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心配性のあなたと、バッティング
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この生活の足しになるような額を稼げれば、水野先輩の役に立てるんじゃないだろうか。純は働くことを思い立ち、リビングで求人雑誌を捲っていた。
「純。悪いことは言わないから、一年の前期はバイトするのやめときな」
「でも、先輩だって、こっちに来てすぐにバイト始めたって……」
「おれはいいの。高校生の頃も新聞配達してたから」
そんなの、理由になるのだろうか。困惑する純を、晴臣は穏やかに諭した。
「とにかく、新生活に慣れるのが先だろ。前期終わってバイト探すとしても、おれに相談して。深夜までやってる飲食店のバイトとかは、絶対にやめた方がいい」
「でも、先輩は、焼き鳥屋でバイトしてる……」
「おれはいいの。でも純はだめ。変なバイト始めたら、親御さんが心配するだろ。純、今度こそ学生寮に入れられるぞ」
純はむくれ、目星をつけていた求人を睨んだ。一歳しか変わらないのに、どうしてこんなに子ども扱いされちゃうんだろう。
「つか、純、顔色悪くない? 体調大丈夫?」
「悪くないですっ。いたって健康ですっ」
純は求人雑誌をぴしゃんと閉じて立ち上がった。……けれど、言われてみれば、背中がゾクゾクするような……。
「ちょい待って、なんか目がうるうるしてる。座って熱測ろ」
脇に挟んだ体温計が三十八度を知らせる。よろ、と傾いた純の身体を支え、晴臣は「身体すごい熱いよ? なんでこんなんなるまで気付かないんだよ」と顔を顰めた。
「エアコンと加湿器あるから、おれの部屋おいで。ポカリとか買ってくるから、寝て待ってて。欲しいものあったらライン入れて、ヤバくなったら電話して、ピンポン押されても出るなよ、分かった?」
言い含められながら晴臣のベッドに寝かされ、純はオーバーヒートした。せんぱいのへや、せんぱいのべっど、せんぱいのにおい、せんぱいの……! けれどそのうちにゾクゾクがドクドクに変わり、純はそれどころではなくなった。身体が熱い、頭が痛い、息がゼエゼエする……!
「純、大丈夫だったか?」
晴臣が部屋に戻って来ると、純はホッとして、「せんぱい」と、彼を呼んだ。晴臣が、まんまるのレジ袋を提げているのを見ると、涙が出そうになった。
「病院に連れて行ってやりたいけど、おれ、これからバイトで……」
「だいじょうぶ、です」
布団に毛布を乗っけられ、額に冷感シートを貼られ、スポーツ飲料を飲まされ、ゼリーはどうだ粥はどうだと勧められ、純は晴臣を宥めたくて笑って見せた。
「ごめん。できるだけ早く帰るから。明日の朝、熱が下がってなかったら病院に行こう。心配すんな、すぐによくなるから……」
気が付くと、心細そうなのは晴臣の方になっていて。純は布団から手を出して晴臣の腕に触れた。
「ほんとうに、だいじょうぶ。だから、そんなに心配しないでください」
晴臣は不安そうに視線を伏せてから、「なんかあったら連絡して」と言って、純を振り返りながら部屋を出た。
純は部屋を見渡し、瞼を下ろした。ここには、かつて二人を結び付けていた「小説」が、一冊もない。
晴臣が二人暮らしを持ち掛けてくれた理由が、今になっても分からない。どうしてこんなおれと? もしかして、出て行ったのは「友だち」でなく「恋人」で、寂しさを紛らわすためなら誰でもよかった?
瞼の裏に、ガイダンスの日に見た女性がちらつく。彼の腕に触れていた華奢な手、彼に向けた親しげな眼差し、周囲の目を引くような距離感。もしかして、先輩、あの人と……。
純は深みにはまっていく思考を止めたくて布団を被った。疲れからの熱だったのか、睡魔はすぐにやって来た。
――森見君、それ……。
小さな田舎には大きなダムがあって、お盆になるとそこで花火大会が催される。雪花絞りの藍色の浴衣を着た純は、晴臣の前で縮こまった。
――ばあちゃんが和服縫う仕事してて、花火大会に行くんだって言ったら、はりきっちゃって……。ちんちくりんのおれが着たって、悪目立ちするだけなのに……。
――え? ぜんぜんそんなこと、
晴臣は、その先の言葉を隠すように口元を覆い、「こっち来て」と、純を人混みから連れ出した。刺すようだった周囲の視線が、晴臣に手を取られた瞬間に、ふっと和らいだ。
――もしかして、森見君ちって、あのでっかい呉服店?
