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ΩはΩを受け入れるか
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どんな夜を過ごしても、朝は訪れる。アラームより早く起きてしまった小雪は出汁を取りながら目を擦った。
昨晩、七品ものコース料理を沈黙のまま平らげた後、理人は東神田夫夫の提案に頷きゲストルームで一夜を過ごしてくれた。
その夜、小雪はノートに書き留めていた理人のインタビューを読み直した。当時の理人は十八歳で、高校を卒業した日にその身一つでシェルターに駆け込んだのだと言っていた。……聞き取りの中盤、都は小雪に部屋から出るように指示した。インタビューの音声データも引っ張り出そうとすればそうできたが、小雪はそうしなかった。
理人は現在、十九歳。あまりに若い。
昨晩のことを思うと頭が痛い。二十八歳の大人が十九歳の男の子に食って掛かって……。贖罪のように味噌汁とだし巻き卵、キュウリの浅漬けに炊き立ての白米を用意したけれど、理人が部屋から出て来る気配はなかった。
「部屋に持って行ってみようか」
「大丈夫だよ。おれたちが家を出た後に食べるかもしれないし、食卓に置いておいたら?」
平然と味噌汁を啜っている夫に、小雪は「ずいぶん他人事だね」とささくれた声を投げた。
「他人?この場合の他人の定義とはなんだろう?家族であっても仲違いしていれば他人とされる場合もあるが、厳密に言えば皆他人だろう。おれにとって理人は他人だ。そして君も」
「都君!おれはそういう話をしてるんじゃないの!」
声を荒げてしまい、小雪は手で口元を抑えた。なのに、都は悠然と微笑んでいる。「大丈夫。理人は十九歳だ。子どもじゃない」なぜか都から諭され、小雪は眉間に皺を寄せて理人の為によそった朝食にラップを掛けた。
「あんな若い男の子を、番になろうって言葉一つでシェルターから連れ出してしまうなんて、都君はどうかしてる。もっと彼と話し合うべきだったんじゃないの」
本音を言えば、こちらにだって気を配って欲しかった。そういう気持ちを伏せて都を恨めしく見やれば、彼は遠い目をした。
「そうできたら、よかったんだけどね。なにがなんでも理人を傍に置きたくなって。……理人を想うと、どうしようもなく会いたくなって深夜に車を走らせたくなったり、頭の中が理人でいっぱいになって眠れなくなったりしてね。自分が自分でないみたいなんだ」
小雪は今はっきりと傷ついた。いつだって理性的な都が理人を想ってこんなことを言う。じゃあ、おれとの恋愛はそうじゃなかったの?尋ねそうになり、思いとどまる。運命の番に出会ったことのない小雪が感じたことのない何かを、都と理人は感じている。
「こゆ、理人が嫌い?」
無垢に尋ねられ、小雪は項垂れたまま首を振った。
「嫌いかどうかなんて分からないよ。だっておれはあの子と出会ったばかりで、昨日はあんなふうに言い合ってしまって……」
誰かと言い合った経験のない小雪は頭を振り立てた。「ふふ」都の微笑みの気配にうんざりしつつ顔を上げれば、都は甘ったるい眼差しで小雪を見つめていた。
「おれはこゆのこういうところを愛してる。こゆは誰より理知的で、誰より逞しく、だからこそ誰よりも優しい。こゆはおれの唯一無二だ。心から愛してるよ、おれの一番星」
タチが悪いことに、この男は根っから本気でこういうことを思っている。小雪は都を半ば憎く感じ、そっぽを向いた。
「うちの夫も大変だったわよ。若い頃はアッチへ行ったりコッチへ行ったり。わたし、もう、参っちゃった」
