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12. 初恋と現実
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射るような視線、なんて比喩がよく物語の中で使われているのを見たことがある。それは大抵、相手を厳しく非難する時や、敵意を持った相手に向けられるものだ。
だが、それは比喩なんかではなく本当に刺さるのだと咲玖は今、まざまざと実感している。
なぜなら今、確実に見えない矢が何本も咲玖に突き刺さっているからだ。
いたたまれないし、居心地がとてつもなく悪い。
でも、その状況に咲玖を追い込んだのは咲玖自身だった。
中庭から自室に戻ってすぐ、まずは泥を洗い流すためにシャワーを浴びた。
この世界は現代日本ほど文明が発達していないようだし、『異世界』にありがちな魔法なんかも使えるわけではない。雰囲気としては中世ヨーロッパに近い世界観に見える。
部屋の様子から電気がないということはすぐに分かった。まぁ電気は家電自体がないのだからそう困ることはないだろうと思った通り、今のところ不便はない。
だが、問題は水道だ。
地球にだって未だ水道のない国はあるのだろうが、蛇口をひねればいつでもどこでも清潔な水が出てくる国で育った人間にとって水道事情はかなりの死活問題だ。
とは言え、水道ってありますか? なんて聞けるはずもなく、この世界に来て初めて尿意をもよおした時はもう大パニック。
その後、この部屋にトイレとお風呂が備え付けられているのを見つけた時、大げさではなく涙が出るほど一人で歓喜した。
ただ、お風呂に入りたいと言ったら、当然のようにアルマたちがその場で待機していたことには参った。こちらの世界で貴族と呼ばれる身分の人は身の回りのことは使用人に任せるのが基本で、自分一人では着替えもしないし、お風呂でも使用人が髪や体を洗うのが当たり前らしい。
文化の違いなんだから否定したりはしないが、受け入れられるかは別問題だし、そもそも咲玖は貴族ではない。だから当然“お世話”は断ったのだが、それだと自分たちの仕事がなくなってしまう、とアルマたちに嘆かれたので、今は朝の支度や風呂上りのケア――これもいらないと言ったが、許してもらえなかった――はお願いしている。
贅沢だなぁとは思うが、人に頼ることなく生きてきた咲玖にとってはお世話をしてもらうことよりも、自分を気にかけてくれる人がいるということが嬉しくて、遠慮がちながらも甘えさせてもらっている。
ちなみにラインハルトはどうしているのかというと、着替えなどの身支度はオットーやその部下の人が手伝っているが、お風呂はシャワーで済ますからと使用人の手は借りていないらしい。
それを聞いて正直、ホッとした。
だって、成人男性がメイドさんに体を洗ってもらってるなんて、咲玖の常識では相当ドン引き案件だ。まぁ口にはしないけど、ね。
シャワーから上がり、用意してもらった服を着て部屋に戻ると、いつものようにアルマとエリーゼが待っていてくれる。
ここから始まるのは顔や髪のお手入れ。女の子じゃないし、と正直乗り気でなかったのだが、その効果は驚くべきものだった。
青白く、かさかさとしていた肌は見違えるように血行が良くなり、今ではしっとり手に吸い付いてくる。張りのなかった髪も、いつの間にやらつやつやサラサラヘアーに大変身。こんなにも変わるのかと、美容に力を入れる女性の心が少しわかってしまった。
それに、アルマもエリーゼも楽しそうにお手入れをしてくれるから、その様子を見るのも嬉しい。だから今はされるがままにお任せしている。
「いつもありがとう、二人とも」
「いいえ、我々も楽しませていただいておりますので」
「そうそう、サク様はお手入れのし甲斐がありますからね! 旦那様がメロメロになるのもわかりますぅ」
咲玖とラインハルトの関係も今や周知の事実――そもそも隠しようがないが――で、そせいもあってか最近二人ともやたらと気合が入っている。
初めは顔のお手入れだけだったのに、全身マッサージにボディークリームまで派生し、日々『磨き上げられている感』が半端ない。
ただ、香りの強いオイルだけはラインハルトからNGが出た。「サクの香りがわからなくなる」なんてまじめな顔をして言われてしまっては、はい、としか言えない。
そんなことを思い出していたら知らぬうちに顔に出ていたんだろう。アルマとエリーゼにうふふっと生暖かい目で微笑まれてしまった。
「さぁこれで完璧!」
「うん、ありがとう」
と、身支度を終えたところにちょうどノックの音が聞こえた。
返事をして、エリーゼが開けてくれた扉から入ってきたのはラインハルトだった。
「まだ支度中だったかな?」
「んーん、今ちょうど終わったところだよ」
お客様との話は終わったんだろうか、と思ったがどうやらそうではない様子。
言いよどむラインハルトから話を聞き出してみれば、どうやら咲玖はお客様に“ケンカ”を売られたようだ。
ちょうどアルマたちにキレイにしてもらったところだし、受けて立とうじゃないか! と意気込んで相対したものの、お客様、もとい、ラインハルトの元縁談相手、リナ・ウィローは、随分としおらし気な態度で咲玖に謝って見せた。
そう、その時までは。
予想外に反省の色を見せるリナに絆されて――騙されて?――一緒に昼食を、と言ったのが失敗だった。