純は曖昧に頷いた。正しくは、呉服店は祖父が祖母のために興したもので、森見家の本業は酒造業。純はこの田舎では「お坊ちゃん」の部類にいる。
――二人とも揃ったか。先生がかき氷くらいはおごってやるぞ。
気まぐれな顧問が「卒業制作は何がいいだろう? そうだ、花火大会に足を運んで一句詠もう!」なんて言い出して、文芸部の二人は賑わうダムに集められた。
純はおろしたての下駄に痛みを感じていたことも忘れ、Tシャツにジーンズ姿の晴臣を盗み見た。受験勉強が本格化している彼と会うのは、二か月ぶりのことだった。
――水野はイチゴ、森見はハワイアンブルーだよな?
自身もしっかりと宇治金時のかき氷を持ち、顧問はそれぞれにかき氷を渡した。階段に腰掛け氷の粒を含む。口の中も、頬も、胸も、熱かった。
――森見君、見て。
肩をつつかれ隣を見やると、晴臣が舌を出した。瞳を瞬かせると、「ひた、あかくない?」と舌足らずな声。確かに、晴臣の舌には人工的な赤みが差していた。
純は迷って、けれど晴臣の戯れに応えたくて、ちろりと舌を出して見せた。
――……。
今度は晴臣が瞳を瞬かせた。純はさっと舌をしまった。おれ、なんか間違ったのかな。年上の友だちなんていなかったから、距離感が分からない……。
――森見君の舌が思ったより真っ青になってて、びっくりした。
晴臣は、純の戸惑いを宥めるようにそう言った。「冷たそうな舌」その呟きは喧騒に紛れて、誰が発したものなのかも分からなかった。
ふいに喧騒が止み、花火が打ち上がった。大気を震わせながら弾けた光は力強く、けれどそれ以上に儚かった。
花火に照らされた晴臣の横顔を見ていると、胸がじんと熱くなった。どうして、この人の頬には睫毛が落ちないんだろう。一度でも落ちてくれたなら……。
おれのこの気持ちって、なんだろう。
晴臣が部室に来なくなると、その命題が一層純を悩ませるようになった。
この扉の向こうには彼がいて、その手は今まさに引手に掛かっている――、なんて妄想を、シンとした部室で何度繰り返しただろう。ずっと待ち遠しかった今日、今まさに彼が隣にいて、なのにもっと近づきたいだなんて、おれはどれだけ……。
――森見君、いくつ詠めた?
晴臣から尋ねられ、純は慌ててペンを取った。当たり障りのない句をいくつか詠み、隣を打見する。晴臣は、ノートにペンを走らせていた。
〈打ち上がる ひとつまたひとつ もう少しこのままでと星に願う〉
純はハッとした。この人は、花火と花火の行間を詠む人なんだ。もしかしたら肌に触れるよりずっと晴臣を近くに感じ、純は思わず「せんぱい」と晴臣に呼びかけた。
――あっ、見たな? 大したことないなって、思っただろー。
――短歌なんですね……。
――だって、季語入れなくていいんでしょ、短歌なら。森見君のも見せて。それでおあいこにしてあげる。
純はノートを閉じ、首を振った。おざなりに詠んだものを晴臣に見られるのが恥ずかしかった。
もう少しこのままでと星に願う……。彼からその言葉を向けてもらえる誰かを想像すると、心の端っこがジクジクした。
――なんだよ、ずりーな。いいよ、森見君がそういう態度なら、おれにも考えがある。
唇を尖らせたかと思えばニヤリと笑う彼。ころころ変わるその表情は、まるで色とりどりの花火のようで、純は晴臣に見惚れた。
〈打ち上げ花火 よりも気になる 浴衣の君〉
安直な、けれど色を含んだ句を詠まれ、純は鎖骨まで熱くした。
――おおっ。水野、いいじゃないか。好きな子とでもすれ違ったか?
