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神に隠されていた男
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「俺ァ仁楼会の連中に顔が割れてる。こっから先は入れねぇ」
山間の避暑地を前に車を降りた二人は頷き、慈雨は運転席の鏑木に向かって頭を下げた。監禁状態から解放され気が緩んだのか、一時間と言わず朝まで眠ってしまった慈雨を、鏑木は寝かせたままにしてくれた。
「鏑木さん、ありがとう」
「年寄りをこき使いやがって」
慈雨は鏑木に手を差し出し、握手を交わした。大きくて温かい手だった。
「死ぬなよ。死んだら何もかも終わりだ」
「うん」
深く頷けば、鏑木はいつものように片頬で笑い、去って行った。慈雨は静の手を取り、「静」と呼びかけた。
「静。もう一度、おれと来てくれるか」
アイスブルーの瞳を見て尋ねる。風に揺れる木漏れ日が静の艶やかな美貌を撫でて行った。
美しい獣。口よりも瞳の色がおしゃべりな、勝気で、一途な獣。静は慈雨の前に膝をつき、ひたと見つめ返した。
「おれは貴方を一目見た時からずっと、貴方のイヌだった。おれはこれからもずっと貴方のイヌだ」
慈雨は目を細めて微笑み、静の頭を抱き寄せ腹へ押し付けた。
「静、おれを許してくれて、ありがとう。悲しい思いをさせてすまなかった」
くぅーん……。
静の鼻の奥から甘えたような声音が漏れて、慈雨の胸が掻きむしられたようになった。「助けに来てくれてありがとう」「怪我をさせて悪かった」「静はいい子だね」「可愛い子、賢い子」思いつく限りの褒め言葉を旋毛へ振りかけ、優しく混ぜるように髪を撫でる。慈雨はしゃがみ込み、静の背を両手で摩った。
「慈雨」
ぐるぐると鳴っている咽喉から自分の名が聞こえ、静の顔を覗き込むと、頬を桃色にしたイヌが眉を吊り上げて主人を睨んでいた。けれど慈雨には分かっている。この子は主人を睨んでいるのではない。主人の名を呼びたかっただけなのだ。
「うん。そうやって呼んでくれる方が嬉しいよ」
慈雨は静を抱きしめ、額に口づけた。イヌは瞳を丸くしてぶるぶると首を振った。
「昨日のキスのお返し」
まん丸になったアイスブルーの瞳に得意気な自分が映っている。こちらの頬まで桃色になってしまいそうで、慈雨は勢いをつけて立ち上がった。……と同時に、静に手を取られる。手首に感じる熱に戸惑い静を確かめれば、その瞳は鋭く光っていた。
「誰に噛まれた?」
手に残った噛み痕を指先でなぞられ息が止まる。「手癖の悪いハスキー犬か?」唇は弧を描いているのに、静の表情は全く笑っているように見えなかった。
「頬も腫れてるな。何があった?……清水か?」
静の指先が頬に触れ、慈雨は肩をひくつかせた。今の慈雨には清水とのことを静に伝えるだけの余裕がなかった。
「ご……めんなさい」
梢に噛まれたことや清水に犯されそうになったことよりも、別のイヌの頭を撫でていたことに気が咎めた。縮こまり頭を下げると、手の甲に柔らかなものが触れ、そのうちに「ちゅっ」と小鳥の囀るような音がした。驚いて顔を上げると、静は再び傷痕を啄んだ。
「もうおれに謝らなくていい」
静は慈雨の肌へ囁き、繰り返し同じ場所へ口づけた。心臓が逸って、身体が燃えそうに熱くなっていく。けれど、胸の中はもっと熱い。蕩けて崩れて、こんな想いが静の前へ暴かれてしまいそうなほど――。
もう、この子を離したりしない。慈雨は今こそはっきりとそう誓った。
「静、おれと来て」
静はいつものように頷いた。見えた旋毛を心のままに撫でられることが、こんなにも嬉しかった。