途中、ラインハルトが急な呼び出しを受け、リナと二人でテーブルに着くことになってしまったのだ。
そして、ラインハルトが部屋を出た途端、なんということでしょう、それまで美しい弧を描いていた唇が一瞬にして逆を向き、あっという間に不機嫌を固めたような表情になったではありませんか。
さらに、部屋を出る前、咲玖の額に「すぐ戻ってくる」とラインハルトがキスをしていったのが余計に不満を煽ったのだろう。体感五度くらい気温が下がった。
そして、話は冒頭に戻る。
本当に穴が開いてしまうんじゃないかと不安になるほど、視線をグサグサと突き刺してくる美しい射手に、へらりと笑顔を向ける。
「あの、俺の顔に何かついていますか?」
あからさまに敵対する気はないからこうとぼけて見せたが、正直こんなふうにじっと見られるのはあまり気分の良いものではない。あちらの世界では人を不必要に凝視するのは失礼だと教わったが、こちらではそうでもないんだろうか、と思ってみたが、そんなことはない。
「あら、先ほど中庭でお会いした時から見違えてしまったものですから、つい」
やっぱりただの敵意だった。
あはは、とから笑いを返すが、リナの矢はまだこちらに向けられている。
とは言えさすがにそれを打って返す勇気はなく、視線を外したまま食事を続けた。
今目の前に用意されているのは鴨肉を香味野菜と一緒にオーブンで焼いたものだとさっきシェフのマルクスが説明してくれた。オスマンサス公爵家の食事はいつもおいしくて、幸せな気持ちになる。今日ももちろん、とってもおいしい。
あとでマルクスに感想とお礼を言いに行こう、と思いながら黙々と食べ進めていると、テーブルの向こう側からクスリッと小さな笑い声が聞こえた。
何かなとそちらに視線をやると、先ほどまで咲玖に向けられていた鋭い視線は食事へと向けられ、リナはまるで見せつけるように美しく、完璧なしぐさ小さくナイフで刻んだ鴨肉を口へと運んだ。
そして、うっすらと笑みを浮かべ、また咲玖を見据えた。
「サク様は元いらっしゃった世界では貴族階級でいらしたのかしら」
「いえ、俺の居たところにはそもそも身分階級がなかったので……」
「まぁ、そうですの」
そのどこか含みのある声色に、これは馬鹿にされているのだと察した。
ホテルレストランでバイトをしていたおかげで最低限のマナーは知ってはいるし、こちらの世界ことを学ぶ一環として必要なことはオットーから教わり、及第点をもらっている。とは言え、“及第点”レベルでは生まれも育ちも生粋のお嬢様であるリナからすれば、どうしてもぎこちなく見えたんだろう。
このあからさまな悪意に咲玖は傷つきはせずとも、驚きはした。
これまで会ったこちらの世界の人は、ラインハルトやユーリはもちろん、公爵家に来るお客様も、こんなふうに人を小バカにするような品のないことをする人は一人もおらず、皆、それぞれの矜恃を持った“大人”だった。
おそらく、ラインハルトがそういう人としか親交を持たないというだけで、誘拐されたこともあるくらいなのだから、もちろんこの世界には悪意のある人もいるということはわかっている。
それでも、これまでの言動でリナのことを『あぁまだ子供なんだな』と思ったら、それまであった意気込みは急激に冷め、公爵であるラインハルトにはリナのような“お嬢様”のほうがふさわしいのではないか、なんて考えもポンッと消えた。
自分の方がふさわしい、なんて豪語するほどのものはないが、
――ライも『もっと自信を持っていい』って言ってたしね。
そう言ってくれた時のラインハルトの顔を思い出し、ふっと顔が緩んだ。
でも、リナとしては嫌味を言ったつもりが、笑っていなされたと思ったのだろう。明らかに眉間にしわを寄せた。
だからあえてにっこりと笑って見せる。こういうことは多分、余裕をなくしたほうが負けだ。
リナも感情が顔に出ていることに気が付いたのだろう。コホンと咳払いをして、表情を取り繕った。
「サク様、『青薔薇のセレナーデ』という物語はご存じでいらっしゃるかしら?」
「はい。勧められて読みました」
こちらの世界のことを知るにあたって、歴史や社会情勢を学ぶのはもちろん、流行りの物語も世情をする知るのにはよい教材だとオットーに言われ、アルマたちにおすすめを聞いたところ、真っ先に名が挙がったのがこの『青薔薇のセレナーデ』、通称、“青セレ”だった。
容姿も才能も優れているが、愛を知らない大国の王子様が、偶然出会った小国のお姫様と恋に落ち、様々な障害を乗り越えて本物の愛を見つけるという超王道ラブストーリー。
物語の最後、赤いバラが咲き乱れる王宮の庭園で、『あなたは私のたった一輪の青薔薇だ』と愛の告白をした場面がベラーブル王国、ひいては世界中の女性たちのハートを撃ちぬいたのだとエリーゼが熱く語ってくれた。
そのおかげで、白薔薇を加工した人口青薔薇がプロポーズ時のマストアイテムになったという。薔薇農家の人はウハウハだったに違いない。
そして、何より特筆すべきことは、この『青薔薇のセレナーデ』の主人公、レイナルドのモデルがラインハルトだと言われているのだ。
レイナルドは、ややオレンジがかった金髪にエメラルドグリーンの瞳で、背が高く細身ながらも筋肉質。当然、政治の才覚にも優れ、騎士団長を務めるほど剣の腕前も高い。
性格も温和で常に笑顔を絶やさず万人に優しい。ただ、母親に疎まれた経験から『愛』がどういうものなのかわからず、やがては大国の王となるという重責も相まって誰にも本心をさらけ出すことができない。
