかに応えた。梢は静でなく、愛に対峙していた。
「おれが何番目でも、望さんがくれたものはホンモノ。おれがずっと欲しかったものを、望さんは全部与えてくれた。おれ、悟さんの分までこの人を守るって決めたんだ」
肥大した庇護の本能下にある梢の太刀筋は鋭い。愛を得た梢は半ばトランス状態で静に切りかかる。際どいところで急所を避けても太刀の切っ先は次々と静の肌を削っていった。動きを見切れないのではない、見切ったとしても避けきれないのだ。
望は慈雨へ銃口を向けた。鉄の筒の奥にたゆたう闇。慈雨はその闇を睨み、叫んだ。
「梢は復讐のための道具じゃない!望、おまえがやっていることはおまえ自身が何より忌み嫌っていたことじゃないのか!」
「梢はおれのイヌです。おれは梢を、最期まで、決して離さない。梢が息絶えるまで、おれの欲望も、復讐も、運命も、全て梢に分け与える。それがおれの愛です」
梢の表情が恍惚として蕩ける。「見て」の強い梢にとって、望の与えるものはこれ以上ない幸福だろう。与える者と与えられる者、双方の欲求がひたりと重なり、主従関係を超えた愛と庇護を呼び覚ます。
「その点、静はかわいそうだ」
パチン。望の嘆きに、慈雨のこめかみの奥で何かが弾けた。望は朱に染まっていく慈雨の眼差しに応え、憫笑した。
「貴方はイヌのことをまるで知らない。血の契りはおろかコマンドさえ十分に与えず、イヌの忠義に頼りきりな上、我慢を強いてばかり。これではとても主人とイヌの関係とは呼べない」
「なにを……、」
「ほら、見てください。センスにも体格にも恵まれているというのに、あの小柄な梢に防戦一方ですよ。……発情の抑制剤まで飲ませているらしいじゃないですか。静の身に降りかかる副作用について調べましたか?無暗な連用は睡眠障害や不安障害を引き起こす原因にもなる」
静が眠っている姿を思い起こせないことに気付き、慈雨は返す言葉を失った。未熟な主人を心から信じ、常に最善を尽くした静。その一方で、自分は主人として静に何をしてあげられたのだろうか。……そこまで考え、慈雨は胸の奥からまた別の感情が噴き出すのを感じた。
違う、おれは――。
初めて静の腕の中へ飛び込んだ、奥平の夜。あの腕が慈雨の全てを受け止め、包み込んでくれた。おれは、あの日から、いや、あの瞳の中に自分が抱かれているのを見た瞬間から――。
そうだ、おれは静を「イヌ」だと思っていない。
「静は確かに優秀なイヌだよ。でも、おれにとって、静は静だ」
静が慈雨の声に耳をそばだてたことが、今の慈雨には分かった。
「望の言う通りだよ。おればかりが静に救われて、おればかりが静から与えられている。おれは全く、主人らしくない」
静は何度だって、痩せた身体を、穴の開いた心を、受け止めてくれた。こんな自分の傍にいて、いつだって見守っていてくれた。未来を切り開いていくことを怖がるこの手を、ずっと離さないでいてくれていた。
「おれは、静を従えようなんて思ってない。おれにとって、静はイヌじゃない」
慈雨は、静の愛を、献身を、知っている。だからこそ、この身体と心を守り抜いてくれた静を「かわいそう」で片づけられるのは、我慢ならなかった。
怒りで喉元が燃える。奥歯を噛みしめるとこめかみが圧迫されて熱く膨らむ。身を焼くような感情の奔流が身体と心へ傾れ込む。おれの静を、おまえの尺度で計るな!
「従えなくたって、静は誰より勇敢で誰より賢い!それはおれが一番よく知っている!」
主人の成り損ないの叫びを、梢は嘲笑った。「静、今の聞いた?」梢は太刀を血振りし、静は傷ついた腕を抑え梢を睨んだ。
「おれたちが望んでいるものを、おまえの主人は何一つとして知らない。あの人の元にいる限り、おまえは決して満たされない!」
あはははは!咆哮じみた声を高らかに上げ、梢は太刀を振りかぶった。生まれ持ったしなやかな体躯が高ぶった庇護の本能に応え、さらなる高みを目指す。血走った瞳、浅く早い呼吸、掠れ裏返る声。噴き出した汗が梢の銀髪から玉の雫になって散る。梢の体躯は限界を超えた速さと力でもって主人の前に立ちはだかるもの全てを薙ぎ払おうとしていた。
静は血でぬめった手のひらを固く握り、犬歯を見せて笑った。
「おれの望むものは、おれが決める」
静は倒れかけていた角材を蹴り倒し、梢がそれを避けた一瞬で、梢の懐へと踏み込んだ。……梢は確かに、静の拳のその先を見切った。
「静!」
慈雨は静の名を叫んだ。梢の瞳が、見開かれた。
パァ……ン!