顧問の冷やかしを、晴臣は「ええまあ」と涼しく受け流し、純は赤面して俯いた。
花火はきれいだった。きれいなものをきれいだと素直に思えたのは、きっと、隣に晴臣がいたから。晴臣のいない社会科資料室は、すごく寂しい。
――森見君、大丈夫? 足痛いんじゃない?
帰り道で晴臣に気遣われ、純は首を振った。けれど、しゃがんだ晴臣の目は誤魔化せなかった。
――血、出てる。歩き方おかしいって思ったんだ。なんでこんなんなるまで我慢するんだよ。
おねがい呆れないで。純はそんな気持ちを持て余し、瞳を熱くした。晴臣は、花火を見上げていた時のように目を細めた。
――家まで送るよ。ほら、おんぶしたげるから、背中乗って。
その提案を、純は何度も断った。けれど晴臣は折れなかった。純は晴臣の背におぶさり、鼻を啜った。触れた背中が熱くて、目の前の項には汗が浮かんでいて、裸足に夜気が触れて。申し訳なくて、切なかった。
――先輩、ごめんなさい。
――いいよ。森見君、軽いし。
そうは言っても、三キロの道のりを男をおぶって歩き続けるのは骨が折れる。実際、晴臣は時折立ち止まり、純を抱え直した。
――今年も二人きりだったな。
ふと晴臣が呟く。新入部員は今年もいなかった。
――来年は、きっと一人です。
晴臣の足取りが止まった。
――それでも、あそこにいるんだろうな、森見君は。
その呟きが、純の心の襞を撫で上げた。どうしてか、まるごと受け止められているような心地になった。
――卒業したら、おれ、森見君の先輩でもなんでもなくなるのかな。
――先輩は、ずっと先輩です。歳の差は永遠に縮まりません。
真っ向から返すと、晴臣は声を上げて笑った。おもしろがってもらえるのが嬉しかった。
――純って、名前で呼んでいい? ほら、もう、これで部活も終わったから……。
そんなの、理由になるのだろうか。純はよく分からないまま頷き、彼に名前を呼んでもらえるという僥倖を手にした。
ああどうか終わらないで。ずっと夏のまま、この人の背中にくっついたまま……。願えば願うほど、悲しくなった。足の指に感じる痛みまで愛しかった。
ぶるる、ぶるる、ぶるる……。
スマートフォンが震え、純は目を覚ました。
『ベティーちゃん。今なにしてる? ヒマしてたら、うち来ない?』
「片岡先輩、すみません。おれ、いま」
『ベティーちゃん、声へん。もしかして風邪?』
純は熱でぼんやりしたまま、「すみません」と謝った。
『なんで謝んのよ? 大丈夫? いま家? 一緒に暮らしてる先輩は?』
押し黙ると、それが返事になってしまったらしく、スピーカーからバババと風切り音がした。夕方から降り始めた雨が窓を叩いている。純はいつの間にか流れていた涙を拭い、深呼吸した。
『薬は飲んだ?』
「飲んでないです」
『薬とか食べ物のアレルギーある?』
「片岡先輩」
電話の相手が誰なのか分かりたくて声に出す。晴臣と葵を隔てる境界線がぐにゃぐにゃと歪み始め、純はしゃくりあげた。止まっていた涙が、また溢れ出して……。
『薬買ってくから、家の場所だけラインくれる? 位置情報くれればそれで行けるから』
純は頷いて、何も言っていないのに葵は頷いたことを分かってくれて、『じゃあ切るわ。すぐに行くから、いい子で待ってて』という言葉と共に通話が切れた。
せんぱい。
純は瞼をきつく下ろし、ぶるぶると頭を振った。瞼の裏には晴臣しかいない。来てくれるのは葵なのに、晴臣がこちらへ向かっているような気がして、涙が止まらなくなった。
インターホンが鳴ると、純は布団から飛び出した。
「せんぱい!」
モニターを確認することも忘れ、玄関扉を開け放つ。……そこには、息を切らした葵が立っていた。