この盛りに盛った設定――特に容姿に関して――は確かに既視感があるが、セリフや行動はラインハルト似ているとはそう思わなかった。
レイナルドは「愛を知らない」という設定だったから、ヒロインに対してなかなか素直になれず、言葉もどこか遠まわしだった。
一方、ラインハルトはこちらが恥ずかしくなるほどに愛情表現がストレートだ。
まぁ作者とラインハルトは知り合いではないそうだし、あくまで“物語”なのだから当然と言えば当然だ。
「レイナルド様に出会ったのは五年前、わたくしがまだ十三歳のころでした。今でもその時の衝撃は忘れられません。美しい容姿はもちろん、リレーナのために命を懸ける凛々しいお姿…! わたくしは一瞬で心を奪われましたわ。それからおじい様にねだって、全言語版の“青セレ”を買っていただきましたの」
ちなみにリレーナは“青セレの”ヒロインである小国の姫様だ。見た目ははかなげな美人ながら、意志の強いはっきりと物を言う性格で、次世代の女性像! なんて言われたんだとか。
それにしてもさすがお金持ちはおねだりの規模がワールドワイド、なんて思いながら「はあ」と気のない返事をする。
だって、なんとなくリナの言わんとしていることが読めてきてしまった。
「そのモデルと言われるお人とカイお兄様がお知り合いだと知ったときの興奮と言ったらありませんでしたわ……。だから縁談のお話が持ち上がったとき、わたくしがどんなに嬉しかったか、サク様にはお分かりになって?」
「はあ、」
またつい生返事をしてしまった。こう来たらきっと次に続く言葉は……。
「だからどうか、身を引いてくださいまし。わたくしの方が絶対に公爵様にふさわしいに決まっていますわ!!」
ですよね。予想通りです。
さっきまでのすました様子とは打って変わって、“青セレ愛”を語る姿は非常に熱くて、その熱量に正直若干引いている。
そして、まだまだリナの熱弁は終わらない。
「公爵様を一目見た時、レイナルド様が本から飛び出していらっしゃったのかと本当に感激いたしましたわ。あのオレンジ色を含んだ光る金の髪、そして宝石のように輝くエメラルドグリーンの瞳。ため息が出るほどにお美しくて、背や体格も想像通り。まさに本物のレイナルド様!!」
まぁ、確かに見た目はレイナルドそのものだろう。だってモデルなんだし、びっくりするくらい美形なのは同意する。咲玖だっていまだに目を覚ました時、横にある寝顔の眩しさに驚くときがあるんだから。
「それなのに、あんなに冷たくあしらわれてしまうなんて……。驚きましたし、がっかりしましたけれど、それも全てあなたがいるからでしょう? あなたがいなければきっと、」
「がっかり?」
そう言った咲玖の声にリナはビクリと肩を震わせ、固まっている。
そういう自分も、これまでにないほど低い声が出たことに驚いた。
「だ、だってそうでしょう?! レイナルド様は誰にでもお優しくて、」
「公爵様はレイナルドじゃないよ」
強い視線と強い声色をリナに向ける。すると、リナは怯んだようにぐっと一度唇を噛み、すぐに視線を外した。
「そ、そんなことわかっていますわ! でも、公爵様だってお優しい方だってお兄様はおっしゃっていましたもの! だから今日だってきっと喜んで下さるって思っていたのに……」
もしかして泣いてしまうだろうか、と思ったがそんなこともなく、リナはまた顔を上げ、キッと咲玖を睨みつけた。
「全てあなたがいるからでしょう?! わたくしは公爵様のことを聞いてからずっと憧れておりましたの! それなのに、急にあなたが現れたせいで全部台無しよ! わたくしはレイナルド様とリレーナのように公爵様と恋に落ちる瞬間をずっと夢見ていたのに!!」
話しだけ聞けば少女のかわいらしい夢だ。その思いが強いことも十分に伝わった。
でも結局、夢は夢で、現実とは違う。
「あなたの気持ちははわかったよ。ずっと夢見てきたんだね」
「それなら!!」
「でも、それを人に押し付けたらダメだよ」
現実が思い通りに行くことは少ない。現に咲玖の現実は厳しいことの方が多かった。
だからこちらに来たばかりのころは、安心できる家においしいごはん、そして温かい人達ばかりのこの世界を夢なのではないかと思っていた。
でも、失敗もたくさんしたし、自分が情けなくて嫌になることもあった。うまくいくことばかりじゃない。
それも含めてこの世界は“現実”なのだと今は実感している。
今のリナは自分の望んだ夢と違うと“がっかり”して癇癪を起している。それをこちらのせいにされてはさすがに我慢ならない。
何よりも目の前の現実を見ようとせず、ラインハルトを貶めたことは絶対に許せない。
「あなたはこの先俺を排除してこの家に入ったとして、公爵様にレイナルドと違うところを見つけたらまたがっかりしたって言うの? 自分の望みが叶わなかったらこうやってまた人のせいにするの?」
目の前で苦い顔をするリナに視線と声は強く、でも怒鳴ったりはせず、あくまで諭すようにゆっくりと話しかける。
「確かに公爵様はレイナルドみたいに強くてかっこよくて、優しい人だよ。でも、現実にいる生きた人間なんだ。がっかりされればきっと傷つくし、悲しむ。優しい人だから、期待に応えようと頑張りすぎてしまうかもしれない。そんなふうに公爵様を苦しめるかもしれない人のために、公爵様の、ライの隣にいることを諦めたりなんて俺は絶対にしない」
