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14.話し合い

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 その日のバイトを終えた涼音は、今日も伊野の姿が見えないことに、少しの失望と、それ以上の寂しさを感じていた。
 頭の中でぐるぐると伊野の顔を思い浮かべていると、やっぱりだんだんと腹立たしくなってくる。一度バス停へと向けた足を、伊野の自宅マンションへと向け直した。

 ピンポーン―― 

 玄関エントランスで緊張した面持ちでインターホンを押し、応答を待つ。
 ここにつく前、伊野に電話を掛けたがつながらず、結局直接来るしかなくなってしまった。そのせいで涼音の緊張はより増していき、うるさいほど心臓が早く打ち鳴っている。
 ところが、少ししてインターホンから聞こえてきた声は、伊野のものではなかった。

<あれ? 遠野くん? こんにちは。今、緋雨は家にいなんだけど、どうかしたかな?>
「あっこんにちは。いないんですね…あの、電話がつながらなくて……」
<そうなんだ。じゃー上がって待ってるかい? 出てくとき、遅くならないって言ってたし>
「いいんですか?」
<もちろん、上がっておいで>

 出迎えてくれた伊野の父親に促され、ダイニングの椅子に座ると、伊野の父親は前に会った時と同じように二人分のコーヒーを用意して、涼音の前に座った。
「……また、こんな話で申し訳ないけど、最近、緋雨に変わった様子はないかい?」
 伊野と涼音は一週間以上一度も話していないのだから、以前とは違う、という意味では変わった様子ならある。でも、それをどう話していいのかわからず、涼音は口ごもった。
「やっぱり様子、おかしいのかな……」
 伊野の父親はほとんど家におらず、顔を合わせるのは朝の数分だけだと伊野から聞いていた。その数分でも感じるほどに、伊野の様子はおかしいようだ。
 涼音は、心配をさせてしまった伊野の父親に少し申し訳なく思ったが、どうやら父親が持っている心配は涼音が原因ではなかったようだ。
「少し前に、母親を見かけたらしくてね。私の前では平気そうにしていたけど、少し心配になってね……」
「お母さんですか?」
「うん。元妻はすでに新しい家庭を持っていてね。離婚してから緋雨とは一度も会っていなかったんだよ。でも、見かけたって聞いた後から、やっぱり家でも沈んでいるように見えてね」
「そう、なんですか‥‥それはいつ頃の話ですか?」
「えーっと、先週の木曜日かな」
 先週の木曜日と言えば、ちょうど選択科目があった日。その日、伊野は一日不機嫌だった。
 でも、母親を見かけたとしたら下校後だから、それは関係ない。
 そう言えば、いつもなら早めに涼音のバイトが終わるのを待ち構えているのに、その日は遅れてきた。
 それは、不機嫌を引きずっているせいだと思っていたが、もしかしたら母親と会ったことが影響していたのかもしれない。
「あの……お母さんのことは知らなかったんですけど、実は、少し前に伊野と言い合いになってしまって……それ以来話せていなかったので、今日はちゃんと話をしようと思ってきたんです」
 涼音の言葉に伊野の父親は少し驚いた顔をしたが、すぐに伊野によく似た優しい笑顔に戻した。
「そっか、仲直りしようとわざわざ来てくれたんだね。ありがとう」
「い、いえ…あっ、はい……」
 涼音はどんどん恥ずかしくなってきてしまい、熱のこもった顔を下に向ける。
「じゃーもしかしたら、落ち込んでるように見えた原因はそっちかもしれないね」
「それは……わからないですけど……」
「でも、驚いた。ケンカとかするんだな。きみもそんな感じには見えないし、緋雨も怒ってるところなんて見たことないから」
「け、ケンカってほどではないんですけど……」
「きっと、あの子もきみには本音が言えるんだろうね」
 柔らかくそう微笑む顔は、やっぱり伊野に似ていて、涼音は少し照れくさくなった。


