臆病な僕らは、健気なΩの愛を乞う

野中にんぎょ

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僕が守りたいもの(下)

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「久しぶりだな、理人」
 洋司は座ったまま理人を見上げ、目を細めた。
「理人君、なんで」
 理人は小雪の問いを笑みで制し、洋司に視線を戻した。
「理人、人を尾行するならもっと慎重にならないといけない。私はおまえがこの店に入った瞬間から気付いていたよ」
「……そうだね」
 尾行?一体誰を?そう疑問を抱く間もなく、小雪はすぐに気が付いた。
「理人君、おれを――、」
 小雪の困惑の眼差しに、理人は悲しく瞳を歪めた。
「兄さん、この人には番のαがいる。この人はあなたの元へは行かない。この人のことは諦めて。……お願いします」
 理人は深く頭を下げた。いつもの所作と変わらない、綺麗な姿勢で。理人は頭を上げると小雪の膝にあった封筒を取り、小雪の手を引いた。「小雪さん、行きましょう」
「理人。彼と私の話は終わっていない。彼を置いて行きなさい」
「小雪さんは連れて帰る。……あなたも言っていたでしょう。この人は、奪うことのできない人。差し出すことしかできない人。僕の代わりにはならない」
 身体に力が入りきっているのに立ち上がれず、その上がくがくと震え始め、小雪は噛んだ唇から呻き声を漏らした。肌は冷えているのに、その内側は燃えるようだ。動悸と呼吸が競い合うように逸りはじめると、目の前がぐらつき始めた。
「なるほど、確かにそうだな。でも、母の代わりにはなってくれるかもしれない。……理人、おまえもそう思っているんだろう?この人を母の代わりにしているんだろう?」
「……兄さん」
 理人はささくれた声で兄を制した。
「そのフェロモンをしまって。小雪さんが苦しんでる」
 洋司は組んだ腕をテーブルに乗せ、震える小雪を覗き込んだ。
「私がαであることに、やっと気付きましたね。……Ωとしての能力は低いのに、私のフェロモンは分かるんですね。私もあなたの無いに等しいフェロモンを感じ取ることができましたし、私たち、αとΩとしては相性が良いようですよ」
「……そんな、こと」
「言い方を変えればこうだ。あなたと私は、」
「兄さん!」
 理人の声に、小雪の肌がびりびりと痺れた。
「兄さん。この人は僕が連れて帰る。言いたいことがあるなら僕に直接言えばいい」
「……無粋だな。番のいるαを運命の番と慕い、その家庭を荒らしているのは、どこの誰だ?私はおまえと同じことをしようとしているだけだよ」
「やめて」
 小雪は洋司の手首を掴んだ。ぎち、と太い手首が軋む。
「お願い、やめて、理人君を傷付けないで。この子は十分に傷ついてる。その傷を深くする必要なんて、絶対にない」
 朦朧としながら言い放つと、洋司は「クッ」と噛みしめるように笑って、小雪の手を払った。
「今日のところは、これで」
 洋司が視界から去ると、小雪は机にくずおれた。項がもうずっと痛い。汗が止まらない。
 理人は小雪の隣に座り、背を摩ってくれた。「理人君」小雪は理人の顔を覗き込んだ。
「おれの部屋に、入ったの……?」
 背を摩っていた手が止まる。
 理人は固い表情で机を見つめ、それから、瞼を下ろして一つ頷いた。
「すみません。あなたがいない間に、あなたの部屋を、あなたの机の引き出しを、あなたが隠したがっていることを、僕は暴いた。……それも一度じゃない。僕は、あなたと都さんが家にいなければ、毎日のようにそうしていた。あなたを、もっと信じたくて。間違いなく信じられる人だと、僕を裏切ったりしない人だと分かりたくて。……もうこういうことは止めたくて。あなたに、ありふれた普通の愛を、あげたくて」
 理人が過去にどんな裏切りを受けたのか、小雪は知らない。無理に暴いたことは、事実であっても真実にはなり得ないと分かっているから、知ることができなくても構わなかった。
 自分と理人を隔てる大きな溝を、小雪は覗き込んだ。冷たく深い闇。どれだけ与えられようが埋まることのない、長い年月をかけて刻み込まれた孤独と悲しみ。
「都さんは、僕のしていることに、すぐに気付きました。二人きりで話した際に、きつく咎められました。小雪さんのことをこれ以上不躾に暴くなと、こういったことを続ける気なら家族にはなれないと、言われました。……でも僕は止められなかった。帰宅したあなたの身体に時折、αの匂いが残っていて、あなたも僕を残してどこかへ行ってしまうんじゃないかって、どうしようもなく不安になって……。そうしたら、兄の名刺を、あなたの机の引き出しの奥に見つけて……、」
 理人に視線を向けられ、小雪の喉がひくりと震えた。理人は小雪から手を離した。
