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一番星が昇る

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 夜を行く電車に二人で飛び乗り、身を寄せ合う。小雪は夜闇に閉ざされた窓の向こうを見つめ、隣にいる都の手を両手で握った。
「ねえ、都君」
「うん」
「運命の番って、どんな感じなの?おれと愛し合うのとは、違う?」
 小雪の唐突な問いに、都は「どうしたの」と温みのある声で問い返した。
「だって、都君と理人君は運命で繋がってる。おれ、その間には絶対に入れないんだって、何度も思った。おれとの愛は、都君にとって、なんだったの?理人君との愛は、目も覚めるような、本物の愛なの?」
「……目も覚めるようなというのは、合ってるかもね。見つめ合うと、直感する。この人がαとしての自分が求めていたΩなんだって。身体が勝手に動いて、相手を求める。理性では止められない」
「本能で、愛してるんだね。心の底から、守りたいって思ったんだね」
 かすかな夜気の漂う車両で、二人は唇を重ねた。
 こんなに優しいキスをくれるのに、この人は別のΩを求めている。小雪は都の瞳に映る自分を疑るように見つめ、顔を歪めた。
「おれの愛、足りなかった?おれの愛じゃ、満足できなかった?」
 たまらず問えば、都はもう一度、今度は深く唇を重ねてくれた。
「君を愛してる。心の底から愛してる。足りないわけがない、おれはいつだって君の愛で満たされてた」
「じゃあ、なんで?なんで理人君を愛してしまったの?」
 ずっと、訊けなかったこと。ずっと、心に引っかかっていたこと。理人を迎えに行く前に、訊いておかなければならない。理人を再び迎える為には、全ての疑念を振り払えるような決意が必要だった。
 都は小雪の肌に浮かんだ感情を確かめるように輪郭を撫で、視線を絡めた。
「足りなかったのは、君の方じゃないのか。おれには、こゆが、これでは与え足りないって、愛を持て余しているように見えた。そんな君が、運命の番でも見つけて、そっちへ行ってしまったらどうしようって、おれはずっと怖かった。……君の愛を受け止める誰かが必要だった。君を攫うようなαやβでなく、君と心まで結び合ってしまえるような、そんなΩが。……理人は、おれにとって、ちょうどよかった。理性で理人を認めると、それまで以上に惹かれた。理人はそういう意味でも、運命的だった」
 都の瞳が潤み、歪む。……愛する人に、ここまで言わせてしまった。
 小雪は急いた両手で都の両頬を包み、薄く開いた唇の隙間へ舌を差し入れた。都の手のひらが小雪の後頭部を掴む。そのまま深く、奪い、奪われる。
 欲しい、この人が。手に入れてもなお、そう思う。与えたいとばかり願っている、こんな自分が、都にだけはそんな欲望を抱く。
「おれには、運命の番なんて、一生いない」
「……」
「いても、いないの。おれには、都君だけ。おれが、奪いたいって、全部欲しいって、そう思うのは、この世界で都君だけ。なんで分からないの、おれが、これだけ――、」
 言葉は互いの唇の間へ消えた。唇と両手で、奪いたいだけ貪られる。都に首筋を噛まれ、小雪は甘い声を上げた。
「おれは、こゆが思うより、ずっと利己的なんだ。……幻滅した?でも、おれをこうしたのは、こゆだよ。おれに愛を教えたのは、こゆだ。愛に飢えていたことを自覚させたのも、こゆだ。おれは愛に意地汚くなった。……絶対に失いたくないものなんて、なかったのに。だからこそおれは捨て身でなんだってできたのに。今は怖いよ。君のこととなると、何もかもが怖い。手段なんて選んでいられない。……これは本能じゃない。この愛はどこまでも理性的で、どこまでも野蛮だ。おれには、この愛の方が恐ろしい」
 小雪は都の言葉に理人を見た。「都君、理人君と同じこと言ってる」思わずそう言えば、都は小雪を乱暴に窓へ縫い付けた。
「確かにおれが理人を招いたよ。君は最初こそ動揺していたけど、今の君は、理人、理人、理人。おれのことなんて忘れて、二人で仲良くやって。おれがどれだけ嫉妬していたか、君には分からないだろ。君たちは相性が良すぎる」
 それは理不尽だろう。ムッとして、今度は小雪が都のネクタイを掴み、力任せに引きつけた。都は一瞬瞳を大きくしたけれど、体勢は崩さなかった。
「それはこっちの台詞。君が朝のリビングで理人君と愛し合ってたこと、知ってるんだからね。……二人とも愛したいなら、もっと上手くやってよ。おれだって、そういうの感じると、むかむかするんだから」
 都は今度こそぎょっとして小雪の腰から手を離した。「でも、都君だから許してあげる。魅力的なΩはたくさんいるけど、こんなに心の広い夫はそういないってこと、覚えておいて」小雪はネクタイを手綱のように引きニヤリと笑うと、都の唇を啄んだ。
「……まいったな」
「まいったでしょう。大体、君にそういうこと言われる筋合いないよ。君はおれに黙って理人君に会ってたんでしょう?そのことを棚に上げられると思わないで。本能だかなんだか知らないけど、れっきとした浮気だよ」