「……せんぱい、」
目の前にいるのは葵なのに、純は晴臣を呼んだ。葵はへたりこんだ純の額に触れ、「あっつー……、熱相当あるな」と呟いた。
「ベティーちゃん、ちょっと家入るよ。支えるから、頑張って歩いて」
晴臣の部屋に違う匂いが混じる。葵に支えられながら晴臣の部屋へ戻り、純はやっと、目の前にいるその人は葵であって晴臣でないことを理解した。
「ほら、これ解熱剤。とりあえず飲んどけ」
言われるがまま錠剤を含み、ミネラルウォーターで流し込む。口端からこぼれた水を、葵は袖で拭ってくれた。
「新生活の疲れが出たんじゃないの。泣いとけ泣いとけ、すっきりするから」
熱い頬に熱い涙が伝う。葵はそれを鑑賞するように眺め、頭を撫でてくれた。鎖骨の小鳥に、雫が一つ、くっついていた。
「……誰?」
廊下から差し込んだ照明で、その人の表情は陰っていた。純はその声音と立ち姿で、部屋の入り口に立ち尽くしているその人が、晴臣であることに気付いた。え? なんで? 先輩、バイトは――。
どんっ、
晴臣が葵に詰め寄った次の瞬間、葵が尻もちをついた。薄闇の中で揉み合う二人を見て、純は「せんぱい!」と叫んだ。
「おまえ、純に何した?」
「ちょっと……、マジで勘弁してよ。なんもしてないって」
「純が泣いてんだろ。なんもされてないのに泣くわけないだろ。おまえ、純を、」
純は起き上がり、ふらついた足取りで晴臣の前へ出た。
「ちがう、せんぱい、おれはなにもされてない、せんぱいは、薬を持って来てくれただけで、」
きれぎれに訴えると、葵は純の腕を引き、「いいから。おれもう帰るから」と落ち着いた声で言った。
「君、ベティーちゃんと一緒に住んでる子だよね。勝手にお邪魔してごめんね。ベティーちゃんは悪くないよ。おれが勝手にここに来ただけ」
葵は晴臣に向けて「ほんとうにごめんね」と謝罪の言葉を重ね、踵を返した。
「せんぱい」
葵は背中を見せたまま、ひらりと手を振って行ってしまった。重い沈黙が訪れ、純は逆光で塗りつぶされた晴臣の前にへたり込んだ。
「それじゃ、どっち呼んでんだか分かんねーよ」
その呟きには、怒りより疲れが滲んでいた。
「ピンポン鳴っても出るなよって言ったじゃん」
「ごめんなさい……」
「なんかあったらおれに連絡してって、あんだけ……、」
晴臣は額を摩り、深く息を吐いた。「ごめんなさい、せんぱい、ごめんなさいっ」涙を拭うことも忘れ、晴臣の足元に跪くようにして訴えると、晴臣は「だから!」と声を荒げた。
「それじゃ、どっち呼んでんだか分かんねーんだって! 謝るなら、そんな泣くなら、だったら……!」
この人がこんな声で感情を叫ぶなんて、知らなかった。純はくずおれそうになるのを堪え、「みずのせんぱい」と目の前の彼を呼んだ。晴臣は、自身に纏わりつく感情と純を振り払うように背を向けた。
「水野先輩、ごめんなさい。きらいにならないで……」
純はよろよろと立ち上がり、晴臣の背中に身体を寄せた。懐かしくて、痛かった。足の指じゃなくて、胸の奥がひどく痛んだ。
せんぱい。みずのせんぱい。
晴臣は何も言わなかった。ただ、こちらを向いて、熱い身体を抱き寄せてくれた。
晴臣の腕の中には、炭火と汗の匂いと、温もりがあった。純はまどろんで、けれど眠ってしまったら晴臣がどこかへ行ってしまいそうで、目の前のシャツをきつく握りしめた。
「純。悪いことは言わないから、一年の前期はバイトするのやめときな」
「でも、先輩だって、こっちに来てすぐにバイト始めたって……」
「おれはいいの。高校生の頃も新聞配達してたから」
そんなの、理由になるのだろうか。困惑する純を、晴臣は穏やかに諭した。
