一途な獣は愛にこそ跪く

野中にんぎょ

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主人とイヌの契り

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 静が慈雨の護衛についたことを一番に喜んだのは、言わずもがな雷だった。
「そうか、それはよかった。近いうちに盃を交わして血の契を結ぶといい」
 物騒なことを言い始める祖父に眉を顰めつつ、慈雨は背後に控えている静を振り返った。昨日の愛らしさはどこへやら、本人はすまし顔でツンとしている。
「一時はどうなることかと肝が冷えましたが、気に入って頂けてよろしゅうございました!」
 丹精込めて育てたイヌが慈雨のお眼鏡に叶い、トレーナーは上機嫌で手を打ち鳴らした。
「慈雨様、差し出がましいようですが、この子を傍に置くことを決められたのでしたら、一刻も早く盃を交わし血の契を結ぶことをおすすめします。獣人と疑似的な番関係になることで、より深い恩恵を受けられるようになりますよ。静はオオカミの血を濃く引いています。オオカミの番は生涯ただ一匹。血の契りを結んだ静は慈雨様に並々ならぬ利をもたらすでしょう」
「アドバイスありがとう。考えておくよ」
 煮え切らない返事をし、慈雨は静を引き連れ屋敷を出た。
 静を護衛につけるのでさえ決心が必要だったのに、番になるなんて……。目的のあるかりそめの関係とはいえ、気が進まない。慈雨がつらつらと考え事をしているうちに、庭の池泉に浮いた中島から一匹のイヌが駆けて来た。その後方では望が煙草の火を消している。
「若!ご無沙汰してます!」
 人懐こい笑みを浮かべた白い毛並みのイヌは、慈雨の前に出るなり深く頭を下げた。慈雨はすぐに彼の正体に思い至り、「ああ、あの時の、お芝居上手のワンちゃんか」と軽口を返した。先日、慈雨たちの乗った車を襲撃した獣人・梢は、「勘弁してくださいよぉ」と泣きべそをかいた。
「望。この子はおまえのイヌだったの?」
「つい先日、オヤジが事務所に連れて来て、おれの舎弟にと」
 組長から面倒ごとを押し付けられるのは若頭の常。大きなシノギを掛け持っている上に若いイヌの手綱まで持たされ、望は疲れ切っているようだった。
「ということで、若、おれとも仲良くしてくださいねっ!静も今まで通りよろしく!」
 愛嬌たっぷりに尻尾を振り立てる梢。同じイヌでこうも違うか。慈雨は思わず静と梢を見比べた。
「おまえたち、悪いが席を外してくれ」
 望の言葉に静は黙って頷き、梢は「りょーかいっ!」とピースサインをかまして去って行く。呆気に取られた慈雨を見て、望は小さく噴き出した。
「あいつはあれで侮れません。静の口元に古傷があるでしょう。あれは梢がつけたものだとか」
「あの小型の洋犬のような子が?」
 ぎょっとすれば望は今度こそ声を立てて笑った。「あいつは純血のハスキー犬ですよ。身体は期待するほど太らなかったようですが、だからこそ身のこなしが上手くすばしっこい」望がこれほどに誰かを褒めるのは珍しく、今度は慈雨の面に笑みが浮かんだ。
「よほどご執心と見た」
「オヤジからの預かり物ですから。北山の名に恥じないイヌに育てるつもりです」
 庭園の隅にいる二匹を見やればもうすでに手合わせが始まっていた。慈雨はやれやれと肩を竦め、望に向き直った。「それで?おれに何か話があるんだろう?」
「仁楼会の桂喜重についてです。いま現在は相談役として会に籍を残しているだけで、本人は郊外の屋敷で隠居生活を送っているということでしたが……、」
 喜重の涼やかな顔つきを思い起こし、慈雨は視線で話の続きを促した。
「その屋敷に、今朝、銃弾が撃ち込まれたそうです。それも、桂が一人で書斎にいるタイミングで、その部屋に三発」
 慈雨はことの重大さに息を飲んだ。望は周囲に人気がないことを確認し、話を続けた。
「屋敷を出入りしているのは桂の女と元女房、幹部の一部だけらしく、仁楼会の内部はえらい騒ぎになっているそうで」
「内部分裂だとしても、あの大所帯では実行犯の特定は難しいだろう」
「その通りです。先代が戻って来たばかりのこの時期に内部分裂するわけにはいかないと、一部からは北山組の仕業だという声も上がっているらしく……」
 眉を吊り上げ「そんな!」と声を荒げた慈雨の眼前に、望の人差し指が立てられる。
「加えて、桂の女がヒットマンを目撃したらしく、実行犯はイヌの獣人だとふれ回っている」
 組織によって使役する獣人の種族は様々だが、ここ色子市に本部を構える組織でイヌの獣人を使役しているのは北山組のみ……。「じいちゃんは知ってるの?」「もちろん、お耳に入れてあります」二人は睨むように見つめ合い沈黙した。
「くしくも来月十日は桂慶市の命日です。何が起こるか、当時を知る者でさえ予想がつきません。身辺にはくれぐれもご注意を」