別荘地を奥に進むにつれ、物々しい雰囲気が色濃くなっていく。塀の向こうの邸宅を見上げ、慈雨は「ここだな」と歩を緩めた。
塀は厚く高く聳えている。草木の陰に隠れ警備の手が緩むのを待つが、仁楼会のネコたちにはまるで隙がない。「慈雨」静は思案している主人の肩に触れ、「おれに考えがある」と言うや否や繁みを飛び出した。
「……!」
ネコが声を上げる前に、イヌはネコの首を締め上げ気を失わせてしまった。瞬く間にいくつかの出来事が目の前を過ぎ去り、慈雨は誇らしげにしているイヌの背を肘で小突いた。「ずいぶん野蛮なアイディアだな」「野蛮でなければ獣じゃない」二人で軽口を交わすと、静はネコの脇に下げられていた銃を慈雨に渡した。
「塀を越える。おれが下から支えるから、貴方から登るといい」
イヌはそう言うなり主人を肩車し、フンフンと鼻を鳴らした。慈雨は静の頭を撫で、肩を踏み台にして塀によじ登った。一仕事終えて静を振り返れば、俊敏な彼は弾みをつけただけで二メートルを超える塀を飛び越えてしまった。両腕を広げて主人を待っているイヌを眼下に、慈雨はたじろいだ。夜闇へ飛び込むのと朝日の元でそうするのとでは訳が違う。
「どうして怖がる?三階から飛べたんだ、このくらいは余裕だろう」
「あの時はそれしか方法がなかったんだっ」
「別荘のバルコニーからだって飛んだだろう」
「途中までロープで下りていたじゃないかっ。夜だったから地面も見えなかったし……」
イヌは腕を組み、それから再度腕を広げ悪戯っぽく笑った。
「おれの主人はそんな弱虫じゃないだろう。それ、迷っていたら追っ手が来るぞ」
尻を叩かれムッとした慈雨は、「くそっ」と悪態をつき、塀の上から静の胸の中へと飛び降りた。どっ、と確かに衝撃が走ったのに、静の身体はびくともしなかった。
「ほら。平気だったろう。おれの主人はやはり勇敢だ」
地面に下ろされ静に頭を撫でられると、慈雨はぶすくれた顔で静を睨んだ。イヌは不機嫌な主人の手を取り、「急ごう」と庭園を駆けて行った。
「外からじゃ桂さんがどこにいるのか分からないな」
「……その銃、七発までしか入らないぞ」
銃を構え空に浮かぶ雲を狙っている慈雨に静が忠告する。
「七発あれば十分だ」
慈雨は口端を上げ、前へ進みながら、空に向かって引き金を引いた。パン!火薬が弾け薬莢が芝生へ転がる。パン!パン!パン!……屋敷から警報らしきベルが聞こえてきたが、慈雨は構わずに七発の銃弾を打ち切った。
「野蛮はどっちだ」
初めて聞く静の舌打ちに、慈雨はほくそ笑んだ。二人はそのうちにネコたちに取り囲まれ、無数の銃口を向けられた。梢と対峙した夜も、こんな状況だった。けれど決定的に違っている。あの時の自分が持っていなかったものを、今の自分は持っている。
「お前、北山組のイヌか!こんな場所にノコノコと……!」
静へ集中する銃口を遮るように、慈雨は銃を捨て一歩前に出た。
「おれは北山雷の孫、北山慈雨だ!桂さんに会いたい!ここを通してくれ!」
周囲がにわかにざわつき、静は顔を顰め眉間を抑えた。一匹のネコが「いい、撃て!」と声を張り上げた、その時だった。
「その子は私の客人だ。銃を下ろしなさい」
縁側に現れた男を見て、慈雨は背筋を正した。
「はるばるここまで来てくれたんだな。中でお茶の一杯くらいどうだ、慈雨君」
初めて名を呼ばれ、けれど慈雨は首を振った。「ここで構いません、桂さん」喜重は薄い笑みを浮かべ縁側に腰を下ろした。
「じいちゃんを返してください」
「君のおじいちゃんは神隠しに遭っている最中でね」
「貴方の守りたい人は北山組や仁楼会の皆を犠牲にしてまで無傷でいることを望むでしょうか」