雨漏れのように朝日の落ちた薄闇に、間延びした銃声が響き渡る。はるか上空を行く雲の影が地を這い、光の柱の中で砂埃がはらはらと舞っては闇へ解けていく。
拳を振るった静、銃声の正体に気が付いた梢、息を飲んだ慈雨。望は梢の視線が静から離れたことに気付き、瞳を歪めた。……望の左脚大腿部を貫いた銃弾は、闇に佇んでいた雷の放ったものだった。
静の拳が一瞬の綻びを引き裂く。
静の赤い拳が梢の左頬を打ち、次いで振り上げられた脚が太刀もろとも梢を薙ぎ倒した。
梢はこの壇上に立つ全ての人物の動きを、主人の望むままに見切った。限界まで高められた庇護の本能ゆえに、梢は、望へ向けられた銃口を無視できなかった。
「慈雨!」
静が駆け出すと同時に、望が銃の引き金を引いた。
いくつもの銃声と共に、望の肩や腕から血が弾ける。望の銃から放たれた銃弾の軌跡はぶれ、積み上げられた瓦礫の向こうで衝撃音が反響した。慈雨は静に掻き抱かれながら、組員を引き連れた鏑木の姿を倉庫の入り口に見た。望を撃ったのは、鏑木一派の銃弾だった。
「望さんっ……!」
とうに限界を超えた梢はそれでも愛する主人を守ろうと駆け出した。そんな梢に無慈悲な銃弾が降り注ぎ、主人の元に辿り着く頃には、梢は血まみれになっていた。
「御大、続きは地獄でしましょうか」
望は片腕で梢を引き寄せ、後方に置かれていたポリタンクを蹴った。こぼれ出た液体がとぷんとぷんと鼓動のような音をさせて地面へ染み入っていく。半ば密閉されたこの空間は、夏の日差しを受け一線を越えようとしていた。見る間に気化し始めた燃料の匂いが鼻をつき、慈雨は静の身体をきつく抱き寄せた。
「望、その子を離しなさい。あちらで悟が嫉妬するぞ」
煙草に火をつけ最期の一服を肺に溜めた望は「くっ」と噛むように笑い、「おれは悟のいるような場所には行けやしませんよ。もちろん、貴方も」と吐き捨てた。
「梢はおれのイヌです。最期まで離さない。……いいな、梢」
イヌは主人の腕の中で満ち足りた涙を流し、頷いた。
「うれしい。望さん、おれ、うれしい。ずっとこうしたかった。おれ、ずっと……、」
撒かれた液体に火のついた煙草が放られる。
一瞬にして一面に炎が立ち上り、静は慈雨を抱き上げ駆け出した。
「倉庫から出ろ!ガソリンだ!爆発するぞ!」
鏑木の声に破裂音が重なる。金赤の炎が幕のように下り、慈雨たちと望たちとを隔てた。
「梢!……望!!」
慈雨が最後に見たものは、梢の頭を撫でた望の姿だった。
いい子だ。
望の唇が小さく動く。梢は望の胸に頬をすり寄せ、一人と一匹は炎の渦に飲み込まれていった。
失ってばかりの、世界だよ。
いつの日か雷が口にした言葉を思い出す。慈雨は静の身体を掻き抱いた。静の体温が、鼓動が、息遣いが、慈雨を覆っていた暗幕を引き裂いて行く。
透明人間は、光を浴びて、闇を浴びて、ヴェールを脱いだ。失ってばかりのこの世界を、自分の足で歩くために。
「待ちくたびれました」
裂けた屋根の下、照明が落ちたようになった場所で、一匹のイヌを従えた男が立ち上がる。
「望、少し痩せたな」
以前と変わらない声音が雷から望へ投げかけられる。梢は鞘から太刀を抜き、望の前へ出た。
「清水はもちろん、おまえたち一派に賛同していた者もここへは来られないだろう。清水の思惑は潰えた」
荼毘に伏されたような建物に潮風が吹き込む。「そうですか。それは残念です」望は声の温度を低くしたまま、ゆらりと立ち上がった。
「けれど方法はいくらでもある。おれは、おれの抱えた絶望を、悟がどれだけかけがえのない存在だったかを、貴方に教えたい」
「獄中で亡くすには惜しい男だった」
とうに感情を失っている面を置き去りに、望の手がひくりと震えた。「惜しい……、」雷の言葉を復唱し、望は肩を揺らして悲しく笑った。
「心にも無いことを。貴方は悟のことを獣の手駒としか思っていなかった。耳と尾を切り落とした悟の苦しみを、組のためにと自身を差し出した悟の献身を、貴方はこれっぽっちも分かっていない」
「悟の覚悟は本物だった。だからこそ、私は悟に応えたかった」