西崎さんは眉根を寄せ溜息を吐いた。陽気差し込む昼下がり、小雪はレクリエーション後のおやつタイムで施設の入所者たちから慰められていた。
「うちの主人が浮気した時なんか、父が松明を持って丸腰の主人を三日三晩追い回してね。それからは浮気しなくなったけど、現代ではそうはいかないわね」
かぼちゃ団子をつまみつつ、おばあちゃん三名と小雪は話に花を咲かせた。「松明ですね、参考にします」小雪の軽口におばあちゃんたちはころころと笑った。
「一夫多妻制なんてアタシたちの時代なら考えられなかったけど、今はもう男性の方が少ないっていうし、女性もいっぱしに稼いでるから結婚や出産に旨味がないし。時代よねぇ~」
ねぇ~。四人で相槌を打ち、渋めに淹れた緑茶を傾ける。「西崎さん、息子さんが来られてますよ。お部屋に戻りましょうか」スタッフの呼びかけに応え、二人は杖を突き、一人は小雪が車いすを押して、お茶会は解散となった。
「でも、ひどいわね、小雪ちゃんのご主人。浮気よりもタチが悪い」
車いすに乗った西崎さんが声を曇らせる。小雪は苦く笑った。
「皆さんの楽しい時間に水を差してすみません。ニュースで見た時は、いいねって思えてたのに、自分の身に降りかかるとどうも……」
「当たり前じゃない。三人でどう愛し合えっていうの。夫婦だって恋人だって二人一組よ。……でも、そうね……、」
西崎さんは眉間の皺を緩め小雪を振り返った。
「家族にならなれるかも」
おばあちゃーん。西崎さんの部屋の前から、お孫さんと息子さんがこちらに手を振る。西崎さんは微笑み、手を振り返した。小雪の脳裏に“家族”という言葉が浮かび上がり、心にさざ波が立ったようになった。
でも、そうね、家族にならなれるかも。
西崎さんの何気ない一言はふとした時に小雪の脳裏へ浮かび、慌ただしさに紛れて消えていく。
小雪には父の記憶がない。母一人子一人で暮らした日々も長くはなく、小学二年生の冬に母を亡くすと、小雪は祖父母の家に身を寄せることになった。しかし、その次の年には祖父が亡くなり、昨年にはついに祖母も逝ってしまった。家族が減っていく感覚が、小雪には耐えがたい。
この状況を拒めば、おれはどうなってしまうのだろう。危機感を抱く一方で、小さな旅行鞄一つでシェルターを出て来た理人のことも気がかりだった。美しいΩは得てして、いばらの中に咲いていることが多い。
胃ろうの注入を終え夜勤スタッフに申し送りをすると、小雪はタイムカードを切って自転車に飛び乗った。
「やっぱり」
帰宅してすぐに向かったリビング。食卓に残された手つかずの朝食を見て、小雪はゲストルームへ急いだ。
「理人君。小雪です。入ってもいい?」
ノックをして呼びかけても反応がない。嫌な予感が渦巻いて、小雪は思い切ってドアを開いた。
「なんですか……」
理人は鼻先まで布団を被り、ベッドに横になっていた。額には前髪が汗で張り付いて、瞳は潤み、声は掠れている。小雪の中で何かが弾けて、手が勝手に理人の額へ伸びた。
「熱、出てる」
指先で前髪を避ければ、理人の額は上気して、玉の汗まで浮いていた。
「測ってもいないのに、どうして分かるんです」
理人に鼻で笑われ、小雪はゲストルームを出てパントリーへ向かった。吸いのみに冷感シート、スポーツ飲料、体温計などを両腕に抱え、理人の元へ戻る。
「確かめたいなら測ってもいいけど、おれは看護師だよ。熱が出ていることくらい一目で分かる。……これだけ高熱なら、看護師でなくても分かるだろうけど……」
小雪は吸いのみにスポーツ飲料を注ぎ、理人の傍にしゃがみ込んだ。吸い口を向ければ、理人は顔を顰め首を振った。「吐き気があって飲めない?」尋ねれば、理人は再び首を振った。
