一途な獣は愛にこそ跪く

野中にんぎょ

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負け犬の遠吠え(下)

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「お年寄りの話を遮るのは、趣味じゃないんだけどね……」
 銀色の髪を夜気に靡かせた梢が静を見据える。これまでとはまるで違う目つきをした梢を見て確信が先行し、慈雨はその場に立ち尽くした。
 喜重は冷酒を飲み干し、「会計してくれ」と店主にカードを差し出した。
「悪いね。私には私の守りたいものがある。それは君を差し出さないと守れないものだった。鏑木には後で叱られてしまうかもしれないが、致し方ない」
 梢に続き、何匹ものイヌがその背後から姿を現す。静はベントレーに乗り込む喜重を一瞥し、慈雨を背後へ下がらせた。
「桂さん!」
 静の背後から藍色の背中に向かって叫ぶと、喜重は横顔で慈雨を振り返った。
「貴方の屋敷に銃弾を撃ち込んだのは北山組のイヌじゃない!仁楼会と争う理由なんて、今の北山組にはないんです!」
 悲痛な叫びを聞き届け、喜重は視線を逸らした。去って行く車を見つめ唇を噛んだ慈雨を背後に押し込め、静は冷笑した。
「ぞろぞろと雑魚を引き連れて……。そんなにおれが怖いか」
「孤高のおまえが子ども一人に振り回されて、かわいそうったらない。ビーストはどこに消えちゃったの?」
 慈雨は静の背に身を寄せ辺りを見回した。「望さんならいないよ」梢の声が冷たく響く。
「梢、どうしておまえが、」
「あの人は今ちょっと忙しくて。おれが代わりに若を迎えに来たんだよ」
 革手袋をした梢の手元からぬらりと匕首が現れる。慈雨は戸惑いながらも梢に対峙した。
「どうしてこんなことになっているのか、おれには分からないが……。屋敷を襲ったのは仁楼会の者じゃない。屋敷の間取りや警備システムを知り尽くしていたとしても、北山組うちの守りを突破できるヒトやネコのヒットマンなどいるものか。おまえはありもしない尻尾の影を追っているだけ。……仁楼会と争う理由も、北山組の内部で揉めるような火種も、どこにもありはしないんだ!」
 匕首を弄んでいた手元がぴたりと止まる。梢は喉を反らして笑い声を立てた。
「若、それは誰から吹きこまれたの?」
 匕首の鞘を捨て、梢は慈雨に爪先を向けた。
「どうせ静でしょう。……ねえ、うぶな貴方に教えてあげる。静はね、ずいぶん昔から貴方に執着しているんだよ」
 慈雨の心がかすかに波打つ。梢はそれを見逃さなかった。
「オヤジに連れられて、幼い貴方は一度だけ訓練所に足を運んでくれた。初めて貴方を見た日のことは、おれだって忘れられない。いや、あの場に居合わせた全てのイヌが、あの日訓練所に現れた貴方の姿を忘れられないでいる」
 雷と共に訪れたその施設は、今でも慈雨の記憶にある。静へ寄せていた身体が揺らいだのを見て、梢は語気を強めた。
「貴方を見た静ときたら!……見とれちゃったんだろうね。静はナイフを持ったおれを前にしても貴方から目を離せなかった」
 静の口端から走った傷が稲妻のように脳裏を駆け、慈雨はハッとした。
 対峙した二匹のイヌを日陰から眺めた日のことを思い出す。蝉の声が雨のように降り注いだ夏の日、慈雨はイヌの血の色を知った。
「おれにはすぐに分かった、静は“主人”を見つけたんだって。だから、浮かれ切ったその顔におれがナイフを突き立ててやった」
 血を滴らせながら戦う静の姿がつい先刻のことのように思い起こされる。どうして忘れていられたのだろう、こんな鮮烈な光景を――。
「あんなに苛立ったのは初めてだった。誰にも愛されないような醜いイヌにしてやろうって、そう思ったのに。本当に若のイヌになっちゃうんだもんなぁ……、参っちゃうよ」
 匕首の刃をカウンターに滑らせ、梢は立ち止まった。「静と若を見てると、なんだか切ない。二度失恋したような気分になる」静の背に力が籠り、慈雨は目の前のシャツを握りしめた。