 二人は離れ、それぞれにお付きのイヌを呼びつけた。
「望さん見て!静におでこやられたぁ~!」
 一目散にやって来た梢が額に走った擦り傷を指しキャンキャン吠える。どこか勝ち誇った表情の静の額に、慈雨はデコピンをお見舞いした。
「こら、だめだろう。梢はおまえの仲間なのだから、思いやりをもって接しなさい」
 静の眉間に皺が寄り、顔つきがどんどんむくれていく。異議を唱えたはずの梢が「若ぁ、こいつバブちゃんだからさ、あんま言ったら臍曲げちゃいますって……」と慌て始めた。
「だめなことがあるか。ほら、静、ごめんなさいしないか」
 ぴしゃりと言いつければ、静の尻尾が力なく垂れた。
「梢は強いから、手加減できなかった。……悪かった」
 頭を下げ謝罪を絞り出す静。慈雨はすかさず静の頭を撫で、「いい子」と囁いたけれど、静はツンとそっぽを向いてしまった。
「それでは、おれたちはこれで」
「……えっ!待って!望さんっ、置いて行かないでっ!」
 さっさと車に乗り込んでしまった望に続き、梢も助手席へ乗り込む。梢が「望さん、望さん」としきりに望を呼んでいるのが、慈雨にはなんとも微笑ましい。
「その傷は梢につけられたものだと聞いたけど、本当?」
 静は頷き、「十八の夏、演習中にナイフで」と言葉を添えた。口端から斜めに伸びた傷は直線的で、幅は広くなったり狭くなったりしている。
「深い傷だったんだね」
 傷に触れようと伸ばした慈雨の手が止まる。静の瞳に感情が滲んでいくのがはっきりと見て取れた。
「梢と対峙していたのに、おれはよそ見をしていました」
 重い語気と底光りしている瞳。慈雨は気圧され、静を見つめることしかできなくなった。
「よそ見などしたことがなかったのに、その時だけ、おれは……」
 静は途端に言い淀み、唇を歪ませた。静の心中を量りかね、「そうか」と相槌を打てば、彼は難しい顔をして黙り込んでしまった。この傷は、静の心にまで届いているようだ。
「おまえの視線をそれほど引き付けたのだから、よほど綺麗なものだったのだろう」
 静の気持ちを推し量ったつもりでそう言えば、静はやけに凛として「はい」と返事をした。慈雨は返事が返って来たことにホッとして、いつもの調子を取り戻した。
「けれど、それほどの傷が残ったんだ、梢はよそ見をされて怒っていたんだろう。お前ももうどれほど美しいものが視界を掠めてもよそ見をしないように。今度はおれが怒る羽目になる」
 静は眩しそうに目を細め、淡く微笑んだ。唇から放たれたかすかな気配が空気に波紋を作る。その波紋は一滴の春水のように新たで、そして儚かった。
 おまえ、笑えるのか。
 口を衝いて出そうになった言葉を飲み込み、慈雨は静に見惚れた。このイヌは、美しすぎる。
「望さんはいつから慈雨様の護衛を?」
 静から初めて問いを向けられ、慈雨は慌てて笑みを繕った。
「おれがこの家に来てからだから、もう十五年になる。望はああ見えて四十半ばなんだよ。子どものお守など面倒だろうに、望は今もおれの世話を引き受けてくれてる」
 このイヌは、相槌を打たない代わりに耳をじっと澄ませ、声音の奥にある心情を読み取ろうとする。慈雨は居心地が悪くなりながらも話題を広げた。
「望と梢は盃を交わして血の契を結ぶのだとか。兄貴分のハレの儀式だから出席するようにと言われてるんだけど……、」
 慈雨はそばだつ三角の耳を凝視しながらおずおずと切り出した。
「おれとおまえにも必要だろうか。じいちゃんの言う、盃だか、血の契りだかは……」
 盃を交わし血の契を結べば、疑似的にではあるが番関係になってしまう。イヌならまだしも、オオカミの血を引く彼は本当の番を見つけられなくなってしまうかもしれない。そんな不安を抱き恐る恐る静の表情を確かめれば、彼は背筋を正したまま慈雨を見つめ返した。
「そんなものがなくても、おれは貴方との約束を守れます」
 静の瞳は燃えていた。垣間見えた犬歯が彼の闘志そのもののようにぎらりと光る。その光は一太刀のように慈雨の杞憂を裂いて行った。
「……ふっ、」
 クツクツ笑い始めた慈雨に静は目を丸くした。「そうだよな」仕切り直すように静の瞳を見つめ返せば、静は耳を震わせた。
「おれたちに必要なものは、おれたちが決めればいい」
 イヌは主人の言葉に深く頷いた。それは従順というよりも、確信を深めているかのような仕種だった。
 桂との会食に同席してからというもの、心に靄が立ち込めたようになっていたけれど、言葉にすれば心が晴れた。
 静と出会ってから、それまで隠されていたものが慈雨の目の前にちらつくようになった。極道の血筋の先に立つ「北山慈雨」が迫って来る、壇上の幕が上がる。……おれはどこへ行く?どこへ行ける?
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