「おねがい、少しづつでいいから飲んで」
懇願すれば、噛いしめられていた唇がゆるゆると開き、吸い口を迎え入れた。
理人が水分を取っている間にタオルで額の汗を拭う。吸いのみが空になればすぐに注ぎ足し、理人の唇へ吸い口を向ける。理人の喉が上下しているのを見つめ、小雪は肩を撫で下ろした。放っておかなくてよかった。彼は子どもではないけれど、大人でもない。
水分を取り終えた理人に蒸しタオルと着替えを差し出したけれど、理人はぼうとした瞳で小雪を見上げるだけで、起き上がる気力はないようだった。
「理人君、身体を拭いてもいい?」
理人は一度だけ瞳を瞬かせた。その仕種と沈黙をもって了承と取り、小雪は掛布団をゆっくりと捲った。
額からこめかみ、目元、頬、口元……と、タオルを滑らせる。パジャマのボタンを外し、指先から手のひら、手首から腕、胸、腹……。
「理人君、起き上がろうか」
背を支えながら起き上がらせると、理人はがっくりと項垂れた。くすみ一つない背中を撫でるように拭ってインナーを被せ、洗い立てのパジャマに袖を通させる。
「ズボンと下着は自分でできる?」
横たえさせれば、理人はやっと頷いてくれた。「薬のアレルギーはある?」理人は先ほどよりもはっきりと首を振った。
「じゃあ、ご飯食べてから薬飲もうね。うどんとお粥、どっちがいい?」
「……どちらでも」
「すぐに作れる方で用意するよ。ちょっと待ってて」
新しい蒸しタオルもその時に持ってくるね、と一言足して、小雪はキッチンへ走った。
朝取った出汁を鍋に注ぎ、煮立てている間に具材を切っていく。急がなきゃ、早く寝かせてあげなきゃ。自分でもなぜこんなに必死になっているのか分からず、けれど小雪は理人の熱っぽい身体を反芻させ夕餉の支度を急いだ。
かまぼことネギを乗せたシンプルなうどんとうさぎリンゴ、蒸しタオル、そして解熱剤をお盆に乗せてゲストルームへ急ぐ。
「理人君?」
ノックをしても返事がなくドアを開けると、理人の寝息が聞こえて来た。スツールにお盆を置き、理人の顔を覗き込む。改めて見てみれば理人の目元には隈ができていて、小雪の胸がぎゅうっと締めつけられた。
知らない他人の家で体調を崩して、どれだけ心細かったことだろう。小雪は燃え盛る松明を手に都を追いかけてやりたい気分になった。
翌日に朝帰りした都を、小雪は仁王立ちで迎えた。
「都君。おれは怒っています。そこに正座してください」
もはや松明どころでなく燃え盛った小雪の怒りは、都を玄関へ屈服させた。
「理人君は昨日、熱を出しました」
「……え?そうだったの?」
きょとんとした表情が憎らしく、小雪は夫を冷たく見下ろした。
「都君、この三人に一夫多夫制を導入しようって言いましたよね?……それがどうですか?連れて来たばかりのパートナーの体調にさえ気を回せず、挙句の果てに朝帰りですか?言葉と行動が伴っていないんじゃないですか?一夫多夫制を実現したいと思うなら、パートナーをきっちりとフォローしてください。それができないのなら、先日の提案は撤回してください」
「撤回って……」
「理人君は都君の運命の番でしょう。おれがここを出て行きます。番は解消してください」
ずっと恐れていたことだったのに、そんな言葉が口を衝いて出て、けれど小雪はどこまでも本気だった。ことの重大さに気付いたのか、都は血相を変え、その場に両手をついた。
「おれが悪かった。こゆ、許してくれ、この通りだ」
「しおらしくしても無駄です。都君の言葉には今、何の効力もないと思ってください。……悪いことをしたと思うなら、行動で示して」
小雪はゲストルームを指差した。