「悟に応えるというのは、ありもしない罪を悟に着せて自分は外の世界で生きることですか。抱えた病を知っていて悟をあんな場所へ行かせたことですか。一度面会に行ったきり二度と悟の前に現れなかったことですか」
「……」
「おれは貴方を決して許さない」
憎しみの呪詛が地を這う。望は背中越しに梢の顎に触れ、「梢、おれのために働いてくれるな?」と囁き、唇へ口づけを落とした。梢は望の手に自身の手を重ね、深く頷いた。
「その男の心は過去の番にある!おまえだってそれを知らないわけじゃないだろう!」
太刀を構える梢の前に立ちはだかり、静は吠えた。
「だって、愛してるんだもん」
梢は穏やかに応えた。梢は静でなく、愛に対峙していた。
「おれが何番目でも、望さんがくれたものはホンモノ。おれがずっと欲しかったものを、望さんは全部与えてくれた。おれ、悟さんの分までこの人を守るって決めたんだ」
肥大した庇護の本能下にある梢の太刀筋は鋭い。愛を得た梢は半ばトランス状態で静に切りかかる。際どいところで急所を避けても太刀の切っ先は次々と静の肌を削っていった。動きを見切れないのではない、見切ったとしても避けきれないのだ。
望は慈雨へ銃口を向けた。鉄の筒の奥にたゆたう闇。慈雨はその闇を睨み、叫んだ。
「梢は復讐のための道具じゃない!望、おまえがやっていることはおまえ自身が何より忌み嫌っていたことじゃないのか!」
「梢はおれのイヌです。おれは梢を、最期まで、決して離さない。梢が息絶えるまで、おれの欲望も、復讐も、運命も、全て梢に分け与える。それがおれの愛です」
梢の表情が恍惚として蕩ける。「見て」の強い梢にとって、望の与えるものはこれ以上ない幸福だろう。与える者と与えられる者、双方の欲求がひたりと重なり、主従関係を超えた愛と庇護を呼び覚ます。
「その点、静はかわいそうだ」
パチン。望の嘆きに、慈雨のこめかみの奥で何かが弾けた。望は朱に染まっていく慈雨の眼差しに応え、憫笑した。
「貴方はイヌのことをまるで知らない。血の契りはおろかコマンドさえ十分に与えず、イヌの忠義に頼りきりな上、我慢を強いてばかり。これではとても主人とイヌの関係とは呼べない」
「なにを……、」
「ほら、見てください。センスにも体格にも恵まれているというのに、あの小柄な梢に防戦一方ですよ。……発情の抑制剤まで飲ませているらしいじゃないですか。静の身に降りかかる副作用について調べましたか?無暗な連用は睡眠障害や不安障害を引き起こす原因にもなる」
静が眠っている姿を思い起こせないことに気付き、慈雨は返す言葉を失った。未熟な主人を心から信じ、常に最善を尽くした静。その一方で、自分は主人として静に何をしてあげられたのだろうか。……そこまで考え、慈雨は胸の奥からまた別の感情が噴き出すのを感じた。
違う、おれは――。
初めて静の腕の中へ飛び込んだ、奥平の夜。あの腕が慈雨の全てを受け止め、包み込んでくれた。おれは、あの日から、いや、あの瞳の中に自分が抱かれているのを見た瞬間から――。
そうだ、おれは静を「イヌ」だと思っていない。
「静は確かに優秀なイヌだよ。でも、おれにとって、静は静だ」
静が慈雨の声に耳をそばだてたことが、今の慈雨には分かった。
「望の言う通りだよ。おればかりが静に救われて、おればかりが静から与えられている。おれは全く、主人らしくない」
静は何度だって、痩せた身体を、穴の開いた心を、受け止めてくれた。こんな自分の傍にいて、いつだって見守っていてくれた。未来を切り開いていくことを怖がるこの手を、ずっと離さないでいてくれていた。
「おれは、静を従えようなんて思ってない。おれにとって、静はイヌじゃない」
慈雨は、静の愛を、献身を、知っている。だからこそ、この身体と心を守り抜いてくれた静を「かわいそう」で片づけられるのは、我慢ならなかった。
怒りで喉元が燃える。奥歯を噛みしめるとこめかみが圧迫されて熱く膨らむ。身を焼くような感情の奔流が身体と心へ傾れ込む。おれの静を、おまえの尺度で計るな!
