13 / 17
花盗人は誰(上)
しおりを挟む
港で花火大会が催される日は、街中が浮き立っている。
祭囃子がどこからともなく聴こえて、茜は下駄をコロンと鳴らし、後ろを振り返った。
「ん? 腰、痛い? 慣れてないと、着物ってちょっと窮屈だから」
青波の描かれた浴衣を着たマサさんが茜を気遣う。茜は首を振り、袖を広げた。
「なんだか背筋が伸びます。身も心も引き締まるって感じです」
茜色の雪花絞りの浴衣に、細かい模様が編み込まれた藍色の角帯。大人びた取り合わせに、沈んでいた心も浮き上がる。
「茜。これ、忘れてた」
遅れて駐車場に現れた雪乃は、毬の根付を茜の帯に挿し入れた。
「おっ。ユキ、髪、セットし直した? いいじゃん、掻き上げ前髪~」
白地に黒の変則的な格子模様、深緑の半襟と角帯。和装さえ着こなしてしまう雪乃に、思わず見惚れてしまう。「それは、どうも」雪乃はマサさんの戯れをいなしつつ、スマートフォンを取り出した。
「CLOSETに上げるでしょ? 何枚か撮って送るよ」
「じゃあ、雪乃はおれが撮る!」
互いを撮影し始めた二人を、マサさんは微笑ましそうに見守った。
「雪乃が撮ったやつ、スタイル良く見えるんだけど!」
「そう? 実際と変わんないんじゃない? 忘れないうちに上げとこ」
「雪乃ってマメだな。雪乃の更新を楽しみに待ってる人がいるもんな」
茜は感心し、自身も浴衣のコーディネートを更新した。画面の中の自分は、いつもより大人びて見えた。
小林には、どんな浴衣が似合うかな。雪乃の浴衣姿を見て、そんなことを考えてしまって、茜は俯いた。そんな茜の背中を、雪乃がトンと叩いた。
「そのバングル、いいね」
浴衣に合わせて変えた茜色のネイルと鈍色のバングルは、ふしぎなほど互いを引き立て合っていた。茜はバングルに触れながらはにかんだ。
「着物の時はアクセってやめた方がいいよな」
「いや。いいんじゃないの。だって、似合ってるし」
あの塾の周辺にはなかった、ネイルも金髪もピアスホールも受け入れてくれる空気が、ここにはある。胸いっぱいに息を吸い、雪乃に「ありがと」と返す。この場所は、一人になった茜にとって、どんな場所より心地良かった。
「おれ、雪乃とマサさんに感化されちゃったよな。今までは、自分をどう見せるかって考えながらアイテムを選んでた。でも最近は、自分の心に寄り添ってくれるものを見つけられるようになった気がする」
「おれだって、困ってる誰かを一緒になって助けてくれる友だちなんて、いなかったから。来てくれて、嬉しかった。かき氷器でケガすんじゃないかって、何度も心配になったけど」
雪乃らしい照れ隠しに、声を立てて笑う。
小林、今頃どうしてるかな。花火が上がれば、気付くだろうか。窓から港を眺めたりするだろうか。少しは、おれのことを思い出してくれるだろうか。
あれから、新からの連絡はない。こちらからも連絡していない。
このまま連絡しなかったら、自然消滅しちゃうのかな。そういう不安が時折過る。
けれど、今は我慢。同じ我慢でも、夏休みのはじめにしていたそれとは違う。行動の軸が、自分から相手に移る。今は、いつまででも変わらない気持ちで、新を待っていようと思える。
「すごい渋滞。ユキ、広尾君連れてここで下りな。車置いたらおれも合流するから、先に行ってて」
「分かりました。運転、気を付けて。車置けたら連絡ください」
雪乃はマサさんの提案に頷き、茜を連れて車を出た。雪乃の隣に並び、茜は「よかったの?」と尋ねた。
「うん。あの人、言い出したら聞かないから」
ふわりと笑った雪乃は、かっこよかった。スマートフォンの画面を越えて彼に会いに来てしまう人の気持ちが、欠片だけ理解できた。
「なんか食べる? マサさんを助けに来てくれた時のお礼させてよ」
「ええっ、いいよ。おれ、バイト代ももらったし」
「それはマサさんからのお礼でしょ。これは、おれからのお礼。ほら、何にする?」
とん、と肩を肩で小突かれ、茜は立ち並ぶ屋台を見渡した。
「おれ、甘いの苦手なんだけど、ひとつだけ好きなのがあんの」