「決して望まないだろうね」
喜重は首を緩く振った。
「そういう男だから、隠したんだよ」
慈雨は雷と喜重の過去を知らない。けれど、今なら分かる。雷が喜重に慈雨を会わせたのは、雷自身もまた喜重に並々ならぬ想いを抱き、喜重の十余年を奪ってしまったことを心のどこかで後悔していたからだ。
見せつけるためなどではない。許しの象徴として、慈雨はあの夜、そこにあった。
「見誤ったな。似ているのは声だけじゃなかったか」
「当たり前だ。私の孫だぞ」
喜重の背後から現れたスーツ姿の男は、慈雨を見て笑みを浮かべた。慈雨は男を見つめ返し、喜重は瞼を下ろして項垂れた。慈雨は男を、雷を一目見ただけで、彼がどれだけ丁重に隠されていたのかということを思い知った。
「こんなにやんちゃな子だとは」
「十代の少年などこんなものだよ。私たちだってそうだった」
雷は喜重に親しげな笑みを向け、落ちていた銃を拾った。
「隠すよりも、他人の家で発砲するなと教えるべきだったかな」
極道の轍を見せないようにと、孫の周囲に暗幕を張り巡らせていた祖父の心が、慈雨にはありがたい反面、寂しかった。
銃は重い。命は重い。家督は重い。絆と盃で繋がった関係は重い。その全てを負った背中がこんなにも近くにあること、もっと早くに気付けていたら……。
「じいちゃん!清水が、望が、組が、」
「分かってる。喜重から聞いているよ」
雷は空になった銃を見つめた。その瞳は凪いでいた。
「誰一人として無駄死にはさせない。あれは私の家だ」
銃を慈雨に渡し、雷は喜重を振り返った。喜重は全てを得心したように頷き、「せめて送らせてくれないか」と縁側から重い腰を上げた。
ベントレーに乗り込み、隣で脚を組んでいる雷を横目で見やる。雷はいつものように微笑み、「いつの間にこんなに逞しくなったのかな」と目尻を下げた。
「そんなこと言ってる場合?清水さんと望の居場所は分かってるの?」
「仁楼会の所有している倉庫が赤鷺港の埠頭にある。そこで火事があったことはおまえも知っているだろう。破滅をしっかりと目に焼き付けろという熱烈なラブコールだ。呼ばれれば向かってしまう、そんな私を望はよく知っているからね」
「そんなところに行っている間に、組は……!」
「私もただあの屋敷に閉じこもっていただけじゃない。手はいくつか打ってある。清水の隠れ蓑や私の屋敷は仁楼会傘下の組に睨みを効かせてもらっている。清水にこれ以上大きな悪さはできないだろう。悪さをしたらしたで、叩いてもらうだけさ」
事務所周辺に仁楼会の人間がうろついていたのは、それで――。
合点がいく部分もあったが、塗り替えられた清水の印象があっても、慈雨は雷が言っていることを咀嚼できなかった。長年傍に置いていた清水を一度の過ちで切り捨ててしまうこの男は、今この時、祖父の顔をしていなかった。
「慈雨。私がこの世界で今まで死なずにいられたのはね、私の目と鼻と耳がすこぶるよかったからだよ」
「なにそれ、まるで獣じゃないか」
「そう。私は獣だ。だから尻尾を何本持とうともその先まで目が行き届く。……腐った尻尾はよく匂う。大事になる前に切ってしまわないとね」
人差し指と中指で鋏の仕種をする雷。からころと軽薄に笑うそのさまが慈雨に望の怨念を思い起こさせた。
「でも、望は……、」
悟を失い憎しみに身を焦がす望は、清水とは違う。望に野望はない。あるのは、憎しみだけ。愛ゆえに破滅さえ厭わない彼を、雷はどうするつもりなのだろうか。
「望には悪いことをした」
「悟さんのこと?」
雷は深く頷き、スモークガラスの向こうを見つめた。「全ては組のためと、二人を引き裂いた私の罪は重い」雷の呟きはエンジン音にかき消され、慈雨は前を見つめた。