咲玖がラインハルトのためにできることは少ない。それでも、ラインハルトは咲玖が好きだと、愛していると言ってくれる。そんなラインハルトのためにできることをしようと心に決めたのだ。
だから自分から手放すようなことは絶対にしない。
何よりも、咲玖だってラインハルトが好きで、愛しているのだから。
決意を瞳に籠め、決して睨むのではなく強い視線でリナを見やる。明らかにたじろいでいるリナは、唇を震わせ、ガシャンと机に手をついて立ち上がった。
「なんであなたにそんなこと言われないといけないの?! 何が『世界樹の客人』よ。実際はただの庭師風情のくせに偉そうに!! あなたと結婚して、公爵様に何のメリットがあるの?! 私なら公爵家にも、この国にも利益をもたらすことができるわ。それに、貧相な男のあなたなんかより、絶対にわたくしの方が魅力的に決まってる!!」
あまりの剣幕さにどうしようかと考えていると、いつもの優しい低音が少し鋭さを伴って響いた。
「それは私が決めることであってあなたが決めることではない」
声のしたほうをばっと見ると、開いたドアの前にラインハルトが険しい顔をして立っていた。リナの声に遮られ、ドアが開いた音にも気が付かなかったようだ。
そしてラインハルトの後ろには見覚えのある顔が見えた。
「閣下の言うとおりですよ、リナ。いい加減にしなさい。今きみがしていることは、きみ自身もウィロー家の品格も貶める愚行でしかありません」
カイだ。その後ろにはユーリもいる。二人を見たリナはあからさまに動揺し、顔を青くした。
「な、なんでお兄様が……こちらに着くまであと三日はかかると……」
「これ以上オスマンサス公爵家にご迷惑をおかけするわけにはいきませんからね」
カイは至って冷静で、表情も“笑顔”には見えるが、その声は恐ろしいほど冷たい。相当に怒っているのが感じ取れる。後ろにいるユーリも「あーあ」と言う顔をしてため息を吐いた。
そんな二人をドアの前に残し、すぐに咲玖の元へと駆け寄ったラインハルトは椅子に座ったままの咲玖の横に跪き、眉を下げ、悲しげな表情で咲玖を見上げた。
「一人にしてすまなかった。やはり置いていくべきではなかった……」
後悔を滲ませるように唇を噛むラインハルトの優しさにほっと頬が緩んだ。やはり少し緊張していたようだ。
「大丈夫だよ、俺が残るって言ったんだから。でも、心配してくれてありがとう」
それに、リナと話ができて良かったと思う。
多分リナは納得いっていないだろうが、自分の想いを言葉に出すことでしっかりとした形にすることができた。自己満足に使ってごめん、と思うくらいの余裕はある。
ラインハルトは咲玖の明るい表情に少しほっとしたのか、そっと手を取り、指先に口付けた。
この指先へのキスをラインハルトは咲玖によくしてくれる。
それとなくアルマに聞いてみたところ、このキスは深い愛情だけではなく、相手への尊敬や敬意を表しているのだと教えてくれた。
だから今度はラインハルトの手を握り返し、咲玖も同じようにラインハルトの指先へとキスを落とす。
少し目を丸めたラインハルトの様子がかわいらしくて、抱きしめたい衝動にかられたけれど、遠慮がちにかけられたカイの声のおかげで、ここが食堂であることを思い出した。
「オスマンサス公爵閣下、サク様、重ね重ねご迷惑をおかけしてしまい本当に申し訳ございません」
そう礼の姿勢をとるカイの後ろにで、リナはしょんぼりとうなだれている。
「……申し訳ございません」
カイに促されて発した謝罪の言葉も、さっきの勢いはどこへ行ってしまったのだろうかと思うほど小さく、消え入りそうなほど力なかった。
とは言え先ほど二面性を見ているから、これもポーズかなちょっと疑ってみたが、顔からは血の気が引いているから、たぶん自分でもやりすぎてしまったと思っているのだろう、多分。
「リナさん、俺は確かに貧相だし、公爵様にしてあげられることはあなたより少ないと思う。でも、公爵様への気持ちは負けない、絶対に」
にっこりと笑って見せると、リナは少しだけ悔しそうな顔をしてから、ふうっと息を吐いた。
「わたくしの完敗ですわ……ひどいことを言ってごめんなさい」
「うん、俺も偉そうなこと言ってごめんね」
「なぜあなたが謝るのです?! 悪いのは全面的にわたくしですわ。国に戻ったらお詫びの品を送ります。それで許して下さるかしら?!」
その全く“謝る方”の態度ではないもの言いに、ラインハルトはまた怒りをあらわにしたが、咲玖は思わず吹き出してしまった。
リナからすれば、長年夢見た初恋に敗れ、これから家に帰るとまた大目玉を食らうのだろう。それもわかった上で、最後まで強気な態度を貫くリナが、いじらしくて、かわいらしいなと思ったんだ。
「物はいらないよ。でも手紙は欲しいな。シン国のこととか、青セレのこととか何でもいいから書いて送ってくれる?」
「そ、そんなものでよろしいのです?」
「うん、そっちのほうが嬉しいよ」
「まぁサク様がそうおっしゃるなら……お返事は下さいますの?」
「もちろん!」
“昨日――実際はついさっきだけど――の敵は今日の友”なんて感じかな、なんてついニマニマしていると、隣に立っていたラインハルトが複雑そうな顔をしていることに気が付いた。きっと心配してくれているのだろう。
大丈夫だよ、という気持ちを込めてにっこりと笑顔を向けると、ラインハルトは困ったように少し笑い、そっと咲玖の髪を撫でた。
「サクには敵わないな」