「へえ。なに?」
指差すと、雪乃は「ああ、あれね」と示し合わせるように茜に笑いかけた。
「分かった。買ってくる。ちょっと待ってて」
人波に紛れていく雪乃の背中を見つめ、バングルに触れる。雪乃と新は、違っている。知れば知るほど、違っている。
「ほら。イチゴ飴」
「ありがと。これ、好きなんだ」
イチゴ飴を受け取ると、手と手が触れた。ぴりっ、と小さな電流が走った気がして、動揺を誤魔化すようにイチゴ飴を口元に持っていくと、雪乃が「ちょっと待って」と言ってスマートフォンを翳した。
「え? 撮るの?」
「うん。夏っぽいかなって」
「CLOSETに上げるの?」
「なわけないでしょ。インスタだよ。……インフルエンサーごっこしよ。安心して、顔入らないようにするから」
半ばインフルエンサーの彼がそんなことを言うものだから、茜は笑いながらイチゴ飴を差し出した。
「そのまま、茜が持ってて」
カシャ、とシャッター音が鳴る。硬直すると、雪乃は笑って「なんか、茜のこといじめてるみたいだな」と言った。
「どんなの撮れた?」
画面を覗き込むと、茜の手元とイチゴ飴がすでにインスタグラムへアップされていた。
「やばっ。おれ、ネイルしてるから、匂わせみたいになっちゃうかも、誤解されちゃうかも」
「匂わせしてるって思うようなヤツはCLOSETも見てるはずだから大丈夫。ほら、ぐずぐずになっちゃう前に、どーぞ」
久しぶりに食べるイチゴ飴は、カリカリで、甘酸っぱくて、頬がきゅんとなった。
いつか、小林とも来れるといいな。諦めに似た気持ちが湧き上がる
おれ、いつまで小林の彼氏でいられるのかな。
新は、環境さえ整えば、どんどん先へ行ってしまうだろう。こんなに違っている二人が出会えたのは運命の悪戯で、その先で道が分かれていくのは当然のこと。だから、いま、会いたい。……そんな我儘を押し込め、茜は夜空を見上げた。今は、小林のやりたいようにやらせてあげたい。
「あ、でかいのきそう」
子どもみたいに笑った雪乃の視線の先で、花火が弾けた。どぉん。「腹、びりびりする」雪乃は屈託なく笑った。
そのうちに人が前へと詰めかけ、背中に誰かがぶつかった。雪乃は、よろけた茜を受け止めるようにして支えた。
「大丈夫? もっとこっちに寄る?」
「ううん。大丈夫。ごめん、おれがチビだから」
「大丈夫じゃないでしょ。それに、茜はチビじゃない」
「男で百六十三センチは、チビでしょ」
「その言い方、好きじゃない。茜はチビじゃないよ。度量がでっかいじゃん。タッパよりだいじなことだよ」
ドンッ。花火が打ち上がった瞬間に心臓が重く脈打って、茜は花火に照らされた雪乃を見つめた。ギュッと肩を掴まれ、引き付けられる。雪乃の胸元に手をついた瞬間、脳裏に新が過った。
――あかね。
混ぜるように髪を梳く、骨ばった長い指。焦色の瞳は潤んで、その中に閉じ込められると、彼の愛の海を漂っているような気分になる。おれも、新が好き。そんな気持ちが、指先まで沁み渡っていく。
「ゆ、きの。近い……」
手のひらから、知らない心音が伝わってくる。目の前にいるのは雪乃なのに、心の中の新が膨れ上がって……。後退りする茜の身体を、雪乃は腰に手を回して引き付けた。
「近づいてんだから、近いのは当たり前だよ」
囁かれ、茜は震えた。雪乃の心臓は冷静に鼓動を刻んでいる。新の心臓は、あんなにも温かく、血を巡らせて、この胸と同じ鼓動を刻んでいたのに。
あらた。
急に、身も世もなく寂しくなって、雪乃を見つめる。あらたじゃない。翡翠のような瞳に、新の気配はなくて、目頭が熱くなっていく。あらたじゃなきゃ、いやだ。
「茜」
呼ばれ、茜はぶるりと首を振った。「茜」再び呼ばれ、どうして、と、雪乃の心に問いたくて、雪乃の瞳を覗き込む。……光が一粒、流れ星のように、強く輝いた。
「……あかねっ!」
その声は、喧騒と花火の打ち上がる音に混じって、周囲の誰の耳にも届いていない。
けれど茜は振り返った。雪乃の瞳の中に、新の姿を、ほんの刹那、見つけたからだ。
「あ……あらた! あらたっ!」
