一途な獣は愛にこそ跪く

野中にんぎょ

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美しい獣

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 その美しい獣には、漆黒の耳と尻尾がついていた。
「……大人しい子」
 北山慈雨きたやまじうは自身の足元に跪いているイヌの獣人を見下ろし、呟いた。
「ビーストなどと呼ばれていたのは、ずいぶん昔のことですから」
 背後に控えたのぞみが尻込みしている慈雨の背中を押そうとする。その一言の不穏さは、獣人の瞳の無垢さと相反していた。
 そのイヌは祖父が言っていた通り、美しかった。
 撫でつけた黒髪には艶が乗り、そこからほどけたひと房が額にかかっている。太い眉に凛々しい眦、鷲の嘴のような鼻梁……。そして、美しい彼の獣性を証明するかのように、左の口端から顎まで一直線に傷が伸びている。
 イヌにひたと見つめられ、慈雨は身じろぎした。漆黒の瞳孔がカッキリと浮いたアイスブルーの桃花眼は、見つめているというより狙いを定めているようで落ち着かない。
「種はウルフライクのイヌ、名はしずかと申します」
 名は体を表すというのは本当らしい。紹介に与っても、静は口を噤んだままだった。慈雨は静から視線を逸らし、望を振り返った。
「どうしても獣人の護衛が必要なの?」
「オヤジ直々の要望ですので……」
 覆ることは、ないかと。
 そう続くのであろう言葉を遮るように、静の後方に佇んでいたトレーナーが立ち上がった。
「ウルフライクの闘犬でこの子に勝る個体はいません。なんと言っても七割はオオカミの血。忠誠を誓わせれば生涯主人を守り抜いてくれるでしょう。……もちろん、幼獣の時分から躾を行っています。少々やんちゃだという噂もお耳に入っているかと思いますが、それは遠い過去のこと。成犬になった今は、ほうら、大人しいものです。静こそ慈雨様の護衛に相応しいイヌです」
 丁寧に言い含められても、トレーナーの指が「三本」になっていることに気付いてしまい、慈雨は緊張を解くことができなかった。……あの噂は本当なのだろうか。
 ここ北山組では、ヒトと獣のハイブリッドである獣人を人工的に交配し育成している。表向きには獣種はイヌのみとしてあるが、実際はオオカミの血を混ぜ込んでいるので、人工交配を禁止されている原種に近い個体が多い。……だとしても。七割がオオカミの血などと、そんな話は聞いたことがない。
「言葉はしゃべれる?」
「もちろんです。英語、中国語、スペイン語、日本語の四カ国語を仕込んでいます」
 一尋ねれば十返ってきてしまい、慈雨は笑った。空気が和らぎ、トレーナーも望も相好を崩したが、慈雨はその空気を一刀両断した。
「でも、おれには必要ない。ヒトの護衛で十分だよ」
 トレーナーは眉をくにゃくにゃさせ、「慈雨様、しかし……」と歯切れ悪く黙り込んだ。
「ここまでしてもらって、ごめんなさい。でもおれはやっぱり、護衛はヒトがいい。……この子にも悪いことをしてしまった。良い主人に巡り合えるよう、手を尽くしてあげて」
 一人と一匹の頭上に桜が舞う。今日は通っていた高校の卒業式で、学ラン姿の慈雨の胸元には赤のリボンがはためいていた。
 あちこち跳ねた琥珀色のくせ毛に、黒目の大きな一重の目元、指先でそっと摘まんだような忘れ鼻、薄紅色の唇。パーツの一つ一つが小さいからか、切れ長の瞳の印象が強く、「睨まれている気がする」と気味悪がられることも少なくない。トラブルや誤解を避けるために、慈雨はいつも口角を上げている。
 手入れの行き届いた日本庭園、池泉に面した桜の木の下。砂利に膝をついていた静がやおら立ち上がる。そのさまは、無数の点が地表から垂直に浮き上がっているような、無駄のない所作だった。
「静、なおれ!」