「行って。理人君に謝って。抱きしめてあげて」
都は弾かれたように立ち上がり、ゲストルームへ駆け込んだ。ノックくらいしなよ。胸の内で夫を詰りつつ、小雪は自転車の鍵を持って玄関を出た。
昨晩、七品ものコース料理を沈黙のまま平らげた後、理人は東神田夫夫の提案に頷きゲストルームで一夜を過ごしてくれた。
その夜、小雪はノートに書き留めていた理人のインタビューを読み直した。当時の理人は十八歳で、高校を卒業した日にその身一つでシェルターに駆け込んだのだと言っていた。……聞き取りの中盤、都は小雪に部屋から出るように指示した。インタビューの音声データも引っ張り出そうとすればそうできたが、小雪はそうしなかった。
理人は現在、十九歳。あまりに若い。
昨晩のことを思うと頭が痛い。二十八歳の大人が十九歳の男の子に食って掛かって……。贖罪のように味噌汁とだし巻き卵、キュウリの浅漬けに炊き立ての白米を用意したけれど、理人が部屋から出て来る気配はなかった。
「部屋に持って行ってみようか」
「大丈夫だよ。おれたちが家を出た後に食べるかもしれないし、食卓に置いておいたら?」
平然と味噌汁を啜っている夫に、小雪は「ずいぶん他人事だね」とささくれた声を投げた。
「他人?この場合の他人の定義とはなんだろう?家族であっても仲違いしていれば他人とされる場合もあるが、厳密に言えば皆他人だろう。おれにとって理人は他人だ。そして君も」
「都君!おれはそういう話をしてるんじゃないの!」
声を荒げてしまい、小雪は手で口元を抑えた。なのに、都は悠然と微笑んでいる。「大丈夫。理人は十九歳だ。子どもじゃない」なぜか都から諭され、小雪は眉間に皺を寄せて理人の為によそった朝食にラップを掛けた。
「あんな若い男の子を、番になろうって言葉一つでシェルターから連れ出してしまうなんて、都君はどうかしてる。もっと彼と話し合うべきだったんじゃないの」
本音を言えば、こちらにだって気を配って欲しかった。そういう気持ちを伏せて都を恨めしく見やれば、彼は遠い目をした。
「そうできたら、よかったんだけどね。なにがなんでも理人を傍に置きたくなって。……理人を想うと、どうしようもなく会いたくなって深夜に車を走らせたくなったり、頭の中が理人でいっぱいになって眠れなくなったりしてね。自分が自分でないみたいなんだ」
小雪は今はっきりと傷ついた。いつだって理性的な都が理人を想ってこんなことを言う。じゃあ、おれとの恋愛はそうじゃなかったの?尋ねそうになり、思いとどまる。運命の番に出会ったことのない小雪が感じたことのない何かを、都と理人は感じている。
「こゆ、理人が嫌い?」
無垢に尋ねられ、小雪は項垂れたまま首を振った。
「嫌いかどうかなんて分からないよ。だっておれはあの子と出会ったばかりで、昨日はあんなふうに言い合ってしまって……」
誰かと言い合った経験のない小雪は頭を振り立てた。「ふふ」都の微笑みの気配にうんざりしつつ顔を上げれば、都は甘ったるい眼差しで小雪を見つめていた。
「おれはこゆのこういうところを愛してる。こゆは誰より理知的で、誰より逞しく、だからこそ誰よりも優しい。こゆはおれの唯一無二だ。心から愛してるよ、おれの一番星」
タチが悪いことに、この男は根っから本気でこういうことを思っている。小雪は都を半ば憎く感じ、そっぽを向いた。
「うちの夫も大変だったわよ。若い頃はアッチへ行ったりコッチへ行ったり。わたし、もう、参っちゃった」
西崎さんは眉根を寄せ溜息を吐いた。陽気差し込む昼下がり、小雪はレクリエーション後のおやつタイムで施設の入所者たちから慰められていた。
