一途な獣は愛にこそ跪く

野中にんぎょ

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右腕の本懐

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「まーたゴハン残してる」
 ほとんど手のついていない食事を見て、梢は眉を顰めた。慈雨は無言のまま梢の腕時計を盗み見る。午前十時二十三分。窓のないこの部屋にいると時間の感覚が日に日にずれていく。
 事務所からほど近い雑居ビルに連れて行かれたところまでは覚えている。けれど日が経つにつれ、慈雨は自分がビルの何階にいるのかさえ思い出せなくなってしまった。
「だめだよ、若。ちゃーんと食べなきゃ。もっと細くなっちゃうよ?」
 梢は容器を片付けながら溜息を吐いた。梢があの夜に言った通り、銃で撃たれたはずのその身体は一夜明けた時点で元に戻っているようだった。
 静の傷も癒えているだろうか。
 気が緩むと静のことを考えてしまい、慈雨は梢から視線を逸らした。浮かない顔をしている慈雨の前にしゃがみ、梢は微笑んだ。
「若、ホントにおれを撃っちゃうんだもん。びっくりした」
 隙あらばこちらを詰る梢に参って謝罪しようとすれば、梢はベッドに腰掛けた慈雨の膝に顎を乗せた。
「謝って欲しいわけじゃないのっ。ねえ、若、撫でて。イイコイイコして」
 言われた通り頭を撫でてやると、梢はきゅんきゅん鳴きながら旋毛を押し付けてきた。
「おれは純血種だからすぐに治ったけど……。静は今も苦しんでるかも」
 思わず手を止めると、梢は小首を傾げて慈雨を見上げた。
「獣人の治癒力にだって限界がある。雑種は特に個人差が激しい印象だよ。あれだけ撃たれていたら数日じゃ治らない。組にも戻れないだろうし治療も受けられているかどうか……、」
 静を想うと慈雨の思考が立ち止まる。止まった手を急かすように梢の頭が揺すられ、慈雨は無心で手を動かした。
「おれねぇ、撫でてもらうの大好き。若、これからおれのこと、い~っぱい撫でてね。若のこと、おれが守ってあげるから」
「……梢は望のイヌだろう」
「おれは望さんを愛してるし、望さんもおれを愛してくれるよ。でも、望さんは撫でてくれないの。身体の奥まで愛してくれるのに、全然撫でてくれない。望さん、他の誰かに撫でてもらえって言うんだよ。だから若に撫でてもらうの」
 梢の言う「ホンモノ」という言葉の正体に気付き、慈雨は愕然とした。
 獣人とヒトがペアリングすることは今や珍しくない。けれど望と梢のそれは常軌を逸している。番の契は獣人の生涯を懸けてのもの。互いの身体と心を結べば得られるものと同等の対価を払うことになる。番の庇護に全身全霊を注ぐ獣人の心は脆い。番の安寧が崩れる時、獣人の心身もまた崩れてしまう。
 まさか望、梢のありったけの庇護の本能を利用しようと、番の契を結んだのか?
 悟という一匹の獣人が慈雨の脳裏を掠めた。悟と梢、望を取り巻く二匹の獣人がこちらに牙を剥く。望、おまえは一体――。
「おれ、静なんかより上手に若を守れるよ。今なんか、おれ、静よりず~っと強いもん」
「静はおれとの約束に縛られていただけだ。本来なら静がああなることはなかった」
 この言葉が心の琴線に触れたのだろう。梢は慈雨の手をひったくり、躊躇なく嚙みついた。
「そんなこと言うなら、静を殺すから!若のことなんか守ってあげないからっ!」
 梢は牙を剥き出しにして慈雨を怒鳴りつけた。噛みつかれた手の甲に血が滲む。慈雨はじくじくと痛むそこを胸に抱き、踵を返した梢の後ろ姿を見つめた。
「おいおい、ご機嫌斜めか、うちのワンちゃんは」
 梢と入れ替わりに部屋へ入って来た人物に、慈雨は身を固くした。手下を率いた男・清水が慈雨へと視線を流した。
「お久しぶりです、若」
 言葉を失っている慈雨に代わり、梢が清水の腕を粗暴に引き付けた。
「オジサン。望さんに隠れて陰でコソコソ何やってんの?あんまり欲張ると後で痛い目見るよ」
「そんなに牙を剥いて、美人が台無しじゃねぇか。おれは望を邪魔するような真似はしない。おれと望は一蓮托生の仲だ。おまえだって知らねぇわけじゃないだろう?」
