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本妻の決心

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 理人のヒートは、彼のΩとしての優秀さを表しているかのように重いものだった。
 期間は十日間近くと長く、理人はほとんど飲まず食わずで昼夜なく都と交わった。
 理人はしばしば、小雪を呼んだ。小雪はヒートのピークを越えるまではその呼びかけに応えず、理人が寝静まっている時にだけ部屋を訪れ、着替えや食事を置いて行った。
 それでも理人は小雪を呼び続けた。都さえ困った顔をした。乱れた姿のまま閨を飛び出してしまった理人の手を、小雪はできるだけそっと握った。ちゃんと傍にいるからね。そういう想いを込めて。
 ヒートのピークを過ぎると、理人は都の隙を突いて部屋を抜け出し、ふらつく足取りで小雪を探した。小雪はそのたびに、していたことを中断して理人に応えた。
「まるで母子だな」
 都はそんな二人を眺め、そう言った。理人は視線を宙に投げ、「そっか、よかった、小雪さんが僕のお母さんだったんだ」とうわ言のように呟いた。
 ヒートを終えると、理人はますます小雪にべったりになった。一日に何度だって、頬に、額に、項に唇を降らせ、小雪を困らせた。理人と小雪は、とうとう都からお説教されることになってしまった。
「理人。仲が良いのはいいことだけど、ああいうのは、おれも妬くよ。こゆも困っているだろう」
「仲良くしろと言ったのは都さんでしょう。なんで今更そういうことを言われなくちゃならないんですか?……小雪さんが一度でも困ってるって言いましたか?言ってないでしょう!なんで僕と小雪さんを引き離そうとするんですか!」
 理人の声はいたましいほど切羽詰まっていて、都と小雪はその必死さに虚を衝かれ視線を交わした。
「こゆは最近の理人をどう思ってる?」
 意見を求められ、小雪は「悪い気はしないけど……」と言葉を濁した。このところ、理人はずっと小雪にくっついている。キッチンにいる時も、洗面所にいる時も、洗濯物を干す時も畳む時も……。
「料理してる時はやめて欲しいかな。火が危ないし、包丁も危ないし」
「ね?」と隣の理人を見やれば、理人は、そんなことは承知の上でこうしているんだと言わんばかりに小雪を腕の中へ閉じ込めようとした。その腕を、都はパッと掴み上げた。
「理人、三人で話をしている最中だろう」
「……都さん。あなたの悪い所、出てますよ」
 空気が張り詰めて、小雪は狼狽えた。つい先日まで閨に閉じ籠り愛し合っていた二人が、今は互いの神経を逆撫で合っている。理人の様子がいつもと違うようにも思え、小雪は「今日の夜は外食する予定だったよね?」とスマートフォンを取り出した。理人のヒートで“今後の三人についての話し合い”が先延ばしになっており、ちょうど今日が三人揃っての休日だった。
「いいお店見つけたんだ。イタリアン、フレンチ、お寿司、どれがいい?」
「小雪」
 都から固く名前をなぞられ、小雪は肩を落としてスマートフォンを伏せた。「店は予約しなくていい」都ははっきりとそう言って、理人に向き直った。
「理人。二人きりで話そう。おれの部屋においで」
 都はそうとだけ言うと、ソファーから腰を上げリビングを出た。理人はしばらく空になったソファーを睨んでいたけれど、膝の上で拳を握ったかと思うと立ち上がり、都の部屋へ向かった。
 リビングに一人取り残された小雪は、スマートフォンをローテーブルに戻し、その身一つで家を出た。
 灰色の空の下、川沿いをゆっくりと歩く。そうするだけで汗がほたほたともみあげから滴った。真夏の強烈な光線に刺され、心身を清められているような心地になった。
 あの日、胸ポケットに差し入れられた洋司の名刺は、自室の机の引き出しにしまってある。破り捨てようかと悩んだけれど、彼が理人の兄であることは変えようのない事実で、捨てることはできなかった。
「東神田さん」
 名前を呼ばれ、小雪は声のした方に面を向けた。半袖のシャツにテーパードパンツというカジュアルな出で立ちの洋司が、欄干の傍から小雪に微笑みかけていた。
 小雪は後退りした。なぜここに、このタイミングで。洋司は身構えている小雪にそれ以上近づこうとはせず、「理人のヒートは終わりましたか」と尋ねた。
「それは道端で誰かに教えるようなことではないと思います」