「貴方に出会ってから、静は生まれ変わったように鍛錬に励むようになった。おれたちイヌって、ホント健気だよね~……。でも……、ふふ、」
 イヌたちが静と慈雨を取り囲む。梢は軽快な足取りで静ににじり寄った。
「そんな作り話まで吹き込んで。この子どもを手に入れたくなっちゃったんでしょう?護衛のイヌってだけじゃ満足できなくなったんでしょう?」
「これ以上この人に近づくのなら、殺す」
「殺してみなよお。おまえのナイフがこっちに届く前に、その首を搔っ切ってあげる。抑制剤を飲んでるイヌなんかに、おれは負けないよ?おまえと違っておれには、望さんとのホンモノの絆があるんだから」
「ホンモノの絆とは血の契りのことか?あんな紛い物で喜ぶなど気が知れん」
「ニセモノかどうか試してみなよ。おれは望さんからホンモノを貰った。愛も恋も、望さんが全部おれに教えてくれたんだ。望さんはおれの全てだ!」
 匕首の一振りが残光となり慈雨の網膜に焼き付く。静がその身で刃を受け止めたことを床に散った血で知り、慈雨は息を震わせた。
「若。静はね、貴方を独り占めしたいんだよ。だからいっぱい嘘を吹き込んで、自分の傍に縛り付けようとしたんだ。よく考えて。どうして北山組の組員であるおれたちが事務所や屋敷を荒らさなくちゃいけないの?望さんは貴方をずっと守っていてくれたひとじゃないの?若、そんな噓吐きのイヌは捨てて、おれと望さんの元に帰ろう」
「静は嘘なんて吐いてない」
 梢は瞳を見開き、慈雨は前のめって畳みかけた。
「事務所の無事はこの目で確かめた。怪我をしていると聞いていた清水さんが事務所を出入りしているのも、はっきりと見た。嘘を吐いていたのは望の方だ」
 言いながら、慈雨は揺れていた。望は慈雨の孤独を埋めはせずとも、ずっと見守っていてくれた。その気遣いは孤独を知る者の所作だった。望がいたからこそ、慈雨は孤独に押しつぶされずに済んだ。そんな望が、なぜ――。
「梢、おれは望を信じてる。おれは望が嘘を吐かなければならなかった理由を知りたい。梢、頼むからその匕首を下ろして、おれたちにほんとうのことを教えてくれ。話さなければ分かり合えない」
 沈黙が過ぎ、梢は無言で首を振った。「どうして、」答えの代わりに、血濡れた匕首が静へ振り下ろされた。
「梢!止めて!」
「あの別荘で大人しくしていればよかったのに!若が悪いんだよ!」
 暴漢を演じていた時とはまるで違う刀筋の激しさに、慈雨は立ち竦んだ。梢の攻撃をナイフとその身でいなすたびに匕首の切っ先が静の身体を霞め、床に血の一線が散った。
「あっはははは!番ってヤバい!愛ってヤバい!おれ、無敵じゃん!」
 これまで舐めてきた辛酸や苦悩を弾けさせるように、梢は嗤った。これが庇護の力?慈雨は静がとうとう自身を捨て主人を護ることに徹そうとしているのに気付き、静のホルスターから銃を抜き取った。
「撃てる?貴方に、おれが」
 銃を構えたまま静の背から一歩一歩離れる。イヌたちの注意が静から自分へ移って行くのを確かめながら、慈雨は引き金に指を掛けた。
「動かないで!」
 パキュン!にじり寄って来るイヌの足元に銃弾を撃ち込むと、梢は慈雨の爪先から面までを舐め上げるように見つめた。
「若、危ないよ。そんなもの捨てて、おれと行こう。おれだって本当はこんな乱暴はしたくないんだ」
 銃を奪おうとすれば奪えるはず。けれど梢はおもねるように笑みを浮かべて匕首を下ろした。静の背を離れてはじめて、無数の銃口がこちらに向いていることに気付く。慈雨は身動きの取れなくなった静を打見しグリップを握る手に力を込めた。
「ここで若がおれを撃ったとして……それで何になるの?純血種のおれにとっては銃弾の一発や二発どうってことないし、きっと静も若もこの子たちに撃たれてしまうよ。若、銃を捨ててこっちにおいで」
「じいちゃんはどこにいるんだ?おまえたちは何の目的があってこんなことをしてるんだ!?」
 痺れを切らしたのか、梢は血濡れた匕首を捨て懐から銃を取り出した。
 パアン!