そう言って額にキスを落とす美しい恋人にうっとりと目を細めながら、さっき中庭で言われた“続き”に想いを馳せ、胸を小さく高鳴らせた。
だが、それは比喩なんかではなく本当に刺さるのだと咲玖は今、まざまざと実感している。
なぜなら今、確実に見えない矢が何本も咲玖に突き刺さっているからだ。
いたたまれないし、居心地がとてつもなく悪い。
でも、その状況に咲玖を追い込んだのは咲玖自身だった。
中庭から自室に戻ってすぐ、まずは泥を洗い流すためにシャワーを浴びた。
この世界は現代日本ほど文明が発達していないようだし、『異世界』にありがちな魔法なんかも使えるわけではない。雰囲気としては中世ヨーロッパに近い世界観に見える。
部屋の様子から電気がないということはすぐに分かった。まぁ電気は家電自体がないのだからそう困ることはないだろうと思った通り、今のところ不便はない。
だが、問題は水道だ。
地球にだって未だ水道のない国はあるのだろうが、蛇口をひねればいつでもどこでも清潔な水が出てくる国で育った人間にとって水道事情はかなりの死活問題だ。
とは言え、水道ってありますか? なんて聞けるはずもなく、この世界に来て初めて尿意をもよおした時はもう大パニック。
その後、この部屋にトイレとお風呂が備え付けられているのを見つけた時、大げさではなく涙が出るほど一人で歓喜した。
ただ、お風呂に入りたいと言ったら、当然のようにアルマたちがその場で待機していたことには参った。こちらの世界で貴族と呼ばれる身分の人は身の回りのことは使用人に任せるのが基本で、自分一人では着替えもしないし、お風呂でも使用人が髪や体を洗うのが当たり前らしい。
文化の違いなんだから否定したりはしないが、受け入れられるかは別問題だし、そもそも咲玖は貴族ではない。だから当然“お世話”は断ったのだが、それだと自分たちの仕事がなくなってしまう、とアルマたちに嘆かれたので、今は朝の支度や風呂上りのケア――これもいらないと言ったが、許してもらえなかった――はお願いしている。
贅沢だなぁとは思うが、人に頼ることなく生きてきた咲玖にとってはお世話をしてもらうことよりも、自分を気にかけてくれる人がいるということが嬉しくて、遠慮がちながらも甘えさせてもらっている。
ちなみにラインハルトはどうしているのかというと、着替えなどの身支度はオットーやその部下の人が手伝っているが、お風呂はシャワーで済ますからと使用人の手は借りていないらしい。
それを聞いて正直、ホッとした。
だって、成人男性がメイドさんに体を洗ってもらってるなんて、咲玖の常識では相当ドン引き案件だ。まぁ口にはしないけど、ね。
シャワーから上がり、用意してもらった服を着て部屋に戻ると、いつものようにアルマとエリーゼが待っていてくれる。
ここから始まるのは顔や髪のお手入れ。女の子じゃないし、と正直乗り気でなかったのだが、その効果は驚くべきものだった。
青白く、かさかさとしていた肌は見違えるように血行が良くなり、今ではしっとり手に吸い付いてくる。張りのなかった髪も、いつの間にやらつやつやサラサラヘアーに大変身。こんなにも変わるのかと、美容に力を入れる女性の心が少しわかってしまった。
それに、アルマもエリーゼも楽しそうにお手入れをしてくれるから、その様子を見るのも嬉しい。だから今はされるがままにお任せしている。
「いつもありがとう、二人とも」
「いいえ、我々も楽しませていただいておりますので」
「そうそう、サク様はお手入れのし甲斐がありますからね! 旦那様がメロメロになるのもわかりますぅ」
咲玖とラインハルトの関係も今や周知の事実――そもそも隠しようがないが――で、そせいもあってか最近二人ともやたらと気合が入っている。
初めは顔のお手入れだけだったのに、全身マッサージにボディークリームまで派生し、日々『磨き上げられている感』が半端ない。
ただ、香りの強いオイルだけはラインハルトからNGが出た。「サクの香りがわからなくなる」なんてまじめな顔をして言われてしまっては、はい、としか言えない。
そんなことを思い出していたら知らぬうちに顔に出ていたんだろう。アルマとエリーゼにうふふっと生暖かい目で微笑まれてしまった。
「さぁこれで完璧!」
「うん、ありがとう」
と、身支度を終えたところにちょうどノックの音が聞こえた。
返事をして、エリーゼが開けてくれた扉から入ってきたのはラインハルトだった。
「まだ支度中だったかな?」
「んーん、今ちょうど終わったところだよ」
お客様との話は終わったんだろうか、と思ったがどうやらそうではない様子。
言いよどむラインハルトから話を聞き出してみれば、どうやら咲玖はお客様に“ケンカ”を売られたようだ。
ちょうどアルマたちにキレイにしてもらったところだし、受けて立とうじゃないか! と意気込んで相対したものの、お客様、もとい、ラインハルトの元縁談相手、リナ・ウィローは、随分としおらし気な態度で咲玖に謝って見せた。
そう、その時までは。
予想外に反省の色を見せるリナに絆されて――騙されて?――一緒に昼食を、と言ったのが失敗だった。
途中、ラインハルトが急な呼び出しを受け、リナと二人でテーブルに着くことになってしまったのだ。
そして、ラインハルトが部屋を出た途端、なんということでしょう、それまで美しい弧を描いていた唇が一瞬にして逆を向き、あっという間に不機嫌を固めたような表情になったではありませんか。