「……そうだね。こゆの、言う通り……。本当に、申し訳なかった」
 いつもは簡単に言いくるめられてしまう小雪が、理詰めで都を追い詰める。ばつが悪そうに黙り込んだ都の鼻先に人差し指で触れ、小雪は微笑んだ。
「でも、君の気持ちも分かる。理人君は特別に可愛いもの。おれが誰でも迎え入れると思ったら大間違いだよ。おれは、理人君だから、家族になりたいって思ったの」
 ホテルのレストランに居た理人を思い出す。緊張して、不安そうで、けれど気の強そうな男の子。挑発的な言葉を並べるけれど、それが柔い内面を隠す為の盾であることは明らかで、小雪にはいたいけにさえ感じた。
 あの子を迎えに行かなくちゃ。
 小雪は今こそ、はっきりとそう思った。
 強く柔い、聡く怖がりな、世界にただ一人しかいないあの男の子を、迎えに行かなくちゃ。
「おれ、いま、本当の意味で心が決まった。理人君に、おれたちの家族になってもらおう。理人君を一生、大切にしよう」
 理人君の全てを受け入れる。
 そう腹を決めた小雪の気迫に圧倒されたのか、都は頭を掻いて、「誰が家長か分からないな」と独り語ちた。
 電車を降り、山間の駅を出る。夜空にさえコントラストを描く山々から瑞々しい緑の香が漂い、ひんやりとした夜気へ混じる。
 居場所を失った理人がどこへ行くのか、都にも小雪にも分からなかった。確信が持てないまま、けれどそれが逆に確信となって、二人は突き進んだ。理人の実家も思い出の場所も知らない二人が向かう先を、理人だけが予測できるはずで、今の理人がもし欠片でも二人を求めているのなら、きっと――。
 国道を進み、案内板に従って私道へ入る。緩やかな坂を登り、丘のようになった場所へ出ると、幾千もの星が二人へ降り注いだ。
 その建物は、月影と星屑の光を浴びて、夜でも白く輝いていた。
 小雪は息を一つ、吐いた。建物の門の傍に蹲っている男の子を見つけたからだ。
「理人君」
 小雪は呼びかけた。この世で一番愛おしい男の子へ。
「理人」
 都も理人へ呼びかけた。小雪は都の手を取り、理人に歩み寄った。
「理人君、帰ろう。君のおうちは、おれたちのいるところだよ」
 理人は膝を抱えたまま沈黙し、それから、肩を震わせた。
「ぼく、あくまなんです。おかあさんが、そういってたんです」
 悪魔が産まれたからこの家はおかしくなったんだって、お母さんは言ってた。
 お母さんだって、最初は優しかった。でも、いつからか、僕を遠ざけるようになった。
 お父さんは、僕にするばかりで、兄さんのことは、殴ってた。
 お母さんは、お父さんの布団に入るのはやめなさい、って言った。でも僕は、やめられなかった。
 だって、そうすると、お母さんが僕を見てくれるから。お父さんと繋がることで、お母さんと繋がれるから。
 兄さんは、ずっと僕を憎んでた。なのに、家を出るお父さんを追わずに、僕といてくれた。
 兄さんは、僕を抱いた。
 だけど、そこに愛はなかった。
 お母さんも、お父さんも、兄さんも、僕を愛していなかった。
 僕は、高校を卒業してすぐにシェルターへ逃げた。
 僕と同じような子が、たくさん、たくさんいて、怖かった。
 ずっと、家に帰りたかった。
 帰る家もないのに、家に帰りたかった。
「そうだったんだね……」
 小雪は頷きながら理人の話を聞いた。そうして話し終えた理人が長い息を吐いた後、小雪は理人の前にしゃがみ込んだ。
「今は、できないかもしれない。でも、時が来たら、そのことは忘れていいよ」
「……」
「大事に抱えなくていいよ。手放していいよ。怖くないよ。君の代わりにおれが覚えておくから、全部、忘れたかったら忘れていいよ」
 理人がわずかに顔を上げる。小雪は理人の額と膝の間に注ぐように言った。
「帰ろう。理人君。おれたちと一緒に帰ろう」
 理人の眉間にぐっと皺が寄った。小雪は言葉を注ぐことを止めた。
 都は理人の背に背広を掛け、そっと肩に触れた。
「理人、君を咎めて悪かった。おれは君に、おれたちにとって心地いいことと、そうでないことを、教えたかっただけなんだ。でもそれは、おれたちの価値観でしかない。おれは君のことを、尊重できていなかった。……一方的に君を責めて、悪かった」
 理人の前髪が揺れ、瞳が現れる。都と小雪はその瞳を覗き込み、理人の抱いている感情を確かめた。その男の子は泣き腫らした顔を歪め、「かえりたい」と言った。
「ぼくも、かえりたい。ふたりといっしょに、かえりたい」
 都と小雪は同時に息を吐いた。「帰ろう」「立てる?」「こんなところまで、よく一人で」「疲れたでしょう」口々に理人を労い、二人はふらつく理人を両脇から支えるようにして立ち上がらせた。
 無数の星々が輝く。そのせいか、夜空は明るかった。三人はやおら空を見上げ、理人は「一番星」と呟いて金星を見上げた。二人も理人の眼差しの先を見上げた。
 輝く星が一つ、この子の夜に浮かんで、その星がこの子の人生を、永遠に優しく照らしてくれたなら。小雪は一番星に向かって、理人の幸せを、ひたむきに願った。
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