「いつから、いつからそうしてたの?」
「最初から。……最初は、ゴミ箱。ヒートやホルモンをコントロールする薬を見つけて、あなたのΩとしての性質に予測を立てました。それから、あなたの嗜好も。甘く香り豊かなものが好きで、特にブドウとコーヒーを好んでいることも、それで。……部屋に入るようになってからは、あなたの好きな映画や音楽、好んでいる色や素材を知った。動物が好きで、子どもの読むような図鑑を時折広げていて、シロクマの頁には綺麗な栞を挟んでいることも、知った。……あなたと僕で初めて料理をした日の夜、都さんが何度もあなたを求めたことさえも、知ること自体は容易でした」
 おれの部屋だけでなく、都君の部屋まで。「どうして」と、強張った声が口を衝いて出た。
「……どうして、引き出しまで」
 小雪は声を震わせた。理人は、深く息を吸い、俯いて、か細い声で答えた。
「僕のやり方では、あなたと繋がれないと、分かってから。Ωの僕はΩのあなたを繋ぎ止められるだけのものを持っていない。なのにあなたは、僕そのものを愛してくれた。僕がずっと望んでいたものを惜しげもなくくれた。あなたを絶対に失いたくないと思うようになると、それと同時に、あなたの全てを暴きたいと思うようになった。……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
 理人のキスを拒んだ日のことを思い出し、小雪は愕然とした。理人はそうやって自分を差し出すことで相手に認めてもらいたいのだと、そう思っていた。
 けれど、違った。あの時の理人は、ただ小雪を求めていた。幼い子が自分を受け止めてもらいたくて母親の胸に飛び込むのと同じことを、理人は――。
 キスは、理人の、愛の形だ。いや、キスだけじゃない。愛しているから唇を、温もりを求めて、愛しているから暴いて、愛しているから確かめる。その全てが、理人の愛だ。
「僕は、おかしい」
「……」
「おかしいんです。僕は、まともじゃない。あの家に育ったからじゃない。僕がそもそも、悪魔だから」
「理人君」
 言葉の刃で自傷する理人を止めたくて手に触れると、理人は小雪の手を掴んで引き寄せた。小雪の指先が、さっと冷えた。
「小雪さんは、いつから?いつから僕がおかしいって、気付いていたんですか?」
 君はおかしくなんかない。そう言いたいのに、言えなかった。小雪は理人の眼差しに応えたまま、「君が、おれのお弁当を、届けに来てくれた日から」と答えた。
「君は、おれの職場を都君から聞いて、けれど伝えられた場所が間違っていて昼時を過ぎた、と言ったけど、そんなこと起きるはずがない。……都君がおれについて間違ったことを覚えているなんて、ましてや職場の住所を間違えるなんて、ありえない。それが最初の、小さな違和感だった」
「……そうですか」
 理人は項垂れた。しばらくして理人は小雪の手を離し、「最後に、」と今にも消え入りそうな声で言った。
「最後に、唇にキスさせてくれませんか」
 小雪の視界が滲んだ。理人にとってそれは、愛情を示す何よりのコミュニケーションで、でもそれを、今の小雪では受け止められない。
 キスを受け止めたら、その先には何が待っているのだろう。理人の父のように、この身体を愛すことになるのだろうか。そんなことはできない、理人を消費したくない。……けれど理人にとっては違うのだろう。理人はそうすることで何度も満たされてきたのだろう。小雪と理人の愛の形は、まるきり違っている。
分からないから、怖い。そう感じてしまう自分が歯痒くて、悔しくて、悲しい。
「できない」
「……」
「できないよ。おれには。今の、おれには」
 理人は立ち上がった。あの日のように真っ直ぐな姿勢で、すっくと。美しかった。こんな時でも。理人はいつだって美しい。「理人君」思わず呼ぶと、理人は微笑んだ。やっぱり美しかった、可愛かった、愛しかった。
「あなたと、都さんと、少しの間だけど、一緒にいられて楽しかったです。信じられれば疑うのを止めようって、普通になりたいって、そう思ったのは本当です。……あなたたちを愛していたのも、本当。家族になりたいって思ったのも、本当。……でも、おれには誰かを信じ切ることはできないんだって、いつかこうなるって、分かってた」
 理人は悔しそうに笑った。小雪は、その笑みに応えられなかった。
「さよなら、僕の、一番星」
 応えればよかったのだろうか、あの時の唇に。けれど小雪には応えられなかった。きっとそれが全てだった。
「りとくん」
 呼んでも、理人は振り返らなかった。
小雪は悔しくて泣いた。愛していると、家族だと、そういう言葉を並べ立てておきながら、もうずっと理人を信じたかった、そんな自分に気付いたから。
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