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野中にんぎょ

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優しいあなたと、迷子のおれ

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「隣、いーい?」
 ベンチでおにぎりを頬張っていた純は、面を上げ凍りついた。先日、サークルの勧誘から助けてくれた男が、空いたスペースを指差している。
「映画、キョーミなかった? おれ、ベティーちゃんが来るの、楽しみに待ってたんだけど」
 もらったチラシのことなど、とうに忘れていた。純は食べかけのおにぎりをしまい姿勢を正して、「この間は、ありがとうございました」と言って、深々と頭を下げた。
「でも、その、こっちに来てから女性に間違われることが増えたんですけど、おれ、」
「分かってるよー。ベティーちゃんは男なんでしょ?」
 じゃあ、なんで「ベティーちゃん」なんて呼ぶんだ。「あ、マジでそっくり」眉を顰めた純を、彼は嬉々として見つめた。
「おれは片岡葵。隣の大学の美術科の四年生。サークルがある日だけ、こっちの大学に顔出してて……、」
 ふと、葵の視線が純の膝の上の文庫本に留まった。「開高健好きなの? しぶいね」その声音は、先ほどと全く違っていて、純はビビッときた。
「『日本三文オペラ』、おもしろいよ。読んだことある?」
「ないです。これはその……、最近読んだ小説に開高健って名前が出てきて、気になって」
「へー。その、最近読んだ小説って、誰の?」
 純と葵は互いを好奇心たっぷりに見つめ、唇をうずうずさせた。
「島本理生の……。すごく美しかった」
「分かる。その人、おれもいくつか持ってる。他には何読んでる?」
 すごく美しかった、という表現を受け止めてくれた葵に、純は一気に警戒を解いた。
「町田康に西村賢太に大江健三郎に安部公房って……! ぶわははは!」
 好みの作家を挙げろと言うから答えたのに大笑いされ、けれど悪い気はしなかった。「そんなナリで、中身はだいぶ男クサイのね。ますます興味が湧いてきた」葵は純に向き直り、頬杖を突いた。
「そういうのが好きで島本理生読んでるんだったら、金原ひとみも好きでしょ?」
「……好きです」
「ぶわはは! ハードボイルドだねぇ~! や、ハードコアか? 金原ひとみ読んでる時ってさぁ、血の滴ってるレアの肉を素手で食ってる感あるよな。久々に読むとごちそう感エグくて、それがたまんないよなー」
 葵の本の読み方は純のそれに通ずるものがあり、純は相好を崩した。
「片岡先輩は、どんなの読むんですか」
 葵は瞳を丸くした。「カタオカセンパイって、おれのこと?」「え? あ、はい……」年上の同性を呼ぶのに、純は「先輩」という単語に頼る手立てしか知らない。葵はふしぎそうに純を見つめた。
「ベティーちゃん、今日は授業これで終わり?」
 頷くと、葵は純の膝の上の文庫本を取り、しおりを挟んだ。
「おれがどんなの読んでるのか、教えてあげる。ついておいで」


