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眩しいあなたと、都会の洗礼
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目を覚ましてすぐ、六畳半の自室をぐるりと見回す。
夢じゃない。おれ、ほんとうに水野先輩と……。純は感動にうち震えながら起床した。
故郷を離れ晴臣のいる私立大学へ進学すると決めた時、両親から「一人暮らしは危ないから学生寮に入るように」と言い渡された純を、晴臣は一瞬で掬い上げた。
――おれ、友だちとルームシェアしてたんだけど、そいつが彼女と同棲し始めて。純さえよければ、空いた部屋に入ってもらえると助かるんだけど……。学生向けの物件だから家賃も安くて。家賃含め諸々を折半して、ひと月三万円でどう?
晴臣の提案に、純はスマートフォン越しに二つ返事した。水野先輩と同じ家に帰れる! それだけでもう、2LDKだというその部屋が天国のように感じた。
自室を出て、隣の部屋を打見する。このドアの向こうに水野先輩がいるんだ……。
「おはよ。昨日はよく眠れた?」
自室にいるとばかり思っていた晴臣がキッチンから現れ、純はピンとつま先立ちになった。
「よ……く眠れました」
「だと思った。純のいびき、こっちの部屋まで聞こえてきたもん」
え! うそ! あんぐりと口を開け硬直すると、晴臣は「ふは」と笑った。
「うそ。なーんも聞こえなかったよ。純、マジでいんのかなって、不安になったくらい」
えっ、えーっ……、もう、せんぱい……。純はホッとして、口の中でモゴモゴ言った。
角部屋のこの一室は、リビングにも陽が差し込んでいる。晴臣はローテーブルにコーヒーの入ったマグカップを二つ並べ、純を手招きした。
「パンどれにする? 純が好きなの選んでいいよ」
「え? でも、これ、水野先輩が買ったやつじゃ……」
「バイト帰りにコンビニ寄ったら買い過ぎちゃって。よかったら食べて」
昨日、晴臣は合鍵を渡すや否や、居酒屋のアルバイトへ向かった。純は晴臣の帰りを待っていたけれど、結局、彼が帰宅する前に眠ってしまった。
「今日は新入生ガイダンスがあるだけ?」
「はい。ガイダンス受けて履修登録したら帰って来ようかなって……」
「サークルの勧誘がすごいから気をつけて。強引なところもあるから」
「水野先輩は、サークル……」
「入ってる。フットサル同好会ってとこ」
ふと、晴臣がサッカー部だったことを思い出す。純は少しだけ肩を落とし、サンドイッチを咀嚼した。そっか、そうだよな、水野先輩は本当はサッカーを続けたかったんだから……。
スクールカーストの頂点にいた晴臣と、三軍以下のモブとして扱われていた純は、三年前に高校の社会科資料室で出会った。
夏休み直前の放課後、浮き足立った空気から分断された薄暗い部屋に、晴臣は現れた。
――森見。サッカー部から転部してきた水野だ。一年先輩だけど、おまえが部長なんだから、うまいことリードしてやって。
そう言い残し去って行った顧問を恨みながら、純は横目で晴臣の存在を確かめた。
この人、知ってる……。他人に興味の薄い純が晴臣を知っていたのは、晴臣が目立っていたからだ。成績優秀でスポーツ万能。その上、容姿端麗。極めつけに、それらを鼻にかけない謙虚で気さくな性格。当時、スクールカーストのリーダー格だった彼は、同性からも異性からも、もてはやされていた。
よりによってなんで文芸部なんだよ。くさくさしていると、大きな手がこちらへ伸びてきた。……ぶたれる! 反射的に身体をびくつかせると、晴臣は慌てて手を引っ込めた。
――驚かせてごめん。握手したかっただけなんだ。……一年から部長してるなんて、すごいね。おれ、二年の水野晴臣。ヘンな時期に入って申し訳ないんだけど、よろしく。
ぶたれると思ったのは思い込みで、部長をしているのは部員が自分しかいないからで。純は恐る恐る面を上げて、きまり悪そうにしている晴臣を見やった。自分とは違う世界の住人だけれど、そういう表情をしていると、ふしぎと身近に感じた。
おおかた、再起不能の怪我でもして、文芸部に籍だけ置いておきたいのだろう。純のそういう予想に反して、晴臣は毎日、社会科資料室に現れた。
一人がよかったのに、頁を捲る彼の指先が、文字を追う彼の眼差しが、純の胸を日ごとに締めつけるようになった。
