恋する王子様は泡になりたい

野中にんぎょ

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まっとうな恋の陰で

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 明香と愛衣は急速に近づいていった。女の子が得意でない明香も愛衣には緊張を解いているようで、快くコミュニケーションに応じている。
 青磁が一番抵抗を感じているのは、明香と弁当を広げている所へ愛衣がやって来ることだ。
 彼女は明香の作ったおかずを誉めそやすとすぐに去って行くのだが、そのたびに「昨日作ったんだ」と言って手作りのお菓子を置いて行く。「工藤君もよかったら」と言って渡されたラッピングの中身はアイシングを施したマフィンで、青磁は「すげぇきれい」なんて言っている明香の頬をつねりたい気分になった。
 ブブッ。
 硝子のローテーブルの上で明香のスマートフォンが震える。
 ペンを止め明香を見やれば、明香の手はペンを離し画面をタップしようとしていた。
「明香」
 伸びた手をパッと掴み上げ明香を睨む。明香はへらりと笑い、「ごめん、ライン来ると気になっちゃって」と手を膝の上へ戻した。
 テスト勉強をする為に青磁の部屋に来たというのに、明香のスマートフォンは事あるごとに震え、明香もまた律儀に応答する。もう何回目だと思ってるんだ。青磁はとうとう痺れを切らし、明香のスマートフォンを掴んで自身の背後に置いた。
「こんなんじゃ集中できない」
「うん、分かった、邪魔してごめん……」
 明香にしてはしおらしい返事にぐっと胸が詰まる。
 今日の為に、念には念を入れて掃除した。寝具のカバーだって洗った。明香の好きな炭酸飲料を前もってコンビニで買って、「泊ってもいい?」と言い出した時に備えて、明香が着られそうなTシャツを私服の中から吟味した。ずっと部屋の中だって分かっているけど、髪もセットしてオーデコロンも軽く纏った。
 なのに、スマートフォンは震える。明香の気はそちらへ逸れる。
 青磁は明香のスマートフォンに手を伸ばし電源を切った。明香は何も言わずにノートにペンを走らせた。
「ん~……、数学と政経は一通りできた~……」
 二時間が経ち、明香がぐっと伸びをした。青磁もペンを置き、取り上げていたスマートフォンを明香に戻してから、「ちょっと休憩しよ」と言って立ち上がった。
「おまえの好きなブドウの炭酸のやつあるよ。母さんが昨日買ってきて。飲む?」
「え?マジ?飲みたい!」
 ぱあ、と光でも放ちそうな笑みを見せる明香。青磁は思わず頬を緩ませ、「じゃあ持ってくる」と言って部屋を出た。
 この流れで、あのタオルも返さなければ。
 明香から隠すようにリビングに置いていた紙袋を取り、中のタオルを確認する。
 二度洗濯したから匂いは取れているだろうが、タオルを長い間持っていたことを不審に思われないだろうか。……けれど、返さなければ。でないと、おれはずっと明香をそういうことに使ってしまう。どこかで止めなければ、明香の友達でいられなくなる。
 意を決し、ペットボトルと紙袋を手に自室へ戻る。「さや、」呼びかけようとして、青磁は思いとどまった。すう、と寝息が聞こえた。
「……明香?」
 テーブルに突っ伏している明香に近づき、様子を確かめる。すう、すう、と深い寝息が聞こえて、青磁も息を吐いた。
 両親が気を遣ってくれるとはいっても、家に居れば何かと手伝ってしまうのだろう。明香の目の下にはクマができていた。青磁はベッドからタオルケットを引き寄せ、明香の背に掛けた。
 持っていた紙袋をクローゼットにしまい、テスト勉強を再開しようと問題集を広げる。視線を上げると、明香が顔を背けるようにした。起きてるのか?そう思い、露になった顔を覗き込む。無防備に開いた唇から、ふう、ふう、と、息がこぼれてきた。
「……」
 睫毛は目尻だけカールしたようになっていて、眉毛は頭髪と同じく細くふわふわとした毛質に見えた。丸いおでこ、ささやかな産毛に包まれた頬、小さな鼻。上唇の中心はぷくんと膨れていて、青磁はその膨らみへ指先を伸ばした。
 感触が感じられないほど、柔らかい。
 明香が起きないのをいいことに、唇の輪郭を指先でなぞる。下唇を下から軽く持ち上げるようにすると、明香の右口端から唾液が伝った。親指で拭い、明香の唾液に濡れた指先を見つめる。透明で、さらりとした唾液だった。
 ずく。また、痛む。今はその痛みの在処がはっきりと分かる。
 あ、だめだ、ヤバい。そう思い、濡れた親指をデニムパンツで拭う。立ち上がり、念入りにセットしたはずの前髪を掻き上げる。明香の寝息が聞こえる。目で確かめても眠っている。青磁は再び明香の隣に座り、肌に触れない距離を保ち、深く息を吸い込んだ。
 明香の匂い。
 そうとしか表現できない香りが鼻孔に広がる。末っ子は二歳になっても哺乳瓶離れができず、明香に泣きついては粉ミルクをせがんでいる。そのせいか、明香からは仄かに甘い香りがした。ミルク、おひさま、石鹸、汗、何かが焦げたような匂い、幼児特有の温みのある匂い、それらがマーブル模様になって青磁の理性をぼやけさせた。
 明香の唇の奥、薄く見える歯の向こう。そこは臍とは違って閉じていない。先日見たAVのサンプル、女優の股座のモザイクよりも、明香の唇に惹かれた。
 中、どうなっているんだろう。
 温いだろうか、湿っているだろうか。あの臍の中と一緒だろうか。
 指を伸ばしかけ、思いとどまる。明香は変わらず、健やかな寝息をこぼしていた。
 青磁はトイレに駆け込み、鍵を閉めた。便座を上げ、もう一度ドアを振り返って鍵が掛かっていることを確認し、性感を一気に追い込む。
「はぁ、はぁ、はぁ、う、はぁ、」
 先走りを手のひらに纏わせて熱を追い立てる。頭の中の明香を追ってするよりも、何倍も早く、青磁は果てた。ものは果てた直後から張り詰め、青磁を苛む。明香が起きる前に、明香に知られる前に、全部出しきらないと。青磁は自身の好むところばかりを攻め立て、再び果てた。
「あ、はぁ、ふ、はぁ……、」
 どろどろになった手のひらを拭おうとトイレットペーパーに手を伸ばしたその時、ドア一枚を隔てて足音が近づいて来た。
「セイ?どこにいんの?……トイレ?」
 床が軋む音と明香の声が聞こえ、青磁の全身から血の気が引いた。冷たくなった指先でトイレットペーパーを手繰り寄せ、音をさせないように手を拭う。
「うん、トイレ。先に部屋戻っといて」
 こんな状況で平然とした声を出せる自分にゾッとしながら、それでも手は的確に動いた。手と性器を拭ったトイレットペーパーを流して、ハンドソープでしっかりと手を洗う。消臭スプレーを振り換気扇をつけて、服と髪を整えて鏡の前に立つ。鏡の中の自分は、いつもの自分なのに、全く知らない誰かに見えた。
「寝ちゃってごめん。呆れた?」
 トイレのドアを開けると、青磁の心臓が飛び出しそうになった。部屋に帰ったと思っていた明香が廊下の壁に背を預けてこちらの様子を窺っていた。
「部屋帰っててよかったのに」
 何もなかったことを装い気遣うと、明香は上目遣いに青磁を睨んで「トイレ行くなら一声かけろよ」とむくれた。
「だって、明香、寝てたじゃん」
 少し乱れたようになった明香の前髪を、指で梳いて直してやる。照れているのか、明香は唇を尖らせた。
 いま触れたら、どんな感触なんだろう。
 そんな興味が頭を擡げる。ずく、と、二度果てたはずの性器に熱が集まるのを感じ、青磁は「部屋帰ろ」と背後から明香の背を押した。
「これ、ずーっとハマってんの」
 明香はグラスに注がれる炭酸飲料をうっとりと見つめた。「知ってる。一時期毎日くらい飲んでたよな」こくこくと上下する咽喉仏を見つめていると、明香がグラスを差し出した。
「セイも飲んでみ。おいしーよ?」
「えっ……」
 動揺が青磁の口を衝いて出た。
 そんなことしたら、間接キスになっちゃうじゃん。
 恋愛に興味の薄い自分が、差し出されたグラス一つに狼狽える。この間まで一つのストローでジュースを分け合ったりしていたのにと考えているうちに、頬や耳が熱を持った。なのに、明香は「ほら」とグラスを差し出してにこにこしている。青磁は明香から顔を背け、「ブドウ嫌いだからいい」と言い、申し出を突っぱねた。
「えー?おいしーのに。おれが全部飲んでいいの?」
 いいよ、と消え入りそうな声で言って、青磁はそっぽを向き頬杖を突いた。手で触れると、頬は思った以上に熱くなっていた。
「なあ、島原さんてさー……、可愛いよな」
「はぁ?」
 また動揺が口を衝いて出てしまう。今度は思い切り不機嫌な声になってしまい、青磁は手で口元を覆った。可愛い?島原さんが?明香の口から「○○さんが可愛い」と聞くのは初めてで、心臓が妙な鼓動の打ち方をした。
「どこが?なんで?」
「どこって……。女の子らしいじゃん?お菓子も作れるじゃん?バスケ上手いし、顔も可愛いし、髪も長いし……。なんでって、なんでかは分かんないけど、可愛いじゃん」
 それを聞いて、青磁は肩を撫で下ろした。子どもが空に浮かんだ雲を「ソフトクリームの形してる!なめたら甘いのかな?」と言って涎を垂らしているのと同じことのように思えた。
「セイはどう思う?島原さんのこと……」
 明香は視線を伏せ、グラスに尋ねた。明香の頬はピンク色になっていて、青磁は「どうって……」と返答に困った。
「可愛いんじゃないの?クラスの男子もサッカー部の先輩も、島原さんのこと可愛いって言ってたし」
「そうじゃなくて、おまえが島原さんをどう思ってるかってことが訊きたいんだけど」
 一転して眉間に皺を寄せた明香の真意を量りかね、青磁もまた眉間に皺を寄せた。明香はどういう意図があっておれにこんなこと訊いてんの?睨み合ったまま沈黙が続き、明香が先に視線を逸らした。
「もし、もしさ……。島原さんに告られたら……セイは付き合う?」
「マジで、さっきから何言って、」
 苛立ちまで込み上げて、青磁はハッとした。
 今日、明香がスマートフォンでやりとりしていた相手が、愛衣だとしたら。明香が愛衣の気持ちに気付いていて、こちらの胸の内を探りたいのだとしたら。
 明香は、島原さんが、好き?
 その想像は、あたかも真実かのように、青磁の抱いた疑念を拭い去った。
 急に視界が狭まり、なんでそうなんの、と声に出してしまいそうになった。彼女はおろか、気になる女の子さえいたことがなかったのに、調理実習で同じ班になってちょっと話しただけで、共通の話題があるってだけで……。
「や、ちょっと、急すぎない?恋愛ってそんな簡単じゃないって」
 努めて笑みを浮かべ明香の問いを退ければ、「簡単って……。なんでそんなことがおまえに分かんの?」と跳ね返された。青磁の笑みは一瞬にして消え、今度は長く重い沈黙が訪れた。
「セイはどんな女の子がタイプ?」
 息苦しくなるような沈黙の後にそんな問いを向けられ、青磁は今度こそ箍が外れるのを感じた。
「なんでそんなこと訊くの」
「おまえとこういう話したことなかったなって」
「明香が、いま、こういう話がしたい状況にあるってこと?」
「いーじゃん別に!で?付き合うならどんな女の子がいいの?」
 これでは埒が明かない。青磁は明香を真正面から睨みつけ、「そんなのない」と言い放った。
「そんなわけなくない?あるだろ、いろいろ」
「だから、そんなのないって。好きになった子が好き」
 好きになった子、と口走ってしまい、目の前には明香がいて、しかも視線が通じていて、青磁の両耳がぐあっと熱くなった。
「セイ、好きな女の子、いたことあるんだ」
 ない。そんな女の子は今までいなかった。
「……なあ。恋って、どんなん?どきどきしたりした?」
 そう尋ねた明香の瞳は熱っぽく潤んでいて、きっと彼は「どきどき」していて、そのどきどきの先には愛衣がいて。
 まっとうだ、まっとうな恋だ。
 青磁はそのまっとうな恋を喉元に突きつけられ、明香との日々を脳裏に巡らせた。
 恋っていうのは、四六時中、ことあるごとに彼を思い浮かべてしまうこと。騒がしい場所にいても声を聞き分けられること。目が合えばこちらに向かってくる彼に心が弾むこと。独り占めしたくてたまらないこと。触れられると嬉しさと羞恥が駆け巡ること。……服の下の肌の白さを想ってしまうこと。自分しか知らない彼が欲しいと思ってしまうこと。
 世話焼きで、自分より他人を大切にできる彼のこと。「セイ」と自分を呼ぶ、その声のこと。いつも明るい、明香のこと。
 青磁はようやく気が付いた。
 おれ、明香が、好きだったのか。
 さぁっと霧が引いて、今度は闇が立ち込める。なんでおれ、明香を好きになっちゃったんだろう。明香だけは、だめなのに。絶対に失いたくないのに。
「なあ、黙ってないで、なんか言えよ……」
 ローテーブルの下、明香の足が青磁の膝を軽く蹴った。青磁は何も言えなかった。愛衣が好きな明香にこの気持ちを伝えれば、この恋は壊れてしまうから。
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