一途な獣は愛にこそ跪く

野中にんぎょ

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一粒の砂の逃避行

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 別荘から逃げ出した二人を待ち受けていたのは大雨だった。
 雨をしのぐために入った建物の中でピンク色の照明を浴びた瞬間、慈雨の頬が発火したようになった。バイクごと離れに入れて便利だと感じたが、ここはいわゆる、ラブホテルというヤツでは……。
「運が良かった。この大雨だ、おれたちの匂いも紛れる」
 イヌは満足げに独り言ちると、濡れたシャツを脱ぎ捨てた。
「風邪をひきますよ」
 縮こまっている慈雨の肩にバスタオルが掛けられる。静は自身のベルトにまで手を伸ばし、見る間にボクサーショーツ一枚になってしまった。雨でほどけた髪に、鍛え上げられた上半身、固く絞れた腰……。慈雨は静から視線を逸らし、苦し紛れに部屋を見渡した。ガラス張りのバスルームに、天蓋付きの丸いベッド、やけにムーディーな照明……。どこにも目のやり場がない。
「身体が冷えているならシャワーを浴びた方がいい」
 静がそんなことを言うものだから、慈雨は「でも、あの、」と口ごもった。おぼこい主人を見かねてか、静はバスローブを羽織ると慈雨に背を向けベッドに腰掛けた。
「貴方がいいと言うまで、目を閉じてこうしていますから」
 古いラブホテルの空調はお世辞にも繊細とは言えず、慈雨は鼻の奥がむず痒くなるのを感じてバスルームに足を踏み入れた。ガラス越しに静を盗み見ると、彼は図書館でしていたのと同じ姿勢でベッドに腰掛けていた。
 慈雨は濡れそぼった上着を脱ぎ、その流れで一糸纏わぬ姿になった。温かなシャワーを浴びると、全身から力が抜けていくのを感じた。
 丸見えになってしまうと思っていたガラスはすぐに曇ってしまい、慈雨はバスルームを出る前にガラスの曇りを拭い静の様子を確かめた。静はやはり主人の言いつけを守りこちらに背を向けていた。
「静、おまえもシャワーを浴びなさい」
 慈雨がいつになく主人ぶっても静は厳めしい顔で黙り込んだまま。手を伸ばし静の頬に触れると、思った以上に冷たかった。「ほら、おまえだって冷えてる。この雨の中、薄着でバイクを運転してたんだ、いくら丈夫でも風邪をひいてしまうよ」しゃがんで視線を合わせれば、静は「では……」ときまり悪そうに立ち上がった。
 静がシャワーを浴びている間、慈雨は彼がしていたようにバスルームに背を向け、瞼を下ろした。
望の言いつけを破り、静と共に別荘を脱出し、こんなところまで来てしまった。短刀もスマートフォンも持っていない。自分が持っていると言えるのは、この身体だけ。
 迷うことのない男たちの中でただ一人迷っていた自分が、その輪を飛び出して、何をするというのだろう。理性的な自分が同じ問いを繰り返す一方で、心には小さな火が灯っている。安寧の地を飛び出した今、どうしようもなく無力な自分に、確かな輪郭を感じる。おれはこの身一つでどこへだって行けるのだと、そう思っていたい、自分がいる――。
「お気遣い頂き、ありがとうございます」
 静はバスルームから出るなりあの錠剤を取り出して口に放り込もうとした。
「待って」
 慈雨は静の傍に走り寄り、錠剤を乗せたその手を掴んだ。
「病があったとしても、おまえがおれのイヌだということは変わらない。具合が悪いのならそう言って欲しいんだ」
 瞳を見つめて言い含めれば、静は錠剤を握りしめて視線を逸らした。
「おれにできることはある?」
 頑なな手を両手で包み込むと、静は観念したように溜息を吐いて、「発情を――、」と早口に言った。「……え?」思わず訊き返せば、イヌは空いていた手で主人の手を引きはがした。
「発情をコントロールするための薬です。……おれは獣です。そういうものが傍にあると……、つまり、めぼしい雌に近づかれると、身体が勝手にそうなる。貴方を守りたくても、この身体が使い物にならなくなる。そういうことを避けるための薬です」
 このイヌが雄であるということを、知らなかったわけではないのに。
 慈雨は額から鎖骨まで熱くして、静の前から退いた。
 静も雄なんだ。魅力的な異性が近づけば、そうなるんだ。
 冷静な静しか見たことのない慈雨は戸惑い、布団に潜り込んだ。張りつめたシーツは肌を擦り、部屋に漂う甘い香りは鼻孔に焼き付きそうだった。
 ああ、そうだ、いつも冷静な静も、あの時は――。慈雨はあの夜の静を思い起こした。侵入者に襲われた自分を身を挺して守ってくれた静。主人であるおれ以外に対しても、あんなふうに必死になってしまうのだろうか、静は……。
 広いベッドはいつまでも一人分しか軋まず、慈雨は掛け布団から顔を出した。天蓋のカーテンの向こうに静を探せば、彼は小さなソファーに横になっていた。
「寒くないの。疲れも取れないだろう、こっちにおいで」
 声をかけても、静はちろりとこちらを見ただけで動こうとしない。「静」咎めるように名前を呼んでやっと、静はベッドの傍までやって来た。
「脚を伸ばして横になるだけでも大分違うよ」
 慈雨が笑みを浮かべて布団をはぐれば、静の小鼻が震えた。
「おいで、静」
 その一言が決定打になったのだろうか。静ははぐられた布団の隙間へそろりと潜り、主人に背を向けて横になった。
「しずか」
 大きな背中はタオル地のバスローブに覆われている。慈雨は目の前にある背筋に触れ、バイクでしていたようにひたりと身体を押し付けた。
「おれを受け止めてくれてありがとう」
 先ほどの小鼻と同じ要領で静の背中がひくりと震えた。バスローブの下で尻尾が動く気配がして、慈雨はその仕種を愛おしく思った。
「主人の出来不出来はイヌに関係ないんだな。だっておまえは、こんなにも賢く、こんなにも逞しい……」
 とくんとくんと寄せては返す波のような心音が、慈雨の息に混じる。波打ち際のゆりかごの中、イヌの温もりに導かれ、主人はまどろんだ。