人波を掻き分ける新の姿を歪んだ視界の中に見つけて、茜は全身で叫んだ。
「あらたぁ!」
声を枯らして叫ぶと、人波がほぐれた。新は列を分断するように前に出て、茜の背に回った雪乃の腕を掴み上げた。新の額からは、汗が幾筋も伝っていた。
柔らかな色合いの、強い眼差し。線のしっかりとした、きれいな耳。感情が一番先に現れる眉。太くよく通る声で言葉を紡ぐ唇。……ほんとうの、あらただ。
新に掻き抱かれ、その胸に縋りつく。
「おれの茜だ」
新は息を切らして、けれど重く、はっきりと、雪乃に言った。
「分かったら、もう二度と触れるな」
新は茜を自身の腕の中に隠し、雪乃から引き離した。雪乃を振り返ろうとすれば、新は茜を抱き上げ、まるで盗人のように走り始めた。
「ゆ、」
連れ去られている最中、茜は微笑んでいる雪乃を見た。
そうか、あんなにも雪乃の鼓動が穏やかだったのは――。茜は雪乃の名を紡ごうとする唇を結び、雪乃に向けて小さく手を振った。
「あらた」
新は返事をしなかった。彼はただ一心に走り、茜を雪乃から遠ざけようとしていた。
茜は新を呼ぶのを止め、花火を見上げた。カラン、と、茜の右足から下駄が落ちても、新は決して、立ち止まろうとしなかった。
祭囃子がどこからともなく聴こえて、茜は下駄をコロンと鳴らし、後ろを振り返った。
「ん? 腰、痛い? 慣れてないと、着物ってちょっと窮屈だから」
青波の描かれた浴衣を着たマサさんが茜を気遣う。茜は首を振り、袖を広げた。
「なんだか背筋が伸びます。身も心も引き締まるって感じです」
茜色の雪花絞りの浴衣に、細かい模様が編み込まれた藍色の角帯。大人びた取り合わせに、沈んでいた心も浮き上がる。
「茜。これ、忘れてた」
遅れて駐車場に現れた雪乃は、毬の根付を茜の帯に挿し入れた。
「おっ。ユキ、髪、セットし直した? いいじゃん、掻き上げ前髪~」
白地に黒の変則的な格子模様、深緑の半襟と角帯。和装さえ着こなしてしまう雪乃に、思わず見惚れてしまう。「それは、どうも」雪乃はマサさんの戯れをいなしつつ、スマートフォンを取り出した。
「CLOSETに上げるでしょ? 何枚か撮って送るよ」
「じゃあ、雪乃はおれが撮る!」
互いを撮影し始めた二人を、マサさんは微笑ましそうに見守った。
「雪乃が撮ったやつ、スタイル良く見えるんだけど!」
「そう? 実際と変わんないんじゃない? 忘れないうちに上げとこ」
「雪乃ってマメだな。雪乃の更新を楽しみに待ってる人がいるもんな」
茜は感心し、自身も浴衣のコーディネートを更新した。画面の中の自分は、いつもより大人びて見えた。
小林には、どんな浴衣が似合うかな。雪乃の浴衣姿を見て、そんなことを考えてしまって、茜は俯いた。そんな茜の背中を、雪乃がトンと叩いた。
「そのバングル、いいね」
浴衣に合わせて変えた茜色のネイルと鈍色のバングルは、ふしぎなほど互いを引き立て合っていた。茜はバングルに触れながらはにかんだ。
「着物の時はアクセってやめた方がいいよな」
「いや。いいんじゃないの。だって、似合ってるし」
あの塾の周辺にはなかった、ネイルも金髪もピアスホールも受け入れてくれる空気が、ここにはある。胸いっぱいに息を吸い、雪乃に「ありがと」と返す。この場所は、一人になった茜にとって、どんな場所より心地良かった。
「おれ、雪乃とマサさんに感化されちゃったよな。今までは、自分をどう見せるかって考えながらアイテムを選んでた。でも最近は、自分の心に寄り添ってくれるものを見つけられるようになった気がする」
「おれだって、困ってる誰かを一緒になって助けてくれる友だちなんて、いなかったから。来てくれて、嬉しかった。かき氷器でケガすんじゃないかって、何度も心配になったけど」
雪乃らしい照れ隠しに、声を立てて笑う。
小林、今頃どうしてるかな。花火が上がれば、気付くだろうか。窓から港を眺めたりするだろうか。少しは、おれのことを思い出してくれるだろうか。
あれから、新からの連絡はない。こちらからも連絡していない。
