臆病な僕らは、健気なΩの愛を乞う

野中にんぎょ

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嵐が来る(下)

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「理人は私のことを何か言っていましたか?」
 面を上げた小雪は首を振りかけ、止めた。洋司の瞳が底光りしているように見え、逡巡し、「年の離れたお兄さんと家事を分担して生活してたって、兄らしく気遣ってくれたって、理人君は……」という言葉にすり替えた。
「兄らしく……」
 洋司は、思ってもないことを、とでも言い出しそうに復唱した。
「理人について、東神田さんのお耳に入れたいことがあるんです」
「……理人君についてですか?」
 洋司は小雪の戸惑いには構わず、「できれば後日、別の場所で、私と東神田さんの二人でお話できませんか」と付け加えた。掛け違った会話に、理人の、兄というトピックに対する頑なな反応を思い起こす。小雪は今度こそ首を振った。
「おれは、理人君についてもっと知りたいと、確かに思っています。けれどおれは、理人君のことは理人君から知りたくて。……お誘い頂いてありがとうございます。でも、おれは大丈夫です」
 凛とした小雪に、洋司は笑みを深め、「思った通りの人が、思った通りに絆されている」と独り言ちた。言葉の真意が掴めず眉を顰めれば、洋司は冷たい瞳で小雪を見下ろした。
「あなた、Ωでしょう?」
 今まで誰にも気付かれなかったことを初対面の男に明かされ、小雪は身構えた。どこで気付かれた?必死になって記憶を遡っているうちに、洋司がにじり寄って来た。
「あなたは私の母に似ている」
 眼前で囁かれ、小雪は自転車のハンドルを放してしまった。派手な音を立てて倒れた自転車は、誰の視線にも追われず車輪を空転させた。
「率直に申し上げますね。……あの子には気を付けてください」
 あの子、という表現と理人がイコールで結ばれず、小雪は自身の両腕を胸に抱き、嵐が去るのを待った。
「あの子はΩとαの頂点に君臨する女王蜂のようなもの。理人の傍にいるあなたを例えるなら、働き蜂か侍女といったところでしょう」
 まるで理人を主人公にした物語の著者のように、洋司は朗々と語った。
「能力値の低い個体は得てして優秀な同族に惹かれる。あなたはΩとして欠けている部分を理人で補うことでご主人との番関係を維持しようとしていて、理人はそれを逆手に取って新しいコロニーを形成しようとしている」
「なにを、」
「あの子は女王蜂以上に喰い尽くしますよ。なんせ、あの子は常識が欠けていて、やっていいことと悪いことの区別がつかない。あの子に“普通”は通じません。その異常さはいつかあなたを蝕むでしょう」
「理人君をそんなふうに言うのはやめてください」
 やっとのことで声を絞り出すと、口端が戦慄いた。理人を愚弄するこの男を理人に近づけてはならないと、小雪は洋司の前に立ちふさがるように一歩前へ出た。
「忠告は以上ですか?」
「このままでは、ご主人が理人に取られてしまいますよ」
「取られるも何も、理人君は主人の運命の番です。おれたち、三人で家族になろうって話し合っているところなんです」
「α一人とΩ二人で家族に?そんなこと、できるはずがない。あなたには、ご主人に番を解消され、誰とも番えず一人で朽ちていく未来が待っている。……ちょうど、私の母が歩んだ人生のように」
 洋司の瞳に今はじめて光が過る。
「私と理人は異夫兄弟なんです。……αの父は、Ωの理人を愛し、私の母を家から追い出した。……私の母はΩだった。理人が幼い頃は、今のあなたと同じ、明るく穏やかな、芯のある人だった」
 父が子を愛する、というのが、この時は別の意味を持っていて、小雪は吐き気を催した。口元を抑え蹲ると、洋司も同じようにしゃがみ、小雪と視線を合わせた。
「私はもう、母のような犠牲者を出したくないんです。……東神田さん。あなたの家庭が壊れる前に、私が理人を説得しましょう。それにはあなたの協力が必要だ」
「説得って……」
「あなた方の家から出るように、と。あるべき場所へ戻るように、と。そういう説得です」
 小雪は首を振った。「そんなこと、おれは望んでいません」洋司はその答えは予想済みだと言わんばかりに、「いきなりこんなことを言われても混乱しますよね」と言って、おもねるように微笑んだ。
「混乱なんてしていません。おれたちは理人君を家族の一員として迎えたいと心から思っています。理人君はおれたちが大切にします。だからもう、」
「家族、ですか」
 洋司はその響きを懐かしむように口にした。
「あの子は家族を家族らしく扱えませんよ。……私たちの望む家族のあり方を、あの子は理解できないし、再現することもできない。長らく父親の庇護下にあったから、そういうものを何一つ知らないんです」
 そこまで言って、洋司は溜息を吐き立ち上がった。
「ではまた、近い内に」
 小雪の胸ポケットへ一枚の名刺が差し込まれる。スポットライトになったような街灯の下、小雪は暗闇の向こうを睨み続けた。