さらに、部屋を出る前、咲玖の額に「すぐ戻ってくる」とラインハルトがキスをしていったのが余計に不満を煽ったのだろう。体感五度くらい気温が下がった。
そして、話は冒頭に戻る。
本当に穴が開いてしまうんじゃないかと不安になるほど、視線をグサグサと突き刺してくる美しい射手に、へらりと笑顔を向ける。
「あの、俺の顔に何かついていますか?」
あからさまに敵対する気はないからこうとぼけて見せたが、正直こんなふうにじっと見られるのはあまり気分の良いものではない。あちらの世界では人を不必要に凝視するのは失礼だと教わったが、こちらではそうでもないんだろうか、と思ってみたが、そんなことはない。
「あら、先ほど中庭でお会いした時から見違えてしまったものですから、つい」
やっぱりただの敵意だった。
あはは、とから笑いを返すが、リナの矢はまだこちらに向けられている。
とは言えさすがにそれを打って返す勇気はなく、視線を外したまま食事を続けた。
今目の前に用意されているのは鴨肉を香味野菜と一緒にオーブンで焼いたものだとさっきシェフのマルクスが説明してくれた。オスマンサス公爵家の食事はいつもおいしくて、幸せな気持ちになる。今日ももちろん、とってもおいしい。
あとでマルクスに感想とお礼を言いに行こう、と思いながら黙々と食べ進めていると、テーブルの向こう側からクスリッと小さな笑い声が聞こえた。
何かなとそちらに視線をやると、先ほどまで咲玖に向けられていた鋭い視線は食事へと向けられ、リナはまるで見せつけるように美しく、完璧なしぐさ小さくナイフで刻んだ鴨肉を口へと運んだ。
そして、うっすらと笑みを浮かべ、また咲玖を見据えた。
「サク様は元いらっしゃった世界では貴族階級でいらしたのかしら」
「いえ、俺の居たところにはそもそも身分階級がなかったので……」
「まぁ、そうですの」
そのどこか含みのある声色に、これは馬鹿にされているのだと察した。
ホテルレストランでバイトをしていたおかげで最低限のマナーは知ってはいるし、こちらの世界ことを学ぶ一環として必要なことはオットーから教わり、及第点をもらっている。とは言え、“及第点”レベルでは生まれも育ちも生粋のお嬢様であるリナからすれば、どうしてもぎこちなく見えたんだろう。
このあからさまな悪意に咲玖は傷つきはせずとも、驚きはした。
これまで会ったこちらの世界の人は、ラインハルトやユーリはもちろん、公爵家に来るお客様も、こんなふうに人を小バカにするような品のないことをする人は一人もおらず、皆、それぞれの矜恃を持った“大人”だった。
おそらく、ラインハルトがそういう人としか親交を持たないというだけで、誘拐されたこともあるくらいなのだから、もちろんこの世界には悪意のある人もいるということはわかっている。
それでも、これまでの言動でリナのことを『あぁまだ子供なんだな』と思ったら、それまであった意気込みは急激に冷め、公爵であるラインハルトにはリナのような“お嬢様”のほうがふさわしいのではないか、なんて考えもポンッと消えた。
自分の方がふさわしい、なんて豪語するほどのものはないが、
――ライも『もっと自信を持っていい』って言ってたしね。
そう言ってくれた時のラインハルトの顔を思い出し、ふっと顔が緩んだ。
でも、リナとしては嫌味を言ったつもりが、笑っていなされたと思ったのだろう。明らかに眉間にしわを寄せた。
だからあえてにっこりと笑って見せる。こういうことは多分、余裕をなくしたほうが負けだ。
リナも感情が顔に出ていることに気が付いたのだろう。コホンと咳払いをして、表情を取り繕った。
「サク様、『青薔薇のセレナーデ』という物語はご存じでいらっしゃるかしら?」
「はい。勧められて読みました」
こちらの世界のことを知るにあたって、歴史や社会情勢を学ぶのはもちろん、流行りの物語も世情をする知るのにはよい教材だとオットーに言われ、アルマたちにおすすめを聞いたところ、真っ先に名が挙がったのがこの『青薔薇のセレナーデ』、通称、“青セレ”だった。
容姿も才能も優れているが、愛を知らない大国の王子様が、偶然出会った小国のお姫様と恋に落ち、様々な障害を乗り越えて本物の愛を見つけるという超王道ラブストーリー。
物語の最後、赤いバラが咲き乱れる王宮の庭園で、『あなたは私のたった一輪の青薔薇だ』と愛の告白をした場面がベラーブル王国、ひいては世界中の女性たちのハートを撃ちぬいたのだとエリーゼが熱く語ってくれた。
そのおかげで、白薔薇を加工した人口青薔薇がプロポーズ時のマストアイテムになったという。薔薇農家の人はウハウハだったに違いない。
そして、何より特筆すべきことは、この『青薔薇のセレナーデ』の主人公、レイナルドのモデルがラインハルトだと言われているのだ。
レイナルドは、ややオレンジがかった金髪にエメラルドグリーンの瞳で、背が高く細身ながらも筋肉質。当然、政治の才覚にも優れ、騎士団長を務めるほど剣の腕前も高い。
性格も温和で常に笑顔を絶やさず万人に優しい。ただ、母親に疎まれた経験から『愛』がどういうものなのかわからず、やがては大国の王となるという重責も相まって誰にも本心をさらけ出すことができない。
この盛りに盛った設定――特に容姿に関して――は確かに既視感があるが、セリフや行動はラインハルト似ているとはそう思わなかった。
レイナルドは「愛を知らない」という設定だったから、ヒロインに対してなかなか素直になれず、言葉もどこか遠まわしだった。