このまま連絡しなかったら、自然消滅しちゃうのかな。そういう不安が時折過る。
けれど、今は我慢。同じ我慢でも、夏休みのはじめにしていたそれとは違う。行動の軸が、自分から相手に移る。今は、いつまででも変わらない気持ちで、新を待っていようと思える。
「すごい渋滞。ユキ、広尾君連れてここで下りな。車置いたらおれも合流するから、先に行ってて」
「分かりました。運転、気を付けて。車置けたら連絡ください」
雪乃はマサさんの提案に頷き、茜を連れて車を出た。雪乃の隣に並び、茜は「よかったの?」と尋ねた。
「うん。あの人、言い出したら聞かないから」
ふわりと笑った雪乃は、かっこよかった。スマートフォンの画面を越えて彼に会いに来てしまう人の気持ちが、欠片だけ理解できた。
「なんか食べる? マサさんを助けに来てくれた時のお礼させてよ」
「ええっ、いいよ。おれ、バイト代ももらったし」
「それはマサさんからのお礼でしょ。これは、おれからのお礼。ほら、何にする?」
とん、と肩を肩で小突かれ、茜は立ち並ぶ屋台を見渡した。
「おれ、甘いの苦手なんだけど、ひとつだけ好きなのがあんの」
「へえ。なに?」
指差すと、雪乃は「ああ、あれね」と示し合わせるように茜に笑いかけた。
「分かった。買ってくる。ちょっと待ってて」
人波に紛れていく雪乃の背中を見つめ、バングルに触れる。雪乃と新は、違っている。知れば知るほど、違っている。
「ほら。イチゴ飴」
「ありがと。これ、好きなんだ」
イチゴ飴を受け取ると、手と手が触れた。ぴりっ、と小さな電流が走った気がして、動揺を誤魔化すようにイチゴ飴を口元に持っていくと、雪乃が「ちょっと待って」と言ってスマートフォンを翳した。
「え? 撮るの?」
「うん。夏っぽいかなって」
「CLOSETに上げるの?」
「なわけないでしょ。インスタだよ。……インフルエンサーごっこしよ。安心して、顔入らないようにするから」
半ばインフルエンサーの彼がそんなことを言うものだから、茜は笑いながらイチゴ飴を差し出した。
「そのまま、茜が持ってて」
カシャ、とシャッター音が鳴る。硬直すると、雪乃は笑って「なんか、茜のこといじめてるみたいだな」と言った。
「どんなの撮れた?」
画面を覗き込むと、茜の手元とイチゴ飴がすでにインスタグラムへアップされていた。
「やばっ。おれ、ネイルしてるから、匂わせみたいになっちゃうかも、誤解されちゃうかも」
「匂わせしてるって思うようなヤツはCLOSETも見てるはずだから大丈夫。ほら、ぐずぐずになっちゃう前に、どーぞ」
久しぶりに食べるイチゴ飴は、カリカリで、甘酸っぱくて、頬がきゅんとなった。
いつか、小林とも来れるといいな。諦めに似た気持ちが湧き上がる
おれ、いつまで小林の彼氏でいられるのかな。
新は、環境さえ整えば、どんどん先へ行ってしまうだろう。こんなに違っている二人が出会えたのは運命の悪戯で、その先で道が分かれていくのは当然のこと。だから、いま、会いたい。……そんな我儘を押し込め、茜は夜空を見上げた。今は、小林のやりたいようにやらせてあげたい。
「あ、でかいのきそう」
子どもみたいに笑った雪乃の視線の先で、花火が弾けた。どぉん。「腹、びりびりする」雪乃は屈託なく笑った。
そのうちに人が前へと詰めかけ、背中に誰かがぶつかった。雪乃は、よろけた茜を受け止めるようにして支えた。
「大丈夫? もっとこっちに寄る?」
「ううん。大丈夫。ごめん、おれがチビだから」
「大丈夫じゃないでしょ。それに、茜はチビじゃない」
「男で百六十三センチは、チビでしょ」
「その言い方、好きじゃない。茜はチビじゃないよ。度量がでっかいじゃん。タッパよりだいじなことだよ」
ドンッ。花火が打ち上がった瞬間に心臓が重く脈打って、茜は花火に照らされた雪乃を見つめた。ギュッと肩を掴まれ、引き付けられる。雪乃の胸元に手をついた瞬間、脳裏に新が過った。
――あかね。
混ぜるように髪を梳く、骨ばった長い指。焦色の瞳は潤んで、その中に閉じ込められると、彼の愛の海を漂っているような気分になる。おれも、新が好き。そんな気持ちが、指先まで沁み渡っていく。