 その後、伊野の父親は仕事だからと言って家を出て行った。そのせいで涼音はなぜか伊野家で一人、伊野の帰りを待っている。
 何度も来ているとはいえ、人の家で一人っきりというのはどうも落ち着かない。勝手に伊野の部屋に入るのも気が引けて、とりあえずリビングのソファーに座り、テレビのチャンネルをパチパチと変えていると玄関の鍵が開く音が聞こえた。
 その音に一気に涼音の緊張が高まる。出迎えようかとも考えたが、悩んでいるうちにリビングのドアが開いた。

「……おかえり」

 涼音を見た伊野は、文字通り固まって目を極限まで丸くした。と思ったら、なぜかリビングのドアを閉めた。
 帰ったらいきなり自分の家に涼音がいるのだから驚くのも無理はないが、閉められたリビングのドアはなかなか開かない。
 涼音はしびれを切らし、勢いよくドアを開けた。
「なにしてんの?」
「わっ! えっ、いや、それ俺のセリフだよ?!」
「伊野が電話でないからじゃん」
「あっごめん、充電切れちゃって」
 伊野は瀬良たちと別れた後、すぐにカフェへと足を向けたが、すでに一足遅く、涼音は退勤後だった。その上、スマホの充電が切れていることに気が付き、ひとまず家に帰ってきたのだ。
 そんな事情は知る由もない涼音は、再度ソファーへ戻ろうとくるりと伊野に背を向ける。その腕を伊野は慌てて掴んだ。
「俺に、会いに来てくれたの?」
「それ以外に何があるの」
 涼音の腕を掴む伊野の手はひんやりと冷たく、いつもより弱弱しい。
 二人とも次の言葉が出てこないまま、つけたままになっているテレビから聞こえる楽し気な人々の笑い声だけが部屋に響く。

 気まずい空気のせいで視線が定まらない涼音は、黙ったままでいる伊野をチラっと見上げると、ギョッとして思わず大きな声が出た。
「ちょ、ちょっと、なんで泣いてるの?!」
「ごめ……もう、嫌われたんじゃないかって……」
 伊野は床に水溜まりができてしまいそうなほど、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、肩を震わせていた。
「なんでそう思ったの?」
「だって、俺……涼音くんのこと、怒らせちゃったし……どうしたらいいのかわからなくて……もう、いらないって言われたらどうしようって……」
「だから、僕のこと避けてたの?」
 まだ涙があふれたままの瞳を下に向け、伊野は小さく頷いた。

 先週、駅で見かけた母親は、自分に向けたことのない顔をして、横を歩く子供を見ていた。あの子はおそらく、再婚後にできた子供なのだろう。
 とはいえ、母親のことは別にそういうものだと思ってたから、思ったほどショックということはない。
 それよりも、自分がその日一日涼音に取った態度を思い出し、突然怖くなった。
 
 幼い頃、母に嫌われないように一生懸命“いい子”でいようと頑張っていた。それでも、結局母は『いらない』と言って自分を置いて出て行ってしまった。
 それからずっと、人に嫌われないよう“いい子”の仮面をつけ、そのうえで、嫌われてもいいよう、当たり障りのない付き合いしかしてこなかった。
 それなのに、唯一心から欲しいと思った涼音にあんな態度をとってしまった。
 もし、涼音にまで『もういらない』と言われたら……。
 想像するだけで動かくなる体を何とか奮い立たせ、縋りついてでも謝って許してもらおう、と涼音の元へと向かったのに、その場にいた矢崎を見て、どうしても抑えが利かなくなってしまった。
 そして、同じことを繰り返した伊野に怒りながら去っていく涼音に、もう『許してもらえる』ことが想像できなくなった。