「……若にヘンなちょっかい出さないでよね。望さんに怒られるのはおれなんだから」
「ひどいねぇ。さすがのおれもこんな子どもに手は出せねぇよ」
 梢は「どうだか」と吐き捨て部屋を後にした。
 まさか、北山組と仁楼会を巡るこの夏の一連の騒動は、清水の企てによるもの――?慈雨は淀んだ目をした清水に身構え、清水はその戸惑いを感じ取ってか困ったように微笑んだ。
「この組をどうするつもりだ」
 問い質せば、清水は面に笑みを貼り付けたまま慈雨へ歩み寄った。
「何か誤解があるようですが……、おれは北山組をでかい組にしたいだけなんです。もっと大きくなれるチャンスがあるのに、オヤジは決してそういう話には靡かない。だから、おれが靡いてやろうかと思っているだけです」
「北山組と仁楼会を真面にぶつけたら組員数で簡単に競り負ける。組はそう簡単に大きくなったりしない。貴方だってそれを分かっているはずだ」
「真面な抗争なんぞ、するわけがないでしょう」
 清水は大げさに肩を竦め、嘲笑した。
「抗争が始まってしばらくは下のモンに任せますよ。手柄は末端まで行き届いた方がいいんでね。……なに、抗争っつったって、今は昔と違って、そう派手な喧嘩はできやしません。待って、待って、待って、相手が痺れ切らしたところで、一気に叩く。………どうです?慎重なオヤジは飛びつきそうにない話でしょう?」
「じいちゃんのいない北山組でどうやって仁楼会を叩こうって言うんだ」
「おれがいる」
 獣の目がぎらりと光る。慈雨はベッドのシーツを握りしめた。
「仁楼会なんてのは、ブクブク太っただけの家ネコみたいなもんですよ。今じゃあヤワいモンだのカタいモンだの、汚ねぇシノギにも手ぇ出して、昔の見る影もねぇ。放っておいても数年のうちに崩壊するだろうが、生憎とおれは気が短い方で……、」
「……それでじいちゃんとおれが邪魔だったのか」
 若頭である望、長年参謀を務めた清水、長きに渡り多くのシノギを支えた鏑木。雷は知性と腕っぷしを兼ね備えた部下を持ちながら、次期組長を指名していなかった。その胸のうちに孫である慈雨がいるのではと、組の誰もが感じていた。
 実際に、内部の派遣争いを避けるために慈雨を次期幹部候補として育成しようと提案した幹部もいる。雷はそれを一笑に付したらしいが、イエスともノーとも取れないその反応が幹部たちを刺激したことは想像に難くない。
「いやだな!おれは貴方に安全な場所にいて欲しかっただけですよ。堅気の家に生まれた貴方に血を見せるなと、オヤジにも散々言われましたしね。ことが終われば解放するつもりでしたよ」
「仁楼会を利用して組を我が物にしようなんて、上手くいくはずがない」
「できるんですよ。おれになら」
 顎を掴まれ視線をかち合わされる。清水の瞳はぐらぐらと煮え、渦巻いていた。
「私欲のために望や梢を利用するのは止めろ!」
「……望?ふふ、ふは、ふはははは!」
 哄笑する獣の口端に泡が立つ。慈雨は気圧され、指一本動かせなくなった。
「こうなってもまだ望を信じているんですか?」
 清水の手が慈雨の胸を押す。ベッドに転がされ起き上がろうとすれば、清水は素早く慈雨の身体に馬乗りになった。息を飲んでいるうちに着ていたシャツのボタンが弾け飛び、慈雨は短い悲鳴を上げた。
「おれもムショにいたことがありましてね。……まだ十代だった。仕置きと称しておれを虐めたがる看守がいて……。夜が来るたびに、どっちが極道かって笑っちまうくらいにひどくされたもんです」
 清水にズボンを下げられ、慈雨の背筋が凍った。回り込んで来た手下に四肢を押さえつけられ、口の中へポケットチーフを突っ込まれる。清水はベルトのバックルを外すと、前を寛げながら慈雨に覆い被さった。露になった太ももに湿った熱が触れ、慈雨はくもぐった悲鳴を上げた。
「何も殺そうってわけじゃない。おれだって貴方のことを息子のように思っていた節があるんです」
「ん、ぐ、ぅゔ~っ!」
 四肢をばたつかせれば、重く固い拳が慈雨の頬を打った。痛みで痺れた頬に生理的な涙が伝い、清水と手下はそんな慈雨を嘲笑った。
「大人しくしていないと、もっと痛い目を見ますよ。……力を抜いて」
 いやだ、いやだ、いやだ!……しずか!