 気が付くと、ピンク色の照明は消え、窓からは朝日が差し込んでいた。
「しずか?」
 部屋を見渡し不在の彼に呼びかければ、静がガラス張りのバスルームから顔を覗かせた。白シャツにグレーのスラックスという出で立ちになった彼は、いつものように髪を撫でつけ臨戦態勢になっている。
「サイズが合うかどうか、分からないが……」
 いつの間にここを離れたのだろう。静はタグのついたTシャツやチノパンを取り出し慈雨の前に並べた。「買って来てくれたのか?」「貴方の着ていたものは朝になっても乾いていなかったから」イヌは物々しいナイフでタグを取りつつ、釈明するように言った。
「ありがとう、助かるよ」
 顎の下を擽れば、静は目を細めた。もっと心地良い場所はないかと両手で静の首や頭をまさぐる。イヌはたまらず頭を振り立て主人の手を払った。
「ごめんね。おまえを褒めてあげたかっただけなんだよ、許してね」
「別に嫌とは……、」
「誰だろうね、こんなお前をビーストだなんて呼び始めたのは。気配りのできる繊細な子なのに……」
 目を点にしている静が可笑しくて、慈雨は「あの噂は本当なの?」と彼に耳打ちした。「傷一つ負わずに、イヌ五匹とトレーナー二人を病院送りに、」
「正当防衛です」
 主人の話を遮ったイヌの眉は吊り上がっていた。「生意気だという理由でリンチされそうになったので、そうしたまでです」一気にまくし立てた静は明らかに恥じ入っていて、慈雨はそれ以上の詮索を止めた。五匹と二人は死んでいない。そのあたりの手加減もできる繊細な子なのだ。
「五匹がかりだなんて、ひどいやつらだな」
「……腹は空いていませんか?」
 シーツの上に並べられていくサンドイッチやおにぎりを眺め、慈雨ははたとした。衣服もある、朝食もある、けれど肝心のあれがない……。耳の先まで熱くしながら静の腕を引けば、彼は瞳を瞬かせた。
「どうかしましたか?」
 即座に尋ねるイヌの真摯さに参りながら、慈雨は太ももの間で両腕を捩らせた。
「パンツは……、」
 アイスブルーの瞳が見開かれる。それから遅れて「はっ?」と静にしては間の抜けた声が放たれた。
「だから、あの、パンツ……。昨日、雨で濡れてしまって、だから、履いていなくて」
 一拍の沈黙の後、静はすっくと立ち上がった。「静?」呆れられただろうかとベッドから腰を浮かせば、静は振り返りもせずに、「すぐに戻ります。部屋からは絶対に出ないように」と言い放ち部屋を出て行った。