 一発の銃声が火蓋を切って落とす。ナイフを逆手に持った静が拳を振るい、梢の注意を引きつける。見切られた動きは流れるように払われ、けれど更に裏を読んだ形で静のナイフが梢の脇腹に沈んだ。
「イッタイじゃんかっ!」
 吠えた梢の銃が額にかち当たりよろけたが、静は一瞬で体勢を立て直し梢に掴みかかった。パン!パン!パァン!梢を盾にして無数の銃弾を避け、静は梢と揉み合った。
「クソが!うぜぇんだよ!望さんとおれの邪魔をするな!」
 蹴りと拳の応酬は見る間に梢の優勢となり、静は梢に首を鷲掴みにされ、頭をカウンターに打ち付けられた。不敵に笑った梢はカウンターに倒れ込んだ静の髪を掴み上げ、顎裏に銃をねじ込み、引き金に指を掛けた。
「静!」
 慈雨の叫びに銃声が重なる。煙の立ち上る銃口の先、梢の背に血が滲んだ。
「は……、」
 おれ、梢を、撃って――。
 血の気が引き、発砲の反動で痺れた手から銃が抜け落ちる。梢はやおら慈雨を振り返り、静はその一瞬の隙に梢の背を蹴り飛ばした。再び対峙する静と梢の攻防に銃弾の雨が降る。静の身体には梢以上の血が流れ、彼が立ち回るたびに床に壁に赤黒い模様を作った。それでも静は拳を緩めない、一歩も引かない、慈雨の傍を離れようとしない。
 ナイフを握った手を捻り上げられ、静の手からナイフが抜け落ちる。梢は立て続けに発砲し、静の大腿部と肩へ銃弾を撃ち込んだ。
 がぅっ……。一度も呻くことのなかったイヌがたまりかねたように呻き声を漏らす。慈雨は静の元へと駆け寄った。
「止めろ!!」
 血と汗と火薬の匂いをさせた体躯を掻き抱き吠える。生ぬるい血液が慈雨のシャツに移り、染み入っていく。慈雨は静を抱く腕に力を込めた。
「おれにできることならなんだってする。静をこれ以上傷つけないで!」
 懇願すれば、梢は頬に跳ねた返り血を拭って乾いた笑みを浮かべた。
「若、そのイヌを捨てて、こっちに来て」
 静の虚ろな瞳が慈雨の心を確かめようと歪む。慈雨はピンと立ったイヌの耳に触れ、額に落ちた前髪を払ってやった。
「しずか」
 呼びかければいつも、この瞳は応えてくれた。イヌの手がおもむろに慈雨の背に触れ、力なく床へ落ちた。
「おれのためにたくさん傷ついてしまったね」
「おれはまだ、貴方の役に、立てます」
 汗と血とが静の顎から滴る。慈雨はそれを手のひらで拭い、主人を引き留めようと言葉を紡ぐ唇を、指先でそっと塞いだ。
「ううん、静、もう十分だ。もう、おれのために働かなくていい」
「おれはまだ動ける、」
「約束だったでしょう。おれの護衛を離れてもらうよ、静」
 静の口元の傷にそっと唇を寄せる。血の匂いと確かな生の温もり。静の背に回していた腕を解き立ち上がると、梢はこの場に立ち込めた全ての感情を受け止めるかのように大きく両腕を広げて慈雨を抱き寄せた。
「安心して、静。若はおれが守るから」
 月夜に小雨が降りしきる。
 あおぉん! あぉん……、
 遠吠えが聞こえても、慈雨は静を振り返らなかった。こんな夜闇では、彼を捨て置いた自分にできることが、そんなことしか見つからなかった。
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