「理人の周期はカッチリしているんです。理人が家にいない今でも、なんとなく予想ができて」
 話が決定的に噛み合わず、小雪は家とは逆方向に爪先を向けた。
「東神田さんは鞄も持たず一人でどちらへ?」
「……ごめんなさい。これから急ぎの用事があって……」
「意地悪な人。私はずっとここで待っていたのに」
 隣に並び同じスピードで歩き始めた洋司を、小雪は立ち止まり睨んだ。
「理人君を待ち伏せしていたんですか」
「いやだな。あなたをですよ」
 小雪は面を伏せ、それから意を決したように洋司に向き直った。
「あなたがおれにどんな過去や事実を伝えたって、おれの気持ちは変わりません。おれは主人と理人君を愛しています。おれたちが奇妙な関係に見えるのも、理人君を心配される気持ちも分かります。けれどおれは、主人だけでなく理人君も大切にしたいと、」
「違う」
 洋司は小雪の言葉を切り捨て、首を振った。
「私が心配なのは、理人でなく、あなたです。……私が理人をこうやって監視していたことを、想像できないわけじゃないでしょうに。あなたは人が好過ぎる。こんな私に簡単に向き合い、簡単に胸の内を語る。……私が救いたいのは、理人とご主人の餌食になっているのに、それに気付きもしない、憐れなあなただ」
 いつかの理人の言葉を思い出す。“憐れ”というのは、この兄から学んだ言葉なのだろう。
「いいえ。憐れなのは、あなたの方です」
 小雪は洋司の瞳を覗き見た。その奥には、漆黒の闇が際限なく広がっている。
「私?私がですか?……そんなこと初めて言われたな」
「あなたがおれを憐れだと思うように、おれもあなたを憐れだと思っています。あなたは理人君がいなくなってもなお、あなた自身を生きず、理人君に寄生した人生を送っている。あなたは孤独と悲しみゆえに理人君と同化したがっているだけ。……おれはあなたを心から憐れに思います」
 洋司は不意を衝かれたように唇を開き、それから、くしゃっと表情を崩して笑った。
「そこまで言うなんて。ひどい人。さすがに傷つきましたよ」
「おれもあなたのことをひどい人だと思っています」
「……あなたとは気が合うみたいだ」
 洋司の大きな手のひらが小雪の腕に触れても、小雪は動じなかった。小雪は洋司を睨み、目を逸らさずに、「触らないでください」と拒絶した。
「意外と気が強いんですね。あなたがますます心配だ」
「おれはあなたのお母さんとは違います」
「そうですね。でも、タフだから、折れた時、立ち上がれなくなって、折れたところはもう二度と元通りにはならなくて、息ができなくなっちゃうんじゃないかって、心配になります」
「そうなるかもしれないけど、おれがそうなるなら、おれをそうしたのは主人だから、理人君のせいじゃありません」
「理人ではあなたを折れないってことですか?」
「ええ。理人君では、おれを折れない」
 洋司のこめかみから汗が伝う。触れられた部分は熱いはずなのに冷たくて、小雪は洋司の手を払い帰路を進んだ。


「小雪さん、どこに行ってたんですか!」
 鍵を持って出なかったのでインターホンを押せば、玄関扉から理人が飛び出して来た。「ちょっと散歩」と言って表情をほぐせば、理人は長い息を吐いて小雪を抱き寄せた。
「わ、だめ、汗だくだから!」
 腕の中で声を上げれば、理人はしばらくそうした後に、小雪の手を引いて脱衣所に向かった。「理人君?」理人は脱衣所のドアを閉め、どこか取り繕うように微笑んだ。
「汗をかいて気持ち悪いでしょう。昼ごはんは僕が作りますから、小雪さんはシャワーを浴びて」
「え、でも、」
「ちゃんと髪も洗って。身体は隅々まで。小雪さん、分かった?」
「おれ、そんなにくさい?」ショックを受けて青ざめれば、理人は首を振った。「小雪さんはいつだって綺麗な香りがしてる」もう一度抱き寄せられ、小雪は理人の面に浮かぶ感情を探った。
「理人君、どうしたの?都君に何か言われた?」
 つい口にして、自分が理人の味方に回っていることに気付く。小雪は自身の変化に戸惑い、理人をひたと見つめた。
「こゆ?帰って来てるのか?」
 ドアの向こうから都の声が聞こえてくると、理人は慌てた様子で小雪を風呂場へ押し込めた。
 訳も分からず、けれど理人から言われた通りに念入りに全身を洗い流し、リビングへ戻る。テーブルを指先で叩いていた都は、小雪を見るなり床を蹴って立ち上がった。
「こゆ!こんな猛暑日にスマホも持たずにどこへ行ってたんだ!」
「散歩だよ。夏の太陽って浴びると気持ちいいんだよ」