――純、そんなに泣くなって……。
いつの間にか「純」と呼ばれるようになって、放課後は一緒にいることが当たり前になって、大好きになって。晴臣の卒業式を目前にして、純は泣いた。大好きだから離れたくなかった。何度も否定した気持ちだったけれど、これってやっぱり恋なんだと切なくなった。
「ねっ、ラクロスとか興味ない? そこで紅白戦やってんだけど、見てってよ」
正門をくぐってすぐに大男に肩を組まれ、純は震え上がった。「すみませんっ、おれっ、急いでてっ!」男の腕をすり抜け中庭へ出ると、そこではフォークソング部と軽音同好会とジャズ愛好会が音をぶつけ合っていた。
やばい、陽キャしかいない……! 晴臣を追いかけて入った私立大学だけれど、落ち着けるような日陰がないと不安になる。そんな気持ちを振り切るように前に進むと、「フットサル同好会」の看板を見つけた。人波に呑まれていても、純の瞳はいとも簡単に晴臣を見つけ出してしまう。
「あ……、」
晴臣がこちらに気付き、手を振ってくれた。心に晴れ間が差したようになって手を振り返すと、晴臣に手招きされ、純はまごついた。
ほんとうだったら駆けて行きたい。けれど、フットサル同好会はどう見ても陽キャの集まりで、おまけに、晴臣の隣には綺麗な女性が立っていた。
彼女は晴臣の腕に触れ、晴臣の気を引いた。何を話しているのか、晴臣は彼女の言葉に笑みを深め、頷いている。純はフードを深く被り、その場を去った。胸がツキツキと痛んだ。どこにいても、先輩が遠い存在であることは変わらない……。
「おーい、無視しないでよ。なんでフード被ってんのー?」
被っていたフードをいきなり脱がされ、純は縮み上がった。チリチリした髪の男と目が合うと、男はニヤッと笑って、「なんだ可愛いじゃん隠すなよ勿体ない」と意味の分からないことを言った。
「バドミントンとか、どーっすか。マネージャーも募集中だよー」
「すみません、急いでて……」
「なんでよー。ちょっと待って、ちゃんと話聞いてー?」
チリチリに肩を寄せられ、純は顔を背けた。
「こっち向いてよ、可愛い顔見せてー?」
「ちょっと、や、やめてくださいっ……」
「おれら、今ちょうど体育館で集まっててさ。君のこと、みんなに紹介したいなー」
振り払いたいのに、身体が硬直して言うことを聞かない。いやだ、怖い、水野先輩! 傍にいない彼を胸の中で呼んだその時、「おい」と知らない声が降ってきた。
「やめてって言ってんじゃん。離してあげなよ」
チリチリの肩を掴んだその男は、目をすがめて学生課を指差した。
「新歓実行委員会とか学生課にチクってもいいけど。ナンパと引き換えに活動停止になんの、割に合わないでしょ?」
肩で跳ねた黒髪に、目尻の切れ上がった一重、ふっくらとした下瞼、薄い唇の右端についた黒子。ピアスが点在している耳を見て、純は息を飲んだ。
チリチリが去ると、男は屈み、純の面を覗き込んだ。
「君、ベティーちゃんに似てるって言われない?」
ベティーちゃん? 瞳を瞬かせると、男は八重歯を見せて笑った。
「その表情、マジで似てんだけど。困り眉に、でっかい瞳に、バサバサ睫毛、そんで、極めつけにちっちゃな唇」
「ベティー・ブープ?」尋ねれば、男は深く頷き、「そう、それ」と言って、純の面を指差した。
「そろそろガイダンス始まっちゃうね。……ああ、そうだ。ベティーちゃん、これあげる。おれ、映画研究会に入ってて。キョーミあったら覗いてみて。じゃあね」
映画研究会のチラシを残し、男は人の波間に消えて行った。……都会って、怖い。純はチラシを手に二号棟の前で立ち尽くした。
鞄から合鍵を取り出すと、心がポッと火照ったようになった。純は鍵を捻り、深緑色のドアを引いた。
「……せんぱい?」
廊下を抜けてリビングに入ると、晴臣がラグに横たわって寝息を立てていた。無造作に放られた靴下を畳み、晴臣の傍にそそと寄る。緩く開いた唇に、力の抜けきった目元。新生活に疲れた心が、無防備な寝顔に癒されていく。
そういえば、前もこんなことあったな。純は頬を緩めた。
――挨拶運動の変更点は以上です。質問のある方は個別にどうぞ。
委員会が終わるが早いか、純は教室を飛び出した。今までであれば、部活に出るのが遅れても、一人だったから問題なかった。けれど今は晴臣がいる。部室である社会科資料室を利用するには鍵の貸し出しが必要で、純はそのことを晴臣に伝えていなかった。