「従えなくたって、静は誰より勇敢で誰より賢い!それはおれが一番よく知っている!」
主人の成り損ないの叫びを、梢は嘲笑った。「静、今の聞いた?」梢は太刀を血振りし、静は傷ついた腕を抑え梢を睨んだ。
「おれたちが望んでいるものを、おまえの主人は何一つとして知らない。あの人の元にいる限り、おまえは決して満たされない!」
あはははは!咆哮じみた声を高らかに上げ、梢は太刀を振りかぶった。生まれ持ったしなやかな体躯が高ぶった庇護の本能に応え、さらなる高みを目指す。血走った瞳、浅く早い呼吸、掠れ裏返る声。噴き出した汗が梢の銀髪から玉の雫になって散る。梢の体躯は限界を超えた速さと力でもって主人の前に立ちはだかるもの全てを薙ぎ払おうとしていた。
静は血でぬめった手のひらを固く握り、犬歯を見せて笑った。
「おれの望むものは、おれが決める」
静は倒れかけていた角材を蹴り倒し、梢がそれを避けた一瞬で、梢の懐へと踏み込んだ。……梢は確かに、静の拳のその先を見切った。
「静!」
慈雨は静の名を叫んだ。梢の瞳が、見開かれた。
パァ……ン!
雨漏れのように朝日の落ちた薄闇に、間延びした銃声が響き渡る。はるか上空を行く雲の影が地を這い、光の柱の中で砂埃がはらはらと舞っては闇へ解けていく。
拳を振るった静、銃声の正体に気が付いた梢、息を飲んだ慈雨。望は梢の視線が静から離れたことに気付き、瞳を歪めた。……望の左脚大腿部を貫いた銃弾は、闇に佇んでいた雷の放ったものだった。
静の拳が一瞬の綻びを引き裂く。
静の赤い拳が梢の左頬を打ち、次いで振り上げられた脚が太刀もろとも梢を薙ぎ倒した。
梢はこの壇上に立つ全ての人物の動きを、主人の望むままに見切った。限界まで高められた庇護の本能ゆえに、梢は、望へ向けられた銃口を無視できなかった。
「慈雨!」
静が駆け出すと同時に、望が銃の引き金を引いた。
いくつもの銃声と共に、望の肩や腕から血が弾ける。望の銃から放たれた銃弾の軌跡はぶれ、積み上げられた瓦礫の向こうで衝撃音が反響した。慈雨は静に掻き抱かれながら、組員を引き連れた鏑木の姿を倉庫の入り口に見た。望を撃ったのは、鏑木一派の銃弾だった。
「望さんっ……!」
とうに限界を超えた梢はそれでも愛する主人を守ろうと駆け出した。そんな梢に無慈悲な銃弾が降り注ぎ、主人の元に辿り着く頃には、梢は血まみれになっていた。
「御大、続きは地獄でしましょうか」
望は片腕で梢を引き寄せ、後方に置かれていたポリタンクを蹴った。こぼれ出た液体がとぷんとぷんと鼓動のような音をさせて地面へ染み入っていく。半ば密閉されたこの空間は、夏の日差しを受け一線を越えようとしていた。見る間に気化し始めた燃料の匂いが鼻をつき、慈雨は静の身体をきつく抱き寄せた。
「望、その子を離しなさい。あちらで悟が嫉妬するぞ」
煙草に火をつけ最期の一服を肺に溜めた望は「くっ」と噛むように笑い、「おれは悟のいるような場所には行けやしませんよ。もちろん、貴方も」と吐き捨てた。
「梢はおれのイヌです。最期まで離さない。……いいな、梢」
イヌは主人の腕の中で満ち足りた涙を流し、頷いた。
「うれしい。望さん、おれ、うれしい。ずっとこうしたかった。おれ、ずっと……、」
撒かれた液体に火のついた煙草が放られる。
一瞬にして一面に炎が立ち上り、静は慈雨を抱き上げ駆け出した。
「倉庫から出ろ!ガソリンだ!爆発するぞ!」
鏑木の声に破裂音が重なる。金赤の炎が幕のように下り、慈雨たちと望たちとを隔てた。
「梢!……望!!」
慈雨が最後に見たものは、梢の頭を撫でた望の姿だった。
いい子だ。
望の唇が小さく動く。梢は望の胸に頬をすり寄せ、一人と一匹は炎の渦に飲み込まれていった。
失ってばかりの、世界だよ。
いつの日か雷が口にした言葉を思い出す。慈雨は静の身体を掻き抱いた。静の体温が、鼓動が、息遣いが、慈雨を覆っていた暗幕を引き裂いて行く。
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