山間の避暑地を前に車を降りた二人は頷き、慈雨は運転席の鏑木に向かって頭を下げた。監禁状態から解放され気が緩んだのか、一時間と言わず朝まで眠ってしまった慈雨を、鏑木は寝かせたままにしてくれた。
「鏑木さん、ありがとう」
「年寄りをこき使いやがって」
慈雨は鏑木に手を差し出し、握手を交わした。大きくて温かい手だった。
「死ぬなよ。死んだら何もかも終わりだ」
「うん」
深く頷けば、鏑木はいつものように片頬で笑い、去って行った。慈雨は静の手を取り、「静」と呼びかけた。
「静。もう一度、おれと来てくれるか」
アイスブルーの瞳を見て尋ねる。風に揺れる木漏れ日が静の艶やかな美貌を撫でて行った。
美しい獣。口よりも瞳の色がおしゃべりな、勝気で、一途な獣。静は慈雨の前に膝をつき、ひたと見つめ返した。
「おれは貴方を一目見た時からずっと、貴方のイヌだった。おれはこれからもずっと貴方のイヌだ」
慈雨は目を細めて微笑み、静の頭を抱き寄せ腹へ押し付けた。
「静、おれを許してくれて、ありがとう。悲しい思いをさせてすまなかった」
くぅーん……。
静の鼻の奥から甘えたような声音が漏れて、慈雨の胸が掻きむしられたようになった。「助けに来てくれてありがとう」「怪我をさせて悪かった」「静はいい子だね」「可愛い子、賢い子」思いつく限りの褒め言葉を旋毛へ振りかけ、優しく混ぜるように髪を撫でる。慈雨はしゃがみ込み、静の背を両手で摩った。
「慈雨」
ぐるぐると鳴っている咽喉から自分の名が聞こえ、静の顔を覗き込むと、頬を桃色にしたイヌが眉を吊り上げて主人を睨んでいた。けれど慈雨には分かっている。この子は主人を睨んでいるのではない。主人の名を呼びたかっただけなのだ。
「うん。そうやって呼んでくれる方が嬉しいよ」
慈雨は静を抱きしめ、額に口づけた。イヌは瞳を丸くしてぶるぶると首を振った。
「昨日のキスのお返し」
まん丸になったアイスブルーの瞳に得意気な自分が映っている。こちらの頬まで桃色になってしまいそうで、慈雨は勢いをつけて立ち上がった。……と同時に、静に手を取られる。手首に感じる熱に戸惑い静を確かめれば、その瞳は鋭く光っていた。
「誰に噛まれた?」
手に残った噛み痕を指先でなぞられ息が止まる。「手癖の悪いハスキー犬か?」唇は弧を描いているのに、静の表情は全く笑っているように見えなかった。
「頬も腫れてるな。何があった?……清水か?」
静の指先が頬に触れ、慈雨は肩をひくつかせた。今の慈雨には清水とのことを静に伝えるだけの余裕がなかった。
「ご……めんなさい」
梢に噛まれたことや清水に犯されそうになったことよりも、別のイヌの頭を撫でていたことに気が咎めた。縮こまり頭を下げると、手の甲に柔らかなものが触れ、そのうちに「ちゅっ」と小鳥の囀るような音がした。驚いて顔を上げると、静は再び傷痕を啄んだ。
「もうおれに謝らなくていい」
静は慈雨の肌へ囁き、繰り返し同じ場所へ口づけた。心臓が逸って、身体が燃えそうに熱くなっていく。けれど、胸の中はもっと熱い。蕩けて崩れて、こんな想いが静の前へ暴かれてしまいそうなほど――。
もう、この子を離したりしない。慈雨は今こそはっきりとそう誓った。
「静、おれと来て」
静はいつものように頷いた。見えた旋毛を心のままに撫でられることが、こんなにも嬉しかった。
別荘地を奥に進むにつれ、物々しい雰囲気が色濃くなっていく。塀の向こうの邸宅を見上げ、慈雨は「ここだな」と歩を緩めた。
塀は厚く高く聳えている。草木の陰に隠れ警備の手が緩むのを待つが、仁楼会のネコたちにはまるで隙がない。「慈雨」静は思案している主人の肩に触れ、「おれに考えがある」と言うや否や繁みを飛び出した。