 声にならない声が慈雨の喉奥で暴れる。ぬめりを帯びたそれが尻の谷間を往復している間にも、慈雨は何度も静の名を叫んだ。おぞけが身体中を這い回り、冷え切った涙がシーツに散る。何者も受け入れたことのない場所に切っ先が押し付けられた、その時だった。
「失礼します」
 半開きになったドアから、耳に馴染んだ声が聞こえてきた。「……出直しましょうか」清水は男の冷ややかな気遣いに苦笑し、上半身を擡げた。
「なんだ、望。来てたのか」
 望はベッドに近づくと、慈雨の口に詰め込まれたポケットチーフを取り出した。静まり返った瞳と眼差しが通う。その瞳にはやはり、何の感情もなかった。
「下で女が待っていましたよ。清水さんが最近懇意にしているホステスじゃないんですか」
「いま行こう」
 立ち上がり身なりを整え、清水は大広間で会った時と寸分違わぬ笑みを浮かべて部屋を去って行った。
 望と慈雨だけが残された部屋に梢が戻り、溜息を吐く。「やっぱりこーなっちゃった。若、ダイジョーブ?」床に放られた慈雨のショーツを拾い、梢は顔を顰めた。
「あ~あ。殴られちゃってんじゃん。おれだって噛みつくので我慢したのに」
「梢」
 望に咎められ、梢は口を噤んだ。慈雨は頬に伝った涙を拭い、望を見上げた。
「望、なんで、」
 望は冷えた面持ちで慈雨を見下ろした。
「清水の思惑に気付いているのなら、もうこんなことは止めてくれ。抗争が始まれば多くの血が流れる、取り返しがつかなくなる!」
 懸命に訴えても、望と梢の表情は少しも変わらなかった。
「桂の屋敷に銃弾を撃ち込んだのはおれです」
 望の告白に、慈雨は言葉を失い、梢は「あ~あ。言っちゃったぁ」と言って天井を仰いだ。
「どうしてそんなことを!じいちゃんの屋敷を襲ったのもおまえなのか?」
 返された眼差しの冷たさを感じれば、答えは自ずと返って来た。
 屋敷を襲ったのは、望と梢――。
 確信すると、慈雨の背が戦慄いた。野望の元に屠られた組員の姿が脳裏で点滅する。
「こんなことをしても、悟さんは帰って来ない」
 その名に、望の瞳がはじめて瞬いた。
「じいちゃんは悟さんのことが忘れられないって……、悟さんは誰よりも真っ直ぐで誰よりも優しい男だったって言ってた。そんなひとがおまえにこんなことを望むとは思えない!」
 望の虚ろな瞳に朱が滲む。慈雨はよろめきながら立ち上がり、望の襟元を掴んで引き寄せた。望は口端をわずかに上げ、慈雨の鼻先へ吐き捨てた。
「清水がどうなろうと、組がどうなろうと、おれの知ったことじゃない」
 その言葉には、今まで耳にしたことのない熱があった。
「あの男には、悟を捨てたことをその全てで償ってもらう」
「捨てた?悟さんを?違う、じいちゃんは、」
「捨てた。まるで虫けらのように。おれの悟だと知っていたのに、あの男は躊躇いもなくおれから悟を奪った。……おれの失ったものを、あの男にも失ってもらう。抗争で流れた全ての血を悟への弔いにする。北山組も仁楼会も無様に消えればいい」
 呪詛を口にし、望は嗤う。慈雨はその場にくずおれた。
「望、いつからそんな、」
「もうずっとですよ。十五年前のあの日、悟が組を去ってから、おれはずっとあの男を憎んでいた。けれど、悟が必ず帰ると言ってくれたから、組を離れるわけにはいかなかった。……悟は帰って来なかった。悟はありもしない罪を被って、あんな場所で、独りで死んだ」
 淡々と語る望の肩に梢が触れようとしたけれど、望はその手を払い、慈雨の前へしゃがみ込んだ。
「あの男の前で貴方を殺してしまおうかと、何度も考えましたよ」
剝き出しの殺意を突きつけられ、身体が強張る。歪に笑う望が、今はっきりと恐ろしかった。