晴臣が文芸部に来て三カ月が経とうとしていた。
晴臣は、毎日部室に現れて文庫本を読んでいる。会話はほとんどないけれど、純にはそれがありがたかった。
晴臣は、社会科資料室のドアを背に体育座りし、膝に面を埋めていた。音を立てないように、そうっと近づく。しゃがんで耳をすますと、かすかな寝息が聞こえた。下りた瞼から伸びた睫毛が、特別なものに見えた。
――せんぱい。
純は初めて晴臣を呼んだ。ひそめた声はか細く、けれど晴臣は純の声に応え、瞼を震わせた。
――あ、よかった、来た。
晴臣は面を上げ、目尻を緩めた。どくっ。心臓が重く脈打ち、胸が熱くなった。純は晴臣の顔を見てやっと、肝心の鍵を忘れてここまで来てしまったことに気付いた。
――あっ、あのっ、待たせてしまったのにすみませんっ。鍵っ、借りるの忘れちゃって……。
使えないヤツって思われた……? そんな懸念とは裏腹に、晴臣は「もしかして、急がせちゃった?」と純を気遣った。
――ここの鍵、職員室で借りるんだよね? おれ、ついてっていい? こういう日は、おれが借りとけばいいし、やり方教えてよ。
晴臣はふと何かに気付き、こちらに手を伸ばした。純はこの時を待っていたかのように瞼を下ろし、晴臣の手を受け入れた。
――睫毛、ほっぺについてた。睫毛もカールしてんのな。
えくぼと歯を見せ、晴臣は笑った。心がその笑みに吸い寄せられ、ふわふわした心地になっていく。
水野先輩が「先輩」でよかった。だっておれは、この人が先輩でなければ、この人を呼ぶことさえできなかっただろうから。
「ん? あれ? 純、いつ帰ったの?」
目覚めた晴臣は瞳を瞬かせ、ばつが悪そうに起き上がった。「少し前です」そう答えると、晴臣はつま先で純の脚を小突いた。
「帰って来たんなら起こしてよ。寝顔見られるのやだ。……てかさ、」
拗ねた晴臣が珍しく、純はしゃがんで彼に視線を合わせた。
「呼んだのに、なんでこっち来なかったの」
「や……。だって、おれ、運動音痴なので……」
陽キャの集団に飛び込むなんて絶対に無理だし、水野先輩の隣には自分では到底敵わないような美人がいたし……という本音はしまい、純はその場に腰を下ろした。ツンと、晴臣のつま先が純のつま先に触れた。
「それでもさ、傍に来てほしかった。あーゆーの、やだ」
先輩、こんなふうに拗ねるんだ。おれ、あの時、先輩の元に行ってもよかったんだ。晴臣をむくれさせたのは自分なのに、キュンとしたりホッとしたり、感情が忙しい。
「じゃ、じゃあっ、」
声が裏返って、けれど純は羞恥を振り切って晴臣を見つめた。
「あーゆーの、もうしませんっ。おれ、水野先輩に呼ばれたら、何してても、水野先輩のところに飛んで行きますっ!」
「……ほんとうに?」
「ほんとうにっ!」
前のめって訴えると、晴臣はツンとしていた目元をほどいて笑った。
水野先輩の感情って、表情って、どうしてこんなに鮮やかなんだろう……。
青春を彩ってくれた彼が今もなお眩しくて、この心が彼に鷲掴みされていることを分からされる。こんな自分では彼を欲しがることなどできなくて、けれど、憧れ以外の感情を打ち捨てるには、この気持ちは育ちすぎていて……。
でもきっと、先輩との一生分の思い出があれば、この先なにがあっても頑張れる。たとえ、先輩に恋人ができたって、そのために、この部屋を出ることになったって――。
ブルルッ。晴臣のスマートフォンが震える。
晴臣はアラームを消し、ため息を吐いた。
「そろそろバイトに行かないと」
「居酒屋の?」
「うん」
晴臣は立ち上がり、ふと純を振り返った。……手が伸びてくる。瞼を下ろす。あの指先が、頬に触れる。
「睫毛、ほっぺについてた」
純の睫毛は、いつも左頬に落ちる。純はそれを、心待ちにしている。
夢じゃない。おれ、ほんとうに水野先輩と……。純は感動にうち震えながら起床した。
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――おれ、友だちとルームシェアしてたんだけど、そいつが彼女と同棲し始めて。純さえよければ、空いた部屋に入ってもらえると助かるんだけど……。学生向けの物件だから家賃も安くて。家賃含め諸々を折半して、ひと月三万円でどう?