「……涼音くんといると感情がぐちゃぐちゃになって、おかしくなる。嫌われたくないのに……どうしたらいいのかわからないんだ」
 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながらうつむく伊野に、涼音は腹の底から何かがせりあがってくるような、今までに味わったことのない感覚に襲われ、思わずゴクリと喉を鳴らした。
 それをごまかすかのように涼音は伊野の顔を両手で挟み、グイッと引くと、涙が伝う頬をぺろりと舐めた。
「しょっぱい」
「えっ? はっ? なめ…???」
 驚く伊野の顔を両手で挟んだまま、涼音はその涙の溜まる瞳を真っ直ぐと見つめた。
「あのさ、今さらなに言ってるの?」
「えっ、どういう…」
「だって、ファーストコンタクトが強制わいせつだよ? その次も無理やりだった。それに、ストーカーだし、変態だし、すぐ拗ねるし、僕の話なんて全然聞いてくれないし」
 涼音の言葉に伊野は顔青くして肩を落とし、涼音より数段高い背を丸め、あからさまに落ち込んだ様子で縮こまっていく。
 床に落ちる伊野の涙は丸く集まり、いよいよ水溜まりになりそうなほど、絶え間なく降り続け、体の中の水分がなくなってしまうのではないか心配になるほどだ。

「だから、今さらだって言ってるの。伊野がおかしいことなんて最初から知ってる。……それなのに、そんな伊野を好きになった僕は、もっとおかしいかもね」
 ぱっと顔を上げた伊野の頬に涼音は手を伸ばして涙をぬぐうと、ようやくそれは流れを止めた。
「で、でも…俺……きっとまた涼音くんを怒らせちゃう……」
「僕は結構、最初から怒ってばっかりだと思うけど。伊野の方が怒られてばっかりで嫌になるんじゃない?」
「それはない。俺が涼音くんをイヤになることなんて、絶対にないよ」
「一週間以上話さなくても平気だったくせに?」
「平気なんかじゃなかったよ?!」
「迎えにだって来てくれなかった」
「……心配だから見には行ってたよ」
「えっ、ストーカーじゃん……こわっ」
 引いた顔をした涼音に、また伊野はうなだれて下を向いてしまったため、涼音は小さくため息をついて伊野から離れてソファーに座り、作ったような笑い声を流し続けるテレビを消した。

「伊野はちょっと僕のこと好きすぎるよね」
「……うん」
「そのうち、監禁とかされそう」
「…………」
「そこは否定してよ」
 クスッと笑う涼音を、伊野はまだ潤んだままの瞳で眩しそうに見つめながら、涼音の側に行きたいのに、怯える心が泥水に足を取られたかのようにまとわりついて、前に踏み出せない。
「伊野は何を怖がってるの?」
「す、涼音くんに嫌われること……」
「……ねぇ。僕が事故にあったって聞いたとき、伊野はどう思った?」
「えっ? あ……」
 涼音が事故にあったことを伊野が知ったのは高校二年生の夏休み。
 涼音にもう一度会うことが幼い頃からの念願であった伊野にとって、それは大げさではなく天国から地獄に突き落とされたかのような衝撃だった。
 そこからは、泥水につかりながらただただ沈んでいくだけのような日々を過ごした。

 あの、喉の奥に詰まった泥で息ができなくなるような日々よりも怖いものなどあるのだろうか。
 ましてや、今、あれほどまでに恋焦がれた涼音は目の前にいるのに。

「ねぇ伊野、僕は今ここにいるよ。それなのに手を離すの?」

 “嫌われるのが怖い”なんて、その相手が目の前にいるからこそ考えられるのだ。
 なんて贅沢な悩みなんだろう、伊野はそう思うと、また涙が目に溜まり始めた。
 涼音はそれを見て、困ったような笑顔でため息をつき、ソファーの前にスッと立ち上がった。
「来て、泣き虫さん」
 差し出した両手の間に伊野が飛び込んでくると、涼音はすかさず閉じ込めるかのようにその手を背に回した。
「涼音くん、ごめんね。好きだよ。好きだ」
「うん。でも、僕を避けたことはそう簡単に許してあげないから」
 涼音が向けた人を誘惑する悪魔のような美しい笑顔に魅入られ、伊野は今まで固くなっていた表情も、心もすべて溶かされていくように感じた。
「やっぱりたまんないな、俺のお姫様は」
 そのまま引き寄せられるように、二人は唇を重ねた。
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