 葵の住むアパートはうらぶれた雰囲気で、純はかえって好奇心をそそられた。
「どんなの読むのって訊かれると、困っちゃうんだよいつも。だっておれ、なんでも読むしなんでも観るしなんでも聴くから」
 ハードカバーに文庫本、画集に写真集に雑誌に漫画、CDにレコードにカセットテープ、極めつけにDVD。それらが六畳半の畳の部屋に、所狭しに並んでいる。このカオスな状態には見覚えがあった。実家の自室が、ちょうどこんなふうになっている。
「映画、興味はあるんです」
 先走る期待を口に出せば、葵はニヤリと笑った。双方の要求が噛み合い、二人は喉を潤すことも忘れて二十四インチの画面に見入った。
「あれ、ヤバ、もう六時じゃん。バイト行かんと」
『なまいきシャルロット』を観終えると、葵は慌ててDVDを取り出した。バイトって、みんなしてるものなんだ……。純はカルチャーショックを受けつつ、腰を上げた。
「待ってベティーちゃん、連絡先交換しよ。映画でも音楽でも、おれから知りたかったら教えたげるし、ベティーちゃんもおれに色々教えてよ」
 知り合ったばかりなのにも関わらず、純は葵をすんなりと受け入れた。だって、『ミツバチのささやき』も『なまいきシャルロット』も、すごくおもしろかった。葵は「なんでもおもしろがる」と言うけれど、その中にも特別に愛しているものがあって、それは純にとっても美しかった。
「帰り道、分かる? ここ真っ直ぐ行ったらコンビニに出られて、ベティーちゃんの大学まですぐだから」
 スクーターで去って行く葵を見送り、純は葵の言葉通り、道を真っ直ぐに進んだ。
 この地区は、道が碁盤の目のようになっていて、真っ直ぐに進んだつもりでも別の場所に出てしまうことがある。純が辿り着いたのはコンビニでなく見知らぬスーパーで、辺りを見回しても大学は見つからなかった。
 マップのアプリを立ち上げ辺りをうろうろしてみても、なぜだか思っている場所に辿り着けない。純は途方に暮れ、暗くなり始めた空を見上げた。ここは、地上が明るい分、空が暗くて星が見えない。生まれ育った田舎の満天の星空を思い起こし、純は胸を詰まらせた。
 ――純、どうした?
 晴臣の穏やかな声音が脳裏に過り、純は頭を打ち振った。水野先輩に、これ以上迷惑はかけられない。……その時、握っていたスマートフォンが震えた。
『純? なんか遅いなって思って、かけてみた。大学にいんの?』
 自分で思い描くよりずっと、その声は穏やかで。純はスマートフォンを握りしめ、「せんぱい」と晴臣を呼んだ。
『純? どうした? なんかあった? 今、どこにいんの?』
 声だけで心の機微を拾われて、純は「ちがうんです」と咄嗟に否定した。晴臣はその声からまた別の何かを拾い上げたらしく、『言って。どこにいんの』と声を低くした。
「スーパーサイトウってところ……」
『分かった。すぐに行くから、中で待ってて』
 純はスマートフォンを耳に当てたまま、ゆるゆると息を吐いた。安堵より申し訳なさが勝って、それから、熱いものがこみ上げた。
「純!」
 間もなく現れた晴臣の息は逸っていた。安堵と、もどかしさと、自分への落胆がない交ぜになって、純は喉を熱くしたまま俯いた。
「なんかあった?」
 晴臣は背を屈め、純の瞳を覗き込んだ。焦色の瞳に、今にも泣き出しそうな自分が映っていて、純は視線を逸らした。
「なにも、なくて。ただ、迷子になっただけで……」
 足元を睨んでいると両手首を掴まれ、純は視線を上げた。乱れた群青色の髪を見ると、胸の内にあった感情がぐちゃぐちゃと掻き混ぜられたようになった。先輩、走って来てくれたんだ、おれのために……。
「なのに。迷子になっただけなのに……。せんぱい、ごめんなさい。迷惑かけて、ごめんなさい」
 震えた声で言うと、晴臣は眉を寄せて微笑み、純の頭を撫でた。世界で一番、優しい手だった。
「なんもなくてよかったよ。腹減ってない?」
 タイミングが良いのか悪いのか、純の腹がぐうと鳴る。純は赤面し、晴臣は笑った。
「今日、なんか寒くない? 鍋の素が余ってるから、家で鍋しよっか」
「バイトは……」
「今日は休み。ほら、何入れる? シメは雑炊? それともうどん?」
 カゴを取った晴臣の背中を追う。「ぞ、雑炊」「お。気が合う。おれもシメは雑炊派」振り返ってくれた彼の、明るい笑みが眩しい。
「あ、あの、おれがお金出します。水野先輩に迷惑かけたし……」
「いいよ。おれが出しとく。それよりほら、もっとくっついとかないと。また迷子になるぞー」
「なりませんっ。もうならないっ」
 もう絶対に迷子になんてならない。その一心でぴたりと背後にくっつくと、晴臣は「そっちじゃなくて」と言って、純の手を掴んで引きつけた。
 肩と肩が触れる。視線が触れる。晴臣は純の手を握ったまま笑みを深めた。
「また迷子になったら大変だろ。おれの隣にいて」
 好き。大好き。どんなに遠く離れても、あなたが誰を好きになっても、この気持ちは変わらない。純は晴臣の手を握り返しながら、もう一度、好き、と心の中で呟いた。
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