一方、ラインハルトはこちらが恥ずかしくなるほどに愛情表現がストレートだ。
まぁ作者とラインハルトは知り合いではないそうだし、あくまで“物語”なのだから当然と言えば当然だ。
「レイナルド様に出会ったのは五年前、わたくしがまだ十三歳のころでした。今でもその時の衝撃は忘れられません。美しい容姿はもちろん、リレーナのために命を懸ける凛々しいお姿…! わたくしは一瞬で心を奪われましたわ。それからおじい様にねだって、全言語版の“青セレ”を買っていただきましたの」
ちなみにリレーナは“青セレの”ヒロインである小国の姫様だ。見た目ははかなげな美人ながら、意志の強いはっきりと物を言う性格で、次世代の女性像! なんて言われたんだとか。
それにしてもさすがお金持ちはおねだりの規模がワールドワイド、なんて思いながら「はあ」と気のない返事をする。
だって、なんとなくリナの言わんとしていることが読めてきてしまった。
「そのモデルと言われるお人とカイお兄様がお知り合いだと知ったときの興奮と言ったらありませんでしたわ……。だから縁談のお話が持ち上がったとき、わたくしがどんなに嬉しかったか、サク様にはお分かりになって?」
「はあ、」
またつい生返事をしてしまった。こう来たらきっと次に続く言葉は……。
「だからどうか、身を引いてくださいまし。わたくしの方が絶対に公爵様にふさわしいに決まっていますわ!!」
ですよね。予想通りです。
さっきまでのすました様子とは打って変わって、“青セレ愛”を語る姿は非常に熱くて、その熱量に正直若干引いている。
そして、まだまだリナの熱弁は終わらない。
「公爵様を一目見た時、レイナルド様が本から飛び出していらっしゃったのかと本当に感激いたしましたわ。あのオレンジ色を含んだ光る金の髪、そして宝石のように輝くエメラルドグリーンの瞳。ため息が出るほどにお美しくて、背や体格も想像通り。まさに本物のレイナルド様!!」
まぁ、確かに見た目はレイナルドそのものだろう。だってモデルなんだし、びっくりするくらい美形なのは同意する。咲玖だっていまだに目を覚ました時、横にある寝顔の眩しさに驚くときがあるんだから。
「それなのに、あんなに冷たくあしらわれてしまうなんて……。驚きましたし、がっかりしましたけれど、それも全てあなたがいるからでしょう? あなたがいなければきっと、」
「がっかり?」
そう言った咲玖の声にリナはビクリと肩を震わせ、固まっている。
そういう自分も、これまでにないほど低い声が出たことに驚いた。
「だ、だってそうでしょう?! レイナルド様は誰にでもお優しくて、」
「公爵様はレイナルドじゃないよ」
強い視線と強い声色をリナに向ける。すると、リナは怯んだようにぐっと一度唇を噛み、すぐに視線を外した。
「そ、そんなことわかっていますわ! でも、公爵様だってお優しい方だってお兄様はおっしゃっていましたもの! だから今日だってきっと喜んで下さるって思っていたのに……」
もしかして泣いてしまうだろうか、と思ったがそんなこともなく、リナはまた顔を上げ、キッと咲玖を睨みつけた。
「全てあなたがいるからでしょう?! わたくしは公爵様のことを聞いてからずっと憧れておりましたの! それなのに、急にあなたが現れたせいで全部台無しよ! わたくしはレイナルド様とリレーナのように公爵様と恋に落ちる瞬間をずっと夢見ていたのに!!」
話しだけ聞けば少女のかわいらしい夢だ。その思いが強いことも十分に伝わった。
でも結局、夢は夢で、現実とは違う。
「あなたの気持ちははわかったよ。ずっと夢見てきたんだね」
「それなら!!」
「でも、それを人に押し付けたらダメだよ」
現実が思い通りに行くことは少ない。現に咲玖の現実は厳しいことの方が多かった。
だからこちらに来たばかりのころは、安心できる家においしいごはん、そして温かい人達ばかりのこの世界を夢なのではないかと思っていた。
でも、失敗もたくさんしたし、自分が情けなくて嫌になることもあった。うまくいくことばかりじゃない。
それも含めてこの世界は“現実”なのだと今は実感している。
今のリナは自分の望んだ夢と違うと“がっかり”して癇癪を起している。それをこちらのせいにされてはさすがに我慢ならない。
何よりも目の前の現実を見ようとせず、ラインハルトを貶めたことは絶対に許せない。
「あなたはこの先俺を排除してこの家に入ったとして、公爵様にレイナルドと違うところを見つけたらまたがっかりしたって言うの? 自分の望みが叶わなかったらこうやってまた人のせいにするの?」
目の前で苦い顔をするリナに視線と声は強く、でも怒鳴ったりはせず、あくまで諭すようにゆっくりと話しかける。
「確かに公爵様はレイナルドみたいに強くてかっこよくて、優しい人だよ。でも、現実にいる生きた人間なんだ。がっかりされればきっと傷つくし、悲しむ。優しい人だから、期待に応えようと頑張りすぎてしまうかもしれない。そんなふうに公爵様を苦しめるかもしれない人のために、公爵様の、ライの隣にいることを諦めたりなんて俺は絶対にしない」
咲玖がラインハルトのためにできることは少ない。それでも、ラインハルトは咲玖が好きだと、愛していると言ってくれる。そんなラインハルトのためにできることをしようと心に決めたのだ。
だから自分から手放すようなことは絶対にしない。