 笑って見せれば、都はぐっと堪えるように唇を結び、小雪の手を取った。
「おいで。おれに何か話して。なんでもいい。散歩の途中で見つけたお店のことや、すれ違ったネコのことでも……」
 都は祈るようにして項垂れ、小雪は都に乞われるがままとりとめのない話をした。最近の西崎さんとおじいちゃんの話、出勤途中に必ず出会えるネコの話、散歩中に見つけた入道雲の話……。洋司のことは、そっと胸の奥にしまい、厳重に鍵をかけた。
 理人がナポリタンを取り分けてくれたタイミングで、小雪は「おしまい」と言って都の手をポンポンと叩いた。
「都君と理人君は?二人でなに話してたの?」
「君のことだよ」
 都はため息交じりに即答した。
「おれと理人が話すんだ、君のことに決まってる」
 小雪は一瞬時を忘れ、「おれだって……」と言葉を詰まらせた。喉元に詰まった熱いものは涙だったのだと、頬に雫が伝ってから気が付いた。
「え、ごめん、なんで、」
 誤魔化すように口角を上げても涙は止まらず、小雪は自室へ逃げ込もうと踵を返した。都は握った手を離さなかった。強く引きつけられ、小雪は都の胸に抱かれた。そこから響く鼓動、肌の香り、心に馴染んだ温もり。
「う、う……、うぅっ、」
 小雪は嗚咽を漏らし、肩を跳ねさせながら泣いた。
 ずっと愛しくて、ずっと不安だった。
 二人には特別な世界があって、小雪だけがそこに入れない。理人が求めてくれるから都の傍に在れる気がして、理人の好意に縋った日もあった。けれどその一方で、理人もまた小雪にとってかけがえのない存在になっていって、相反する気持ちを抱えた自分をどう受け止めたらいいのか、もうずっと分からなかった。
 顔を上げ理人を探す。理人はキッチンから小雪に微笑みかけ、部屋を出ようとした。
「りとくん」
 小雪は理人を呼んだ。理人が自分を呼ぶ理由が、分かったような気がした。
 理人はしばらく躊躇っていたけれど、小雪の視線に応えて二人へ近づき、小雪の頬を指先で撫でた。涙を拭ってくれたのだとすぐに気付いて、小雪は理人に飛びついた。
 ずっと、理人を裏切っているような気がしていた。苦しさを捨てきれず、なのに愛しくて、受け入れたくて、藻掻いて。こんな気持ちを、理人にだけは知られたくなかった。理人を悲しませたくなかった。理人に、嫌われたくなかった。
「理人君、ごめんね、だいすきだよ、ほんとうだよ」
「……分かってますよ。だって僕も、小雪さんのこと、」
 理人は言葉に詰まり、小さくしゃくりあげた。抱きしめ合って二人で泣くと、熱と涙で全てが融けて、二つの身体と心が一つになったような感覚が押し寄せた。春の海のような愛おしさが、寄せては返し嵩を増し、二人を包み込む。都はそんな二人を抱き寄せ、二人もまた都の背に腕を回した。
「おれたち、家族になろう。こゆ、理人、それで構わない?」
 小雪と理人は頷き、顔を見合わせて笑った。
「話し合いするんじゃなかったの」
「詳しい説明もなしじゃないですか」
 二人のΩに詰られ、都は目を細めて二人の額へキスを落とした。
「理人。次のヒートが来たら、おれの番になってくれる?」
 理人はまず小雪を確かめた。いつもそうだ、理人は誰よりも小雪を優先する。
 小雪は微笑んで頷いた。自分の項にあるしるしが理人の項にも残る。都と理人は運命と愛とそのしるしで固く結ばれ、二度とほどけたりしない。小雪の心には今、それ以外の願いはなかった。
 理人は都を見つめ、頷いた。
「嬉しいよ。ありがとう、理人。……こゆ」
 小雪は都に応え、彼の背に回した腕に力を込めた。理人が腕を解き、二人から一歩下がる。都はその分、小雪をきつく抱きしめた。
「こゆ、ありがとう。いつもおれの傍にいて、見守っていてくれて。こゆがいるから、今のおれがいる。こゆなしでは、おれは生きられない。愛してるよ、優しく逞しい、おれの一番星」
 小雪は静かに微笑んだ。その拍子に涙がこぼれた。理人を手招きし、もう一度三人でハグをして、頬へ口づけを贈り合う。
「さあ、これからのおれたちについて存分に語り合おう。美味しそうなナポリタンもあることだし、今からってことでいいよね?」
 理人が頷いたのに続き、小雪も頷く。涙で心が洗い流された今なら、なんだってできるような気がした。
 この二人を守りたい。小雪は際限なく湧きいずるその思いを胸に刻み込んだ。
きっと二人を守り抜く。自分に、どんなことがあったとしても。
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