「……!」
ネコが声を上げる前に、イヌはネコの首を締め上げ気を失わせてしまった。瞬く間にいくつかの出来事が目の前を過ぎ去り、慈雨は誇らしげにしているイヌの背を肘で小突いた。「ずいぶん野蛮なアイディアだな」「野蛮でなければ獣じゃない」二人で軽口を交わすと、静はネコの脇に下げられていた銃を慈雨に渡した。
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イヌはそう言うなり主人を肩車し、フンフンと鼻を鳴らした。慈雨は静の頭を撫で、肩を踏み台にして塀によじ登った。一仕事終えて静を振り返れば、俊敏な彼は弾みをつけただけで二メートルを超える塀を飛び越えてしまった。両腕を広げて主人を待っているイヌを眼下に、慈雨はたじろいだ。夜闇へ飛び込むのと朝日の元でそうするのとでは訳が違う。
「どうして怖がる?三階から飛べたんだ、このくらいは余裕だろう」
「あの時はそれしか方法がなかったんだっ」
「別荘のバルコニーからだって飛んだだろう」
「途中までロープで下りていたじゃないかっ。夜だったから地面も見えなかったし……」
イヌは腕を組み、それから再度腕を広げ悪戯っぽく笑った。
「おれの主人はそんな弱虫じゃないだろう。それ、迷っていたら追っ手が来るぞ」
尻を叩かれムッとした慈雨は、「くそっ」と悪態をつき、塀の上から静の胸の中へと飛び降りた。どっ、と確かに衝撃が走ったのに、静の身体はびくともしなかった。
「ほら。平気だったろう。おれの主人はやはり勇敢だ」
地面に下ろされ静に頭を撫でられると、慈雨はぶすくれた顔で静を睨んだ。イヌは不機嫌な主人の手を取り、「急ごう」と庭園を駆けて行った。
「外からじゃ桂さんがどこにいるのか分からないな」
「……その銃、七発までしか入らないぞ」
銃を構え空に浮かぶ雲を狙っている慈雨に静が忠告する。
「七発あれば十分だ」
慈雨は口端を上げ、前へ進みながら、空に向かって引き金を引いた。パン!火薬が弾け薬莢が芝生へ転がる。パン!パン!パン!……屋敷から警報らしきベルが聞こえてきたが、慈雨は構わずに七発の銃弾を打ち切った。
「野蛮はどっちだ」
初めて聞く静の舌打ちに、慈雨はほくそ笑んだ。二人はそのうちにネコたちに取り囲まれ、無数の銃口を向けられた。梢と対峙した夜も、こんな状況だった。けれど決定的に違っている。あの時の自分が持っていなかったものを、今の自分は持っている。
「お前、北山組のイヌか!こんな場所にノコノコと……!」
静へ集中する銃口を遮るように、慈雨は銃を捨て一歩前に出た。
「おれは北山雷の孫、北山慈雨だ!桂さんに会いたい!ここを通してくれ!」
周囲がにわかにざわつき、静は顔を顰め眉間を抑えた。一匹のネコが「いい、撃て!」と声を張り上げた、その時だった。
「その子は私の客人だ。銃を下ろしなさい」
縁側に現れた男を見て、慈雨は背筋を正した。
「はるばるここまで来てくれたんだな。中でお茶の一杯くらいどうだ、慈雨君」
初めて名を呼ばれ、けれど慈雨は首を振った。「ここで構いません、桂さん」喜重は薄い笑みを浮かべ縁側に腰を下ろした。
「じいちゃんを返してください」
「君のおじいちゃんは神隠しに遭っている最中でね」
「貴方の守りたい人は北山組や仁楼会の皆を犠牲にしてまで無傷でいることを望むでしょうか」
「決して望まないだろうね」
喜重は首を緩く振った。
「そういう男だから、隠したんだよ」
慈雨は雷と喜重の過去を知らない。けれど、今なら分かる。雷が喜重に慈雨を会わせたのは、雷自身もまた喜重に並々ならぬ想いを抱き、喜重の十余年を奪ってしまったことを心のどこかで後悔していたからだ。