晴臣の提案に、純はスマートフォン越しに二つ返事した。水野先輩と同じ家に帰れる! それだけでもう、2LDKだというその部屋が天国のように感じた。
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「おはよ。昨日はよく眠れた?」
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「よ……く眠れました」
「だと思った。純のいびき、こっちの部屋まで聞こえてきたもん」
え! うそ! あんぐりと口を開け硬直すると、晴臣は「ふは」と笑った。
「うそ。なーんも聞こえなかったよ。純、マジでいんのかなって、不安になったくらい」
えっ、えーっ……、もう、せんぱい……。純はホッとして、口の中でモゴモゴ言った。
角部屋のこの一室は、リビングにも陽が差し込んでいる。晴臣はローテーブルにコーヒーの入ったマグカップを二つ並べ、純を手招きした。
「パンどれにする? 純が好きなの選んでいいよ」
「え? でも、これ、水野先輩が買ったやつじゃ……」
「バイト帰りにコンビニ寄ったら買い過ぎちゃって。よかったら食べて」
昨日、晴臣は合鍵を渡すや否や、居酒屋のアルバイトへ向かった。純は晴臣の帰りを待っていたけれど、結局、彼が帰宅する前に眠ってしまった。
「今日は新入生ガイダンスがあるだけ?」
「はい。ガイダンス受けて履修登録したら帰って来ようかなって……」
「サークルの勧誘がすごいから気をつけて。強引なところもあるから」
「水野先輩は、サークル……」
「入ってる。フットサル同好会ってとこ」
ふと、晴臣がサッカー部だったことを思い出す。純は少しだけ肩を落とし、サンドイッチを咀嚼した。そっか、そうだよな、水野先輩は本当はサッカーを続けたかったんだから……。
スクールカーストの頂点にいた晴臣と、三軍以下のモブとして扱われていた純は、三年前に高校の社会科資料室で出会った。
夏休み直前の放課後、浮き足立った空気から分断された薄暗い部屋に、晴臣は現れた。
――森見。サッカー部から転部してきた水野だ。一年先輩だけど、おまえが部長なんだから、うまいことリードしてやって。
そう言い残し去って行った顧問を恨みながら、純は横目で晴臣の存在を確かめた。
この人、知ってる……。他人に興味の薄い純が晴臣を知っていたのは、晴臣が目立っていたからだ。成績優秀でスポーツ万能。その上、容姿端麗。極めつけに、それらを鼻にかけない謙虚で気さくな性格。当時、スクールカーストのリーダー格だった彼は、同性からも異性からも、もてはやされていた。
よりによってなんで文芸部なんだよ。くさくさしていると、大きな手がこちらへ伸びてきた。……ぶたれる! 反射的に身体をびくつかせると、晴臣は慌てて手を引っ込めた。
――驚かせてごめん。握手したかっただけなんだ。……一年から部長してるなんて、すごいね。おれ、二年の水野晴臣。ヘンな時期に入って申し訳ないんだけど、よろしく。
ぶたれると思ったのは思い込みで、部長をしているのは部員が自分しかいないからで。純は恐る恐る面を上げて、きまり悪そうにしている晴臣を見やった。自分とは違う世界の住人だけれど、そういう表情をしていると、ふしぎと身近に感じた。
おおかた、再起不能の怪我でもして、文芸部に籍だけ置いておきたいのだろう。純のそういう予想に反して、晴臣は毎日、社会科資料室に現れた。
一人がよかったのに、頁を捲る彼の指先が、文字を追う彼の眼差しが、純の胸を日ごとに締めつけるようになった。
――純、そんなに泣くなって……。
いつの間にか「純」と呼ばれるようになって、放課後は一緒にいることが当たり前になって、大好きになって。晴臣の卒業式を目前にして、純は泣いた。大好きだから離れたくなかった。何度も否定した気持ちだったけれど、これってやっぱり恋なんだと切なくなった。
