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「君だったの」(上)

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「入り口は……まだ固いね。ちょっと刺激しとこうか」
 先生に「はい」と素直に相槌を打った次の瞬間、ラルは身悶えるような苦痛に目を白黒させた。出産予定日間近に上った内診台。ぐりぐりぐり!と子宮口を刺激され、ラルは緊張で固くなった腹を摩りながら内診台を下りた。
「予定日を一週間過ぎるといろいろと手を加えなきゃいけなくなるから、今のうちに歩いたりスクワットしたりどんどん動いといて」
 またも素直に頷くラルに先生はふっと目を細めた。
「あの、先生。僕、赤ちゃんが産まれてここを退院したら、一度実家に帰ろうと思います」
 それを聞いて表情を和らげたのは傍に立っていた助産師だった。「分かりました」先生はそう言ったきりいつものように素っ気なくパソコンのキーボードを叩いているけれど、その横顔はどこかホッとしているようにも見えた。
 僕、思ってたよりみんなを心配させちゃってたんだ。
 ラルは申し訳なくなって、その次にむず痒くなって、「頑張って散歩します。スクワットも頑張ります」と出来る限りの決意表明をした。
 産科を出ると夜気のはしりが頬を撫でた。マフラーや腹巻、レッグウォーマーを装備したラルでも寒さに縮こまってしまう。まだ冬の入り口だというのに、この北国はよく冷える。
 けれどラルはいつもより遠回りをしてじっくりと街を歩いた。出産予定日を前に心も頭も身体もソワソワしっぱなしで、ラルの尻尾も忙しなく揺れている。
 夏にミメイと歩いた河川敷を行く。
 あの時は、この辺りでお腹を触ってくれたっけ。ラルは闇に沈んでいく川辺を見下ろし瞼を下ろした。そこにあるのはミメイの優しげな眼差し。あの瞳が大すきだった。
「君が僕なんかでなくミメイ君に似たらいいのにね……」
 お腹を摩りながら呟けば、どういうわけか強烈なキックが肋骨の隙間へとねじ込まれた。ラルはしばし悶絶し、それから相好を崩した。このキックを繰り出す足にもうすぐで触れられる。そう思うと何もかもが愛おしかった。
 ゆっくりと歩を進め、風景が進む度にミメイとのことを思い起こす。
ミメイとはもう会うこともないのだろうと思うと、やけに素直に自分の気持ちに向き合えた。なんたって遅れて来た初恋なのだ、いくらセンチメンタルになったって足りない。
「あらあ、お腹、おっきいのね。もう産まれるの?」
 すれ違いざまにおばあちゃんに声をかけられた。「はい。明後日が予定日で」ラルは頬を染めながら答えた。おばあちゃんは「まあ!」と瞳を丸くし、それからラルの腕をそっと摩った。
「大丈夫だからね。これからいろんなことがあるけど、きっと乗り越えられるからね」
 ラルは笑顔でこっくりと頷いた。心からそうだと思えた。これからどんなことが起こっても、きっと乗り越えられる。この子と一緒なら。
 またしばらく川沿いを進み、繁華街の近くまで来たところで、ラルはベンチに腰を下ろし遠くで光る色とりどりのネオンを眺めた。
 ポケットに手を入れて息を吐くと、ふくーっ、とお腹が張っていく。このところ、昼夜なしにお腹が張る。皮膚が緊張して張りつめ、ラルは痛みを耐えしのごうとお腹を摩りながら深呼吸を繰り返した。
「はぁ――……、」
 ゆっくりと息を吐くと張ったお腹が少しづつ緩んでいく。ラルはほっと肩の力を抜いてベンチに背を預けた。……その時だった。
「どうしたの」