「とにかく、新生活に慣れるのが先だろ。前期終わってバイト探すとしても、おれに相談して。深夜までやってる飲食店のバイトとかは、絶対にやめた方がいい」
「でも、先輩は、焼き鳥屋でバイトしてる……」
「おれはいいの。でも純はだめ。変なバイト始めたら、親御さんが心配するだろ。純、今度こそ学生寮に入れられるぞ」
純はむくれ、目星をつけていた求人を睨んだ。一歳しか変わらないのに、どうしてこんなに子ども扱いされちゃうんだろう。
「つか、純、顔色悪くない? 体調大丈夫?」
「悪くないですっ。いたって健康ですっ」
純は求人雑誌をぴしゃんと閉じて立ち上がった。……けれど、言われてみれば、背中がゾクゾクするような……。
「ちょい待って、なんか目がうるうるしてる。座って熱測ろ」
脇に挟んだ体温計が三十八度を知らせる。よろ、と傾いた純の身体を支え、晴臣は「身体すごい熱いよ? なんでこんなんなるまで気付かないんだよ」と顔を顰めた。
「エアコンと加湿器あるから、おれの部屋おいで。ポカリとか買ってくるから、寝て待ってて。欲しいものあったらライン入れて、ヤバくなったら電話して、ピンポン押されても出るなよ、分かった?」
言い含められながら晴臣のベッドに寝かされ、純はオーバーヒートした。せんぱいのへや、せんぱいのべっど、せんぱいのにおい、せんぱいの……! けれどそのうちにゾクゾクがドクドクに変わり、純はそれどころではなくなった。身体が熱い、頭が痛い、息がゼエゼエする……!
「純、大丈夫だったか?」
晴臣が部屋に戻って来ると、純はホッとして、「せんぱい」と、彼を呼んだ。晴臣が、まんまるのレジ袋を提げているのを見ると、涙が出そうになった。
「病院に連れて行ってやりたいけど、おれ、これからバイトで……」
「だいじょうぶ、です」
布団に毛布を乗っけられ、額に冷感シートを貼られ、スポーツ飲料を飲まされ、ゼリーはどうだ粥はどうだと勧められ、純は晴臣を宥めたくて笑って見せた。
「ごめん。できるだけ早く帰るから。明日の朝、熱が下がってなかったら病院に行こう。心配すんな、すぐによくなるから……」
気が付くと、心細そうなのは晴臣の方になっていて。純は布団から手を出して晴臣の腕に触れた。
「ほんとうに、だいじょうぶ。だから、そんなに心配しないでください」
晴臣は不安そうに視線を伏せてから、「なんかあったら連絡して」と言って、純を振り返りながら部屋を出た。
純は部屋を見渡し、瞼を下ろした。ここには、かつて二人を結び付けていた「小説」が、一冊もない。
晴臣が二人暮らしを持ち掛けてくれた理由が、今になっても分からない。どうしてこんなおれと? もしかして、出て行ったのは「友だち」でなく「恋人」で、寂しさを紛らわすためなら誰でもよかった?
瞼の裏に、ガイダンスの日に見た女性がちらつく。彼の腕に触れていた華奢な手、彼に向けた親しげな眼差し、周囲の目を引くような距離感。もしかして、先輩、あの人と……。
純は深みにはまっていく思考を止めたくて布団を被った。疲れからの熱だったのか、睡魔はすぐにやって来た。
――森見君、それ……。
小さな田舎には大きなダムがあって、お盆になるとそこで花火大会が催される。雪花絞りの藍色の浴衣を着た純は、晴臣の前で縮こまった。
――ばあちゃんが和服縫う仕事してて、花火大会に行くんだって言ったら、はりきっちゃって……。ちんちくりんのおれが着たって、悪目立ちするだけなのに……。
――え? ぜんぜんそんなこと、
晴臣は、その先の言葉を隠すように口元を覆い、「こっち来て」と、純を人混みから連れ出した。刺すようだった周囲の視線が、晴臣に手を取られた瞬間に、ふっと和らいだ。
――もしかして、森見君ちって、あのでっかい呉服店?