「うちの主人が浮気した時なんか、父が松明を持って丸腰の主人を三日三晩追い回してね。それからは浮気しなくなったけど、現代ではそうはいかないわね」
かぼちゃ団子をつまみつつ、おばあちゃん三名と小雪は話に花を咲かせた。「松明ですね、参考にします」小雪の軽口におばあちゃんたちはころころと笑った。
「一夫多妻制なんてアタシたちの時代なら考えられなかったけど、今はもう男性の方が少ないっていうし、女性もいっぱしに稼いでるから結婚や出産に旨味がないし。時代よねぇ~」
ねぇ~。四人で相槌を打ち、渋めに淹れた緑茶を傾ける。「西崎さん、息子さんが来られてますよ。お部屋に戻りましょうか」スタッフの呼びかけに応え、二人は杖を突き、一人は小雪が車いすを押して、お茶会は解散となった。
「でも、ひどいわね、小雪ちゃんのご主人。浮気よりもタチが悪い」
車いすに乗った西崎さんが声を曇らせる。小雪は苦く笑った。
「皆さんの楽しい時間に水を差してすみません。ニュースで見た時は、いいねって思えてたのに、自分の身に降りかかるとどうも……」
「当たり前じゃない。三人でどう愛し合えっていうの。夫婦だって恋人だって二人一組よ。……でも、そうね……、」
西崎さんは眉間の皺を緩め小雪を振り返った。
「家族にならなれるかも」
おばあちゃーん。西崎さんの部屋の前から、お孫さんと息子さんがこちらに手を振る。西崎さんは微笑み、手を振り返した。小雪の脳裏に“家族”という言葉が浮かび上がり、心にさざ波が立ったようになった。
でも、そうね、家族にならなれるかも。
西崎さんの何気ない一言はふとした時に小雪の脳裏へ浮かび、慌ただしさに紛れて消えていく。
小雪には父の記憶がない。母一人子一人で暮らした日々も長くはなく、小学二年生の冬に母を亡くすと、小雪は祖父母の家に身を寄せることになった。しかし、その次の年には祖父が亡くなり、昨年にはついに祖母も逝ってしまった。家族が減っていく感覚が、小雪には耐えがたい。
この状況を拒めば、おれはどうなってしまうのだろう。危機感を抱く一方で、小さな旅行鞄一つでシェルターを出て来た理人のことも気がかりだった。美しいΩは得てして、いばらの中に咲いていることが多い。
胃ろうの注入を終え夜勤スタッフに申し送りをすると、小雪はタイムカードを切って自転車に飛び乗った。
「やっぱり」
帰宅してすぐに向かったリビング。食卓に残された手つかずの朝食を見て、小雪はゲストルームへ急いだ。
「理人君。小雪です。入ってもいい?」
ノックをして呼びかけても反応がない。嫌な予感が渦巻いて、小雪は思い切ってドアを開いた。
「なんですか……」
理人は鼻先まで布団を被り、ベッドに横になっていた。額には前髪が汗で張り付いて、瞳は潤み、声は掠れている。小雪の中で何かが弾けて、手が勝手に理人の額へ伸びた。
「熱、出てる」
指先で前髪を避ければ、理人の額は上気して、玉の汗まで浮いていた。
「測ってもいないのに、どうして分かるんです」
理人に鼻で笑われ、小雪はゲストルームを出てパントリーへ向かった。吸いのみに冷感シート、スポーツ飲料、体温計などを両腕に抱え、理人の元へ戻る。
「確かめたいなら測ってもいいけど、おれは看護師だよ。熱が出ていることくらい一目で分かる。……これだけ高熱なら、看護師でなくても分かるだろうけど……」
小雪は吸いのみにスポーツ飲料を注ぎ、理人の傍にしゃがみ込んだ。吸い口を向ければ、理人は顔を顰め首を振った。「吐き気があって飲めない?」尋ねれば、理人は再び首を振った。
「おねがい、少しづつでいいから飲んで」
懇願すれば、噛いしめられていた唇がゆるゆると開き、吸い口を迎え入れた。