見せつけるためなどではない。許しの象徴として、慈雨はあの夜、そこにあった。
「見誤ったな。似ているのは声だけじゃなかったか」
「当たり前だ。私の孫だぞ」
喜重の背後から現れたスーツ姿の男は、慈雨を見て笑みを浮かべた。慈雨は男を見つめ返し、喜重は瞼を下ろして項垂れた。慈雨は男を、雷を一目見ただけで、彼がどれだけ丁重に隠されていたのかということを思い知った。
「こんなにやんちゃな子だとは」
「十代の少年などこんなものだよ。私たちだってそうだった」
雷は喜重に親しげな笑みを向け、落ちていた銃を拾った。
「隠すよりも、他人の家で発砲するなと教えるべきだったかな」
極道の轍を見せないようにと、孫の周囲に暗幕を張り巡らせていた祖父の心が、慈雨にはありがたい反面、寂しかった。
銃は重い。命は重い。家督は重い。絆と盃で繋がった関係は重い。その全てを負った背中がこんなにも近くにあること、もっと早くに気付けていたら……。
「じいちゃん!清水が、望が、組が、」
「分かってる。喜重から聞いているよ」
雷は空になった銃を見つめた。その瞳は凪いでいた。
「誰一人として無駄死にはさせない。あれは私の家だ」
銃を慈雨に渡し、雷は喜重を振り返った。喜重は全てを得心したように頷き、「せめて送らせてくれないか」と縁側から重い腰を上げた。
ベントレーに乗り込み、隣で脚を組んでいる雷を横目で見やる。雷はいつものように微笑み、「いつの間にこんなに逞しくなったのかな」と目尻を下げた。
「そんなこと言ってる場合?清水さんと望の居場所は分かってるの?」
「仁楼会の所有している倉庫が赤鷺港の埠頭にある。そこで火事があったことはおまえも知っているだろう。破滅をしっかりと目に焼き付けろという熱烈なラブコールだ。呼ばれれば向かってしまう、そんな私を望はよく知っているからね」
「そんなところに行っている間に、組は……!」
「私もただあの屋敷に閉じこもっていただけじゃない。手はいくつか打ってある。清水の隠れ蓑や私の屋敷は仁楼会傘下の組に睨みを効かせてもらっている。清水にこれ以上大きな悪さはできないだろう。悪さをしたらしたで、叩いてもらうだけさ」
事務所周辺に仁楼会の人間がうろついていたのは、それで――。
合点がいく部分もあったが、塗り替えられた清水の印象があっても、慈雨は雷が言っていることを咀嚼できなかった。長年傍に置いていた清水を一度の過ちで切り捨ててしまうこの男は、今この時、祖父の顔をしていなかった。
「慈雨。私がこの世界で今まで死なずにいられたのはね、私の目と鼻と耳がすこぶるよかったからだよ」
「なにそれ、まるで獣じゃないか」
「そう。私は獣だ。だから尻尾を何本持とうともその先まで目が行き届く。……腐った尻尾はよく匂う。大事になる前に切ってしまわないとね」
人差し指と中指で鋏の仕種をする雷。からころと軽薄に笑うそのさまが慈雨に望の怨念を思い起こさせた。
「でも、望は……、」
悟を失い憎しみに身を焦がす望は、清水とは違う。望に野望はない。あるのは、憎しみだけ。愛ゆえに破滅さえ厭わない彼を、雷はどうするつもりなのだろうか。
「望には悪いことをした」
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雷は深く頷き、スモークガラスの向こうを見つめた。「全ては組のためと、二人を引き裂いた私の罪は重い」雷の呟きはエンジン音にかき消され、慈雨は前を見つめた。
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