 ラルは背後から掛けられたその声に、振り返った。胸がどくんと高鳴る。なんで、どうして。戸惑いと共に喜びが全身を駆け巡る。……自分をこんな気持ちにさせるのは、この世でたった一匹、彼しかいない。
「ミメイ君」
 一か月ぶりに見た彼は、荒れたと聞いていたけれど、ラルには何ひとつ変わっていないように見えた。瞳は澄んだ湖の色をしていて、そこに漆黒の瞳孔が浮いている。ラルは瞬きも忘れてミメイに見入ってしまった。
「どうしたの。気分、悪い?お腹摩ってるの、見えたけど」
 問いに答えないラルに焦れてか、やや不機嫌そうな声音。ラルは慌てて首を振った。
「大丈夫。出産が近いとよくお腹が張るんだって。少し痛いけど、普通のこと。お腹摩って深呼吸してると楽になるからそうしてただけだよ」
 立ち上がってミメイへ駆け寄る。ミメイはそんなラルの腕に触れ「いいから座って、俺も座るし」とベンチに腰掛けた。
「予定日、近いね」
 沈黙の末、組んだ自身の両脚を見下ろしながらミメイが言った。「うん、明後日。毎日ハラハラして過ごしてる」ラルは微笑んだ。ミメイが予定日を覚えてくれていたことが、こんなにも嬉しかった。
「今日ね、病院行って来たんだ。エコーも撮ったけど、赤ちゃんが大きすぎて全然映らないの。三千グラム超えてるって言われてびっくりしちゃった」
 ミメイが傍にいると、高揚と緊張感とで口がよく動く。ラルは耳に髪をかけながら熱く潤んでいく目元を俯かせた。
 神様が最後にご褒美をくれたのかな。ラルにはそう思えて仕方なかった。お腹の子が産まれたら、ミメイとは本当に別々の人生になる。二匹の人生が重なることなんて、きっともう二度とない。
「お腹、すごいでっかくなったね」
「そうでしょ」
 お腹を見つめられ、ラルはと空元気を出して胸を張った。するとミメイは目を細めて微笑む。胸の奥が締め付けられた。僕、クロネにはあんなこと言って、本当はミメイ君のことをまだ――。ラルは心に纏わりつく切なさを笑顔に変えた。
「このお腹はいつも俺を置いてでっかくなる」
「ふふ。このくらい大きくなきゃ、お世話しづらいよ」
 そっとお腹に触れられてくすぐったくて、ラルは下から支えるようにお腹に手を添え軽口を叩いた。ふと眼差しを上げると、ミメイの視線と自分の視線がかち合う。彼に見つめられていたのだと思うと全身の血液が泡立った。
「ミメイ君」
 名前を呼んでしまい、ラルはミメイから視線を逸らした。
 これで終わりなの?もうミメイ君には会えないの?
 蓋をしていたはずの感情が、彼が隣に居るだけで溢れ出す。ラルはもう一度面を上げてミメイを見つめた。
「あのね、ミメイ君、お願いがあるの。ミメイ君が覚えていたらでいい、これは僕の勝手なお願いで、約束じゃないから、守らなくったっていい、だから」
 自身の言い訳がましい口ぶりに唇が重くなっていく。僕、ずるいことしようとしてる。ミメイ君の未来にちょっとでも僕とこの子がいられたらいいのにって、自分勝手に――。なのに、お願いの続きを黙って待ってくれているミメイを感じると、たまらなくなった。ほんの少しでいい、この願いが、彼の未来の片隅にあれたら――。
「この子が産まれて……、いつかどこかでミメイ君とこの子が出会えることがあったら、この子を抱っこしてあげてくれないかな」
 アイスブルーの瞳がゆるゆると見開かれ、ラルははたとして「ちがうの」と前のめった。
「父親だって、言わなくていい。僕もこの子にそのことを伝えるつもりなんてない、ただ、君にも大切してもらったこの子を、一度だけでいい、君に、」
「なんだよそれ」
 ラルはミメイの固い声音に息を詰めた。苦く笑った彼は前髪をぐしゃりと掻き上げ、ラルを睨むように見つめた。
「俺って、いつまで部外者なわけ?」
「……え?」