 指示もないのに動いたためだろう、トレーナーが声を張り上げたが、静はとうとう動作を改めようとしなかった。
「おれは貴方を傷つけたりしない」
 口端から伸びている傷のために表情は引き攣っているが、言葉ははっきりしていた。慈雨は静に歩み寄った。
 ナイフ一本で石膏から切り出したかのような力強い美貌。これほど美しい獣がいるのだな。慈雨は笑みを深め、けれどイヌに触れようとはしなかった。
「おまえは賢そうだ。体躯も申し分ない。おれには過ぎたイヌだよ。次に会う人間は一目でおまえを気に入ってしまうだろう」
 静は慈雨の言葉に最後まで耳を傾け、眼差しを伏せた。慈雨はそれを別れの合図と取って踵を返した。「どうかこの子を叱らないであげて」すれ違いざまにトレーナーへ声をかければ、彼は深々と頭を下げた。
「よかったので?」
 屋敷に戻るなり、望は慈雨の背中へ投げかけた。
「なんだ望、おまえにしては珍しく食い下がるね」
「僭越ながら……。じきに仁楼会じんろうかいかつらも出所します。元会長が戻ったとなれば、仁楼会の士気も上がりましょう。北山組への報復を思い立ってもおかしくない。用心するに越したことはないと思いますが……」
「報復?もう十何年も前のことを?」
 振り返った慈雨に、望は鋭い眼光を向けた。切れ上がった目尻の一重にクルーカット、加えて薄眉の望がそうすると凄みがあり、彼と長い付き合いの慈雨でもヒヤリとする。「オヤジ」のたった一人の孫である慈雨は、時折こうやって周囲の大人を引っ搔き回してしまう。
 オヤジこと北山雷きたやまらいは、ここ色子市で戦後からシノギを行って来た老舗の極道「北山組」の組長だ。組長直々の頼みとあらば、普段慈雨の身辺警護をしている望もそちらの味方になってしまうらしい。
「十何年も前のこととおっしゃいますが、今の仁楼会は桂がまとめていた頃とは違います。クスリに手を出していることはもちろん、そのやり口がきな臭い。まるでルールがないんです、ヤツらには」
 いつも冷静沈着な望が声を荒げるものだから、慈雨もつられて神妙な面持ちになった。
「……お父さまとお母さまのことをお考えで?」
 思わぬ問いに、慈雨は「いいや」とすぐさま否定した。周囲の安寧を守るための所作は、この十五年で十分すぎるほど身に付いた。
 仁楼会の元会長・桂喜重かつらきじゅうの実子である桂慶市かつらけいいちの死で幕を上げた十五年前の春。三歳の慈雨は両親と共に車で臨海公園へ向かっていた。つづら折りになった山道を抜けたところで対向車線から飛び出して来たトラックに接触、三人が乗っていた軽乗用車はガードレールを突き破り崖の下へ転落した。
両親は即死。後部座席に座っていた慈雨だけが奇跡的に死を免れ、血濡れた窓から何者かを目撃した。
 崖を降り、ぎらついた瞳で車内を覗き込んだそいつの頭部には、鳶色の耳が二つ付いていた。犯人は、獣人だった。
 慈雨はそれから、獣人との接触を極力避けてきた。雷も必要以上に慈雨に獣人を近づけるようなことはしなかった。だのに、今になって――。
「あの子は賢そうだったけど、おれはイヌを飼ったことがないから。……おれはこれで失礼するよ」
 階段の踊り場、景色を切り取った丸窓に桜の花びらが吹きつける。舞っては窓に吸いついているそのさまが、あの時の車窓に似ていた。
「あの子、まだあんなところに……」
 舞い散る花びらの向こう、桜の木の下には、静が立っていた。
 慈雨の視線に気付いているかのように、静はこちらを向いていた。離れて見てみれば、聳えるような体躯はやはり獣人のそれで、慈雨には静の手綱を握っている自分が想像できなかった。
「ここはおまえの来ていいような場所ではないよ。早くお帰り」
 窓の向こうへ囁き、慈雨はその場を去った。よく晴れた葉桜の頃、春の嵐の渦中に、慈雨と彼とが飲み込まれようとしていた。
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