 眠っている間に嵐が通り過ぎたのだろうか。慈雨は静の背を抱いてバイクに跨り、枝葉の散った道路を見渡した。
「このまま事務所へ向かいます。この状況ですから、中に入ることはできませんが……」
 静が別荘で訴えていた話には、正直なところ現実味を感じられなかった。北山組に敵意を抱いた何者かが襲撃を企て、その渦中に自分がいるなどと、とてもじゃないが信じられない。けれどその一方で募る違和感を無視することもできない。この目で確かめる以外に、違和感の正体を見極める方法はない。
 杞憂であればどんなにいいかと祈りながら静の腹に回した腕に力を込める。けれど無情にも、市街地に入り事務所に近づくにつれ、慈雨の抱えた違和感は膨らんでいった。
「……どうしたんだろう」
 静は慈雨の呟きを背中で受け止めた。
 繁華街からそう遠くない場所であるにも関わらず、事務所の周辺だけが水を打ったように静まり返っている。その静寂の中には数台のパトカーやスモークガラスの車が混じり、まるで置物のように静止していた。
 雑居ビルの非常階段を上がり事務所を一望できる場所まで出て、慈雨は息を飲んだ。望が「襲撃を受けた」と言っていた事務所には銃痕一つ付いておらず、加えて、特定の一派の出入りがあるようだった。
「清水の一派が出入りしているようですね」
 重体とされていた清水が車から出て事務所へ入った瞬間、慈雨は全身の力が抜けていくのを感じた。
 望がおれに嘘を吐いた?一体、何の目的があって……。
 問うた瞬間に答えは返って来た。慈雨をあの別荘に留めるために、望は嘘を吐いたのだ。清水と望は義兄弟の盃を交わしている。清水が慈雨をかどわかす計画を立て、望を加担させたとすれば、その狙いは――。
「じいちゃん」
 柵から身を乗り出せば背後から腕が伸びてきて、それ以上の接近を止められた。もどかしく宙を掻く慈雨の腕を、静の手が掴んだ。
「静、じいちゃんはどこに、」
「この事務所にいる可能性もあるが、今のところそれを確かめる術はない。ここを離れましょう。清水の一派はもちろん、仁楼会の連中も街をうろついていた」
「望に会わせて。望と話したい」
「清水の一派であるあの男は危険です。いま貴方に会わせるわけにはいかない」
 望はずっとおれの傍にいてくれたんだよ。慈雨はその言葉を飲み込み、静の腕を払った。
 極道の世界に身を置きながら、慈雨の安寧は絶対だった。雷が、望が、北山組の皆が、無力で無知で一人ぼっちの自分を、線引きしながらも守っていてくれたから――。
 今になって、あの安寧が多くの手によって支えられていたものだったのだと気付く。分かっていると高を括っていた。分かっていなかった。自分は、何一つ……。
「じいちゃんを探さなきゃ」
「ここを離れるのが先だ」
「静、だめ、じいちゃんを探さなきゃ、組が駄目になってしまう」
 老舗の組と言えど、シノギに恵まれた時代ばかりではなかった。泥水を啜りながら賭場一本で組の命を繋いだこともあったのだと、幼い頃に雷が聞かせてくれた。そんな状況にあっても雷が決して手放さなかったもの、それが、組員との絆だった。戦後の裏社会に産み落とされた雷は人の温もりというものを知らなかった。だからこそ、雷は北山組に「理想の家族の姿」を投影した。
 一粒の砂である自分が、欠片も極道を知らない自分が、「組が駄目になる」と口走ったことが可笑しくて、なのに慈雨はこの状況から退く自分を想像できなかった。
「信頼できる人間がいる。おれに着いて来て、静」
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