「ねっ、ラクロスとか興味ない? そこで紅白戦やってんだけど、見てってよ」
正門をくぐってすぐに大男に肩を組まれ、純は震え上がった。「すみませんっ、おれっ、急いでてっ!」男の腕をすり抜け中庭へ出ると、そこではフォークソング部と軽音同好会とジャズ愛好会が音をぶつけ合っていた。
やばい、陽キャしかいない……! 晴臣を追いかけて入った私立大学だけれど、落ち着けるような日陰がないと不安になる。そんな気持ちを振り切るように前に進むと、「フットサル同好会」の看板を見つけた。人波に呑まれていても、純の瞳はいとも簡単に晴臣を見つけ出してしまう。
「あ……、」
晴臣がこちらに気付き、手を振ってくれた。心に晴れ間が差したようになって手を振り返すと、晴臣に手招きされ、純はまごついた。
ほんとうだったら駆けて行きたい。けれど、フットサル同好会はどう見ても陽キャの集まりで、おまけに、晴臣の隣には綺麗な女性が立っていた。
彼女は晴臣の腕に触れ、晴臣の気を引いた。何を話しているのか、晴臣は彼女の言葉に笑みを深め、頷いている。純はフードを深く被り、その場を去った。胸がツキツキと痛んだ。どこにいても、先輩が遠い存在であることは変わらない……。
「おーい、無視しないでよ。なんでフード被ってんのー?」
被っていたフードをいきなり脱がされ、純は縮み上がった。チリチリした髪の男と目が合うと、男はニヤッと笑って、「なんだ可愛いじゃん隠すなよ勿体ない」と意味の分からないことを言った。
「バドミントンとか、どーっすか。マネージャーも募集中だよー」
「すみません、急いでて……」
「なんでよー。ちょっと待って、ちゃんと話聞いてー?」
チリチリに肩を寄せられ、純は顔を背けた。
「こっち向いてよ、可愛い顔見せてー?」
「ちょっと、や、やめてくださいっ……」
「おれら、今ちょうど体育館で集まっててさ。君のこと、みんなに紹介したいなー」
振り払いたいのに、身体が硬直して言うことを聞かない。いやだ、怖い、水野先輩! 傍にいない彼を胸の中で呼んだその時、「おい」と知らない声が降ってきた。
「やめてって言ってんじゃん。離してあげなよ」
チリチリの肩を掴んだその男は、目をすがめて学生課を指差した。
「新歓実行委員会とか学生課にチクってもいいけど。ナンパと引き換えに活動停止になんの、割に合わないでしょ?」
肩で跳ねた黒髪に、目尻の切れ上がった一重、ふっくらとした下瞼、薄い唇の右端についた黒子。ピアスが点在している耳を見て、純は息を飲んだ。
チリチリが去ると、男は屈み、純の面を覗き込んだ。
「君、ベティーちゃんに似てるって言われない?」
ベティーちゃん? 瞳を瞬かせると、男は八重歯を見せて笑った。
「その表情、マジで似てんだけど。困り眉に、でっかい瞳に、バサバサ睫毛、そんで、極めつけにちっちゃな唇」
「ベティー・ブープ?」尋ねれば、男は深く頷き、「そう、それ」と言って、純の面を指差した。
「そろそろガイダンス始まっちゃうね。……ああ、そうだ。ベティーちゃん、これあげる。おれ、映画研究会に入ってて。キョーミあったら覗いてみて。じゃあね」
映画研究会のチラシを残し、男は人の波間に消えて行った。……都会って、怖い。純はチラシを手に二号棟の前で立ち尽くした。
鞄から合鍵を取り出すと、心がポッと火照ったようになった。純は鍵を捻り、深緑色のドアを引いた。
「……せんぱい?」
廊下を抜けてリビングに入ると、晴臣がラグに横たわって寝息を立てていた。無造作に放られた靴下を畳み、晴臣の傍にそそと寄る。緩く開いた唇に、力の抜けきった目元。新生活に疲れた心が、無防備な寝顔に癒されていく。
そういえば、前もこんなことあったな。純は頬を緩めた。
――挨拶運動の変更点は以上です。質問のある方は個別にどうぞ。