「ゆ、きの。近い……」
手のひらから、知らない心音が伝わってくる。目の前にいるのは雪乃なのに、心の中の新が膨れ上がって……。後退りする茜の身体を、雪乃は腰に手を回して引き付けた。
「近づいてんだから、近いのは当たり前だよ」
囁かれ、茜は震えた。雪乃の心臓は冷静に鼓動を刻んでいる。新の心臓は、あんなにも温かく、血を巡らせて、この胸と同じ鼓動を刻んでいたのに。
あらた。
急に、身も世もなく寂しくなって、雪乃を見つめる。あらたじゃない。翡翠のような瞳に、新の気配はなくて、目頭が熱くなっていく。あらたじゃなきゃ、いやだ。
「茜」
呼ばれ、茜はぶるりと首を振った。「茜」再び呼ばれ、どうして、と、雪乃の心に問いたくて、雪乃の瞳を覗き込む。……光が一粒、流れ星のように、強く輝いた。
「……あかねっ!」
その声は、喧騒と花火の打ち上がる音に混じって、周囲の誰の耳にも届いていない。
けれど茜は振り返った。雪乃の瞳の中に、新の姿を、ほんの刹那、見つけたからだ。
「あ……あらた! あらたっ!」
人波を掻き分ける新の姿を歪んだ視界の中に見つけて、茜は全身で叫んだ。
「あらたぁ!」
声を枯らして叫ぶと、人波がほぐれた。新は列を分断するように前に出て、茜の背に回った雪乃の腕を掴み上げた。新の額からは、汗が幾筋も伝っていた。
柔らかな色合いの、強い眼差し。線のしっかりとした、きれいな耳。感情が一番先に現れる眉。太くよく通る声で言葉を紡ぐ唇。……ほんとうの、あらただ。
新に掻き抱かれ、その胸に縋りつく。
「おれの茜だ」
新は息を切らして、けれど重く、はっきりと、雪乃に言った。
「分かったら、もう二度と触れるな」
新は茜を自身の腕の中に隠し、雪乃から引き離した。雪乃を振り返ろうとすれば、新は茜を抱き上げ、まるで盗人のように走り始めた。
「ゆ、」
連れ去られている最中、茜は微笑んでいる雪乃を見た。
そうか、あんなにも雪乃の鼓動が穏やかだったのは――。茜は雪乃の名を紡ごうとする唇を結び、雪乃に向けて小さく手を振った。
「あらた」
新は返事をしなかった。彼はただ一心に走り、茜を雪乃から遠ざけようとしていた。
茜は新を呼ぶのを止め、花火を見上げた。カラン、と、茜の右足から下駄が落ちても、新は決して、立ち止まろうとしなかった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
好きなあいつの嫉妬がすごい
カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。
ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。
教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。
「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」
ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
宰相閣下の絢爛たる日常
猫宮乾
BL
クロックストーン王国の若き宰相フェルは、眉目秀麗で卓越した頭脳を持っている――と評判だったが、それは全て努力の結果だった! 完璧主義である僕は、魔術の腕も超一流。ということでそれなりに平穏だったはずが、王道勇者が召喚されたことで、大変な事態に……というファンタジーで、宰相総受け方向です。
嫌われ者の長男
りんか
BL
学校ではいじめられ、家でも誰からも愛してもらえない少年 岬。彼の家族は弟達だけ母親は幼い時に他界。一つずつ離れた五人の弟がいる。だけど弟達は岬には無関心で岬もそれはわかってるけど弟達の役に立つために頑張ってるそんな時とある事件が起きて.....
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる