愛されたがりのオオカミは、愛したがりのトラに抱かれる。

野中にんぎょ

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短い春の終わり

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 マダラは胸に下げたロザリオに触れ溜息を吐いた。シシのフェロモンに乱れてしまった自分を、神様は見ていたのだろうか。
 シシは今日も日雇いの仕事へ向かった。日に日に逞しく、雄らしくなっていくシシをどう受け止めたらいいのかも分からず、なのにシシにはこちらを見つめていてほしくて、もうどうすればいいのか分からない。
「ミラ神父、エバー、ごめんなさい……」
 マダラは幼い頃から身につけていたロザリオを外した。本来ならばロザリオは祈りの道具で常時身につけるようなものではない。けれど、そのロザリオは先代の神父がマダラに譲ってくれたもので、たった一つの形見だった。鈍く金色に光るそれを花模様の小箱に入れ窓辺に置く。マダラは瞼を下ろして祈りを捧げた。
 シシに出会う前は、稼いだお金で孤児院に贈り物をすることが自分のやるべきことだと思っていた。その為ならばなんだって耐えられた。身体に触られても、職場の獣人に陰口を叩かれても、忙しくて眠れなくても、過労で病気になっても、平気だった。なのに、今はそう思えない。
 神様。神父様。こんな俺は、罪の子でしょうか。
 ふらふらと立ち上がりスニーカーを履く。誰かに触れられることを思うと、尻尾パブに出勤するのがひどく躊躇われた。それでも、時間は、生活は迫って来る。マダラは罪悪感から逃げるようにして夕暮れの街を駆けた。
「ララちゃん、ただいまあ」
 黒クマはいつしか尻尾パブに来るたびマダラに「ただいま」と言うようになった。デニムのホットパンツにチューブトップのマダラは「おかえりなさい」と店先で彼を出迎えた。
「ララちゃん、優しいなあ。メッセージ送ったら出迎えてくれるんだもん」
 開店直後の店の前で抱きすくめられ、マダラは彼の背をそっと撫でた。
「……あれ?ララちゃん、首の後ろ、怪我してる」
 項に触れられマダラはハッとした。素早く身を翻し「大したことないの、気にしないで」と微笑みかける。黒クマは「そっか。寒いし中入ろう。ララちゃんが風邪引いちゃったら大変だ」と同じように微笑みマダラの手を握った。マダラもいつものようにその手を握り返した。……その時だった。
「マダラっ!!」
 夜の闇を引き裂くような声音が繁華街に響き渡る。マダラの全身から、すうと血の気が引いて行った。
 声の主はマダラの瞳に自分が映ったことに気が付くと、弾かれたようにしてこちらへ駆けて来た。マダラは黒クマの手を握ったまま、シシが映った瞳を歪めた。
「こんなところで何してるの、マダラ、帰ろう、家に帰ろう」
 シシはマダラが着ている衣装に上から下まで視線を這わせて顔を顰めた。「なに、その格好……」シシは固く握った拳を眉間に押し当て、ぐっと瞼を下ろした。唇を震わせて考え込んでいる彼を、マダラは呆然とした心地で見つめた。
「君、ララちゃんの彼氏?」
 沈黙を破ったのは黒クマだった。瞼の帳を上げたシシの瞳は赤く染まっていた。シシの手がマダラの手を掴み自身へと引き付ける。
「ララちゃん可愛いからなあ。彼氏いるんだろうなって思ってたけど。いやあ、なんていうか、若いね~……」
 黒クマはいつものように明るく振舞い、けれどマダラの手を離さなかった。シシはマダラを自身へと再び引き付け、黒クマの手首を握った。そこに尋常でない力が加わったことを、マダラはシシから発される殺気を通して思い知った。
「離せ。僕のマダラだ。離さないのならこのまま折る」
「君の恋人はいま仕事をしてるの。俺はこのお店のお客さん。君が俺の手を折ったりしたら大変なことになっちゃうよ。ねえ、ララちゃんからも言ってあげて」
 それでもシシは黒クマから視線と手を離そうとしない。体格からすれば黒クマの方がいくらか分がある。だのに場を支配するシシの殺気は黒クマのそれを頭から齧り尽くすように吞み込んでしまった。ただならぬ店先の様子に奥から支配人が顔を出す。マダラは支配人がスマートフォンを手にしているのを見てハッとした。
 多額のみかじめ料を収めているこの店であれば電話一本で豹竜会の用心棒が現れるだろう。彼らは組の面子を守る為なら手段を選ばない。もしここであの夜に居合わせた豹竜会の獣人に鉢合わせてしまったら、シシは――。
「シシ、お願い、この手を離して」
 黒クマの手首を握り込んでいるシシの手に指先で触れると、冴え冴えとした黄金色の瞳がマダラを捕らえた。「仕事のことも帰ってから説明する。だからお願い、この手を離して」ゆっくりと言い含めると、シシは眼差しを震わせて頭を横に振った。
「お願い。言うことを聞いて。先に家に帰って待っていて。俺もすぐに帰るよ」
 シシは確かめるようにマダラを見つめ、そしてようやく黒クマの手首を離した。
「シシ、いい子。ごめんね……」
 黒クマに手を引かれ地下への階段を下りて行くマダラを、シシはいつまでも見つめ続けた。マダラは何度もシシを振り返り、ドアをくぐるまで「シシ」と呟き続けた。フロアのいつもの席に黒クマと座っても、マダラはシシのことばかりを頭に巡らせた。そんなマダラを黒クマは片頬で笑った。
「他の場所で出会えてたら、俺、ララちゃんの恋人になれた?」
 彼は手のひらをソファーの上へ迷わせ、けれどマダラの身体に触れるようなことはしなかった。
「客なのにこんなこと言ってごめん」
 黒クマはそう言うと伝票を取り席を立った。黒クマはいつだって優しかった。なのに、フロアのソファーに残された自分は黒クマを追おうともせずシシのことを考えている。マダラはそんな自分を持て余した。
 勤務を終え転がるように家路を駆けた。騙していたつもりはない。けれど、隠していたことは事実だ。シシに失望されてしまったかもしれない。そう思うとマダラの手指は氷のように冷たくなった。
「よかった、帰って来てくれた……」
 シシは上着も靴も脱がずに玄関に膝を抱えて座っていた。微笑んだ彼の手には花模様の小箱が握られていた。もしかして、ロザリオを届けようとして俺を追って店まで――。
「おかえり、おかえりマダラ」
「ただいま……」
 玄関先できつく抱きすくめられ、その内に唇を奪われた。時折肌に触れる彼の鼻先は凍てつくように冷たくて、眼差しは目を逸らしたくなるほど冴え冴えとしていた。長く深い口づけが終わると、シシはマダラの両頬を手で包み込み青磁色の瞳に視線を深く刺して言い含めた。
「あんな仕事、もう辞めて」
 あんな仕事。この間まで「お金を稼ぐために仕方なく」とばかり思っていたのに、マダラはその言葉に強烈な違和感を覚えた。
「身体を売ってまで、誰かに尽くすのはもう止めて。どうして出て行った孤児院にそこまでしないといけないの?どうして贈り物をするためにマダラの身体と心が汚れなくちゃならないの?」
「待って、シシ、違う、あの店は確かにお前の思うような店かもしれない、それでも、俺にとってはちゃんとした“仕事”だったんだ」
「あんなの、仕事でもなんでもない。あんな仕事で稼いだお金で贈られたものだって分かったら、孤児院の子どもたちはどう思うかな。……とても笑顔にはなれないよね」
 マダラはシシから身体を離し、彼の表情をつくづくと見つめた。昨日までのシシとは全く違う獣人に見えた。
「なんでお前にそんなこと言われなくちゃなんないの。俺が稼いだお金で作ったご飯で、お前は何度……!」
 捲し立てるように言えば、シシは瞳を歪ませた。きっとシシも同じことを思っているに違いない。昨日までのマダラとは違う獣人に見える、と。
「ケンカはしたくない。僕はあの仕事を辞めて欲しいだけ。マダラにはもっと相応しい仕事がある。もっと真っ当に働けばマダラだってこんな部屋じゃなくてもっと、」
「もっと、もっと、って、俺はそんなこと望んでない!俺には……この部屋で、あの仕事で精一杯なんだ!精一杯やってこれなんだ!それのどこが悪いんだよ!お前の価値観を押し付けないでよ!」
 僕たちの家。そう言ってくれていたのに。マダラは悲しくて寂しくてやりきれなくなった。
「マダラ、違う、違うよ、僕は、君に仕事を辞めて欲しいと言ったけど、望んでいることはたった一つなんだ。なんで分からないの、どうして言葉尻を取って僕を突き放すの!」
「お前と俺とじゃ価値観が違う。……住む世界がもともと違うんだ。二匹でなんか、」
 言葉の続きを悟ったのだろう。シシはマダラの両腕をきつく掴んだ。
「それ以上、言わないで。聞きたくない。今の君は冷静じゃない、いつものマダラじゃない」
「それは……それはお前もだろ!」
 訪れた長い沈黙を破ったのは、マダラだった。
「もう、無理だよ」
 一匹で、自由に、自分の力で生きていく。
 シシが口にすれば、なんて清々しく、可能性に満ちた言葉なのだろうか。
彼には本当の家族がいる。帰れる家もある。……こんな自分とは、誰かと繋がりたくて自身をオオカミと偽っている自分とは、違って。
「シシ、ここから出て行って」
「マダラ」
「俺たちは番になれない」
「……マダラ!」
「今すぐに出て行って。もう顔も見たくない。お前なんか――、」
 大嫌いだ。
 そう言えればすぐに終わるのに。マダラはそう口に出来なくて、代わりに「出て行けよ!」と声を張り上げた。シシは、一歩、二歩、と下がり、ドアノブに手を掛け、部屋を出た。
 一枚の薄いドアを隔てて、マダラは唇を噛みしめた。涙が止まらなかった。シシが愛しくて、恋しくて、たまらなかった。

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