純は曖昧に頷いた。正しくは、呉服店は祖父が祖母のために興したもので、森見家の本業は酒造業。純はこの田舎では「お坊ちゃん」の部類にいる。
――二人とも揃ったか。先生がかき氷くらいはおごってやるぞ。
気まぐれな顧問が「卒業制作は何がいいだろう? そうだ、花火大会に足を運んで一句詠もう!」なんて言い出して、文芸部の二人は賑わうダムに集められた。
純はおろしたての下駄に痛みを感じていたことも忘れ、Tシャツにジーンズ姿の晴臣を盗み見た。受験勉強が本格化している彼と会うのは、二か月ぶりのことだった。
――水野はイチゴ、森見はハワイアンブルーだよな?
自身もしっかりと宇治金時のかき氷を持ち、顧問はそれぞれにかき氷を渡した。階段に腰掛け氷の粒を含む。口の中も、頬も、胸も、熱かった。
――森見君、見て。
肩をつつかれ隣を見やると、晴臣が舌を出した。瞳を瞬かせると、「ひた、あかくない?」と舌足らずな声。確かに、晴臣の舌には人工的な赤みが差していた。
純は迷って、けれど晴臣の戯れに応えたくて、ちろりと舌を出して見せた。
――……。
今度は晴臣が瞳を瞬かせた。純はさっと舌をしまった。おれ、なんか間違ったのかな。年上の友だちなんていなかったから、距離感が分からない……。
――森見君の舌が思ったより真っ青になってて、びっくりした。
晴臣は、純の戸惑いを宥めるようにそう言った。「冷たそうな舌」その呟きは喧騒に紛れて、誰が発したものなのかも分からなかった。
ふいに喧騒が止み、花火が打ち上がった。大気を震わせながら弾けた光は力強く、けれどそれ以上に儚かった。
花火に照らされた晴臣の横顔を見ていると、胸がじんと熱くなった。どうして、この人の頬には睫毛が落ちないんだろう。一度でも落ちてくれたなら……。
おれのこの気持ちって、なんだろう。
晴臣が部室に来なくなると、その命題が一層純を悩ませるようになった。
この扉の向こうには彼がいて、その手は今まさに引手に掛かっている――、なんて妄想を、シンとした部室で何度繰り返しただろう。ずっと待ち遠しかった今日、今まさに彼が隣にいて、なのにもっと近づきたいだなんて、おれはどれだけ……。
――森見君、いくつ詠めた?
晴臣から尋ねられ、純は慌ててペンを取った。当たり障りのない句をいくつか詠み、隣を打見する。晴臣は、ノートにペンを走らせていた。
〈打ち上がる ひとつまたひとつ もう少しこのままでと星に願う〉
純はハッとした。この人は、花火と花火の行間を詠む人なんだ。もしかしたら肌に触れるよりずっと晴臣を近くに感じ、純は思わず「せんぱい」と晴臣に呼びかけた。
――あっ、見たな? 大したことないなって、思っただろー。
――短歌なんですね……。
――だって、季語入れなくていいんでしょ、短歌なら。森見君のも見せて。それでおあいこにしてあげる。
純はノートを閉じ、首を振った。おざなりに詠んだものを晴臣に見られるのが恥ずかしかった。
もう少しこのままでと星に願う……。彼からその言葉を向けてもらえる誰かを想像すると、心の端っこがジクジクした。
――なんだよ、ずりーな。いいよ、森見君がそういう態度なら、おれにも考えがある。
唇を尖らせたかと思えばニヤリと笑う彼。ころころ変わるその表情は、まるで色とりどりの花火のようで、純は晴臣に見惚れた。
〈打ち上げ花火 よりも気になる 浴衣の君〉
安直な、けれど色を含んだ句を詠まれ、純は鎖骨まで熱くした。
――おおっ。水野、いいじゃないか。好きな子とでもすれ違ったか?
顧問の冷やかしを、晴臣は「ええまあ」と涼しく受け流し、純は赤面して俯いた。
花火はきれいだった。きれいなものをきれいだと素直に思えたのは、きっと、隣に晴臣がいたから。晴臣のいない社会科資料室は、すごく寂しい。
――森見君、大丈夫? 足痛いんじゃない?