理人が水分を取っている間にタオルで額の汗を拭う。吸いのみが空になればすぐに注ぎ足し、理人の唇へ吸い口を向ける。理人の喉が上下しているのを見つめ、小雪は肩を撫で下ろした。放っておかなくてよかった。彼は子どもではないけれど、大人でもない。
水分を取り終えた理人に蒸しタオルと着替えを差し出したけれど、理人はぼうとした瞳で小雪を見上げるだけで、起き上がる気力はないようだった。
「理人君、身体を拭いてもいい?」
理人は一度だけ瞳を瞬かせた。その仕種と沈黙をもって了承と取り、小雪は掛布団をゆっくりと捲った。
額からこめかみ、目元、頬、口元……と、タオルを滑らせる。パジャマのボタンを外し、指先から手のひら、手首から腕、胸、腹……。
「理人君、起き上がろうか」
背を支えながら起き上がらせると、理人はがっくりと項垂れた。くすみ一つない背中を撫でるように拭ってインナーを被せ、洗い立てのパジャマに袖を通させる。
「ズボンと下着は自分でできる?」
横たえさせれば、理人はやっと頷いてくれた。「薬のアレルギーはある?」理人は先ほどよりもはっきりと首を振った。
「じゃあ、ご飯食べてから薬飲もうね。うどんとお粥、どっちがいい?」
「……どちらでも」
「すぐに作れる方で用意するよ。ちょっと待ってて」
新しい蒸しタオルもその時に持ってくるね、と一言足して、小雪はキッチンへ走った。
朝取った出汁を鍋に注ぎ、煮立てている間に具材を切っていく。急がなきゃ、早く寝かせてあげなきゃ。自分でもなぜこんなに必死になっているのか分からず、けれど小雪は理人の熱っぽい身体を反芻させ夕餉の支度を急いだ。
かまぼことネギを乗せたシンプルなうどんとうさぎリンゴ、蒸しタオル、そして解熱剤をお盆に乗せてゲストルームへ急ぐ。
「理人君?」
ノックをしても返事がなくドアを開けると、理人の寝息が聞こえて来た。スツールにお盆を置き、理人の顔を覗き込む。改めて見てみれば理人の目元には隈ができていて、小雪の胸がぎゅうっと締めつけられた。
知らない他人の家で体調を崩して、どれだけ心細かったことだろう。小雪は燃え盛る松明を手に都を追いかけてやりたい気分になった。
翌日に朝帰りした都を、小雪は仁王立ちで迎えた。
「都君。おれは怒っています。そこに正座してください」
もはや松明どころでなく燃え盛った小雪の怒りは、都を玄関へ屈服させた。
「理人君は昨日、熱を出しました」
「……え?そうだったの?」
きょとんとした表情が憎らしく、小雪は夫を冷たく見下ろした。
「都君、この三人に一夫多夫制を導入しようって言いましたよね?……それがどうですか?連れて来たばかりのパートナーの体調にさえ気を回せず、挙句の果てに朝帰りですか?言葉と行動が伴っていないんじゃないですか?一夫多夫制を実現したいと思うなら、パートナーをきっちりとフォローしてください。それができないのなら、先日の提案は撤回してください」
「撤回って……」
「理人君は都君の運命の番でしょう。おれがここを出て行きます。番は解消してください」
ずっと恐れていたことだったのに、そんな言葉が口を衝いて出て、けれど小雪はどこまでも本気だった。ことの重大さに気付いたのか、都は血相を変え、その場に両手をついた。
「おれが悪かった。こゆ、許してくれ、この通りだ」
「しおらしくしても無駄です。都君の言葉には今、何の効力もないと思ってください。……悪いことをしたと思うなら、行動で示して」
小雪はゲストルームを指差した。
「行って。理人君に謝って。抱きしめてあげて」
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