「悟さんは耳と尻尾を切り落としてまで組の一員になりたかったんだって聞いた。悟さんは最期まで組のために尽くしてくれたって、桂さんもじいちゃんも、」
 蛇の瞳がぬらりと光る。望の眼光に縛られ、慈雨は震えた。底なしの憎しみが慈雨の足元を蝕んでいく。
「悟がどれだけ己の獣人の部分を厭んでも、あれは悟の一部だ。あの男は悟の心もおれの心も知っていて、悟に耳と尾を切らせた。……怒りに任せて殴りかかったおれに、あの男は何を渡したと思う?」
 慈雨の困惑をせせら笑い、望は慈雨に詰め寄った。
「尻尾だよ」
 死んだイヌの匂いを纏った亡霊。
慈雨を襲った獣人を静がそう表したことを思い出す。月影を受け闇色に光っていた、あの尻尾は――。
「あの男は、『悪かった』と言って悟の尻尾をおれに差し出した。『おまえに渡さなければと思った』とも言っていた。……あの男は悪魔だ。悪魔を呪って、恨んで、何が悪い?」
 あの夜、慈雨の部屋に侵入した「獣人」は、悟の尻尾を身に着けた望だったのだ。慈雨は思わぬ事実に直面し、乾ききった喉を鳴らした。
「静が貴方の護衛を務める話が持ち上がった時は、好都合だと思いました。貴方の周囲に雑種のイヌの匂いがあった方がこちらも動きやすい。その上、おれもやっと貴方のお守から解放された。くしくも桂の出所を目前にして北山組と仁楼会は緊張状態に陥って……。全てがおれと悟のために動き始めた」
「おまえが清水を唆したのか」
「あの男は勝手にああやっているだけですよ」
「じいちゃんを殺したのか」
「まさか。償いもせずに死ぬなんて許さない。あの男には生きて、生きて生きて、苦しみ抜いてもらう。今のところは雲隠れしているようだが、姿を現すのも時間の問題だ」
 神隠しにでも――。そう言っていた喜重が慈雨の脳裏を過った。
「ここから出ようなどと思わないことです。貴方はここで全てが終わるのを待っているだけでいい。ほとぼりが冷めた頃に新しい人生を歩めるようおれが手配しましょう。父親のように生きる道が、貴方にはある」
「おれを殺そうと思っていたんじゃないの」
「貴方を殺すのも方法の一つだと思っていただけです。あなたも奪われた側の一人だ。貴方だって、両親を殺した犯人を恨んでいるはず。復讐を思いつかなかったわけではないでしょう?」
 あのネコを刺せるとしたら。あのネコを撃てるとしたら。時を遡り、あのトラックを止められるとしたら……。
「ふ、」
 手元にジョーカーが来るのと同じ要領で、大小さまざまな不幸がやって来る。自身の幸も不幸も世界には何の波紋も残さない。不運の中で足掻くことなど、慈雨の頭にははなからなかった。
与えられた場所で、生きる。自分の中の獣に瞼を下ろさせ、息を潜め、ただ生を繋ぐ。そんなことをもう十何年も続けて来た。奪われたものを数えたことなどない。いつか触れた死を遠ざけることで精一杯だった。でもなぜだろう、こんな自分でも、ふつふつと立ち上る感情がある。
「そんなセンチメンタルな趣味、おれにはないよ。死人は生き返らないし、笑わない」
 感傷的なシンパシーを切り捨てても、望の瞳は暗いまま。「貴方にはここにいてもらう。貴方も分かっているだろうが、この部屋を出ることは叶わない」望と梢は踵を返して部屋を出て行った。
 ベッド一つが置かれた窓のない部屋。出口はただ一つ、鍵を重ねられたこのドアだけ。
 静、おまえならどうする。
 こちらを狙い定めるように見つめていたあの瞳を思い出す。
勝気なあの子のことだ、銃や刀を持たずとも、己の牙で望の喉元を食い千切ったかもしれない……。慈雨は一人微笑み、手に刻まれた噛み痕へ視線を落とした。滲んでいたはずの血はすでに乾いていた。おれは、確かに、まだ、生きている。
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