帰り道で晴臣に気遣われ、純は首を振った。けれど、しゃがんだ晴臣の目は誤魔化せなかった。
――血、出てる。歩き方おかしいって思ったんだ。なんでこんなんなるまで我慢するんだよ。
おねがい呆れないで。純はそんな気持ちを持て余し、瞳を熱くした。晴臣は、花火を見上げていた時のように目を細めた。
――家まで送るよ。ほら、おんぶしたげるから、背中乗って。
その提案を、純は何度も断った。けれど晴臣は折れなかった。純は晴臣の背におぶさり、鼻を啜った。触れた背中が熱くて、目の前の項には汗が浮かんでいて、裸足に夜気が触れて。申し訳なくて、切なかった。
――先輩、ごめんなさい。
――いいよ。森見君、軽いし。
そうは言っても、三キロの道のりを男をおぶって歩き続けるのは骨が折れる。実際、晴臣は時折立ち止まり、純を抱え直した。
――今年も二人きりだったな。
ふと晴臣が呟く。新入部員は今年もいなかった。
――来年は、きっと一人です。
晴臣の足取りが止まった。
――それでも、あそこにいるんだろうな、森見君は。
その呟きが、純の心の襞を撫で上げた。どうしてか、まるごと受け止められているような心地になった。
――卒業したら、おれ、森見君の先輩でもなんでもなくなるのかな。
――先輩は、ずっと先輩です。歳の差は永遠に縮まりません。
真っ向から返すと、晴臣は声を上げて笑った。おもしろがってもらえるのが嬉しかった。
――純って、名前で呼んでいい? ほら、もう、これで部活も終わったから……。
そんなの、理由になるのだろうか。純はよく分からないまま頷き、彼に名前を呼んでもらえるという僥倖を手にした。
ああどうか終わらないで。ずっと夏のまま、この人の背中にくっついたまま……。願えば願うほど、悲しくなった。足の指に感じる痛みまで愛しかった。
ぶるる、ぶるる、ぶるる……。
スマートフォンが震え、純は目を覚ました。
『ベティーちゃん。今なにしてる? ヒマしてたら、うち来ない?』
「片岡先輩、すみません。おれ、いま」
『ベティーちゃん、声へん。もしかして風邪?』
純は熱でぼんやりしたまま、「すみません」と謝った。
『なんで謝んのよ? 大丈夫? いま家? 一緒に暮らしてる先輩は?』
押し黙ると、それが返事になってしまったらしく、スピーカーからバババと風切り音がした。夕方から降り始めた雨が窓を叩いている。純はいつの間にか流れていた涙を拭い、深呼吸した。
『薬は飲んだ?』
「飲んでないです」
『薬とか食べ物のアレルギーある?』
「片岡先輩」
電話の相手が誰なのか分かりたくて声に出す。晴臣と葵を隔てる境界線がぐにゃぐにゃと歪み始め、純はしゃくりあげた。止まっていた涙が、また溢れ出して……。
『薬買ってくから、家の場所だけラインくれる? 位置情報くれればそれで行けるから』
純は頷いて、何も言っていないのに葵は頷いたことを分かってくれて、『じゃあ切るわ。すぐに行くから、いい子で待ってて』という言葉と共に通話が切れた。
せんぱい。
純は瞼をきつく下ろし、ぶるぶると頭を振った。瞼の裏には晴臣しかいない。来てくれるのは葵なのに、晴臣がこちらへ向かっているような気がして、涙が止まらなくなった。
インターホンが鳴ると、純は布団から飛び出した。
「せんぱい!」
モニターを確認することも忘れ、玄関扉を開け放つ。……そこには、息を切らした葵が立っていた。
「……せんぱい、」
目の前にいるのは葵なのに、純は晴臣を呼んだ。葵はへたりこんだ純の額に触れ、「あっつー……、熱相当あるな」と呟いた。
「ベティーちゃん、ちょっと家入るよ。支えるから、頑張って歩いて」
晴臣の部屋に違う匂いが混じる。葵に支えられながら晴臣の部屋へ戻り、純はやっと、目の前にいるその人は葵であって晴臣でないことを理解した。
「ほら、これ解熱剤。とりあえず飲んどけ」
言われるがまま錠剤を含み、ミネラルウォーターで流し込む。口端からこぼれた水を、葵は袖で拭ってくれた。
「新生活の疲れが出たんじゃないの。泣いとけ泣いとけ、すっきりするから」
熱い頬に熱い涙が伝う。葵はそれを鑑賞するように眺め、頭を撫でてくれた。鎖骨の小鳥に、雫が一つ、くっついていた。
「……誰?」
廊下から差し込んだ照明で、その人の表情は陰っていた。純はその声音と立ち姿で、部屋の入り口に立ち尽くしているその人が、晴臣であることに気付いた。え? なんで? 先輩、バイトは――。
どんっ、
晴臣が葵に詰め寄った次の瞬間、葵が尻もちをついた。薄闇の中で揉み合う二人を見て、純は「せんぱい!」と叫んだ。
「おまえ、純に何した?」
「ちょっと……、マジで勘弁してよ。なんもしてないって」
「純が泣いてんだろ。なんもされてないのに泣くわけないだろ。おまえ、純を、」