「眼鏡のイヌに追い払われた日、俺、あの後ラルの部屋に引き返した。……そうしたら、あのイヌが、番になろうって、お前にそう言ってたのが聞こえたけど、」
 ミメイの眼差しが、冷たくて熱い。鋭いそれに刺し抜かれそうになり、ラルは膝の上の拳を握りしめた。
「お前、あいつと番になるの?」
「ミメイ君、僕、」
「一匹で産むって俺に啖呵切っといて、よさそーな雄が現れたら番になっちゃうの?……俺を父親だって伝えられないのはあいつがこの子の父親になるからなんだろ?この子は、ちがうのに、本当はあいつの子どもじゃないのに、」
「みめいくん」
「ふざけんなよ、」
 ミメイの硬い拳がガンとベンチに振り下ろされる。ラルは肩を震わせ、朱に染まった彼の瞳を見つめた。ミメイはラルの鼻先まで詰め寄り、「俺ってお前のなんなんだよ」と呻いた。
「家族なんて、もうたくさんなんだよ。そんなしがらみみたいなもん、俺の人生にはこれ以上必要ないって、ちゃんとそう思えてたんだよ。……なのになんで、ラルは俺の前に現れたの?なんで俺をこんなに掻き乱すの?」
 歪んだ瞳の奥が揺れている。うち震えたミメイの声に、ラルはただ眼差しを向けることしか出来なかった。
「ラルといると人生狂いそうになる。もう近づかない方がいいって分かってるのに、次の瞬間にはラルとラルのお腹のこと考えてる。……もう人生狂ってもいいかと思い始めたら、全部忘れてもいいなんて、そんなこと人伝に言われて……。かと思えば、いつか抱っこして欲しい、なんて……。俺の子種欲しがったくせに突き放して、振り回して。……けど結局のところ、俺は部外者扱いのまま。マジで、俺ってお前のなに?」
 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら捲し立てたミメイはつらそうに眉根を寄せている。竦んだようになった肩に触れようと伸ばした手を寸でのところで拳にし、ラルはミメイの言葉に応えようと息を吸った。
 ミメイ君は、僕の大すきなひと。
 他の言葉で本当の気持ちを覆い隠したいのに、そう出来る気がしなかった。喉まで出かかる気持ちを必死になって飲み下し、ラルは視線を逸らした。そんなラルを見限るように、ミメイがベンチから立ち上がる。
「なあ、お前が俺のこと忘れるまで、俺もお前のこと忘れてやんないから。だから俺のことなんかさっさと忘れてよ。そんで、俺にもお前のこと、さっさと忘れさせてよ」
「み、」
「じゃあね」
 身を翻し夜闇に紛れていくミメイの背中を見た瞬間、ラルは弾かれたように立ち上がった。
「ミメイ君!」
 叫び、駆け出すと、その反動で頬に温かいものが伝った。……涙。ああ、僕、涙が出るほど、彼のことが……。温みで弛んだ視界の中、愛しい背中は闇に溶けるばかりで、ラルはその背中を見失うまいと懸命に手を伸ばした。
 ぱちん。
 何かが弾けたような、途切れるような、そんな音がした。
 何の音?そう思った瞬間には、さあっと股座を伝っていく生暖かい感触があった。思わぬ感覚に足がもつれ、ラルは失速しながらその場にへたり込んだ。じわり、と下着が湿る気配。手を伸ばし股座に触れると、そこは温かな湿り気を帯びていた。
 破水……。
 初めてのことなのに、確信があった。未だに股座からしとしととこぼれ続けている生ぬるいものに呆然としているうちに、腰から腹の奥がきつく絞れるような痛みがやって来た。
「み、」
 ミメイを目で追えば、彼は潤んだ視界の中から消えていて、ラルもそのうちに痛みで動けなくなってしまった。激しい痛みに頭が混乱し始める。どうしよう、このままじゃ、赤ちゃんが、ミメイ君が……。
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