委員会が終わるが早いか、純は教室を飛び出した。今までであれば、部活に出るのが遅れても、一人だったから問題なかった。けれど今は晴臣がいる。部室である社会科資料室を利用するには鍵の貸し出しが必要で、純はそのことを晴臣に伝えていなかった。
晴臣が文芸部に来て三カ月が経とうとしていた。
晴臣は、毎日部室に現れて文庫本を読んでいる。会話はほとんどないけれど、純にはそれがありがたかった。
晴臣は、社会科資料室のドアを背に体育座りし、膝に面を埋めていた。音を立てないように、そうっと近づく。しゃがんで耳をすますと、かすかな寝息が聞こえた。下りた瞼から伸びた睫毛が、特別なものに見えた。
――せんぱい。
純は初めて晴臣を呼んだ。ひそめた声はか細く、けれど晴臣は純の声に応え、瞼を震わせた。
――あ、よかった、来た。
晴臣は面を上げ、目尻を緩めた。どくっ。心臓が重く脈打ち、胸が熱くなった。純は晴臣の顔を見てやっと、肝心の鍵を忘れてここまで来てしまったことに気付いた。
――あっ、あのっ、待たせてしまったのにすみませんっ。鍵っ、借りるの忘れちゃって……。
使えないヤツって思われた……? そんな懸念とは裏腹に、晴臣は「もしかして、急がせちゃった?」と純を気遣った。
――ここの鍵、職員室で借りるんだよね? おれ、ついてっていい? こういう日は、おれが借りとけばいいし、やり方教えてよ。
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えくぼと歯を見せ、晴臣は笑った。心がその笑みに吸い寄せられ、ふわふわした心地になっていく。
水野先輩が「先輩」でよかった。だっておれは、この人が先輩でなければ、この人を呼ぶことさえできなかっただろうから。
「ん? あれ? 純、いつ帰ったの?」
目覚めた晴臣は瞳を瞬かせ、ばつが悪そうに起き上がった。「少し前です」そう答えると、晴臣はつま先で純の脚を小突いた。
「帰って来たんなら起こしてよ。寝顔見られるのやだ。……てかさ、」
拗ねた晴臣が珍しく、純はしゃがんで彼に視線を合わせた。
「呼んだのに、なんでこっち来なかったの」
「や……。だって、おれ、運動音痴なので……」
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「それでもさ、傍に来てほしかった。あーゆーの、やだ」
先輩、こんなふうに拗ねるんだ。おれ、あの時、先輩の元に行ってもよかったんだ。晴臣をむくれさせたのは自分なのに、キュンとしたりホッとしたり、感情が忙しい。
「じゃ、じゃあっ、」
声が裏返って、けれど純は羞恥を振り切って晴臣を見つめた。
「あーゆーの、もうしませんっ。おれ、水野先輩に呼ばれたら、何してても、水野先輩のところに飛んで行きますっ!」
「……ほんとうに?」
「ほんとうにっ!」
前のめって訴えると、晴臣はツンとしていた目元をほどいて笑った。
水野先輩の感情って、表情って、どうしてこんなに鮮やかなんだろう……。
青春を彩ってくれた彼が今もなお眩しくて、この心が彼に鷲掴みされていることを分からされる。こんな自分では彼を欲しがることなどできなくて、けれど、憧れ以外の感情を打ち捨てるには、この気持ちは育ちすぎていて……。
でもきっと、先輩との一生分の思い出があれば、この先なにがあっても頑張れる。たとえ、先輩に恋人ができたって、そのために、この部屋を出ることになったって――。
ブルルッ。晴臣のスマートフォンが震える。
晴臣はアラームを消し、ため息を吐いた。
「そろそろバイトに行かないと」
「居酒屋の?」
「うん」
晴臣は立ち上がり、ふと純を振り返った。……手が伸びてくる。瞼を下ろす。あの指先が、頬に触れる。
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