何よりも、咲玖だってラインハルトが好きで、愛しているのだから。
決意を瞳に籠め、決して睨むのではなく強い視線でリナを見やる。明らかにたじろいでいるリナは、唇を震わせ、ガシャンと机に手をついて立ち上がった。
「なんであなたにそんなこと言われないといけないの?! 何が『世界樹の客人』よ。実際はただの庭師風情のくせに偉そうに!! あなたと結婚して、公爵様に何のメリットがあるの?! 私なら公爵家にも、この国にも利益をもたらすことができるわ。それに、貧相な男のあなたなんかより、絶対にわたくしの方が魅力的に決まってる!!」
あまりの剣幕さにどうしようかと考えていると、いつもの優しい低音が少し鋭さを伴って響いた。
「それは私が決めることであってあなたが決めることではない」
声のしたほうをばっと見ると、開いたドアの前にラインハルトが険しい顔をして立っていた。リナの声に遮られ、ドアが開いた音にも気が付かなかったようだ。
そしてラインハルトの後ろには見覚えのある顔が見えた。
「閣下の言うとおりですよ、リナ。いい加減にしなさい。今きみがしていることは、きみ自身もウィロー家の品格も貶める愚行でしかありません」
カイだ。その後ろにはユーリもいる。二人を見たリナはあからさまに動揺し、顔を青くした。
「な、なんでお兄様が……こちらに着くまであと三日はかかると……」
「これ以上オスマンサス公爵家にご迷惑をおかけするわけにはいきませんからね」
カイは至って冷静で、表情も“笑顔”には見えるが、その声は恐ろしいほど冷たい。相当に怒っているのが感じ取れる。後ろにいるユーリも「あーあ」と言う顔をしてため息を吐いた。
そんな二人をドアの前に残し、すぐに咲玖の元へと駆け寄ったラインハルトは椅子に座ったままの咲玖の横に跪き、眉を下げ、悲しげな表情で咲玖を見上げた。
「一人にしてすまなかった。やはり置いていくべきではなかった……」
後悔を滲ませるように唇を噛むラインハルトの優しさにほっと頬が緩んだ。やはり少し緊張していたようだ。
「大丈夫だよ、俺が残るって言ったんだから。でも、心配してくれてありがとう」
それに、リナと話ができて良かったと思う。
多分リナは納得いっていないだろうが、自分の想いを言葉に出すことでしっかりとした形にすることができた。自己満足に使ってごめん、と思うくらいの余裕はある。
ラインハルトは咲玖の明るい表情に少しほっとしたのか、そっと手を取り、指先に口付けた。
この指先へのキスをラインハルトは咲玖によくしてくれる。
それとなくアルマに聞いてみたところ、このキスは深い愛情だけではなく、相手への尊敬や敬意を表しているのだと教えてくれた。
だから今度はラインハルトの手を握り返し、咲玖も同じようにラインハルトの指先へとキスを落とす。
少し目を丸めたラインハルトの様子がかわいらしくて、抱きしめたい衝動にかられたけれど、遠慮がちにかけられたカイの声のおかげで、ここが食堂であることを思い出した。
「オスマンサス公爵閣下、サク様、重ね重ねご迷惑をおかけしてしまい本当に申し訳ございません」
そう礼の姿勢をとるカイの後ろにで、リナはしょんぼりとうなだれている。
「……申し訳ございません」
カイに促されて発した謝罪の言葉も、さっきの勢いはどこへ行ってしまったのだろうかと思うほど小さく、消え入りそうなほど力なかった。
とは言え先ほど二面性を見ているから、これもポーズかなちょっと疑ってみたが、顔からは血の気が引いているから、たぶん自分でもやりすぎてしまったと思っているのだろう、多分。
「リナさん、俺は確かに貧相だし、公爵様にしてあげられることはあなたより少ないと思う。でも、公爵様への気持ちは負けない、絶対に」
にっこりと笑って見せると、リナは少しだけ悔しそうな顔をしてから、ふうっと息を吐いた。
「わたくしの完敗ですわ……ひどいことを言ってごめんなさい」
「うん、俺も偉そうなこと言ってごめんね」
「なぜあなたが謝るのです?! 悪いのは全面的にわたくしですわ。国に戻ったらお詫びの品を送ります。それで許して下さるかしら?!」
その全く“謝る方”の態度ではないもの言いに、ラインハルトはまた怒りをあらわにしたが、咲玖は思わず吹き出してしまった。
リナからすれば、長年夢見た初恋に敗れ、これから家に帰るとまた大目玉を食らうのだろう。それもわかった上で、最後まで強気な態度を貫くリナが、いじらしくて、かわいらしいなと思ったんだ。
「物はいらないよ。でも手紙は欲しいな。シン国のこととか、青セレのこととか何でもいいから書いて送ってくれる?」
「そ、そんなものでよろしいのです?」
「うん、そっちのほうが嬉しいよ」
「まぁサク様がそうおっしゃるなら……お返事は下さいますの?」
「もちろん!」
“昨日――実際はついさっきだけど――の敵は今日の友”なんて感じかな、なんてついニマニマしていると、隣に立っていたラインハルトが複雑そうな顔をしていることに気が付いた。きっと心配してくれているのだろう。
大丈夫だよ、という気持ちを込めてにっこりと笑顔を向けると、ラインハルトは困ったように少し笑い、そっと咲玖の髪を撫でた。
「サクには敵わないな」
そう言って額にキスを落とす美しい恋人にうっとりと目を細めながら、さっき中庭で言われた“続き”に想いを馳せ、胸を小さく高鳴らせた。
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