純は起き上がり、ふらついた足取りで晴臣の前へ出た。
「ちがう、せんぱい、おれはなにもされてない、せんぱいは、薬を持って来てくれただけで、」
きれぎれに訴えると、葵は純の腕を引き、「いいから。おれもう帰るから」と落ち着いた声で言った。
「君、ベティーちゃんと一緒に住んでる子だよね。勝手にお邪魔してごめんね。ベティーちゃんは悪くないよ。おれが勝手にここに来ただけ」
葵は晴臣に向けて「ほんとうにごめんね」と謝罪の言葉を重ね、踵を返した。
「せんぱい」
葵は背中を見せたまま、ひらりと手を振って行ってしまった。重い沈黙が訪れ、純は逆光で塗りつぶされた晴臣の前にへたり込んだ。
「それじゃ、どっち呼んでんだか分かんねーよ」
その呟きには、怒りより疲れが滲んでいた。
「ピンポン鳴っても出るなよって言ったじゃん」
「ごめんなさい……」
「なんかあったらおれに連絡してって、あんだけ……、」
晴臣は額を摩り、深く息を吐いた。「ごめんなさい、せんぱい、ごめんなさいっ」涙を拭うことも忘れ、晴臣の足元に跪くようにして訴えると、晴臣は「だから!」と声を荒げた。
「それじゃ、どっち呼んでんだか分かんねーんだって! 謝るなら、そんな泣くなら、だったら……!」
この人がこんな声で感情を叫ぶなんて、知らなかった。純はくずおれそうになるのを堪え、「みずのせんぱい」と目の前の彼を呼んだ。晴臣は、自身に纏わりつく感情と純を振り払うように背を向けた。
「水野先輩、ごめんなさい。きらいにならないで……」
純はよろよろと立ち上がり、晴臣の背中に身体を寄せた。懐かしくて、痛かった。足の指じゃなくて、胸の奥がひどく痛んだ。
せんぱい。みずのせんぱい。
晴臣は何も言わなかった。ただ、こちらを向いて、熱い身体を抱き寄せてくれた。
晴臣の腕の中には、炭火と汗の匂いと、温もりがあった。純はまどろんで、けれど眠ってしまったら晴臣がどこかへ行ってしまいそうで、目の前のシャツをきつく握りしめた。
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澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。
5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。
相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。
一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。
唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。
それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。
そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。
そこへ社会人となっていた澄と再会する。
果たして5年越しの恋は、動き出すのか?
表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。
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幼馴染みの二人
朏猫(ミカヅキネコ)
BL
三人兄弟の末っ子・三春は、小さい頃から幼馴染みでもある二番目の兄の親友に恋をしていた。ある日、片思いのその人が美容師として地元に戻って来たと兄から聞かされた三春。しかもその人に髪を切ってもらうことになって……。幼馴染みたちの日常と恋の物語。※他サイトにも掲載
[兄の親友×末っ子 / BL]
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初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
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黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
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「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
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