 都と理人が愛し合う声と、洋司の声とが、小雪の頭の中でぐるぐると渦になる。小雪は玄関扉を開けるのを躊躇い、けれど迷いを打ち捨てたくて鍵を差し込んだ。いつもは明かりの灯っているリビングが、夜闇に沈みシンとしている。
「理人君……?」
 帰りが遅くなったこともあり、心配になって理人の部屋へ急げば、ドア越しに「こゆきさん」と小雪を呼ぶ声が聞こえた。
「理人君、入るよ」
 いつもとは違う様子の声に突き動かされ、小雪は理人の部屋へ足を踏み入れた。
「小雪さん、ごめんなさい、僕……、」
 上気した頬に潤んだ瞳、艶の浮いた肌。そんな理人の横たえたベッド一面に敷き詰められた都の衣服。小雪は理人の身に起こったことを悟り、彼の傍へ駆け寄った。
「ヒートが来ちゃったんだね。ごめんね、帰りが遅くなって」
 小雪はベッドに上がり理人の背を摩った。漆黒の瞳がチカリときらめき、その中へ誘うかのように、理人は小雪を覗き込んだ。
「理人君?」
 呼ぶと、理人は小雪の両腕を掴み、自身へ引きつけた。あの匂いが小雪の鼻先を掠める。花を糖蜜で覆ったかのような、甘くねっとりとした――、
「理人君、何か食べた?抑制剤は?」
 理人は焦れたように頭を振り立て、「行かないで」と小雪の言葉の先を封じた。
「何か持ってくるよ。すぐできるもの。おにぎりなんてどう?」
 ぶるぶるぶるっと頭を振り、理人は「いやだ」と小雪の不在を拒絶した。今までにない様子に困惑していると、そのまま深く腕を引き付けられた。「うわっ!」視界が急展開し、衝撃に顔が歪む。頭の中で状況を整理しているうちに、理人が覆い被さって来た。
「こゆきさんっ……!」
 ぎゅうっと抱き着かれ、小雪は天井を仰いだまま理人の背を撫でた。
「分かった。どこへも行かない。都君が帰って来るまでここにいる」
 そんな言葉が勝手に口からこぼれて、小雪は瞳をかすかに見開いた。
 ――αの父は、Ωの理人を愛し、私の母を――、
 洋司の言葉が過り、小雪の脳裏に一筋の稲妻が走った。愛情を乞うのに、キス以外の方法を理人が知らなかったのだとしたら。そうやって乞うように、教えられたのだとしたら――。
 小雪は理人を抱きしめ一緒に転がると、両腕を広げて再び理人を胸の中へ迎え入れた。包み込むように理人の頭を胸に抱けば、理人は深い息を吐いた。
「小雪さんの、心臓の音が……」
「どう?ちゃんと動いてる?」
 軽口のつもりだったけれど、理人は小雪の胸に鼻先を擦りつけるようにして頷いた。……ぐう。同時に理人の腹が鳴り、沈黙していると続いて小雪の腹もぐうと鳴った。顔を見合わせ、くつくつ笑う。
「おにぎり、ゆかりとわかめ、どっちがいい?」
「……梅干し入れて、海苔巻いたやつ」
「分かった。他に持って来て欲しいものはない?」
「抑制剤は飲んだんです。これでも効いている方で……。小雪さん、しんどくないですか?僕のフェロモン、気持ち悪くない?僕がうっとおしくない?」
 小雪はカラッと笑って理人の首筋の匂いを嗅いだ。理人の肩が跳ねて喉元が反る。宥めるように頭を撫でると、理人は潤みきった瞳で小雪を見つめた。
「ちょっといい匂いするなぁって思うだけ。柔軟剤と一緒」
 理人は瞳を大きくして、それから、「柔軟剤って」と砕けるように笑った。
「ねえ、小雪さん、早く帰って来て」
「うん。梅干しおにぎり高速で作るよ」
「早く、できるだけ早くね」
「うん」
 そんなやりとりもしたのに、理人はよろめきながら小雪を追い、キッチンで背中越しに抱き着いてきた。
「小雪さん、早くして」
 熱をたっぷりと抱えた身体と吐息が小雪を急かす。理人を背中にくっつけたまま、四個おにぎりを作って部屋へ戻ると、理人が「小雪さん!」と声を上げて真正面から小雪を抱きすくめた。小雪は皿をスツールへ置き、つま先立ちになって腕の中から顔を出した。
「おにぎり食べようよ。お腹空いてるでしょう」
 肩口にぐりぐりと面を押し付けられ、「くすぐったいよ」と理人の背を叩く。それでも理人は離れてくれない。
「梅干しおにぎり、冷めちゃうよ?」
 両肩に触れ理人の表情を覗き込めば、理人は小雪の鼻先を避けるように首を傾げた。
 ……あ。
 小雪ははたとして、理人の唇と自身の唇の間に手を翳した。
 理人の唇は、小雪の指先に落ちた。小雪はみるみる歪んでいく理人の瞳を見つめ、「だめだよ」と囁いた。
「おれとは、だめなんだよ。こういうことは、都君としてね」
「……前は、」
「ごめんね。キスしちゃったね。でも、誰にでもこういうことをしてると理人君がすり減っちゃうんだよ。自分でも気付かないうちに、心が傷ついていくこともあるんだよ」
「誰にでもじゃない!僕は、小雪さんだから……!」
 理人は声を荒げ、肩をいからせた。小雪は「あのね」と理人に語りかけた。
「こういうことをしなくても、おれは理人君の傍にいる。おれがただ君の傍にいたいからそうするんだよ。……キスなら、ほっぺにくれると嬉しいな」
 理人は瞳を歪ませ、小雪をきつく抱きしめて、頬へ押し付けるようにキスをした。お返しに理人の頬へ口づけると、やっと納得したのか、理人は腕の力を緩めてくれた。
 次の瞬間、理人の眼差しがドアへ向かい、玄関扉の鍵が開く音がした。
「理人?」
 都の声が聞こえ、小雪は理人の腕の中から抜け出した。
「理人君、何かあったら、いつでも呼んでね」
 理人は何か言いたげにしていたけれど、都が部屋に入って来ると、その眼差しは都だけに注がれた。
 小雪は俯いたまま二人の横をすり抜け、ドアを閉めた。
 胸の奥にまで響く痛みを押し込めて、きっと、と願う。きっと、三人で家族になれますように。きっともう、失いませんように。
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